1、もしかして、過去に戻った?
喉が、焼けるように痛い。
熱い。息ができない。
体が痺れて、指先から力が抜けていく。
視界が滲んで、世界がぐらぐらと揺れた。
(これは......毒、だわ......)
白磁のティーカップが、手から滑り落ちる。
床に砕けて、乾いた音を立てた。
視界の端に、ノエルの顔が映る。
私の向かいに座っていた彼は、目を見開き、今にも泣きそうな顔でこちらに手を伸ばしてきていた。
「セレナ!? セレナ、しっかりして! 誰か、誰か来てくれ!!」
叫び声が、遠ざかる。
彼の声が、私の意識から滑り落ちていった。
(ノエル……? なんでそんな、顔……)
暗闇が、静かに私を呑み込んでいった。
***
「……っ!」
私は、息をのんで目を見開いた。
薄暗い天井が目に入った。見慣れたはずの天蓋付きのベッド――でも、どこか違和感がある。
(……あれ?)
私は確か……ノエルとのティータイムで……毒を……?
(夢……?)
さっきの――喉を焼かれるような痛み、体が動かなくなっていく恐怖、ノエルの声が遠くで震えていた。
全部、夢だったの……?
でも、だとしたら現実離れしすぎていた。
痛みの鋭さも、吐き気も、胸に渦巻いたあの強烈な絶望も――あまりに、はっきりとしすぎていて。
体の奥底に、まだあの感覚が残っている気がした。
(……いや、あれは夢じゃない。絶対に)
でも、どうして生きているの?
この状況は一体、何?
思考が追いつかないまま、突然、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「……っ!」
その瞬間、どこからともなく、声が響いた。
『今度こそ、君を守ってみせるから。どうか――』
男の声。誰だろう……?
懐かしいような、でも思い出せない。
声はそれきり、ぱたりと途絶えた。
(今の……何?)
戸惑いが胸に渦巻く中、部屋の扉がノックされた。
「お姉様……!!ご無事でよかったです!」
透き通る声に目を向けると、そこには――
ミルクティーのような淡い髪と、水色の瞳をした少女が立っていた。
天使のように愛らしいその容姿。
私より二つ下の義妹、コゼット。
けれど、その顔は明らかに取り乱していて、涙ぐんでいる。
「……コゼット? どうしたのかしら?」
「もしかして覚えていらっしゃらないのですか? お姉様は高熱でうなされて……三日間も眠り続けていたのですよ!」
「三日も……?」
「そうですよ! 本当に心配したんですから! 今日はゆっくり休んでくださいね?」
「……わかったわ。ありがとう」
コゼットは、ほっとしたように微笑んだあとも、ほんの少しだけ――なにかを言いかけたように唇を動かした。
けれど、その声は小さすぎて、私の耳には届かなかった。
「……え? 今、何か言ったかしら?」
尋ねると、コゼットは一瞬だけ目を見開いて――そして、すぐに笑顔を貼りつける。
「いえ、なんでもないです。お姉様がご無事で、本当によかったって、それだけ」
その返事に嘘はない、そう思った。
でも、どこか引っかかる。
それは、あの一瞬の“間”のせいか、それとも……?
「……そう。ありがとう、コゼット」
そう返すと、彼女はもう一度微笑んでから、静かに部屋を出ていった。
再び、静寂が訪れる。
けれど、なぜだろう――胸の奥に、わずかな引っかかりが残っていた。
言葉にできない、でもどこか冷たいものが、微かに私の心をかすめていく。
(……なに、今の……?)
そう思ったのは、私の勘違いだったのだろうか。
でも今は、目の前の現実を受け止めることが先。
(......整理しよう)
私は高熱でうなされ、三日間眠り続けていた。
そして、その直前に見た夢――
いや、夢というには、あまりに鮮明だった。
感覚も、恐怖も、血の味さえも。まるで、実際に体験したかのように。
(予知夢……? でも……)
……もしかして、私は“過去に戻った”?
そう思った瞬間、全身がぞわりと震えた。
ーー毒殺。
あれが、私の“未来”。
(……嫌だ。絶対に、あんな死に方はしたくない)
思い返すと、私は酷い女……だった“はず”。
高熱で倒れた私を、涙ぐみながら心配してくれた、あの義妹――
優しいコゼットを、私は虐げていた。
気に入らないことがあれば、誰彼かまわず当たり散らして。
……たしかに私は彼女をいじめていた“はず”なのに。
どうしてだったのか、その理由だけが、霧に包まれたように思い出せない。
怒っていた感情も、恨みも、記憶のどこを探しても見当たらない。
……まるで、“それ”だけが、誰かに塗りつぶされたみたいに。
気に入らないことがあれば周囲に当たっていた、そう言われた。そう思い込んでいた。
けれど――それ、本当に“私”だったの?
でも、
とにかくーー
(もう、間違えない)
(もう、二度と、あんな未来は辿らない)
これは、きっと神が与えてくれた、最後のチャンス。
なら、私は。
やり直してみせる。生き直してみせる。
悪女のまま終わるなんて、もう御免だ。
***
その部屋を出たあと、コゼットは扉の前で、ぽつりと呟いた。
「……いっそ、このまま目覚めなければよかったのに」
誰にも届かない、小さな呟き。
呟きを風に溶かすように、コゼットは廊下を静かに歩き出した。
その背には、天使の微笑みには似つかわしくない影が、そっと差していた。