日清戦後経営
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講和条約が発効し、日清戦争は正式に日本の勝利で幕を閉じた。遼東半島の非武装地帯化という奇策により列強の干渉を回避。国内からは得たものが少ないと弱腰批判されたが、それらを「雑音」として切って捨てられるほど充実の内容だった。
軍隊の復員も始まっている。誠の第四師団も帰国し、与えられた休暇を利用して家に帰ってきた。
「おかえりなさい! よく帰ってきたわね」
我が子の無事を確かめるように身体をペタペタ触る海。ただ、誠は鬱陶しそうにしていた。彼女は良くも悪くも愛が深い。度が過ぎると……正直ウザいと思うことがなくもなかった。まあそこが可愛いのだが(惚気)。
息子の帰省(?)に海は張り切っていた。好物をたくさん食べさせてやるんだ、と水無子を連れて台所に籠もっている。家は広いけども邪魔しちゃ悪い気になって、夕飯の時間まで誠と外出することにした。
「清国に着いて程なく停戦となってしまい、戦うことはできませんでした」
戦えなくて残念、という気持ちが伝わってくる。出征するにあたって相当な覚悟を決めていただろう。誠は残念だったと言った。
「誠。戦に出るからと覚悟していたのはわかる。軍人として戦で手柄を立てたいという気持ちもな。ただひとつだけ、親として言っておかなければならないことがある」
「何でしょう?」
「お前は何のために戦っている? いや、戦おうとした?」
「……」
戦争だから、というのは答えにならない。単なる兵士ならそれでもいいが、彼は将校である。自ら志願して軍人になったのだ。以前、誠は騎乗して凱旋パレードをしている私の姿に憧れたと言っていた。だが求めている答えはそうではない。
「考えたこともありませんでした」
「まあそうだろうな」
陸軍士官学校にせよ海軍兵学校にせよ、学力的には上位の人間が入ってくる。日本人は大半が貧乏だ。大学にまで通わせる金を捻出できず、勉強ができても大学へ送り出せないという家庭は少なくなかった。だが、軍隊は別だ。学費がかからないどころか給料が貰える。「貧乏少尉にやりくり中尉、やっとこ大尉」という給与水準の低さは変わらなかったが、貧乏人にとって軍人になることは魅力的な選択肢だったのだ。
つまり何が言いたいかといえば、少なくない将校が軍人になることを目標としてしまい、いざ軍人として何を為したいかビジョンを持っていないということである。平凡な軍人でありたいならそれでもいいが、親として子の栄達を願ってしまう。……ぶっちゃけ、親が私だから七光で昇進はするだろう。私にその気がなくても周りが勝手に忖度してやる。だからこそ軍人としての哲学を持っていてほしい。自分はなぜ戦うのか。軍人をしているのか。その芯をはっきり持っていてほしい。
そんなに言うならお前は何のために戦っているのかと疑問を投げかけられるだろうが、私は明確に答えられる。家族のためだ。軍人として戦うのも、権力を握って政治をしているのも家族のため。弱肉強食の帝国主義の時代において、日本という国が強くあれば植民地支配されることなく安心して暮らせる。そのために戦っていた。
「答えは急に出ないだろうが、今から考えておくといい」
私は誠の肩をぽん、と叩く。
「さて、そろそろ料理も出来た頃合いだろう。早く帰らないと拗ねるぞ?」
「それは大変ですね」
拗ねた海の機嫌をとるのは大変だ、と親子で家路を急いだ。
誠は三日ほど家におり、その間は海に甲斐甲斐しく世話を焼かれていた。手を離れた息子が帰ってきて嬉しいのだろう。誠も仕方がないなあ、と言いながらされるがままに世話されている。ただいつまでも休みというわけではなく、大阪に戻る日がきた。夫婦で駅まで見送る。
「身体には気をつけてね」
「はい」
海はあれは大丈夫かこれは問題ないかと心配で堪らない様子。それを誠ははいはい、と流していた。邪険にするとこれまた拗ねるのでこういうときは流すのが正解だ。
ちなみに姉弟たちはそれぞれ仕事や学校で見送りには来ていない。別れの挨拶は朝のうちに済ませていた。仲が悪いというわけではない。
「そろそろ時間じゃないのか?」
手持ち無沙汰になって時計を見ていたら列車の発車時刻が近づいている。誠も言われてから合格祝いに私が贈った懐中時計を見て時間を確認すると荷物を持つ。
「じゃあ行ってきます」
「「いってらっしゃい」」
誠は荷物を持って歩き出したが、少し進んだところでこちらを振り返る。
「そうだった。父上」
「ん?」
「この間のこと、自分なりに考えてみます」
「そうか。まあ慌てずゆっくり考えろ」
「はい」
短く言葉を交わすとペコリ、と一礼して列車に乗り込んだ。程なくして機関車が汽笛を上げ、蒸気を吹き出しながらホームを出ていく。私たちは列車が見えなくなるまでその場で見送った。
「さっき誠が言ってた『この間のこと』って何ですか?」
