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開戦前夜

 






 ――――――




 私はとある人物を訪ねて横浜に来ていた。


「岩田くん。本当に行くのかね?」


「はい、閣下。既に決めたことです」


 岩田秋作――名前も容貌も日本人だが、いざ話すと感じるおかしなイントネーション。そう、彼は日本人ではない。岩田秋作というのは偽名で、本当の名前は金玉均という。朝鮮の親日派、独立党の幹部であった。


 甲申事変で閔妃政権打倒を目指すも失敗。日本に亡命していた。だが、当時は甲申事変に関与したのではないかと朝鮮と清国から詰められ、日本は苦しい立場にあった。事実、朝鮮公使が金たち独立党の計画に乗って軍隊(公使館の警備兵)を引き連れ王宮へ乗り込んでいる。言い訳に忙しい政府としては彼らを堂々と迎え入れることはできない。


 そんな政府に代わって亡命した独立党のメンバーを迎え、支援したのが福澤諭吉をはじめとした民間だった。福澤といえば所謂「脱亜論」のイメージが強いが、元々彼は熱烈なアジア主義者である。


 アジア主義というのは日本、中国、朝鮮の三ヶ国が団結して欧米列強に立ち向かおうという考えだ。日本で明治維新ができたのだから東アジア世界の盟主である中国、日本と同じくその構成員である朝鮮にできないはずはない、と両国の開化を願っていた。甲申事変もかつての禁門の変くらいの認識で、逃げてきた金らを支援している。


 私も個人として金たちを支援していた。朝鮮を確保したとき、彼ら独立党のメンバーは役に立つ。そのための先行投資だ。しかし、焦燥感に駆られる金は現状がもどかしいようで、清国へ行って李鴻章に直談判すると言い出した。私は危険だから止めておけと言ったのだが、金は聞き入れずこれから上海へ向かう。


「そうか……くれぐれも用心しろよ」


 清国や朝鮮には諜報部の活動拠点がいくつか存在した。しかしこれは国のものであるから、個人的な活動に使うことは許されない。できることは日本滞在中に便宜を図ることくらいだった。


 大丈夫かな? という懸念は残念ながら的中する。渡航先の上海で日本から同行していた洪鍾宇という人物に殺害されたのだ。遺体は朝鮮へ運ばれる。物言わぬ死体を裁判にかけて死刑宣告。凌遅刑の後、バラバラにされて各地に晒された。この情報はすぐさま日本にも伝わり、特に金たちを熱心に支援していた福澤は激怒したという。


「今、我々は条約改正に臨んでいるわけですが、西洋人がなぜ領事裁判権を要求したのか、今になってその気持ちがわかりました」


 部下の内務官僚と雑談していると金の末路が報道され、その残忍さに世論が憤慨しているという話になった。そして条約改正に触れて西洋人の気持ちが理解できると言う。


「当事者だとわからないものだが、こうして外から見ると確かにそう思えるな」


 私もそれに同意した。まだまだ至らないところは多々あるが、それでも近代国家といえるくらいにはなった。江戸時代にあった磔や梟首なんてもう行われていない。想像すると身の毛がよだつ。西洋人も見下す一方、本能的な恐怖もあったんだろうなと今なら思えた。


 金のことは残念だったが死んでしまった以上はどうしようもない。切り替えて開会が迫っている議会対策を、と思っていたときにそれが起こった。


 朝鮮で大規模な農民反乱!


 その一報が飛び込んできた。農民反乱は甲申事変以後、朝鮮では珍しくもなくなっている。だが、今回はその比ではないという。


 きっかけは汚職だった。税金の横領を民衆が告発したが、朝鮮政府は腐敗が酷く賄賂などが動いた結果、告発した民が処罰を受けるという事件が起きる。もう我慢ならん、と民衆が蜂起した。その中心となったのが東学党であった。


 東学党は十九世紀半ばに生まれた新興宗教であり、簡単な呪文を唱えれば救われると説いた。その容易さから朝鮮半島南部で爆発的に広がる。また包接制度によって組織化されて統率がとれていた。何となく見覚えあるなと思ったら、中世の浄土真宗だ。ということで雑に説明すると東学党は朝鮮版浄土真宗である。


 ただ、彼ら東学党は当時の朝鮮政府における派閥――衛正斥邪派(儒学派)、開化派(洋学派)からも弾圧された。教祖は処刑され、支持者は取り締まりに託けた収奪に喘ぐ。それゆえの武力蜂起だった。


 三月に蜂起した東学党はたちまち数万人に膨れ上がり、鎮圧に来た政府軍を圧倒。五月に全州を制圧する。かつて百済の時代に都が置かれた場所で、日本でいうと奈良が制圧されたようなものだ。大規模な反乱に朝鮮政府は早々に匙を投げ、宗主国の清国へ鎮圧を依頼した。


 清国はこれを受けて派兵を決定。天津条約に基づいて日本側へこのことを通告してきた。それより前、朝鮮駐在の外交官から朝鮮が清国へ援軍を求める動きがあり、日本も対抗する必要があるとの報告が入る。


「天佑だな」


 これを知った政府の面々は色めき立つが、大久保はひとりそんなことを呟いた。たしかに政権にとって天佑――天の助けだ。なぜなら第六議会において政府は瀬戸際に追い込まれていたからである。


 条約改正交渉は大詰めを迎え、最終の条約案を閣議決定した。だが、議会においては硬六派による内閣弾劾の上奏案が可決。大久保は内閣総辞職か再度の議会解散かを迫られていた。特に硬六派からは政府の外交姿勢は弱腰であるとの非難を受けている。国内的にそんなことはない、と示すためにも強く出る必要があったが、その絶好の機会が訪れたのはまさしく天の助け。


