有坂成章
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井上良馨と山本権兵衛の二人は退室していった。艦艇の整備計画――八四艦隊計画についても話し合われたが、詳細は別の機会に。
少し休憩しようということになり、全員がリラックスしてお茶を飲んでいた。コーヒーや紅茶でないところに時代を感じる。各々が寛いで雑談に興じていると、部屋の扉がノックされた。
「失礼します。有坂大佐がお見えになりました」
「通してくれ」
ややあって、
「有坂、入ります」
大佐の階級章をつけた男が入口で敬礼する。
「待っていたぞ、有坂くん」
入室してきたのは有坂成章大佐。明治後期から敗戦まで日本軍が使用した主力小銃の基本設計をした人物である。彼が設計した三十年式歩兵銃はその名を冠して「アリサカ・ライフル」として世界に通用するほどだ。
日清戦争で活躍した村田銃を設計した村田経芳は明治二三年に予備役編入されている。その後継者ともいえるのが有坂。今は技術研究所の陸軍部長をしている。そんな彼を呼んだのは銃砲の開発を任せるためだ。
「有坂くんには新型銃砲の開発を任せたい」
既存の村田銃は清国軍が装備していたGew88と比較すると旧式と言わざるを得ない。アップデートするために二十二年式村田連発銃が開発されたものの、当時流行した管状弾倉を採用。装填の手間や平弾頭を採用したことによる命中精度の悪さなど実戦的ではないとして現世では不採用となっている。
小銃開発は日清戦争の勃発もあって中断されていたが、戦後になったので村田の後継である有坂に開発させようという運びであった。もちろんじゃあよろしく、と丸投げするのではなく用兵側から要求を示す。
小銃については口径を七ミリ前後として無煙火薬を使用すること、装弾数は五発以上で箱型弾倉にすることを求めた。また、可能な限り部品点数を削減して構造も簡易にしつつ部品の遊びも大きくとるようにとも。
大砲についても無煙火薬を使用する七五ミリ(分離薬莢式)。射程は八〇〇〇メートル程度、軽量で運搬が容易であり速射性についても分間六発を要求している。
「基本的な仕様は承知しました。その上で何点かお聞かせください」
有坂は言葉通りにいくつが疑問を投げかけてきた。まず兵器の仕様について。口径を七ミリ前後にするのはなぜ、という至極当然の疑問である。
「それは列強の主力小銃を見たとき、口径が七ミリを超える国が多いからだ。私としては陸軍の装備するマキシム機関銃と同じ七・七ミリがいいと思うが、これは個人の考えであるとは断っておく」
西側と東側で兵器の規格が統一されている現代とは異なり、この時代は各国が独自の規格を採用していた。小銃弾ひとつとってもイギリス七・七ミリ、フランス八ミリ、ドイツ七・九二ミリ、ロシア七・六二ミリといった具合である。例外はイタリアの六・五ミリだ。
小銃の口径をどうするのかはとても重大な問題である。将来を考えたときは七ミリ以上と言いつつも七・七ミリ一択だ。今後は突撃する味方を援護するために機関銃で弾を大量にばら撒くという戦術をとる。弾薬消費量が増えることは明らかで、生産や補給のことを考えても小銃と機関銃で弾薬を共通化すべきであることは言うまでもない。
「しかし、七・七ミリは反動が大きいのではないですか? 閣下もそのように仰っていたと記憶しています」
「その通りだ」
七・七ミリ案最大の問題が反動だ。でかいものを飛ばすにはでかい力が要る。たった一ミリくらいで変わるのかと思うかもしれないがまったく違う。手許ではほんの少しのズレであっても百メートル先では無視し得ないものとなるのだ。体格が小さい日本人に七・七ミリの反動はキツい。実際、清国軍から鹵獲したGew88(七・九二ミリ)を試し撃ちしたが、その反動はかなりのもの。史実の日本軍もそれを嫌って六・五ミリを採用したのである。試し撃ちのことは有坂に話していたこともあり、彼の指摘については肯定した。
「だが、考え方次第だと思うのだ。反動が大きいなら反動の要因を減らしてやればいい」
