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政界激震

 






 ――――――




 第二次松方内閣の人事は以下の通り。


 総理大臣 松方正義

 内務大臣 樺山資紀

 外務大臣 大隈重信

 大蔵大臣 松方正義(兼任)

 軍務大臣 高島鞆之助

 司法大臣 清浦奎吾

 文部大臣 蜂須賀茂韶

 農商務大臣 榎本武揚

 逓信大臣 野村靖


 閣僚の構成からわかる通り、藩閥の勢力としては薩摩閥が強い。これは薩摩閥の松方が首相だという理由もあるが、大きいのは薩長間にちょっとした拗れがあったためだ。


 拗れというのは閣僚人事である。首相が閣僚人事を決めるが、軍務大臣は軍部からの推薦で決めるというのが暗黙の了解となっていた。それに基づいて軍部は次期大臣として台湾総督となっていた桂太郎を推す。これは彼との約束だったからだ。


 桂は井上良馨の後任として台湾総督となっていた。井上が一年ほど総督を務めたので中央に帰りたいと言い出し、海軍は呉鎮守府司令長官のポストを用意して迎えている。空席となる台湾総督を誰にしようかとなって桂に白羽の矢が立った。


 抗日運動の盛んな台湾統治は容易ではない。乃木希典が軍務局長として賊の掃討にあたっていたが、地元という地の利を活かすパルチはなかなか手強い。また乃木が出払ってるときの対応はさすがに総督が行うのだが、海軍の井上では指示が不適切になることがしばしばあった。井上の転出を機に陸軍から総督を出そうということになり、白羽の矢が立ったのが桂である。


 なぜ桂かといえば日清戦争に従軍して最前線で戦い続けた実戦経験豊富な指揮官でありつつ、軍中央にあって私の下で軍政を担ってきた軍政家でもあるからだ。今の台湾で求められる人材だった。


 しかしこれを聞いた桂は拒否した。台湾に行くくらいなら新設される師団長か、いっそ待命でいいとまで言っている。外地は嫌だ、外地は嫌だと念仏のように唱えていたとか。


 そこまで嫌がるのはひたすら中央から離れたくないという一心から。ネットなんてないから情報伝達はどうしても時間がかかる。外地であれば尚更だ。師団長として地方へ行くならともかく、外地に行くとなればラグは看過できないレベルになる。それゆえの抵抗だった。


 断固拒否する桂を台湾へ行かせるために私も説得に動員され、飴を与えることでどうにか首を縦に振らせた。


「次の内閣になったら君を軍務大臣に推す。それまでは台湾へ行ってくれないか?」


 俊輔が政権を移譲するタイミングを図っていることは知っていたし、側近の桂にもそのことは話していた。ほんの少し辛抱して総督をやっていれば大臣の椅子が転がり込んでくるのだ。そうとなれば話は別だと桂は態度を豹変させウキウキで台湾に向かったよ。


 そして今回、松方内閣が組織されることになったので桂は台湾総督を辞職。ほぼ最短日数で台湾から帰ってきて軍務大臣への就任に備えた(桂の後任は中将に昇進していた乃木希典)。ところが松方は軍部の推薦を無視して同郷の高島を指名。桂は無役になって馬鹿を見た格好だ。


 当然ながら桂はキレた。推薦を無視した松方には無論、軍務大臣にすると言った私に対しても。これは申し訳なさすぎるので批判は甘んじて受けた。それに内閣発足前の松方にも抗議している。だが松方は、


「高島さんが適任だと判断しただけです」


 との一点張り。大久保に事情を説明して一喝してもらったが、それでも人事を覆すことはなかった。「大久保の番頭」と言われる松方がなぜこうも頑ななのか。次第に構図が明らかとなる。


 発端は秋の戦勝記念陸海合同特別大演習。軍隊は冬に組織を更新して秋にかけて訓練を重ね練度を上げる。そのため秋に集大成ともいえる演習が行われていた。日清戦争の勃発と後処理で二年間開催できなかったこと、戦勝記念ということから軍は特別なイベントを企画する。それが戦勝記念陸海合同特別大演習であった。


 仰々しい名前がついているが、やることは通常の大演習と変わらない。軍が赤軍と青軍とに分かれて模擬戦を行う。ただしいつもと違うのは「陸海合同」とあるように陸海軍が一緒になって演習をすることだ。


