被験コミュニティ No.18 Showania:削除
「昨日の夜中に便所に行ったときに、大廊下の奥のほう、田内さんの部屋の前でへんなものを見たんだ。もや…みたいだったけど、つねにふらついている感じのへんな動きだったし、なによりも暗い中でもわかるくらい真っ黒なんだ。ふつうは夜中でもパジャマ着てれば闇のなかでも白かったりするのが、全然ないんだよ。ぼくは声をかけたんだ。『こんばんは』って。そしたらそいつ、ぼくとは反対側に逃げちゃった。それでも、足音はまるでしないんだよ」
道夫が自分のみた不思議なものの記憶をしゃべったのは、単に夕食後の談笑の輪 ――今晩はやけに大人ばかりがしゃべる―― に入りたかったからだった。彼は十二歳になり、この共同体のなかで大人に準ずる扱いをうける最初期の年齢になったのだが、それに比例して最近の彼の意欲も増した。
別にこの習慣に彼が参加してはいけないということもないのだが、今の発言はほとんど彼のそんな意欲がさせたのだった。
六つの家族の共用室となっている、居間の大テーブルの座っていた大人たちに死のような静寂がおとずれた。道夫がひしひしと感じたのは、大人たち、とくに年長の人たちの心に侵蝕しはじめた怯えである。
それは大人たちの様子に見てとれた。道夫の話が生んだ静寂は、そのまま半ばの時間の沈黙へと移行した。落ち着かなく体をゆすり、目線は泳ぐか下をずっと向いている。口の動きからなにかを言おうとしているが、なにも言葉が出ないもどかしさが見てとれた。道夫はとなりの川崎のお父さんをみた。切れた細い目にもかかわらず、瞳孔が開いているのがわかった。
まったく予想外の結果に道夫の鼓動はをあがるように脈動した。
もしかしたら夢と間違えたかもしれず、彼は直前まで言うか迷ってもいたことだった。そんな自分には軽くすむはずだった話が、大人たちの矜持を脅かしている。小さい子が公然の場でたまたま失礼なことを言ってしまい、その子が成長をえてそれを思い出したとき、悪意のない過去のみずからの失言に悶絶する……そんな気持が道夫のこころに沁みはじめた。
田内家のお母さんは、しだいに目でわかるほどブルブル震えはじめた。
「大丈夫だ」 「前にも一回あったじゃないか」
と隣や近くの大人たちが小声で彼女にささやく。一方、道夫の両親は、つまり溝口家の大人は斜め右の席から道夫の目を真正面に見すえていた。彼らも驚いていたが、顔は周りの大人とは微妙な違いを道夫に直感させた。なぜ自分たちに言わなかった?という種類の視線のように道夫は感じたが、その解釈に自信がなかった。
「道夫くん」
奥の上座に座っている山田家の老父が呼びかけた。彼はこの家屋に住む各家族の長、家父長だ。白髪を生やした彼は、この家では最年長である。
「それは夢だったり、見間違えだったりはしないか? そう言わせたいわけでは決してないが」
道夫はいまさら自分の記憶を偽る気はなかったし、なにより自らのうちの疑いは晴れた。
「本当です。神様に誓ってもいいです」
大人たちは一回目の衝撃がすぎたあとの、痛みの余韻を味わうような長嘆息をした。「はあ、神様か…」 誰かが言った。道夫の、都合の悪い報告をした者の所在なさはさらに重く心にのしかかってきた。
「ふあーあ!」
あまりにも場違いに、隣の部屋の子どもたちのうんざりそうな大きなあくびが居間に響いた。隣はふすまで仕切られた、薄暗い畳間が広がっていて、夕食を食べたあとの各家庭の子どもたちが二十人以上はいた。
そのなかには道夫の妹と弟もまじっている。
「もう寝かしつけてやろうか」 家父長がそういうと、居間の席に座っていたそれぞれの家の十代の娘たちは、自分の役割をこなすためにふすまを開けて畳間へはいった。
「みんな、もうおねんねだよ」
「眠いよう」
「ほら、こんなとこにいたら風邪ひくよ」
