講和へ向けて…
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いよいよというときに帰国を命じられて不満だったが命令は命令だ。私は準備を整えると苦楽を共にした将兵に見送られて満州の地を離れた。ちなみに後任の第一軍司令官は第五師団長だった野津道貫。平壌攻略戦をはじめとした戦争初期の勲功を評価されて大将に昇進しての就任である。野津の後任はこれまた日露戦争で活躍することになるだろう奥保鞏。改めて凄いメンバーだなと思う。
日本と朝鮮、清国との間に海軍的な脅威はなく、輸送船に乗って宇品まで直行した。念のために第二艦隊から大淀が護衛として派遣されている。黄海海戦で損傷した艦艇のうち新鋭の鞍馬と大淀の修理が優先され、乏しい工業力ながら新年までに戦列復帰させた。修理後の試験航海がてら駆り出されたというわけである。
道中は何のトラブルもなく宇品に着いた。日本も冬だが、満州のそれと比べると広島の冬は暖かい。北海道から沖縄に来たような気分である。
「お疲れ様です」
「出迎えご苦労」
広島から迎えが来ており、彼らに導かれるままに宇品からの戻り便である汽車に乗って広島市街へ。その間に質問攻めにされた。彼らは戦地に赴いた経験がなく、どんなものなのか気になっているのだ。私は戦場で感じたことを時間の許す限り話した。彼らの希望はわかっているので勇ましい話が中心だが、必ず戦争はよくないという言葉も添える。……まあ、戦争を主導した側なのでどの口がと言われるかもしれないが気持ちは大事だ。うん。
その日は戦地と旅の疲れがあるだろうと休みとなり、翌日にまず大久保から呼び出される。
「お疲れだったな」
「ありがとうございます」
「色々と苦労もあっただろうが、よくやってくれた」
大久保に褒められた。それは嬉しいのだが、どうしても訊かなければならないことがある。司令官を解任されて呼び戻された理由だ。
「それは戦後処理の準備と陛下のご意向だ」
「はい?」
戦後処理――というか講和の動きがあることは知っている。いやまあそれで呼び戻されたと言われても疑問符はつくのだが、そんなことよりももっとわからないことがあった。「陛下のご意向」とは一体何なのか?
「山縣さんも知っての通り、今年の一月に有栖川宮熾仁親王が薨去された」
「はい」
当初はマラリア、後に腸チフスと診断されて静養していたもののその甲斐なく薨去した。当然そのことは伝え聞いている。だがそれと私の召還に何の因果関係があるのだろうか。
「熾仁親王は陸軍の重鎮であり、陛下が最も信頼されているお方だった。そんな方が唐突に身罷られて陛下はお心を痛められ、戦地にいる山縣さんが気になって呼び戻したのだ」
私も六十近く極寒の満州は体に堪えるだろうからとの配慮らしい。正直なところ余計なお世話であるが何も言わないでおく。
そして帰国した私に対してはちゃんとポストが用意されていた。何とびっくり軍務大臣である。前任者の榎本は退任。内務大臣には黒田清隆が就任した。薩摩閥を入れておきたい大久保の意向である。黒田か樺山(資紀)かと言われれば酒乱の方がマシだ。
この人事に伴って内務大臣を退任した信吾は有栖川宮熾仁親王の薨去により空席となっていた参謀総長へ異動となっている。小松宮彰仁親王が後任と目されていたが、陸海軍交代の原則に反することから信吾に白羽の矢が立った。また、小松宮は直隷決戦に備えて設置される予定の清国派遣軍(史実の征清大総督)司令官に内定していることも影響している。
「近いうちに陛下からお召しがあるはずだ」
心しておけと言われた。いやまあ召し出されるのには慣れているので問題はない。戦地の将兵と苦楽を共にするという信念から、わざわざ東京からここ広島へ移動している。そのため大本営や議会などの首都機能も移転していた。「広島大本営」という状態である。
「ところで、講和はどうなっているのですか?」
陛下のお召しはともかくとして、私が軍務大臣に据えられたのは講和と戦後処理に噛ませるためだというのは聞いた。それだけだと漠然としているので、具体的に何が求められているのかを聞いておきたい。