反動を抑えるには口径を小さくすることをまず考えるが、私は装薬を減らすことを提案した。戦後、自衛隊が64式小銃を開発する際にはNATO弾を使用するという制約があった。しかし先述のように七ミリ以上の弾は発射時の反動が大きく、小柄な日本人には扱いきれない。そこで先人たちが考え出したのが減装薬だ。文字通り装薬を減らした弾丸であり、通常弾に比べて反動は少ない。代わりに射程や威力を犠牲にしているわけだが。
「閣下のお考えはわかりました。口径については実現できるよう鋭意努力します」
と言いつつ次の疑問。部品点数の削減や簡易な構造はわかるが、遊びを大きくとるのはなぜかというもの。
「生産性や整備性を上げるという目的もある。しかし最大の目的は信頼性の向上だ」
いかなる環境でも確実に動作する高い信頼性を持たせるための要求だったが、これには有坂はムッとした表情をする。
「お言葉ですが閣下。半端なものを作る気はありません」
「気を悪くしたのならすまない。もちろん君の力量には信頼を置いている。だが、君らが考える最高の銃と現場で求められている最高の銃には乖離があるということもわかってほしい」
今回の要求は私の意見が多分に反映されている。特に小銃の要求においてはとある銃が念頭にあった。この時代には影も形も存在しないが紛れもない傑作銃――AK47だ。多少の砂泥では壊れず、厳しい気候で金属が変形しようとも、部品の精度が粗くなろうとも動作する。それは設計者のカラシニコフが意図したものであり、AKのコンセプトをほぼそのまま持ってきたのがこの要求である。隠さずに言えば、ボルトアクション小銃ながらAKに匹敵するほど高い信頼性を誇る銃を開発しようということだ。
明治の日本にとってAKコンセプトの銃はうってつけである。なにせ主戦場となる満州は気候が厳しい。冬は凍てつく寒さが襲い、春からはしばしば砂塵が舞う。日本でいうところの黄砂であり、発生源のゴビ砂漠やタクラマカン砂漠などにより近い満州ではさらに密度が濃くなることは想像に難くない。史実の日本軍も日露戦争時に砂塵による三十年式歩兵銃の動作不良に悩まされた。その問題を解決するため、三八式歩兵銃へ更新されたときにはダストカバーが追加されている。
また日本の工業力は貧弱であり、部品の精度には大いに疑問符がつく。英米を相手に戦った太平洋戦争時ですら、ドイツから提供された機材を工業力の問題で量産化できなかった。産業が興って間もない明治の日本では尚更である。根本的に解決しなければならない課題だが、当面は遊びを多くとってクリアするしかない。
「――というわけだ」
AKのくだりは省いて説明したが、それを抜いても十分に説得的だったと思う。有坂もなるほどと頷いているし。
小銃については私の構想に沿う努力をすることとなった。続いて火砲についての疑問だが、これはただ一点に尽きた。
「火砲はいつまでに開発を終えるものとお考えですか?」
「遅くとも五年だな」
史実の三十一年式速射砲もそれくらいだ。量産化と部隊配備、習熟の観点からデッドラインはそこになる。
「であれば無理です」
有坂はきっぱりと言い切った。
「無理か?」
「はい」
「資材なんかを優先して都合しても?」
「できません」
やる気ではなく技術の問題だという。たしかに駐退機がなければ難しいかと思ったが……翌年に採用されるドイツの野砲七・七センチFK96は本格的な駐退機なしでも分間八発の発射速度を実現している。野砲の革命児であるフランスのM1897(分間十五発)に及ばなくとも、最低限のレベルには達して欲しい。それからすると分間六発は妥協した方だ。
やれ、できないという言葉の応酬が続いて場が険悪な雰囲気になる。耐えかねた川上と児玉が仲裁に入り、争点となった発射速度については努力目標として棚上げすることになった。代わりに射程八〇〇〇メートルについては必ず実現させると約束させている。
ただ後になってムキになりすぎたなと反省。有坂を訪ねて謝罪した。一方の有坂もこちらこそと応じ和解する。改めて検討がなされたが、やはり現在の日本の技術では発射速度において要求された性能を有する火砲を設計できないとの結論に至った。