 会場は相模湾一帯で、範囲としては現代の平塚市と茅ヶ崎市のあたり。ここを守る青軍に対して赤軍が攻撃を仕掛ける。青軍の艦隊は近隣の横須賀に待機し、赤軍が攻撃を開始すると出撃して青軍艦隊と交戦。その間に陸上でも上陸戦闘が行われるというのが一連の流れだ。


 兵員を海上輸送するため、軍から船舶を貸してほしいとの依頼が海運大手の倉屋と日本郵船(三菱)になされた。両社ともこれに応じて船のスケジュールを調整して必要な船を揃えている。ところが松方内閣成立後、突如として倉屋が貸す船について軍はキャンセルすると伝えてきた。


「え? そんな急に言われても困ります」


 演習に船を貸す前提で機材繰りを考えたのだ。急にキャンセルと言われても振り向ける先がなくて困ってしまう。あまりにも不義理ではないかと軍部に抗議すると、山本権兵衛が事情説明にやって来た。


「今回はすみませんでした」


「『すまん』じゃ済まないんだよ」


 平謝りする山本を詰める。そして事の次第が明らかになった。倉屋への依頼をキャンセルしたのは松方の圧力によるものだという。キャンセル分の補填は全て日本郵船が引き受けたとか。


「それは私が作った慣例を無視するということだが?」


 軍は公金を使うことになる。完全には難しいものの中立公平公正を旨としており、入札形式やシェアを踏まえた割り振りなどの手段を用いてなるべくその実現を図っていた。船舶については後者の方式をとっていたはず。それが変わったのかと訊いたが、山本は否定した。


「山本少将。これは倉屋の経営云々の話だけではない。海軍――いや、日本軍のあり方を毀損するに等しいことだ!」


 公の組織であるから中立公平公正を旨とせよ、というのは私が軍務卿時代から徹底してきたことだ。もちろんすべてがそういうわけにはいかない。特に人事では有力な反対派を要職に就けないなんてこともしている。しかし、こと金に関しては徹底してきたがゆえに言う権利はあるはずだ。


 しかも、しかもである。よりにもよって天皇が親裁する大演習という場でそれを破った。この事実は極めて重い。


「まあまあ」


 私が怒りに震えていると、見かねた海が宥めてくれる。ふーっ、と大きく息を吐いている間に彼女が代わって山本に言う。


「難しい政治のお話は存じませんが、今回の件で倉屋は大変な損害受けました。今からでも間に合いますから元のようにしていただくか違約金を支払ってください。それができないなら……残念ですけれど、然るべきところに出ます」


 海の話はかなり寛大だと思う。元通りにするか金を払えばこれ以上の文句は言わないというのだから。それが拒否されたなら当然、裁判で白黒つけようとなる。


 軍としてはこんなことが明るみになると困ってしまう。山本は何とか内密にと言ったが、キャンセルも撤回しないし賠償にも応じないにもかかわらず、軍の面子のために泣き寝入りしろというのはあまりにも虫のいい話だ。それに一回やられたのだから二回目がないという保証もない。取引の安全性を高めるためにも悪しき前例を作るべきではないのだ。


「そうですか。残念ですね」


 海は交渉決裂とばかりに席を立ち、失礼いたしますと言って退室する。その直前、怖いことを言い残して。


「明日の紙面には大々的にこのことが載るでしょう。さてさて、どうなるのかしら?」


 新聞各社にこの件を垂れ込むつもりらしい。倉屋と軍の大喧嘩――なるほど、トクダネとして各紙ともセンセーショナルに報じるだろう。山本は顔を青くしていたが、海は知らん顔をして部屋を出て行った。


「山縣閣下……」


「今回の件はさすがに度が過ぎた。反省するといい」


 家族ということを抜きにしても海に全面賛成する立場なので、私も冷たくあしらって部屋を出た。


 翌日は海の言った通り、新聞各社が倉屋と軍の確執を大々的に報じた。もちろん海の差し金である。政府のスキャンダルだと自由党系の新聞が飛びついて挙って煽り立てたので世論は沸騰。政府は対応に迫られた。


 軍人たちからは正直迷惑だという本音も聞かれたが、それ以上に同情するという声が強かった。慣例を持ち出して批判したが、松方の意向を受けた高島に「命令」されたらやるしかない。組織人としては命令を守ったものの、あまりに理不尽なので憤慨する者は多く同情が集まったのである。


