朝鮮上陸
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高陞号撃沈のニュースは日英をざわつかせた。イギリスは高陞号が撃沈されたことに激怒する。まあ自国の船が沈められたらそうなるのも無理はない。外交筋からブチギレされたとの報告が上がった。要はどう落とし前つけるんじゃゴラァ、と恫喝されたのだ。どう対応するか日本は対応に苦慮する。
「利根の艦長は東郷。イギリスに留学しているし、わかってやったのだろう」
大久保は同じ薩摩出身ということで東郷のことは知っており、理由があるのだろうと庇う姿勢を見せた。だが全員がそうではなく、今すぐ処罰してイギリスに誠意を見せなければならない、という者も少なくない。
「山縣さんはどう思う?」
第一軍司令官に内定し、朝鮮渡海の準備を進める私のところに大久保がやって来た。元武士なので軍事に多少の理解はある。だが、最新の知識はない。なので現役の私のところに来たという。幸い、その答えは持ち合わせていた。
「詳しい経緯はともかく、事実関係から見て利根の処置は合法的なものです」
日本は期限付きの最後通牒を送り、清国はそれに無回答であった。この時点で国際法的には日清は開戦という扱いになる。さらに通牒中に日本側がするな、と警告していた朝鮮への清国兵の輸送行為を行っていたことがイギリス船員の口から証言された。高陞号が抑留に応じない以上、撃沈もやむなし。
「とはいえ、通牒の件はおそらく英国の関知するところではないでしょう。この内幕を明かせば彼らも納得してくれるのではないでしょうか?」
国際法は彼らが定めたルールである。その範囲内でやった行為なのだから非難される謂れはない。国としては堂々としているべきだと助言した。
「わかった」
大久保は感謝する、と言って席を立つ。早速、仕事に行くようだ。
その後、この件は急速に解決する。日本政府はイギリスに対して日清間の外交交渉を公開。回答期限までに音沙汰なく、両国は戦争状態に突入した。利根は高陞号を抑留すべく尽力したが清国兵の妨害に遭って逃走される危険があったため、やむを得ず撃沈した。国際法に照らしてこれは何ら問題はないと考える、と毅然と対応。これにはイギリス政府も返す言葉がなかった。
これだけでも十分なのだが、私は個人的に手を回してイギリスの新聞社に政府間交渉の中身をリークした。ジョニーや倉屋を通してイギリスとはパイプがあるのでそんなに難しいことではない。トクダネを貰った新聞社は学者に取材して国際法上何も問題がないとの記事を書き上げた。事実上、日本を擁護する記事である。
事の次第が明らかになるとイギリスの世論の怒りも収まった。それどころか、そのエネルギーは清国へと向かう。日本側の警告を無視して兵士を輸送していたことが露見したからだ。明らかに清国の落ち度であり、非難の矛先はそちらへ向かう。
海ではひとまず日本が勝利した。では陸はどうだったかというと、朝鮮国王から牙山の清国軍を撃退してほしいとの要請を受けた日本軍が進発。成歓へと移動していた清国軍との戦闘に突入した。
敵に夜襲を仕掛けて撃退されるものの、その後の戦闘では日本軍が清国軍を圧倒。五〇〇名ほどの死傷者を出した敵は武器装備を放棄して北へと逃亡した。日本軍の死傷者は百にも満たなかった。
敵兵四〇〇〇弱、味方五〇〇〇余とほぼ拮抗しているため、なかなかチャレンジングな戦いだった。しかし、これには理由がある。先に周辺偵察が行われており、北部の主要都市平壌に清国軍およそ一万が集結していることが判明。このままでは挟撃される恐れがあり、大本営は部隊(第五師団の残りと第三師団)を送り込む一方で南部の敵を急ぎ撃破せよと命じたのだ。
史実では急な派兵で補給に苦しみ、大隊長ひとりが責任をとると割腹自殺する騒ぎとなった。だが、現世では補給には苦しんでいるものの自殺者を出すまでには至っていない。それは派兵に際して宇品に保管されていた戦闘糧食をありったけ持たせたからだ。