そんな声がいくつか聞こえた。そして居間を経由して、大勢の子たちが大廊下へ出ていった。娘たちは両脇に立ったりして、牧童のようにその行列を管理している。
子どもたちはみんな服の上に腹掛けを着ていて、それぞれどの家の子どもかわかるように「山田」 「川崎」 「溝口」 「田内」 「岩田」 「吉岡」 と六家族分のゼッケンが貼ってある。
彼らの大半にはまだ名前がない。子どもに名前が与えられるのは生まれて八回目の誕生日を過ぎてからだ。それまでは取り違えないように子どもは服の上から苗字のゼッケンがつけられる。家族は自他の子どもを、なるべく固有名詞を使わずにお前、おい、おーい、よう、この子、あの子、〇〇さんの男,女の子と呼んでいた。こうする理由は若い衆にはわからなかった。
娘たちが大廊下にでると、家父長が思いだしたように言った。
「岩田さんたちと、それから田内さんも。あんたらも行ってくれないか? あの娘たちだけじゃまずいだろう。まあ、まだだろうが」
それぞれの家の大人――父、母、成人した息子、娘など――が、そそくさと大廊下へ出ていった。家父長の配慮は、道夫が見たものが念頭に入っているに違いなかった。今までは娘たちだけで各家族の部屋へ送迎していたのだから。
「そして、みんな聞いてくれ」
家父長が声のトーンを整えて発言する。
「これからは、いやこの時から道夫くんが見たものを口に出したり、噂をしたりするのを禁じることにする。理由を言えばそのぶんあとにかかる厄介なことも大きくなる。若い世代は知りたいことも多いだろうが、とりあえず今は大人に尋ねるのはやめてくれ」
変な言いつけだったが、家父長はこの場の全員に対して権力がありまた責任がある。彼の命令は服従しなければならないことを、この家の構成員は内面にしている。それから、彼は道夫のほうを見やる。
「道夫くんはとくに口に出すのを憚ってくれ。見えてしまったんだから」
後ろの言葉を戒めるように強く言った。残っていた二十一人の大人の真剣なまなざしを受けて、道夫は「はい」とうなずいた。道夫の見た、真っ黒い靄がなんなのかはついに明かされなかった。
家の大廊下は、中庭を囲うように作られている。一周するのに走って四分ほどはかかる。家自体はほぼ四角形で、北西南にある部屋にそれぞれの家族が入居している。東側はまるごと全員が集まって食事をする広い居間と畳間、そして畳間の奥には神務室がある。
大人の男は普通、朝早くから外に働きにでて夕方に帰ってくる。西の辺の真ん中、山田家と岩田家のあいだにある狭い三和土の玄関は、夕方の帰宅時に殺到するつなぎ姿の男たちでぎゅうぎゅう詰めになる。
でも、子どもたちは彼らが外へどんな仕事をしているのかわからない。しかし、彼らが外からの成果物をもって――たとえば缶詰、米俵、油、鍋や調理道具、服、布団、換えの畳、バケツ、絨毯、ほかいろいろの生活必需品――帰宅することから、そういうものが手にはいることをしているのだろうと子どもたちは思っていた。
そもそも、大人以外は外に決して出られないのが家の決まりだった。それぞれの家庭の部屋と居間のガラス窓からこの家の生垣をみることができるし、隣家の屋根もうかがえる。しかし、窓のカギは堅く閉ざされていて、何かの仕掛けがしてあり普通は開かない。それは誰であろうと開けて外へ出ることは禁じられていた。カギに手をかけた子どもが大人から大目玉を食らうのが、この家に暮らす者が経る通過儀礼だった。
剪定された植木や盆栽で緑にしげる中庭で、子どもたちが遊んでいた。追いかけっこや虫探し、木の棒でちゃんばらごっこをしている。その甲高い声を聞きながら、道夫は北の縁側で彼らのお守りをしていた。
