地殻変動
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帝国議会――現代的にいえば国会は私の知るものから一変していた。かつて「民党」と呼ばれた政党が政府に協力的になっていたのである。その経緯についてまず少し触れたい。
日清戦争の勃発によりこれまでの政争は一時休戦。与党も野党もなく戦争に一致協力する挙国一致体制がとられた。ただ連戦連勝して講和の話が持ち上がりはじめた頃、その内容がリークされると大勝しているのに講和条件が緩いと一部(対外硬)が反発。条件を厳しくするか、さもなくば戦争を継続すべきと主張する。列強(特にイギリス)の外交的圧力があるなかふざけてるのかと思ったが、その意見を主張する本人たちは至って真面目だ。勇ましいのは結構だが現実を見た方がいいぞ。
政府は彼らの意見に耳を貸すことなく、日本が勝っているうちに講和をまとめる方向に動いた。そして下関条約の締結によって戦争を日本の勝利ということで終えている。三国干渉こそ回避したものの、政府は弱腰だとの批判は続けられている。
しかし一部はこの動きには与せず独自路線をとった。それが自由党である。(厳密には関東派を除く三派が主導して)政府と手を結ぼうと土佐派の領袖・林有造を窓口に夏から政府と交渉。半年近くかけて歩み寄り、十一月には政府と自由党が提携書を交わすに至る。
十二月から始まった通常国会では弱腰外交と政府を追及する対外硬に対し自由党は静観するか、逆に政府を庇う姿勢を見せた。おかげで法案審議も極めてスムーズに進む。ただし衆議院では。
「このまま政党の力が政府に及ぶことは何としても阻止せねばなりません」
「自由党は伊藤首相を利用してこちらにつけ入ろうとしているに違いない!」
貴族院や官僚から反対の声が上がっている。これらは反政党色が強く、妨害として自由党提出のいくつかの議案が否決されている。彼らは私に同意を求めてきた。
「今のままでは容認できないな」
政党政治には理解があるものの今の自由党……というか政党が議院内閣制的な政治をすることには反対だ。ぼくのかんがえたさいきょうのせいさく、をやって破滅する未来しか見えない。
民権運動のときから自由だ何だと叫んではいるが、実際のところ彼らには国をどうしようという理念がない。議員の多くが民権運動出身で、国家経営に関与した者は少ない。政策も不勉強な点が多く、官僚から資料を融通してもらって勉強しているなんてこともなかった。誤解を恐れずに言えば、彼らが掲げている政策は私たちからすればまったくの理想夢想の類なのである。政府と政党が平時においても協力したことは画期的だが、もう少し地に足つけてもらわなければ。
しかし、さすがは優秀な頭脳を持つ官僚たち。私の言葉から政党に対して拒絶する気持ちがないことを察したか探りを入れるように訊いてきた。
「『今のままでは』――山縣閣下はいずれ政党が政権を握ることをお考えなのですか?」
「ああ」
ここで言い繕ったところでボロが出るだけなので正直に話す。反政党派だと信じてたのに、みたいにショックを受けたようなリアクションをされるが知らん。私は政党そのものに対して否定的な態度をとったつもりはない。勝手に期待して失望するな。
――そう言ってやりたいところだが、彼らは私の支持者でもある。単に突き放すわけにもいかないので説得にかかった。主義主張の話なので普通なら難航するところだが、明治の日本はちょっと事情が違ってくる。
「列強諸国を見るといい。イギリスやドイツ、アメリカなど議会を有する国のほとんどで政党が結成されている」
意外なことにフランスには政党が存在せず、議会における議員グループに留まっている。それでも史実通りに行けば1901年に政党が結成されるはずだ。
