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泡沫の夢

 






 ――――――




 憲政党の誕生は政府に大きな衝撃を与えた。元より反対派であった政党勢力がこれ以上ないほどにわかりやすい形で結束したのだ。政府から見ると対決姿勢を鮮明にしたものと映る。当然、俊輔は対抗策を考えた。


「で、政党を作るというわけか」


「ああ。政府党を組織して対抗するのだ」


 俊輔は元勲のなかでは柔軟な方で、超然主義を放棄して真っ先に政党との提携に乗り出したのも彼である。そして遂には政党を作ると言い出した。憲政党が結成されてからの発案ではなく前々から言っていたことだ。各所の反対で一度は頓挫した計画だが、憲政党の成立を見ていけると踏んだらしい。実際、前回は反対していた井上馨が賛成に回り、新党設立事務所を蔵相官邸に設置。政策に好意的な財界人を中心に声をかけている。前よりは希望が持てる内容だ。


「だがなぁ……」


 私はどうしても気乗りしない。理由は頭の端に国民協会の姿がチラつくからだ。政府党として(手段はともかくとして)多大な援助を受けておきながら、外交政策で反発して反政府側に回った。


「そこはちゃんと統制をかける」


 俊輔はそう言うが、尻切れトンボに終わる未来しか見えない。それならなんだかんだで基盤がしっかりしている旧民党を取り込んだ方がいいのではないかと思う。まあ要するに、私が考えるところでは時期が悪い。


 加えて私としては俊輔を大っぴらに支持しにくいという面もある。私の支持層は官僚たち。山縣系官僚と呼ばれる彼らは反政党という思想で固まっており、ここで俊輔の新党運動を応援すると彼らの支持を失いかねない。それらを擲ってでも実現に奔走する価値があるなら躊躇わないが、残念ながら今回の動きは成算が低いように見える。なのでリスクはとれない。


「そういうわけだから私の立場では支持はできない。ただ余計なことはしないよう言っておくから好きにやってくれ」


「それだけでも助かるよ」


 私は桂たちに言って俊輔には好きなようにやらせるよう、変に介入しないよう指示した。おかげでフリーな立場で各方面で奔走し、どうにか候補者を立てて選挙に臨んだ。結党届はなかったが、選挙の後でやるつもりだったとか。


 しかし、選挙では既成政党の壁が厚く当選できなかった。前回選挙から日が浅く、前職の議員を優先すると憲政党が合意していたためほぼ無競争だったことも大きい。磐石の選挙体制を敷く政党の壁は、一ヶ月足らずという急拵えの選挙準備では崩せなかった。


 終わってみれば憲政党が二四四議席(うち自由党系一二〇、進歩党系一二四)と、大勝した前回選挙と比較してもさらに議席を伸ばし、その占有率は八割を超えた。俊輔はこの結果を受け内閣総辞職。後任に板垣と大隈を推挙したのだが、ここで天皇との間に誤解が生じる。


 天皇は俊輔が一旦辞職し、板垣と大隈を入閣させて再び組閣すると理解。自由党の板垣だけではダメかと言いつつ、最終的に板垣と大隈の推挙を裁可した。


 一方の俊輔はどちらかを首相にすることを考えていたので、この裁可を両名の首相推挙に対するものと理解。翌日、自邸に二人を招いて近く大命降下があることを明かした。二人とも大層驚いたというがさもありなん。まさか自分たちに大命降下があるとは思いもしないだろう。


 戸惑いながらも両名はこれを受け入れる意思を示し、大隈が首相で板垣がバックアップするという形でまとまった。首相の椅子はひとつで、大命降下する相手は二人。どちらがその椅子に座るかで揉めそうなものだが、板垣が「自分はその器ではない」と遠慮したことですんなり決まった。