中庭なのでどこかへ行ってしまう心配もなく、道夫は春一番の陽をあびて眠りそうになっていた。彼は大廊下をやってきた赤いスカートの女の子に気づいた。川崎家の長女の千恵子だった。道夫よりも四歳ほど上らしい。
「ねえ、道夫くん」
彼女は迷わずに彼のほうにきたが、その声には年相応の、それから道夫の記憶のなかの彼女にあった溌溂さがない。
「あなたがみたものって、いったい何なの? とても気になるわ」
道夫は困った顔になった。それを話すのはもちろん家父長の布告のとおり禁じられている。
「ぼくもわからないよ。ただ見たことを話しただけだし…。なんで訊くんだい? そんなこと」
「あんなこと話されたら、もう怖くて夜中に廊下を出歩けもしないわ」
彼女はいくらか恥ずかしそうに言った。それで苦情じみた言い方でぼくに話しかけたのだな、と道夫は直感した。おそらく便所が問題なのだろうということも感じた。
「そもそも、きみは家父長の言ったことを破っているぞ。もし人にバレたら…」
道夫は左右を見まわした。長い廊下と柱のあいだを埋める漆喰の壁、窓ガラスにふりかかるレースのカーテンを透かして、窓から入るあたたかい陽の光。幸いだれもいなかった。
そこはちょうど、自分の吉岡家の部屋と田内家の部屋の合間だった。つい一週間前にその黒いもやのようなものを見た場所も、そこから遠くはない。あのときは夜中だったので道夫も詳細な場所の見当がつけられなかった。そのうやむやさもあり、ここのあたりを怖いと思うことはなかった。
「わたしだけじゃないわよ。どこの家の女の子ももうずいぶん話してるわよ。誰も見てはいないらしいけど」
彼女はすこし呼吸をととのえた。
「…そもそも、あなたが寝ぼけていただけなのかもしれないのに、お父さんお母さんたちのあの反応はおかしくない? 何なんだろうね」
道夫は全くもっともだと思う反面、彼女のあけすけさが自分の規律心をくすぐった。
「ダメだと言われてるのに…どうして、とくに女の子はおしゃべりしちゃうんだよ」
「いやいや、あなたの友だちの男の子だって話してるってば!」
その瞬間が境だった。眠くなるような晴れの日だったのに、頭上の陽に雲がかかった。薄暗くなった中庭にはひんやりした風が吹いた。そのうちに、雨がサーっと降ったかとみるや、すぐに滝のような雨に変わった。板間にたたきつける雨水をみて、二人は目をしばたたかせた。
「え…? こんな天気見たことないね…」
千恵子が力なくそう言った。そのとおりで、おそらく誰も見たことがなかった。彼らが内面にしている天気とは、夜のあいだに決まる。
一日ごとの濃淡はあれど晴れなら晴れ、雨なら雨の景観が日永続くものだ。いま目にしたものは彼らの、世の理の概念を超えていた。
「キャー!」 「すごいよう!」 「にいちゃーん!」
強雨に叩かれた子どもたちが駆け足で縁側に戻ってきた。中庭に面しているどこのガラス窓も出入りできる場所は限られており、それ以外を開けるのは禁じられている。子どもたちがぞくぞくと段差をあがって入ってきた。
「おにいちゃん、寒いよ」 「お着がえほしい」 「え、うん、どうしよう?」
道夫は千恵子に聞くが、千恵子もたくさんの濡れた子どもたちを前にあたふたしていた。
すると居間のほうの廊下から、女たちが十人ほどやってきた。みんなたくさんのタオルやバスタオルを持ってきている。「ああ、やっぱり」 濡れた子どもたちを見てそう言った。異常な天気を子どもたちの危機と直感したらしい。千恵子はその中のひとり、自分の母親に気がついた。
「あ、お母さん…」
「アア、なんてこと…。千恵子、あんたもこの子たちを拭きなさい。風邪から肺炎になったら大変だわ!」
おとといの冬に、琉感がこの家で大流行して、赤ちゃんと小さな子どもたちが七人も亡くなってしまった記憶は誰にとっても新しかった。彼らがこと風邪をひくような状況に敏感で、迅速に道具をもって来たのもそのためらしい。