「つまり政党の伸長は不可避であると?」
「そうだ」
思い返して欲しい。松方が議会運営を円滑化させようとなりふり構わない選挙干渉を大々的に行っても政府は勝てなかった。政党の伸長を防ごうとすれば選挙停止をやらなければいけない。かの翼賛選挙ですら非公認候補が少数とはいえ勝利しているのだから。だがそんなことをすれば諸外国から白い目で見られることは間違いない。
「だからといって放置するわけにはいかないでしょう」
「そうです。国家を奴らの恣にさせるわけにはいきません」
いやお前らも大概だろ、と思ったが口にはしなかった。私も言えた義理ではないし。
「私も同じだ。ゆえに我々はいずれ訪れるその時に備えなければならない」
官僚機構を時代や国情に合わせて整備していくとともに、政党勢力を受け入れるためのパイプ作りも行う。彼らの政党に対する拒否感は凄まじいので、まずは少し距離を置いての交流から始めていく。俊輔のような急進的な手法ではなく、漸進的にやっていかないと上手くいかないだろう。
まずは各党に官僚を送り込む。学閥作って先輩後輩の繋がりがあるからそれだけで勝手に政党と省庁で縦横の関係が生まれる。人材によって関係の濃淡は生まれるだろうが、そこは政治任用の職を選挙による党勢の伸縮に応じて割り当てればいい。まあ政治任用の職は政党アレルギーがもう少し薄れてからだ。じきに政党からも近づいてくるだろうし。機を見て大臣、事務次官、政務官の三職を定めて政党の政府への影響力を高めるつもりだ(専門性の高い軍務、外務を除く)。
これでも反対意見は出たものの、多くは欧米に前ならえという考えを持つ者たち。致し方なしと受け入れる姿勢だ。初期議会を経て、あれこれ言ったところで議会の協力を得られなければどうにもならない、という認識は官僚たちの間でも広まっていた。欧米の目があるなか、体面を気にする日本人が停会はともかく議会廃止なんて強硬手段には出るはずもない。検討はされるも結局は実行に移されなかった。
史実と同様に政党に対して否定的な私の下に官僚たちが集まり、融和的な俊輔の下に政党人が集うという大枠が生じる。ただ異なっているのはいずれも政党政治を志向しているという点で共通していることだろう。政府と議会との主導権争いといってもいい。山縣閥が内包していた非政党勢力はこの枠から弾かれ、近衛篤麿を中心にした勢力(近衛閥)に与する。
こうして国内政治が固まりつつあるなか、海外では思わぬ波乱が起きつつあった。震源地は朝鮮だ。日清戦争の結果、日本の影響下に入った朝鮮。史実では三国干渉によって影響力が低下して今度はロシアと抗争状態に入るのだが、現世では三国干渉が起きていない。だから日本の影響力は低下していなかった。しかし、当時の朝鮮に渦巻く怨念――意志の力ともいうべきものがこれを動揺させる。
よく知られた話(諸説あり)だが、朝鮮国王の高宗は妻の閔妃に政治を任せていた。高宗は先王に男子がいなかったため連れてこられた傍系(しかも先王からすると血縁は遠い)男子であるから致し方ないともいえる。即位も十一歳と若かったため王后(先王の妻)や大院君(実父)が政治の実権を握っていたが成人とともに親政を宣言した。とはいえ高宗に実権はなく、妻の閔妃とその一族が政治を行った。
その政治は宮廷費が国家予算を食い潰す放漫財政であり、不足分を補うために賄賂が横行。資金の源は民衆。彼らからの収奪で賄った。ゆえに朝鮮全土で怨嗟の声が上がり、遂には甲午農民戦争に至った。大院君はそれが面白くない。実権を奪われただけでなく、元より彼が息子の高宗を立てたのは政治の綱紀粛正が目的からしても閔妃たちの横暴は看過できない。閔妃が清国に接近したのとは逆に、かつての敵であった日本に接近して実権の奪還に動いた。