 両名の承諾を得た俊輔はその旨を天皇に報告。


「え?」


「え?」


 となり誤解が発覚した。


「陛下。両名へ大命をお願いしたいのですが……」


「う、うむ。わかった。ただ今日はちと気分がすぐれなくてな。後日でよいか?」


「はっ。玉体に万一のことがあってはなりません。承知しました。そういうことでしたら退散致しますが、侍医を急ぎ呼びましょう」


「頼む」


 そんなやり取りがあったらしい。陛下がお召しです、と言われて参内したところ、昨日の出来事を天皇が小芝居をしながら再現してくれた。


「お元気そうですが、もう大丈夫なのですか?」


「ん? ああ、案ずることはない。伊藤に言ったのは仮病だ」


 なんでまた、と思ったら真剣な顔をしてとある打診をされる。


「山縣。正直なところ政党に任せるのは不安だ。そなたが首相の任を受けてくれないか?」


 それならば安心だと言われた。大変光栄なことでわかりましたと返答したいところだったが、私のリアクションは首を横に振るであった。


「陛下。既に伊藤が大隈、板垣の両名に伝え了承を得ております。ここで翻意すれば陛下のご威光に要らぬ傷をつけることになりましょう」


 一度言ったことを翻すのは支配者にとって容易ではない。嵌められてヤバい奴が首相になりかけたなら悪名を背負ってでも大命降下の先を変えただろうが、幸にして大隈たちはそれほどの巨悪というわけではない。俊輔の推薦でもある以上、このまま大隈に組閣させるべきだと進言した。


「うむむ。それもそうだが……」


 天皇もわかってはいるが、感情的に納得できないのだろう。そんな彼に私はひとつ救いとなる情報を提供する。


「陛下。それほど気を揉む必要はないかと」


「なぜだ?」


「元より彼らは地租増徴を目指す松方そして伊藤内閣と対峙し、遂には憲政党を組織するに至りました。そんな彼らが政府を組織するのです。結束する核を失った彼らがいつまで纏まっていられるか……」


「山縣は早晩、憲政党が瓦解すると見ているのか?」


「はい」


 反政府でまとまっていたのに自分たちが政府になってしまったのでは拳を振り下ろす先がなくなってしまう。さほど時を置かず党内に軋轢が生じるはず。一度そうなったら崩壊まっしぐら。仮に史実を知らずとも容易に想像がつく。


「そなたの申すことはもっともだが……」


「ご安心ください。軍務大臣は引き続き桂が務め、閣内にあって目を光らせております。あれもなかなかの者ですし、いざとなればこの山縣が止めて見せましょう」


 大隈内閣が成立した場合、閣僚は政党員で占められることになるだろう。ただ例外もある。それが軍務大臣だ。憲法上、軍務相には武官しか就けないと解釈されている。就任間もないこともあり桂は留任するという方向で部内で話が進んでいた。唯一の藩閥勢力となるわけだが、本人は使命感に燃えている。無事に操縦すれば彼の政治生命にとって大きな加点となるからだ。


 私たち(藩閥)は桂を介して大隈内閣を監視し、暴走するようならありとあらゆる手段で止める。そんなことにはならないだろうが、天皇が心配している以上はそれを払拭しなければならない。だから私が何とかすると言ったのだ。


「山縣がそう言うなら心強い」


 その甲斐あってか天皇は私の保証があるならばと、気が進まない様子ながらも大隈と板垣の両名へ大命を降す。大隈は直ちに組閣へ取りかかり、憲政党を与党とした日本史上初の政党内閣である大隈内閣が成立した。俊輔が選挙まで粘ったため、成立は史実よりおよそ二ヶ月遅い八月のこととなった。俊輔は後継内閣が成立するとさっさと外遊に出かけている。


 総理大臣 大隈重信

 内務大臣 板垣退助

 外務大臣 大隈重信

 大蔵大臣 松田正久

 軍務大臣 桂太郎

 司法大臣 大東義徹

 文部大臣 尾崎行雄

 農商務大臣 大石正巳

 逓信大臣 林有造


 閣僚は以上の通りである。属性は旧進歩党系四、旧自由党系三、藩閥一というもの。憲政党という単一政党が与党ではあるが、実態としてはほぼ同勢力の自由党と進歩党による連立政権である。ゆえに進歩党系に閣僚ポストを四も宛てがった人事が自由党系議員から問題視する声が上がった。


 自由党系議員からは外相に自分たちと近しい伊東巳代治、あるいは有力者で駐米行使の星亨を推す声が上がっていた。ところが大隈は外相を兼任。自由党系議員の要望を蹴ったわけだ。不協和音が響くなか大隈内閣は船出を迎えるが、数日と経たないうちから嵐に見舞われた。