「近く正式な講和交渉が行われる」
「ほう」
それを聞いて少し前のめりになる。一月にも第一回目の講和交渉が行われた。だがそれは正式なものになっていない。清国が派遣してきた使者が全権委任状を持参しておらず、また送られてきたのも日本でいうところの省の次官と県知事レベルの人間だった。ゆえに日本は彼らを門前払いした。
全権を与えられていない上、小物である使者と講和を合意したとしても清国でひっくり返される可能性が大いにある。そんな懸念がある以上、交渉に応じるわけにはいかなかった。ただ、列強はこれを日本が戦争を引き延ばすための策と考えて非難してきたが。
とはいえ遼東半島、威海衛と占領されて今度また澎湖諸島に台湾が落とされたことが伝わると清国は戦争継続の意思を失った。
「清国は李鴻章を派遣すると言ってきた」
「李鴻章が来るなら相手も本気ということですね」
「ああ」
皇帝をも凌ぐ権勢を誇るのが李鴻章だ。旅順失陥の責任を問われて直隷総督および北洋大臣を解かれていた。しかし、講和をまとめられるのは李鴻章しかいない、というのが清朝における主戦派さえも認めるところであった。
「交渉は李鴻章の立場を鑑みて赤間関(下関)で行うことにした。前回と同様にわたしが全権。次席には陸奥外相がつく。ただ、山縣さんには知恵袋として同行してもらいたい」
「承りました。ただ、ひとつだけお願いが」
「何だ?」
「関門の警備を引き受けさせてください」
私の脳裏に浮かんでいたのは大津事件である。ニコライ二世が襲撃されたあのような事件が起こらないとは限らない。外国要人、しかも交戦国の人間だということで警備は厳重にしておくに越したことはない。
「しかしそれは警察、内務大臣の権限だが?」
「戒厳を行います」
戒厳令に基づく戒厳を敷けば軍がその地域をコントロールすることができる。既に広島市と宇品には戒厳が敷かれているが、こいつを拡大してやろうとの提案だった。
「大津の大失態を私は忘れられません。指示の意図が間違って伝わっていたばかりか、護衛者が対象に危害を加えるとは」
そもそもが適当な人員に任せていたのが間違いだったのだ。会場警備くらいならともかく、要人の警護にあたっては身辺調査なども踏まえて選抜された人員が必要になる。だが、金欠や多忙により制度化できておらず、もちろんそんな人材はどこにもいない。なので戒厳の下で警察権を押さえ指導する。問題は軍事関係ないことだが、関門海峡を通過する輸送船の保護とか何とか適当な理由をつければいいだろう。
「さすがに呑めない」
却下されてしまった。それでも大津事件のトラウマは彼の脳裏にも焼きついているらしい。忌まわしい記憶に蓋をしていたが私の指摘で思い起こし、懸念は最もだということで黒田とともに警備には万全を期すべしと言われた。職権外だから何をしろと言うのかと思ったが、現地警察を「指導」できずとも「助言」はできると言われる。黒にならないグレーな範囲でやれということだった。この点、大久保は意外に柔軟で融通が利く。ありがたくそうさせてもらった。
「早速ですが赤間関に行ってきます。俊輔ほどではありませんが、あそこは私にとって庭みたいなものです」
馴染みがある上、海(嫁)の実家があるところなので地理はよくわかっていた。土地勘があるからどこが危ないとかどこがいいとかは知り尽くしている。大久保からも細かな点は任された。
張り切って赤間関へ行く準備をしていたところに陛下からお召しがあった。事前に聞かされていたので驚きはなく、急いで準備を済ませて拝謁した。
「よく戻ってきたな、山縣」
「はい。陛下の大御心を拝戴し、将兵一同とも一致協力、戦果の拡大に努めております」
そう答えると天皇は満足そうに頷いた。戦地はどうだったか、不便はなかったかなどとしばらく質問攻めされる。それらにひとつひとつ答えていった。
「結局のところ、我が軍の苦戦要因は敵ではなく自然でした」
そのように総括する。実際、敵にそれほど苦戦はしなかった。ゼロではないが、その主な要因は奇襲であったり補給の枯渇。補給が枯渇したのは輸送路が確保できなかったからで、軍に道路や鉄道を建設する力がなかったからだ。戦後はこの反省を活かし、インフラ改善を行う部隊を創設したいと述べる。