子どもたち、その保護者たちの数十人が大廊下いっぱいにひろがって、濡れた子どもたちを拭いた。ひとつの家あたり2~4人ほどの濡れた腹掛けの、共通のゼッケンをつけた子どもがいる。そんな子どもたちも家ごとに十人十色だ。「山田」家の三人の子は、さすがに家父長を務めている家系なだけあって、男女関係なく異常事態にも比較的ぴんぴんしている。むしろさっきまでの出来事を面白がっていたりしている。「すごかったね!」 そんな風に昂奮している。
一方でとくに「田内」家の子らなどは、見知っていたはずの世界が突然に、容赦なく牙をむいたような雨に直面してめそめそ泣きつづけていた。先ほどまで道夫が足をかけていた縁側から先ではあいかわらず雨が地面を叩き打ち、その途切れない水音は、その場の誰も聞き慣れなかった。
不安や焦燥のような雰囲気が全体にも個人の胸のなかにも惹起され、保護者たちの作業の手を早めさせた。
道夫はまわりと同じく自他の家の子を差別せずにタオルで拭いていたが、ここで機転がきいた。ちょうどすぐそばにいた山田のおばさんに提案した。
「おばさん、ぼく竈で金ダライにお湯を沸かしてきましょうか? 窯風呂はまだ使えないし、あれくらいの大きさならこの子たちが入ると思うんですが」
彼女は家父長の妻なので、そのなりゆきでこの場では権力者である。
「ああ、確かにそのほうがあったまるわね! でも、あれは長いこと使ってないけどあなたわかるの?」
「まだ覚えています。大丈夫です」
居間で家父長が座っていた席の奥、ちょうど家の中で最も北東にあたるところに土間があった。居間とは男たちが新設した引き戸で区分けられている。土間は数年来使われずに、しだいに物置になった。暗く、湿っていて、埃っぽい場所である。そこに竈があった。煙突が外まで伸びている、薄汚れたセメント製のものだ。
道夫はそれが現役だったころに何度か使い方を教えられている。男たちが外から定期的にガスコンロ、およびボンベを入手できるようになったおかげで、竈はその役目を終えたのだった。
古く、ささくれた木の雨戸が外の光を閉ざしているおかげで、土間はこの家でもっとも陰気な空間だった。道夫はそこに入ったときに、雨音の変化に気づいた。先ほどよりもいくぶんか勢いは弱まったようだ。
道夫は土間にあるものをどかし、古い竈の埃を払い、十回以上のくしゃみに襲われ、苦労してようやく燃焼させる端材と薪を焚口に組み終えたときだった。千恵子が引き戸を引いて土間に入ってきた。
道夫は彼女の顔色から不穏を感じた。彼女が、もしかしたら何も学んでないかもしれないという不安である。道夫は口に指をあてて、それは話さないようにと示した。千恵子はすこし迷ったように目を泳がせたのち、彼の近くにきた。
「違うのよ」
彼女は道夫の意図を察して、否定した。
「ちょっとみんなのとこまで行ってきて。わたしがそれ見てるから」
道夫ははっきりしないことにこころが騒ぎつつも、彼女に火の番をまかした。彼女は年齢からいっても竈の火焚きの経験はあるだろう。道夫が土間を去るときに一瞬、彼女を振りかえった。マッチをする閃光がうつした彼女の顔はひどく蒼くなっていた。
先ほどまで混雑していた北側の廊下には誰もいない。道夫はひどく不安になった。なんだかんだ大勢でいるほどの安心感は計りしれないからだ。ネガティブな感情が足を急かし、彼はついには西の玄関までやってきた。
そこでは女と子どもたちがたむろしていたのと、それから道夫が驚いたことに男たちが帰ってきていたらしいのが雰囲気でわかった。早すぎる帰宅だった。今はまだ昼餉もとっていない時間だ。