「技術取得のため列強に発注しましょう」
有坂はそう提案した。技術者として業腹ではあったろうが、捲土重来を期すとの野望を抱いての提言である。火砲の設計と生産を任せたのはドイツのクルップ社であった。日本軍がしばしばお世話になっている企業であり、同社に七五ミリ砲の製造を依頼した。
日本の依頼にクルップ社は自国の七・七センチFK96を七五ミリに再設計する形で応える。駐退機はバネ式の簡易なものにすぎなかったが、元の火砲が分間八発とかなりの射撃速度を有するためあまり問題にはならなかった。重量は九〇〇キロ代前半という軽さでありながら、射程は八〇〇〇メートルを誇る。これが明治三十一年(1898年)に採用され、三一式野砲と呼称された。分解して運搬する山砲版も開発されており、こちらは三一式山砲と名づけられる。陸軍はこの結果に満足し、権利を買い取って国内の陸軍工廠で追加生産することにした。
ある意味で挫折した火砲開発であったが、一方で小銃開発は概ね順調に進んだ。口径については各所から色々と意見があり、六・五ミリと七・六二ミリの銃で比較しようということになった(七・六二ミリなのは列強のなかで七ミリ台最小の口径だから)。後者については通常弾と減装弾(装薬を一割減らしたものを特注して輸入した)の二種類で試される。
結果からいうとやはり七・六二ミリの通常弾は日本人にとって反動が大きすぎた。六・五ミリは予想通り反動が小さく日本人でも扱えるとされる。初速も速く命中精度も高い。そして期待の減装弾も良好な成績だった。反動はそれなりにあるものの我慢できない程ではなく、一般に悪化する命中精度も六・五ミリのそれと比べてやや悪いというものだ。弾体が重いので対物威力もそれなりに出る。
「これなら七・六二ミリ減装弾を使用した方がよさそうだな」
報告を聞いた私はそう思ったが、開発陣から一つの懸念が示された。七・六二ミリ弾は資源的に不利ではないかというものだ。つまりは弾がデカい分だけ使う資源が多くなるということらしい。まあ確かにコストはかかる。
「なら混ぜものをして安くすればいいだろう」
弾芯に鉄を使うことで鉛の量を減らすことができる。鉛より鉄の方が安く加工の手間を考えてもより経済的だ。モデルとなったAKシリーズでも同じであった。薬莢も鉄製なのだが、こちらは意外にも加工難易度が高く実現不可能だった。薬莢の主な素材である真鍮も銅を使うため高い。少しでも安く上げるために鉄製薬莢の研究は続けるよう指示した。高い技術が必要とされるも、史実より多少は技術力も上がっている。いずれ実現するはず。不可能だと最初から諦めていては何にもならないのだ。
こうした紆余曲折を経て明治三十年に三十年式歩兵銃と銃剣、実包が採用された。史実のそれとは色々と異なっており三十年式と三八式、九九式を足して三で割った感じの仕上がりとなっている。自動小銃にならない限り基本設計はこのままでいいだろう。是非ともモシンナガンのような息の長い銃になってもらいたい。
また、あわせて冷却に難のあった初期型のマキシム機関銃も更新しようという話になった。配備当初は懐疑的な声が多かったこれも日清戦争でその有効性が確認されている。動作不良だけは何とかしてくれということで、新型の機材に変えようとなったのだ。
当然、弾薬も.303ブリティッシュ弾から三十年式実包(七・六二ミリ)に変更となる。マキシム社はその輸出戦略もあってこれに快く応じてくれ、日本の弾薬規格に沿った銃を設計してくれた。史実の日本はオリジナルのマキシム機関銃を生産できずオチキス機関銃に逃げたわけだが、現世ではより大規模に輸入して整備していた経験も手伝って所定の性能を発揮。生産継続となった。
かくして主要な歩兵系装備は完成を見る。しかし私たちはこれに満足することなく研究を続け、より装備を充実させて次の戦いに備えるのだった。
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