「うむ。兵たちが苦労しないよう心がけよ」
天皇は何かあれば自分を頼れ、と言外に後援を約束してくれた。君主として兵士のことを考えており、彼らのためになるのならという思いから出たのだろう。
その後も戦地での話が続いたが、話のなかでしばしば自分は健康ですアピールをする。零下にもなる厳しい環境で寒空の下、兵士たちと日々過ごしたけれども風邪ひとつ引かなかった健康体だと。さらには兵士たちに交じって雪合戦もしてきましたと報告もした。ジジイが何やってるんだという話だが、男はいつまでも少年の心を忘れないのである。
与太話はさて置いて、私の言葉から何となく言いたいことは伝わったらしい。別れ際、天皇から清国派遣軍の司令官になるかと打診された。小松宮が内定しているがあくまで内定。変更は可能だ。しかし、私はそれを断った。
「陛下もお聞き及びでしょうが、既に講和へ向けて動いております。私は大久保総理の後援に努めたいと思います」
「そうか」
と頷いた。そして別れ際に本音を溢す。
「此度は不幸な行き違いがあったが、清国は日本にとって長年の先達。西洋列強とは違った意味で大事な国だ。仲よくしたいものだな」
天皇はそれ以上何も言わなかった。しかし、そのご意志をしっかりと受け取って深々と礼をした。
帰国は海も知っている。しかもタイミングがいいことに、第四師団に所属する長男の誠が出征するのを見送りに来たついでに故郷の赤間関にいた。私もすぐさま赤間関へ向かう。
「おかえりなさい!」
わざわざ港まで出迎えに来てくれた海。だが驚きはない。むしろ予想通りの行動だった。
「ほら、無事に帰ってきたぞ」
「別に旦那様のことは心配してないわよ」
信頼の裏返しであるが、字面だけとれば酷い話である。
「誠なら大丈夫だ。私の子だぞ?」
「そうだけど……」
父親が戦場に出て無事だったからその子も大丈夫……とはならない。有名なところだと乃木希典と息子たちだろう。乃木は無事だったが、息子たちは日露戦争で戦死している。気休めでしかなかった。母が子を思うのは当然だが、私に配置換えを懇願するようなことはなかった。実現できるだろうけどもされたら断るが……それくらいの分別はあるらしい。
「まあ好き嫌いして病に罹らなければ無事に帰ってくるさ」
明治陸軍の頭痛の種だった脚気。これについては石黒忠悳や森林太郎(鴎外)といった面子は早々に追いやって(待命予備役にして)高木兼寛を軍医部門のトップに据えている。脚気は発症原因がわかっておらず、伝染病であるとか中毒だとか栄養欠乏だとか言われていた。史実の陸軍では伝染病説が定説だったのに対して、海軍は早々に栄養欠乏説をとって患者数を劇的に抑制している(対策として導入した麦飯を止めたので後になって再発してしまうのだが)。その主導者が高木であった。
現世でも伝染病説が支持されていたが、高木を私が後援する形で栄養欠乏説をゴリ押して人体実験を行う(主菜と副菜を揃えた上で主食を白米か麦飯かでグループを分け脚気の発症率を比較した)。その結果から軍全体で麦飯を採用。陸海軍で脚気の発症者は激減した。数少ない発症者も提供された麦飯を嫌ってあまり食べていなかった者だった。
「あの子は別に好き嫌いをしないけれど……」
なぜそんなことを? と顔に書いてあった。講和の動きに関しては秘密なので周りに知られないよう声を潜め、耳元に口を寄せて囁く。
「もう少しで戦争が終わる」
「それ本当!?」
「ああ」
だから協力してくれ、と海を促した。地元であり、かなりのお転婆だった彼女なら私の知らないことも知っているだろう。こうして海の協力を得て赤間関での警備計画を立てていった。
主務大臣の黒田はこの件について私の行動を黙認することにしたようだ。あるいは大久保から何らかの通達があったのかもしれない。ともかくたまたま赤間関に里帰りした私が現地警察に請われた、という建前で警備を手配する。そうこうしているうちに三月十九日を迎えた。
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