そして、雰囲気を形づくる声も人数に比して少ない。労わり、世話をするわずかな声が奥で聞こえるだけだった。道夫が雑踏の中に分け入ると、女たちが狭いことに苦情が絶えない玄関で、びしょ濡れの男たちにタオルをやったりしている。最初に目に入ったのは、田内家の父、田内政三が玄関の段差にすわり、頭から血を流している姿だ。道夫は言葉も出ないくらい硬直した。
このあいだの集まりで震えていた政三の妻が、その傷の手当てをしていた。木の救急箱から取りだしたガーゼに、消毒液をつけて傷口に当てている。政三に意識はあるようだが、濡れているのを差し引いても顔の色がひどく蒼白である。いや、屍体のそれだった。
おととしに多くの子どもを看取ったときの、布団に寝かせられた子どもたちの冷たい顔が道夫のなかに浮かび上がってきた。しかし、政三の表情は穏やかに眠るような子どもたちとは真反対だ。中年の男にはふさわしくない怯えが、恐怖が浮かんでいて、そのために何も話せないし反応できないような茫然自失の状態を衆人に晒している。
道夫は自分の父を見つけた。つなぎ姿でうなだれていた。そういえば、彼らの背嚢や持っていくつるはし、掛矢、シャベルなどもまるで見当たらない。
「みんな」
家父長の山田の老父がよびかける。彼も老いた身でありながら、また男たちとともに仕事をしていた。からだは無傷で声ははっきりしていた。しかしやはり、手痛いものを食らった人間の声色も感じとれる。
「中庭に出ていた子どもたちが五人、それから溝口さんのとこの大地と一郎がもう亡くなった」
道夫は言っていることの意味がわからず、周りの人間並木を見わたした。沈痛な顔の足元にいる子どもたちをざっと数えた。どうやら本当に、子どもたちが何人か欠けているようである。道夫は自分の弟と妹を探した。
後ろから自分の手が引かれて後ろを振りかえると、それが彼らであることがわかった。「兄ちゃん」 雨が降る前までの快活さは声になかった。それでも道夫は彼らを抱きよせた。が、からだはひどく冷えて、雰囲気をわかっているらしく震えていた。
外で仕事をする大人が事故で死んで、弔うのはこれまでもあったことだ。自分より五つか、六つ年長の大地と一郎は、道夫もよく人柄を知っているほうだった。あまり締まりのない顔をした兄弟で、そのぶん年下の子に優しく、よく慕われていた。そんな彼らでも外に出ている以上、心情的には忍び難いが死に近いことと――遠くない将来には自分もいつかは命を懸けなければならないこと――は了承していた。
それよりは、自分が見ていたはずの子どもたちである。周りの子どもたちは、まだ5歳にもならない子がほとんどだ。そのうちの五人が“もう亡くなった”とは? 彼らは中庭にいて、どこへも見失うはずもないのに。中庭になんの危険があったのだろうか。隣や前や後ろの大人たちは被った災厄に苦汁をなめつつも観念したような、悔しさをにじませた顔をして、その行方を捜そうともしない。ましてや、監督していた道夫の責任を問いただそうともしない。
「今夜、亡くなった者たちのお通夜を神務室でする。みんな」
家父長が強調して発言した。
「お祈りはこれまでで一番集中してやるんだ。なにがあろうとそれ以外に気を取られるな」
玄関周辺の大勢の住人の沈痛も一行だにせず、豪雨が屋根を叩いていた。道夫は、それまであの黒い靄のことをあまり考えようとはしなかった。この期に及べば、さすがに自分の見たあれと現在に、なにかの因果を見つけようとする心理が働いた。しかし、なにも思い浮かばなかった。
神務室は畳間の奥にある。大小五十人以上の人間が正座すると、それぞれのスペースはかなり狭くなってしまう。喪服の森のなかで、道夫は慣れないきつい正装に苦しみながら、正座を少しも解くことができず、多くの人間の湿った呼気がからだや顔にまとわりついて辟易していた。