 世間の注目を集めるなか、倉屋は国(軍)と三菱を訴えた。こうなると改進党系の新聞も扱わざるを得ない。自由党系の新聞がセンセーショナルに報道するのに反して、事実を淡々と書き連ねるだけの大人しいものだった。それでもあちら側にも騒動の存在が伝わったことに意義がある。


 そして結論から言うと裁判に倉屋は勝利した。先に制定された独占禁止法違反に基づく判決だった。あまりに理不尽なので当然の結果。正義執行といったところだったが、私たちが思った以上にこの結果は大きな意義を持った。


 判決が倒閣運動の引き金となったのである。野党となっていた自由党は日ごろから進歩党を批判していたが、この判決を受けて松方内閣と進歩党はけしからん、と批判を展開。しかも私が関与する倉屋が起こした訴訟だったため、桂の人事の件もあって長州閥もこの動きに乗っかる。音頭をとったのは自由党と接近していた俊輔だった。なので正確には長州閥(伊藤系)が乗っかったというのが正しい。


 ともあれこのような批判が大逆風となって松方内閣と進歩党を襲う。世間の批判に伴って両者はさらに接近して共同戦線を張ろうとしたが、彼らも決して一枚岩ではない。特に薩摩閥の一部には進歩党との提携を快く思わない者もいた。


「松方総理。今回の件はあまりに不誠実です」


 そのひとりが山本権兵衛であり、閣議などで松方を批判。一時は辞職するとまで言ったとか。派閥の重鎮である信吾に可愛がられている山本に抜けられては困る、と松方はこれを全力で慰留。そのときの材料として新戦艦の予算をつけるというものだった。渾身の延命策であったが、松方もこれがまさか自爆スイッチだったとは思うまい。


 戦艦を造るということで軍事予算が膨らんだ。問題は財源である。日清戦争を境に予算は国と地方ともに増大。それが公共投資の役割を果たし、戦後恐慌をも吹っ飛ばして経済は活況を呈す。特に商工業で顕著であったが、好調な経済とは裏腹に財源はカツカツ。とても軍艦の建造費は賄えない。仕方がないので松方は増税に乗り出す。彼が選択したのはよりにもよって地租だった。


 地租増徴が提起されるや否や、政党が揃って批判を始めた。彼らの多くは地主。つまり地租を納めている層である。増税されますと言われてはいそうですか、と受け入れるはずもなく大反発した。もちろん与党となっていた進歩党も例外ではない。


「こんな泥舟に乗っていられるか!」


 と、遂には松方内閣との提携を打ち切ってしまう。外相となっていた大隈をはじめとしたメンバーも内閣を去り、松方は孤立してしまった。松方はどうにか政権を維持しようと自由党への接近を試みたが上手くいかず。そうこうしているうちに十二月の議会開会を迎え、初日に内閣不信任案が出された。


 松方は衆議院の解散を行うが、世間は地租増徴反対との大合唱。とても政府寄りの議員が多数を占める見込みはない。多数をとるであろう既成政党との提携も絶望的だ。進退窮まった松方は選挙の結果を見届けることなく内閣総辞職。二十五日のことだったので私はクリスマス解散(辞職)とひとり勝手に呼んでいた。


 松方の辞職を受けて元老が召集され後継首相の選定を行う。薩摩の松方の後任なので長州からという話になり、俊輔が推薦された。私を推す声もあったが、こんな時期にやりたくないというのが本音。俊輔と打ち合わせて任せた、と押しつけている。まあ本人はやる気だったのでお互いによかったのだろう。


 かくして選挙結果を待たずに第二次伊藤内閣の成立が決まったが、松方が爆発させた地租増徴という名の爆弾による衝撃はしばらく政界を揺るがし続けることになる。










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何がヤバいって言うと自分の感情で軍を私的に使って嫌がらせしようしてたという事なんですよな。 更にこの一件で大久保が被害を受けた山県、桂の両者に謝罪として何か報いないと(閥のトップと幹部が悪くないのに面…
史実と違って薩長混合で一つの勢力なままの「軍」主導権を薩摩閥で固めようとしたんやろかな? 合同とはいえ長州の山縣が指導的立ち位置にいることには違いないので。 以前金がないと言いながら樺山からの提議で…
舐めたやつはCOROす、とならんだけ、幕末よりは穏当になったな 倉屋(と山縣有朋)は法と信義に則った行動を起こしただけで、何処からも文句をつけられる謂れがない 松方が何れ程騒ごうとも「自業自得じゃ」と…
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