 渦中の人物となってしまったのは文部大臣の尾崎行雄である。後の世に「憲政の神様」と呼ばれることになる大政治家だが、このときはまだ三九歳と閣僚では最年少であった。しかし政治家としての手腕は確かであり、文部相としての最大関心事ともいえる教育に関して力を入れていた。現代風にいえば「教育の自由化」を目指して教師に対する統制を緩めたことから教育界からは歓迎され、その支持を受けるようになっている。


 そんななかで教育者の団体である帝国教育会に招かれ、その席で演説するよう求められた尾崎。論客でもある彼は快く応じ、世情の問題点に舌鋒鋭く斬り込む演説を行って喝采を浴びた。これだけ聞くと何も問題がないように思えるが、魑魅魍魎の跋扈する政界においてはいささか不用意だったと言わざるを得ない。


 次の日。東京日日新聞をはじめとしたいくつかのメディアが尾崎の演説を紹介した上でこれを非難した。内容は演説が不適切であるというもの。尾崎が演説で「もし日本が共和制だったなら、日本の大統領は三井や三菱、倉屋の人間が大統領候補だったに違いない」と言ったことが批判の的となったのだ。


 帝国教育会は即日反論。また旧進歩党系の報知新聞や時事新報、新聞日本なども尾崎を擁護する論陣を張る。ただ擁護派にしても例え話として共和制だったら……という話の展開をしたことに関しては不適切だったとした。現代人の感覚もある私は例え話でもダメなのかとカルチャーショックを受けていたのは秘密である。


 ともあれ尾崎の演説とそれに端を発する諍いは共和演説事件として政治問題化した。問題をある意味でややこしくしたのは天皇(宮内省)の対応だった。演説が報じられると、徳大寺実徳侍従長が帝国教育会に演説の草案を提出するよう求める。徳大寺は「個人的な要望」だとしたが、それを真に受ける人間はいない。誰もが天皇の影を見ていた。


 続いて宮内大臣がコメントを出し、宮内省としては尾崎演説についてリアクションはしないと明言した。ただしこれは「宮内省としては」であって、他の人々がどう言おうが宮内省は関知しない――要するに逃げたわけだ。恐らくこの騒動を収められただろう存在が逃げたことにより、様々な思惑が絡む政争へと発展する。


「調査の結果、尾崎君の演説は問題がないとの結論が得られた。また、宮中からはこの件を追及しないと言われている。政府としてはこれで落着ということで――」


「待ってください」


 大隈の発言を遮ったのは板垣であった。


「国体を揺るがしかねない尾崎大臣の発言は不適切であることは確か。それを不問にすることはできませんし、何よりも面目が立ちません」


「板垣さんの仰る通りです」


「文相の責を問わないとなれば、その責めは内閣全体でとるべきだと考えますが……それを引き受けるのは御免蒙りたい」


 板垣に続いて旧自由党系の大臣である林、松田が発言した。直接的にではないが、尾崎に責任をとって辞めるよう促している。これには尾崎を筆頭にした旧進歩党系の大臣たちが反発。閣内における分断が明るみに出ることとなった。


「桂大臣はどう思われるか?」


 旗色が悪いと感じた大隈は唯一の藩閥勢力である桂に話を振った。あわよくば擁護してくらることを期待したが、その期待は裏切られる。


「……政党のことは政党でお決めになればいいと思いますが失態は失態。参内して陛下に謝罪し、進退を伺うべきだと思います」


「そんなことをすればこちらの非を認めることになるではないか!」


「非があるのだから致し方ないでしょう」


 閣議でのやり取りを話してくれているのは桂だが、本人曰くこいつは何を言っているのだろう、と困惑したそうだ。失言したのだから然るべき相手に謝罪しろと言えば、謝罪したら自らに落ち度があることになるからやらないと返されたのだ。そりゃそんな感想にもなる。


 ただ大隈はまだマシな考えの持ち主だった。ある程度のケジメはつけるべきだと、尾崎に参内した上で謝罪するように言ったのだ。一方で進退伺いについては任命権が首相にあるため不要だとも。ボスである大隈に言われて渋々ながら承諾した尾崎はその日のうちに参内して天皇に謝罪する。


 尾崎の謝罪を受けた天皇だったが、何のリアクションもとらない。それなりに付き合ってきた身からすると結構キレてるなと感じた。君主ゆえに理性的に振る舞ってはいるが、内心かなり思うところがあるのだろう。そんな天皇の意思が伝播したのか世間の尾崎批判は収まるどころかさらに炎上。政権に否定的な新聞各紙に加え、旧自由党系からの攻撃もあった。貴族院にも飛び火し、堪りかねた議長の近衛篤麿は尾崎に対して貴族院でも陳謝するように申し出る始末である。