雨は夕暮れから再度勢いが増したようで、大雨粒が瓦をたたく音が大勢の人間が話す背後で鳴り続ける。とくに子どもたちは経験のない頭上の感覚におののき、どんな子も通夜がはじまるころにはべったりと親、兄、姉に寄りそっていた。道夫はすわる直前に、神壇前に陣取る山田家の、三人の子どもたちが涙声でこんなことを言っていたのを聞いた。
「おじいちゃんはどこ? おじいちゃんと一緒なら怖くないよう」
彼らの声も道夫が座るとまた混雑のなかに没してしまった。
大勢がいる座敷は薄暗い。子どもにとって座っているだけのつまらない儀式がはじまる時には、前方の神壇のみに照明が当てられる。神壇は大人三人が手を広げても余りあるほどの巨大なものだ。
大廊下の板間や雨戸、年季の入った柱など、木の部分はたいてい年を経た褐色の印象が深いこの家にあって、神壇を構成する木材だけは手入れがしっかり行き届いている。白い桐材に、さらに均一に塗られたニスの輝きが上からの照明によって映えていた。数多の香炉、高杯、燭台、花立、神膳器が神聖そうに置いてあるが、どれも道夫の興味をひくものはない。先祖の名が書かれた位牌も、この屋根の下にいる者たちが信じる神々を模した本尊もだ。
道夫は大人たちが感心するからと、神様にかこつけた台詞をここぞというときに使うのを覚えたときには、これは便利だ、いい発見だとひとり悦に浸ったが、昨夜の大人たちのなかには自分の神様への誓いを侮る態度をした。それはあとでその場の緊張から醒めた道夫が思いだすと、ちくちくと心が傷む場面だった。
神務室では、道夫は吉岡家のまとまりの外縁にいた。彼はとなりに陣取っていた川崎家のなかに、あの千恵子がいないことに気づいた。川崎家には女の子は千恵子一人しかいないはずだが、人影のなかで探してもそれ相応の頭や人物が見当たらない。周りの声にまぎれて、道夫は斜め前にいる川崎の父、重徳に話しかけることにした。場の雰囲気を壊さないように小声で言う。
「あのう、すみません」
川崎重徳はそのときに道夫のほうを向いた。その目の周りは真赤だった。泣きはらしたようである。振り返った姿勢も二度と正すことがないようなうつむき加減で、道夫はなにかまずいことがあったのを悟ったが、いまさら質問を中断はできなかった。
「ぼくは吉岡のとこの道夫です。千恵子さんはまだ来られてないのですか?」 重徳は見た目に反して、冷静な声で応えた。
「千恵子は亡くなったよ…。きみもあの子のためにお祈りしてくれ」
重徳はそれだけ言うと、それ以上の道夫の用件を無視するように前を向いた。そのショックにうなだれた姿勢は変わらなかった。
道夫の心臓をはじめ臓腑は激しく鳴動した。しかし、外から見えてわかる反応を彼はしなかった。どちらかというと、できなかったが正しい。訃報のあとにも表情ははりついたようにそのままだった。
午前の家父長の言葉もそうだが、彼らの物言いは、人間の認知に必須であるはずの緩衝の感がまるでなく断絶していた。そのため、道夫は急に身近な人たちの死を告げられても、悲しんだり泣いたりはとうていできなかった。
大人たちは行方不明になった者を捜索しようともせずに、死んだとしている。考えられそうなあらゆる希望の可能性がそこにはない。道夫は、この共同体に潜んでいた薄気味悪さと、彼らにすらどうにもならない底知れない此度の現象に、なにかしらの理を持とうとするのをやめた。この家に降りかかろうとしていることは誰にも―――――。
「道夫、ほら」
横から話しかけてきたのは母だった。母は手に透明な水の入ったグラスを持っていた。
「これをおとなりの川崎さんにも渡して」
周りをみればみんなグラスを持っているか、周囲にまだ手にしていない者がいれば手をあげてリレー形式で行き渡るようにしている。こんなことははじめてだったが、道夫は素直にとなりの母から次々と渡されるグラスやコップを主にとなりの川崎家の面々にわたした。「道夫のはこれね」 母が最後に渡したのは水かさの少ないものだった。