予算の削減や配分の関係で備蓄は思うように進んでおらず、海軍のものを融通してもらってどうにか数を揃えた。部隊からはまともな飯を食わせろと文句が出たが、これが彼らを救う。
武器弾薬はともかく、食糧は人足を雇って運ばせることにした現地部隊。ところが人足を徴発しても逃亡してしまうので食糧はほとんど運べなかったらしい。嫌々ながら持たされていた戦闘糧食をありがたく召し上がったそうだ。
なお命令に違反して携行していない者もおり、同僚に仕方なく分けてもらって飢えを凌いだとか。その話が伝わり、戦闘糧食は絶対に持ち運べと固く言い伝えられるようになる。
成歓の戦いが終わると日本軍は漢城へと凱旋した。これを大鳥公使や日本居留民、朝鮮の官吏たちが出迎える。だが、平壌の清国軍という脅威は未だ健在であった。その存在を知った大院君は動揺。先に現地入りした第五師団長の野津道貫中将は平壌に拠る清国軍との決戦を上申した。
大本営はこれを承認し、増派される部隊と連携して作戦にあたるよう指示した。九月一日付で第三、第五師団を隷下に持つ第一軍が編成され私が軍司令官となった。
「じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい。お気をつけて」
「お父様、頑張って」
「おう」
司令官とはいえ、戦争に行くのだからもうちょっとしんみりした空気になるものじゃないかと思うが、うちの家族は違った。私が指揮するんだから勝てるに違いない、と思っているので悲壮感ゼロ。なんなら早く帰ってこい、とまで言われた。出張じゃないんだぞと思ったが言ったら最後、母娘の機嫌を損ねることは確実なので言わないでおく。
妻と娘に見送られながら愛馬のヴァルトラウテに跨り自宅を出た。東京から宇品までは列車で一本。途中から山陽鉄道の路線に乗り入れるが、国庫補助を与える見返りに規格を東海道線と揃えさせているため直通運転を行っている。
名古屋では出動する第三師団の将兵が乗り込んできた。師団長を務めるのは私子飼いの四天王のひとりである桂太郎。幕僚たちと同じ車両に乗り込んできたので話をする。話題はもちろん朝鮮での戦いについて。
「第五師団の野津からは早期に平壌の清国軍を撃破すべし、との上申があった。川上や児玉とも話したが、早急に清国軍を朝鮮から駆逐することにまとまったよ」
「わかりました。……ところで、最近よく西へ軍用列車が走っていますが、何かあるのですか?」
「それは多分、糧食を輸送する貨物列車のことだろう」
宇品に備蓄されていたものは全て第五師団に持たせた。呉にあった海軍のものも融通してもらって数を揃えたので在庫はゼロ。今回さらに第三師団も出征するということで、東日本にある戦闘糧食を急ピッチで輸送している。
「あれですか……。正直なところ苦手です」
「まあ美味くはないな」
戦闘糧食はお世辞にも美味しくない。兵士による浪費抑制のために味を落としていると言われているが、この時代はもっと別の理由がある。それは技術的な問題だ。缶詰は調味料の他に金属の味がする。現代でもするときはするから、この時代では尚更だ。
「できれば普通の食事がしたいですね」
「それはなかなか難しいぞ」
私は倉屋の社員から聞いた話をする。
倉屋は朝鮮から穀物の買い付け、その輸送が業務のひとつであった。だから朝鮮の風土にはそれなりの知識がある。聞いたところによると道路は劣悪。農村は両班の収奪によって疲弊し、余剰の作物はあまりないという。
「第五師団では人足を雇っても逃亡したため、補給に難渋したそうだ」
そこで活躍したのが厳命して持たせた戦闘糧食。忙しいときは糒や乾パンに缶詰、余裕があれば飯盒で米を炊いて缶詰を主菜に食べる。兵士の背嚢に入るだけだが、人足に頼らず食糧を確保することができた。
「そういう事情なら致し方ありませんな」