「うん? それはな――」
「それは?」
「男同士の秘密だ」
少し小悪魔チックに人差し指を唇にあてつつウインク。海からは何それ、とイマイチな反応をされた。ちょっと凹んだ。
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日清戦争で日本が獲得した賠償金は二・五億両。日本円にするとおよそ三・九億円になる。史実では遼東半島の還付金を含めて二・三億両だったので一割増しだ。三国干渉も受けず、日本としてはかなりいいディールができたのではなかろうかと自画自賛する。
得た賠償金はシティ(イギリスのロンドン金融街)に預けられることになっていた。日本とイギリスは日清戦争を契機にして急速に接近する。絶頂期に植民地を世界中に拡大したイギリスだったが、その勢いに翳りが見えると海外権益の維持が負担になった。特に東アジアは物理的に遠く、ここに軍事力を展開するのは負担が大きい。そこで東アジア地域の大国と提携し、その地域秩序においてイギリス権益を保護しようとした。
提携相手として考えられたのは日清(ロシアもいることにはいるが、彼らが進める南下政策とバッティングするため緊張関係にあり、既にドイツやフランスがバックにいることから選択肢から外れている)。当初は清国を応援していたが、東アジアナンバーワン選手権である日清戦争の結果を受けて日本に乗り換えたという次第である。日本はその軍事力で「極東の憲兵」となり、イギリスは国際的な後援と東アジアにおけるネットワークを提供する――それが日英提携に求め求められたものだった。賠償金の預け入れもその一環である。
さて、こうして得た賠償金をどう使うかが問題だ。日本は貧乏国家であるので使い道は無数に思いつく。当然、各方面からうちにうちにという声が上がっていた。ある意味で難題だが、これにあたることになったのは新首相となった俊輔であった。史実の初代首相が満を持しての登板だ。大久保は日清戦勝を花道に辞職した。
内閣の顔ぶれは以下の通り。
総理大臣 伊藤博文
内務大臣 野村靖
外務大臣 陸奥宗光
大蔵大臣 松方正義
軍務大臣 山縣有朋
司法大臣 芳川顕正
文部大臣 西園寺公望
農商務大臣 榎本武揚
逓信大臣 渡辺国武
という具合で、薩摩閥が松方ひとりと長州閥の色が強い。あくまでも恣意的な人事ではないと言っておく。本当にたまたまこうなっただけだ。
「この不肖伊藤、身の引き締まる思いです」
俊輔は謙虚に言うが、私は自信を持てと発破をかけた。張りぼてに過ぎない私と違って彼の方が何倍も優秀だ。自信を持ってほしい。
新政権になって早々に話し合われたのが賠償金の使い道について。先に述べたように色々なところから寄越してほしいとの要望があったが、政府としてどこに使うのかはほぼ全員が一致する見解を持っていた。すなわち軍事とインフラである。
使途について意見を求められたのが蔵相の松方と軍相の私だった。互いに「財政意見書」と「軍備拡張意見書(概略)」を提出したが、細かな違いはあれど、どちらも軍拡と殖産興業政策を行うことで一致していた。
このうち私の意見書は括弧つきで概略となっているが、これは戦争の総括が済んでいないためだ。とはいえ今後の日本軍が目指す姿とそれに必要なものを列記している。西園寺を除くと閣僚は士族であり、軍事に触れた経験があった。そのため私の意見書について閣議で質問される。
「山縣さんの意見書では、将来戦争において相当量の銃砲弾が必要とある。その見積もりは参考として添えられている今回の戦争における総使用量を優に超えるとあるが……俄には信じられん」
「残念ながらほぼ確実です。今回は相手がよかった。戦えば相手が勝手に逃げていくようなものですから」
現地で戦った人間として清国軍は弱かった、と断言できる。極端に言えば、こちらが勢いよく攻めれば蜘蛛の子を散らすように逃げていったからだ。捕虜は兵士の月給三両、戦後に帰国すれば三十両与えると言われており、馬鹿正直に戦う必要はないと言っていた。全くその通りだと思う。だから今回の戦争での数字はほとんど参考にならないと思っていい。むしろ清国軍が日本軍を攻めたときの方が参考になるくらいだ。
ただ何の成果も得られませんでした、というわけでもない。海城では何度か清国軍が奪回を試みている。戦時中にしては珍しく本腰を入れて攻めてきた。迎撃したのは桂太郎率いる第三師団であり、そのときの詳細なレポートが上がっている。意見書の提出前、このレポートを元に川上や児玉らに攻め方を考えてもらった。急がせたので詳細なものではないが、機関銃などで防護された陣地を攻略するには多数の砲弾を撃ち込まねばならないとの結論になる。火力戦だ。そんなことをすれば日清戦争の使用砲弾量は一日分くらいじゃないか、というのが我々の見立てであった。
「詳細は今後、検討していきますが大きく外れた結論にはならないでしょう」