「みんなに行き渡ったぞ!」
山田家の方向とおぼしき場所から、そんな声があがった。道夫の周囲でもグラスのないものはいなかった。
「まずいかもしれないけど、ぐいっとあおってね」
母は優しくいい含めた。
「みんな吞んでくれ」
山田家の誰かがそういうと、場の全員が一斉にそれをあおった。道夫は一気に飲んだ。すぐにわかった。これは酒だ。しかも焼酎らしい。以前に居間で大人が飲んでいたのをすこし舐めたことがあったからわかった。道夫は食道に広がるアルコールの、炎のような感覚に悶絶してうずくまった。
「大丈夫よ。道夫の年なら」
母が彼の背中をさすった。
「うげー!!」 「まずいよー!!」 「飲みたくない!!」 「大丈夫よ。飲みなさい、飲んで。お願い…」
子どもたちの声と、飲むように促す大人の声が次々とあがった。道夫が飲んだ酒はすべて胃に流れて、衝撃の峠を越した。子どもたちの厭々という声が絶えなかったが、そのうちに静かになった。
ちょうど、後ろのふすまが開いた音がした。人の森の右端を誰かが歩いてもいるようだ。道夫の幼いからだがやっと強酒の余波を収め、また頭をあげると、ちょうど神職の恰好をした山田の家父長が神壇のまえの座布団に座るところが見えた。
彼は白い装束を身にまとい、手にはお祓い棒をもち、頭には烏帽子をかぶっている。誰しもことあるごとに見る姿だ。その装束は家父長のみが着用することを許されていた。この家で冠婚葬祭の儀が行われるときには、家父長は兼神職者として、その催しの進行役、司会を務めるのが習わしだった。
家父長は座ったままお祓い棒を頭上で何回か振った。幾重かの紙の束がはためいた。それらが彼の背中に隠れると、読経がはじまった。
鈍長で、間延びしたこれ以上ないほどに低く唸るような声が神務室に響いた。道夫は子どもたちの合同葬式以来のその声にしばらく聞き入っていたが、しだいに頭がじんわりとし痺れ始めたかと思うと、次には正座を保てなくなった。腰から上を支えるのがひどくつらくなってきたのだ。母が横から言った。母の声はしらふのそれだ。
「それでいいのよ。もっとつらくなったら、周りにかまわず寝転んでもいいから」
周りの大人たちが家父長に合わせて、同じお経を唱えはじめた。彼らの声からも酒の影響が聞こえない。先ほどまでの子どもたちの叫びもまるで。
やはりここまで強いものを飲まされたのは、子どもたちと子どもに近い若者だけなのだろう、道夫は薄れていく意識のなかで直感した。
もう酒にやられて眠ってしまったに違いない。テンポが速くなってきた家父長の読経が子守歌となって、道夫もまぶたが重くなってきた。道夫は正座したまま、母のひざへ頭が落ちた。
読経のリズムは、向精神物質にまるで耐性のない十二歳の脳にごくごく浅い夢を見させた。まず見た夢は家の外にいる自分だった。
道夫は玄関前の“外”は覗いたことはある。父たちをむかえるわずかな時間に、彼らの背中や頭越しに見える外はつまらなかった。生垣に沿って松の低木が一本だけ生えている、中庭と変わらない風景が引き戸の形にそって見えているだけで、道夫は全く新鮮に思うこともなかった。
今、夢のなかでいるところは位置的には生垣のすぐ向こうだった。現実には隣家とを隔てているはずの生垣はなく、すぐそばには同じような民家が連なっていた。それが延々とつづき、反対側にもおなじ光景が広がっていた。
自分が立っているところ、前に後ろに、ずっと向こうまで開けている場所こそ、父たちが話すときに出てきた“道”なのだろうか? 道夫はそう思った。灰色の硬そうな素材でできている。