桂も戦場で贅沢は言わない、と理解してくれた。まあ美味しいものを食べたい気持ちはわかるが、戦場という極限環境で食べられるだけありがたいと思わなければならないだろう。腹が減っては戦はできぬ、とも言うし。
なお、当然ながら戦闘糧食の在庫がいよいよ払底しつつあるため増産が行われている。戦時なので文字通りの大量発注だ。工場は需要に応じるためフル稼働。缶詰業は早々に戦争景気の恩恵に与っていた。
宇品からは輸送船に乗って海を渡る。気を遣われたのか偶然か、倉屋が建造・運用しているものだった。瀬戸内海では警備程度に旧式艦(連合艦隊に編入されていないもの)が随伴し、関門海峡に入るところで第二艦隊から分派された宇治型巡洋艦以下が合流。彼らの護衛を受けて朝鮮半島に向かう。
リスクヘッジのために桂とは別の船。また上陸先も仁川と元山に分ける。南と東から平壌へ向かう格好だ。
私たちが到着する前、八月末に日本は朝鮮との間に大日本大朝鮮両国盟約を結んだ。三箇条の簡素なものだが、日清戦争にとっては重要な意味を持つ。内容は、
・清国を朝鮮国外へ追いやって自主独立を確立する
・日本はその援助を行うので、朝鮮は日本軍に対して援助すること
・清国との和平が成った時点でこれを破棄する
という三点だ。これで日本は「朝鮮を清国の支配から解き放つ解放者」という大義名分を得る。逆に「清国は追放されるべき支配者」とのレッテルが貼られた。自分たちは何のために戦っているのかを明らかに、そしてそれが正義の行いだと正当化して将兵を鼓舞するのはよくある手法である。
さて、仁川に上陸した私はそのまま漢城に入って半月前に来ていた野津から戦況の説明を受ける。それによれば第五師団は既に北部へ守備隊(一個連隊)を派遣。朔寧と元山を押さえていたが、後者は第三師団の到着に伴って前者へと合流させるという。
「第三師団と協同し、南と東より迫って平壌の敵を包囲することを狙います」
「よろしい。ただ、偵察は入念に。徒に被害を出してはならない」
成歓の戦いでは伏兵に不意を打たれて損害を出している。さらに牙山に敵主力がいるものと思い込んでいたが、実際には既に移動していたなんてこともあった。いずれも情報不足であり、偵察はしっかりするように伝える。
とはいえ、戦闘面はあまり心配していない。そんなことより問題は補給だ。現場の部隊からも何とかしてくれと言われている。物資がないわけではない。揚陸地点の仁川には物資が山と積まれていた。これをどう戦場へ運ぶかだが、幸いなことに戦時編成をとった師団が来たことで多少はマシになる。
師団には各種の特科隊が付属しているが、そのなかに輜重兵大隊というものがあった。これはいわば補給部隊であり、物資輸送の監督と護衛などを行う部隊だ。史実では日清戦争の終わりから運搬用装備(といってもほぼ大八車)が採用されるなど立ち遅れていた分野だが、現世では大幅に増強されていた。
現地民が使いものにならないことはわかっていたので、それを見越して戦時編制では輜重兵大隊に徴兵で弾かれた者(補充兵役)が召集されることになっている。また砲兵隊に匹敵する馬匹も備え、輜重兵大隊は大八車や馬匹で前線へと物資を運ぶ。彼らが来たおかげで、現地の人夫に拠る部分は少なくなるだろう。
九月十五日を期して総攻撃をかけることに決まり、各部隊は攻撃発起点を目指して進軍する。南から迫る第五師団は大同江南岸、第三師団は平壌北方に到達。包囲される形となった清国軍だが、撤退する気配はなし。
両師団は攻撃準備に取りかかり、敵の士気を挫くための準備砲撃が行われる。砲弾は兵士にとって恐怖の対象だ。それは対砲レーダーなんてものが登場した現代戦においても同じで、近代戦でも変わらない。
「前進ッ!」「突撃せよ!」
来たる九月十五日、平壌への総攻撃が始まった。包囲の輪を縮める形で攻めるが、主攻は第三師団が担うことになっている。これは南部からだと渡河戦闘となり不利だから。南は陽動で本命は北となっていた。野津と桂が攻撃を命じる。