 各方面からの激しいバッシングを受けていたが、尾崎はそれでもなお大臣の座に拘った。これに焦れた板垣は天皇へ、尾崎とともに内閣に留まることはできないとして辞意を漏らす。普通、辞意を伝える相手は首相だが、板垣に関しては大隈とともに大命を受けた身であるから少し事情が違ってくる。これを聞いた天皇は大隈の許に侍従を派遣し、板垣が辞めると言っていると漏らした。つまりは板垣と尾崎のどちらかを切れということ。天皇が大臣を辞めさせるよう促したのは後にも先にもこの一件だけである。


 このことを伝え聞いた尾崎。しかしあくまで内閣は連帯責任で自分ひとりが責任を負うのは違うと言い張る。だが大隈はこれを許さず、犬養毅に説得させて辞表を出させた。その恩賞か、犬養が尾崎の後任に収まる。……が、反対意見を押し切る形だったのでまたしても政争に発展した。


 反対していたのは主に旧自由党系だ。彼らは閣内の勢力均衡、何より旧進歩党系の尾崎が辞めたのだから代わりに大臣になるのは旧自由党系のはずという論理で犬養の文相就任を批判。板垣に至っては再び大隈の頭越しに天皇へ反対の上奏を行っている。対する旧進歩党系は辞めた人間と同じ派閥から出すべきだと譲らず、文相の椅子をめぐる党派対立は決定的なところまできていた。


 そして十月末、遂に一線を越える。憲政党の総務会を前に旧自由党系の人間が会合。星亨が解党すべきだと主張し、出席者もこれに乗って解党する方針を固めた。かくして迎えた総務会で提起されたが、旧進歩党系はこれを拒否する。しかし旧自由党系は党の臨時大会を開いて解党を議決。さらには同日中に内務大臣へ同名の「憲政党」という名で結党届を提出した。


 ところでこのときの内相は誰だったかといえば、旧自由党のトップである板垣である。届出はその場で受理され、旧進歩党系が抗議するも内務省はまったく取り合わなかった。仕方がないので旧進歩党系は「憲政本党」を名乗ることにする。ここに自由党と進歩党が融合したキメラであるところの憲政党は崩壊。結党から四ヶ月ほどという泡沫の夢のようなものだった。


 そしてやることをやると板垣たち憲政党の大臣は大隈に揃って辞表を叩きつける。もうお前らとはやっていけねえ、という何よりの意思表示だ。大隈は後任の大臣を立てて政権維持を図ったが、天皇は大命を下したのは大隈と板垣の両名に対してである。板垣のいない大隈内閣は認められない、と板垣の留任を内閣存続の条件とした。もちろん果たせるはずもなく、政権存続は不可能だと大隈は総辞職に追い込まれる。


 さて、こうなると次の総理は誰にするかと元老が集まって会議をするのだが、後任はあっさりと決まった。


「山縣に任せる」


「はっ」


 内心はともかくそう言うしかない。隠居同然の状態になっている大久保からの推薦に加え、押しつける相手の俊輔が清国へ外遊していて不在という事情があった。そして何より、天皇から「いざとなれば自分を頼れと言ってたよな」と過去の発言を引き合いに出されると否とは言えない。そんなわけで二度目の首相就任と相成った。










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また、下の☆☆☆☆☆から、作品への評価もお願いいたします。面白ければ☆5つ、面白くなければ☆1つ。正直な感想で構いません。


何卒よろしくお願いいたします。




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― 新着の感想 ―
板垣って維新後はいまいちパッとしないイメージが… 幕末の頃はけっこう武闘派って感じでブイブイ言わせてた感じだけど、維新後は実績的なことを言われるとパッと出てこないというか。思想的なとこが強くて実務には…
更新お疲れ様です。 史実通り第二次山縣内閣が発足しましたが、この世界での義和団事件はどのような展開になるのかが気になります。
しっかしこの時期の政治は史実でもグダグダですよね。 まだ歴史が浅いから仕方ない面もあるとはいえ、官僚や陸海軍が反政党に染まるのも納得というか。 明治帝の信任厚い元老として山縣さんには舵取りに苦労しても…
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