しかし、道夫は自分が夢のなかにいることを理解していた。道夫が大人たちの雑話を聞いて、頭で想像する“外”と、無意識の織りなす今の光景はなにも違和感のない構成なのだが、これは父たちが毎日見ている本物とどう違うのだろうか。ただ確かに、自分の家は聞いていたとおりの赤い屋根だった。
道夫はもう正座を崩して、川崎家の誰かに構うこともなくそちらのほうに足を投げた。夢から覚め、ふたたびお経が耳に入ってきた。薄く開けた目から、母の黒い和服と前列者の背中が見えた。先ほどまで不愉快に感じていた狭苦しい感覚も、いまやむしろ巣穴のなかでくつろぐような、そんな心地よさに転じていた。
「ああ!」
後ろでそんな、突拍子もない声がした。大人の女の声だった。渾然一体となった読経が響くなかで、それは場にそぐわない不躾なものだった。
「ひい」 「やめて」
後ろからの短く切れた悲鳴を、道夫はまちがいなく聞いた。
まどろみから否応なしに道夫の目は覚めた。しかし、酔いがひどくて起き上がることはできない。左の耳から母の唱えるお経が聞こえる。それはすすり泣くような悲壮感に満ちていた。実際に泣いているらしい。
その感が極まったとき、彼女は膝の上の息子に、上半身でもって覆いかぶさった。 「うわあああ」 そんな男の声がしたかと思うと、道夫は足を踏まれた。大人に踏まれた圧だった。痛かったが声はでなかった。
神務室の、決定的な瓦解がそこからはじまった。しだいに人が立ちあがり、走り回る振動が母の膝ごしに道夫に感じられた。 「やめろ!」 「うわあ」 「走るな!」 「落ち着け!」 じょじょに、さざ波のように場が荒立つのがわかる。男女の怒号や悲鳴。誰かを押しのけ、踏んづけて、人並みのなかに倒れる音にはなんの統率もない。
「いやあ!」 「でもあれ! あれ!」 「おいてかないで!」 「呑まれるって!」 「死にたくないよ!」 「怖くない、だいじょうぶよ」
読経の声を圧倒し、恐怖のままに叫ぶ哀れな隣人の声が神務室に充満した。先ほどまで合唱を圧倒していた豪雨の音さえ、はるかな背後にしりぞいていた。
そんな大騒動のなかでも、家父長と数少ない胆力のある大人たちが唱えつづける読経は響きわたり、やがて前者も後者もひとつ、またひとつとぷつっと消え入った。着実に丹念に、ほんのわずかな時間で場はまた落ちつきを取りもどした。
その最後の安寧の秩序をつかさどるのは、家父長ひとりの唱える朗々とした読経のリズムだった。母の身体越しに聞こえる家父長の声は動揺していない。自分ひとりだけの不安の感もない。
しかし、それもまた他と変わらないようにぷつっと消えた。自らをかばいつづけている母のつくる半身の闇のなかで、自分たち以外のすべての存在が消去されたのを感じた。道夫は自分たちに異質で、無情なことが起きたとは思えなかった。むしろ不自然な状態が是正されたかのような感覚を覚えた。
道夫の酔いは完全に醒めた。道夫の視界はまだ母の腕でふさがれていた。ただ、自分と母だけが無限に広がり、際のない空間にぽつんと在るだけのように感じた。和服のあいだから漏れてくる、自分をかばう母の呼気を道夫は吸う。道夫は母に言った。
「この腕、どかすね」
彼女はなにも言わない。道夫は自分を圧迫する母の腕をどかそうとしたが、母は力を入れて抵抗した。外の一切を息子に見せたくないらしく強固なものだった。
道夫はもはやその配慮の必要としておらず、本心から周囲が見たかった。残り酒のじんわりとした余韻が恐怖を鎮め、知らないことを知りたい欲求が、胸裏のなかを無鉄砲に刺激した。
根比べはほんのわずかな時間つづいた。息子はそれに打ち勝ったようで、母が諦めたように力を弱めた。彼はいよいよとつばを飲んで、邪魔するものをどかした。目の前を覆う空間は闇に塗れていた。
床の畳、自分たちを安定させるものすら消えている。星のない夜でさえ、その暗黒には及ばなかった。道夫は、自分の手が見えないことに気づいた。