南部からの攻撃は予想通りかなり厳しい。朝六時から正午にかけて攻撃を続けるも、敵の防御を突破できず跳ね返された。あくまで陽動だからと無理押しはせず、午後に入って撤退を開始。一部、渡河に成功した部隊も下げている。見切りをつけるのは早かったが、それでも死者一四〇名とこの戦いにおける戦死者の大半を出した。
他方、北から迫る第三師団は比較的順調。まさかのガトリング砲に遭遇。ならばとこちらは機関銃と大砲(野砲よりもやや射程が短い山砲)で対抗して敵の堡塁を陥落させる。平壌からは二〇〇ほどの敵が襲撃してきたがこれを撃退――したらとんでもないことが判明した。
戦死者のなかに敵司令官のひとり左宝貴がいたのである。報告を聞いて驚いた。そのままにしておくのも忍びないため戦死したところに埋葬して墓標を立てる。異例の対応だが、これには理由があった。第一は政治的なアピール。主に列強へ、日本は敵将を弔うほどモラルが高いんですよ〜。近代化できてますよ〜、とアピールするのだ。その先に目指されているのはもちろん条約改正である。そして第二は単に左宝貴が弔うに足る人物だから。
「立派な大人物だ。丁重に弔ってやれ」
何かを成したわけではないが、捕虜の話によると左宝貴は日本軍が包囲機動をとるのを見て撤退しようとする清国軍司令官のなかでただひとり、平壌に残留することを主張した。相手は匪賊とは違う。近代化した軍隊には敵わないことを証明すべき、と言ったという。
物事を冷静に見れているだけでも立派である。また、それを知りつつ軍人として戦わなければならなかった悲劇性は日本人の心を擽った。
墓標には私が碑文を刻んだ。「清将左宝貴ここに眠る」と。戦いの後、全軍の主要な幕僚を連れて墓参りし、その場で彼の発言を紹介しつつ訓示する。
「左将軍の墓標は我々への戒めでもある。過去は過去、今は今。過去の栄光に頼らず現在を見つめ、冷徹に状況を判断せねばならない」
日中戦争がその最たる例であろう。日清戦争での体験と日露戦争の勝利から中国は弱い、勝てると安易に断じて戦争に入って泥沼に嵌まった。その後の太平洋戦争でも現状を冷静に見ていた者は排除されている。そういう姿を左宝貴に見た私は墓で弔うとともに仲間を戒めた。
話を平壌攻略戦に戻す。
北西部にいた第十六連隊(豊橋)は平壌から出撃した敵騎兵と遭遇した。その突撃を受けるも機関銃を含む銃砲撃によってこれを破砕。撤退する敵は近隣の日本軍から猛烈な射撃を受けてほぼ全滅したという。
昼になって戦況が落ち着くと、日本軍は現在地にて野営の準備にかかった。ところが夕方、突如として平壌に白旗が掲げられる。軍使が送り込まれてきて開城すると伝えられた。
野原で寝るより屋根のあるところで落ち着いて寝られる方がいい。日本側は即時の開城を求めたのに対して、清国側は折りから雷雨となったのを言い訳に翌日でと言う。
これを聞いた現地の野津と桂は、
「怪しいな」
「警戒を怠るな」
清国側の対応を疑問に思い、欺瞞ではないかと逆に部隊へ警戒を命じた。宿営はするものの、歩哨を普段よりも多く立てて夜襲を警戒させる。
果たして雨が止んだ午後九時、清国軍が平壌から一斉に出てきた。ただ警戒していた夜襲ではなく夜逃げである。だが我々には関係ない。待ってましたとばかりに銃砲撃を食らって大損害を出しながら北へと逃げていった。
清国軍がいなくなったことから周辺の日本軍は平壌へと入城する。そこには清国軍の物資が多く残っており、食糧が兵士たちに振る舞われた。戦闘糧食ではない普通の食事は久しぶりであり、とても喜ばれたとか。
「少しは余裕ができたな」
計算すると半月分くらいの量になり、しばらくはこれで食いつなぐことができると私たち指揮官は安堵した。
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