日本軍は塹壕戦の概念に日露戦争を待つことなく行き着いた。塹壕を突破するために――明治の技術水準では――浸透戦術を編み出さねばならない。その援護のため、私は縦深攻撃の理論を応用することを考えていた。すなわち大小の火砲を以て全戦線、全縦深にわたって強力な火力を投射して敵の移動を妨げる。このために要求される砲弾量はかなりのもので弾薬の備蓄や生産、輸送体制を整えておくことは必要であった。
「海軍については戦艦と大型巡洋艦を合計で十二隻。うち戦艦は八隻……大丈夫なのですか?」
何が、というのは私以外に松方の顔を見たことから言わんとしたことを察する。まず純粋に日本で戦艦を扱えるのか、次に建造費や維持費を財政的に出せるのかということだろう。
その懸念はもっともだ。我々はその実例をつい最近この目で見ている。東洋一の大戦艦を擁しながら維持管理もままならず海の藻屑にされた清国海軍を。
私は松方に視線を送る。戦艦八隻造ります! と言ってはいるがこれはあくまで軍の計画に過ぎない。政府として何ら承認を得たものではないのだ。これ聞いてどう思った? と暗に質問したわけである。
話を振られた松方は軍が必要とする費用を賄うと言った。「賄える」ではなく「賄う」――つまりどうにかして捻出するということだ。実に心強い。
「懸念された点については慎重に進めていくつもりです」
私案であると断りつつ、戦艦の導入と戦力化へのロードマップを語った。戦艦の取得は何回かに分けて行う。まず二隻を建造して運用に関するノウハウを蓄積し、その後に一年から二年のスパンで残り六隻を取得するというプランである。一気に八隻を建造、配備するという話ではない。
これを聞いて賄えるのかと松方に質問が飛び、歳出増大には国債発行や増税によって賄うという方針を示した。同時に建造されるわけではないので見込みはあるとも述べている。ただこう述べると当然の疑問は出た。国債はともかくとして、増税は実現できるのかと。これは政党の抵抗を見越してのものだろう。
「今すぐにという話ではありません。陸軍では師団の増設を予定していますし、海軍は計画から完成までそれなりの時間を要しますから」
師団増設には部隊の編制と錬成、艦艇には設計と建造があるので時間的な猶予はある。最悪、国債で賄って償還する時点で税金を財源とすればいい。悲観的な見方であったが、そういう想定もできるっちゃできる。ただ私は前世の知識があるので、日清戦後には政治の潮目が変わることを知っていた。だがそれは別の話。
戦後経営の話に戻すと、軍を支えるために軍需工場の拡張が決まる。いくら高性能な火砲を持っていても、撃ち出す弾がなければただの鉄の筒だ。単に兵器を整備するだけでなく、砲弾の生産や不測の事態に備える基礎体力ともいえる工業力も育てる方針だった。
上のような観点から産業インフラの整備にもかなりの額を注ぎ込むことになる。従来の道路や鉄道に加えて海運へ力を入れることが決まった。主戦場となる大陸へ軍を展開させるにしても、産業を動かす原材料を仕入れるにしても船舶がなければ話にならない。日清戦争にしても、実は輸送に従事した船の大半が倉屋によって建造されたものだった。政府では倉屋の船がなければ船不足に喘いでいた、と言われていた。船の数を増やすために造船業の奨励、船を動かす船員の養成に対する補助など国策として海運業の発展に取り組む。
「漠然と奨励するだけでは効果が見込めません。そこで目標を掲げましょう」
という私の提言で具体的な目標も設定された。それは貿易に使われる船舶に占める日本船の比率を五割まで上げること。ちなみに今は一割程度である。これを十年で三割、さらにもう十年で五割以上にすることを目標とした。
目標を達成するために制定されたのが造船奨励法である。基準を満たす規格の船を建造すると総トン数に応じて寄付金が出る仕組みだ。エンジンまで製造すればさらに増額ときているから倉屋にとってありがたい。なにせ七〇〇トン以上が対象なので、建造している船のほとんどで補助金が入る。さらに主力は九〇〇トンの船体に焼玉エンジンを載せた沿岸航路用の小型船(史実の戦時標準船2E型がモデル)であり、凄まじい勢いで造っているから補助金でがっぽりの予定だ。
また、産業の心臓ともいえる製鉄業についてもテコ入れが決まり、現行の釜石に続いて大規模な製鉄所を造ることになる。場所については少し揉めたが、筑豊炭田から石炭供給を受けやすい北九州でという方向となり、最終的には史実通りに八幡が選ばれた。
他にも細々とした施策はあるが、概ねこんな感じで日清戦後経営へと突入していく。戦後の政府支出はケチりまくっていた戦前とは雲泥の差で、その額は戦前の二倍程度と見込まれた。それが実現するかは、新たな宰相である俊輔の手腕にかかっている。まあ、頑張れ。
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