こうして壬午事変などの政変、さらには甲午農民戦争の勃発を契機に日清が激突した日清戦争の最中、大院君は遂に実権を奪い返すことに成功。親日政権(金弘集内閣)を発足させた。
もちろん閔妃が黙っているはずもなく、後ろ盾を清国からロシアに変えて対抗する。すべては政敵である大院君と張り合うため。そのためには手段を選ばなかった。両者の遺恨はマリアナ海溝よりも深く、両者の一族や側近が頻繁に暗殺されている。福沢諭吉が有名な『脱亜論』を著すきっかけとなった金玉均の暗殺もこのひとつだ。
しかし日本、清国、ロシアと頼る相手を変えるカメレオンのごとき変節ぶりは各方面から反感を買う。特に非東洋人であるロシアとの連携はアジア連帯を主張する者たち(アジア主義者)を刺激した。さらに閔妃がロシアの力を背景に実権を奪い返して大院君派を弾圧しようとするに及んで朝鮮人や日本の警官や軍人、大陸浪人たちが王宮へと侵入。閔妃を殺害した。1895年十月八日のことである。
「すぐに召還しろ!」
事件を聞いた俊輔はすぐさま朝鮮公使の三浦梧楼を解任するとともに呼び戻す。同様に私も軍人たちを召還した。帰国させた外交官と軍人(阿呆ども)は広島で勾留して裁判(軍人は軍法会議)にかける。
そして後任をどうするのという問題になったが、俊輔は状況調査のため朝鮮に派遣していた外務省政務局長の小村寿太郎を後任にした。さらに前公使の井上馨も特派される。
日本にとって幸いなのは朝鮮側から事態を収拾するために責任を大院君に押しつけるという方向で収めよう、と提案されたことだ。もちろん日本政府はこれに飛びついた。大院君とは提携関係にあったが、日清戦争中に東学党を蜂起させて日本軍の背後を攪乱して清国に協力した前科がある。結局のところ独立志向は変わらなかったようで、切り捨てるには丁度いいきっかけになった。
合意に基づいて大院君は幽閉される。日本側も関係者に厳しい処分はできず、証拠不十分で全員が無罪となっている。だがそれは政治的な判断の結果であり、結果よければすべてよしとはならないと私は思った。
「俊輔。今回はあちらの都合があって助かったが、同じようなことがあったらどう転ぶかわからん。一気に国が危なくなることにもなりかねんぞ」
朝鮮ではロシアが勢力を伸ばしており、アメリカも顧問を派遣しているなどある程度の利害関係がある。列強の目がある以上、下手に要人殺害をすれば白眼視されてしまい窮地に陥ってしまう可能性がある。懸念は俊輔も同意した。そして官吏に対して軽挙妄動を慎むよう通知を出す。
しかしこれで一件落着とはならなかった。朝鮮では反日運動が沸き起こり、翌年二月には電信線が何者かに切断される。さらに同月、朝鮮国王の高宗と世子(王太子)が密かに王宮を逃れてあろうことかロシア公使館に逃げ込む。安全圏に逃げ込んだ高宗は閔妃暗殺の話を蒸し返し、再調査の結果として閔妃を暗殺したのは日本の軍人だという記事を英文雑誌に掲載。さらに親日政権を打倒して親露政権を樹立した。
「なんてことだ……」
朝鮮の政変によって同地における日本の優位性は崩れ去った。俊輔をはじめとした日本の政府要人は頭を抱えた。一連の動きを使嗾しているのはロシアであることは明らか。だが状況証拠からくる推論でしかなく指摘することはできなかった。まあ再調査にしても死体はないし目撃証言だけなので言い逃れはできる(政治的手打ちに手を出したせいで真実は闇の中なのでどうしようとないともいう)。
ともあれ朝鮮をめぐって日本はロシアと対峙していく必要に迫られる。日清戦争に勝利して安堵していたのも束の間、更なる強敵を相手にしなければならず指導者たちの胃に深刻なダメージを与えてくるのだった。
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