「朝鮮における大規模な反乱は鎮圧の目処が立たないとのこと。在鮮国民を保護するため、また朝鮮における帝国の位置を固守するため派兵を行う」


 居留民保護に加え、反乱軍との交戦をも想定していた。石ころひとつでも投げられれば自衛行為として鎮圧に動いて朝鮮に恩を得る。甲申事変以来、朝鮮における日本の影響力が低下している。派兵は勝負手であった。


「しかし、賊は数万を数えておるとか。かなりの兵力を投入せねばなりますまい」


 大久保が派兵を口にすると、すかさず陸奥が大規模派兵を提言。これに大久保も乗る。


「外相の言う通り。高島(鞆之助)陸軍部長、どうか?」


「動員をかけた一個連隊(戦時編成)を基幹とする戦闘団が適当と考えます」


 ただ、高島は軍令を扱う参謀本部から報告させることを求め、これが認められて閣議に参謀総長(有栖川宮熾仁親王)と陸軍参謀次長(川上操六)が出席。川上より規模は妥当との回答を得て、派兵規模が決定された。


 同時に議会に対する方針も決まり、解散して時間を引き延ばすことになる。解散中に条約を締結して既成事実化し、また朝鮮や清国相手に強く出て弱腰批判を躱すという方針をとることになった。その裏には大久保の開戦意思が隠れていたが、それを知る者は少ない。


 国外での戦闘であり、また事態がエスカレーションすれば朝鮮や清国との交戦となることも考えられる。そんな言い分で戦争指導の機関として大本営(前年に制定された大本営条例に基づく)を設置した。名前は仰々しいが、戦時になって参謀本部に色々なものがくっついただけだ。具体的には天皇、関係閣僚(首相、軍務と陸海軍部長、外務)である。


 その大本営より広島の第五師団に対して順次、動員が命じられた。全軍の先鋒として派遣されるのは歩兵第十一連隊を基幹とした連隊戦闘団である。歩兵連隊に師団の各種特科隊が付属して兵力はおよそ五〇〇〇。宇品より輸送船に分乗して仁川を目指す。


 海軍については福建省沖を航行していたり、ドック入りしていたりと各艦がバラバラに行動していた。なにせ急なことだったので仕方がない。これらに集結命令を出しつつ、たまたま佐世保に停泊していた金剛、比叡を朝鮮へ先発させる(帰国していた公使の大鳥圭介を送り込むため)。


 このように派兵の決定や作業はスムーズに行われたが、陸奥は外交的に日本が前のめりになるのは拙いと考え通告を遅らせていた。その考えは清国も同じで我慢比べが行われ、日本側が勝利する。先に清国から通告が行われ、奇遇だねと日本側も派兵通告を行った。


 日清両軍は数日のうちに朝鮮入りした。清国軍は漢城ソウルの南にある牙山におよそ三〇〇〇が展開。日本軍は漢城に先発隊一〇〇〇、仁川に本隊の四〇〇〇が屯していた。


 ところがここで日本側にとって大きな誤算が生じる。朝鮮政府と東学党が停戦したのだ。膠着状態に陥ったためで、また数千の外国軍を国内に置いておくよりは反乱軍の言い分を多少呑んででも帰ってもらおうという朝鮮政府の至極当然の判断からだった。


 困ったのは日本である。朝鮮からは反乱は片づいたとして撤退を求められていた。俊輔などは閣議で撤退を提言したが、陸奥がそれはできないと拒否する。


「もし手ぶらで帰るようなことがあればこの政権はおしまいです!」


 シュミレーションゲームではないから、軍隊を動かすだけでもかなりの金がかかっている。こんな大軍を送り込んでおいて何の成果も得られませんでした! なんて言った日には政府批判の嵐となるだろう。


 また外交的にも拙い。清国は朝鮮政府の正式な依頼を受けての派兵なのに対して、日本は居留民保護を名目としている。つまり日本が勝手にやっただけ。報酬なんて出ない。このまま何もしなければ清国が朝鮮への影響力を強めてしまう。


「……外相の言う通りだ。それに和平したからといって予断は許さない。今しばらく駐兵させよう」


 大久保はいつもの厳しい顔で陸奥を支持。事情はわかるので俊輔もそれ以上は何も言わなかった。


 かくして日本は朝鮮政府の撤兵要求を黙殺。清国も日本が退かない限りは退けない、と駐兵を続けたので両軍は朝鮮国内で睨み合いとなる。無視した側だけれども、朝鮮には小国の悲哀を感じた。まあ、帝国主義の時代に限ったことではないけれど、いつの時代も力がすべてだ。


「さて、ここからどうするか……」


 平然としているように見えるが、本音のところでは大久保もかなり苦しい。チャンスと見て勢いよく派兵を決めたはいいものの、細かいところはノープラン。後は流れで何とかなるだろと思ってたら何とかならなかったという最悪のパターンだった。


 だが、さすがは明治維新を実現させた人物。何日か考えて策を考えてきた。それが朝鮮への内政改革の要求だ。ここ数年ほど反乱が頻発し、朝鮮において活動する日本人の安全に懸念が生じている。今回の大反乱を機に根本原因を正すべきであり、日清両国は共同してこれにあたろうというものであった。これを清国に提案するとともに、その実現までは撤兵できないと言って派兵を正当化する。


 現状、朝鮮に展開する兵力はこちらが優勢。今のうちに開戦して緒戦を有利に進めたいところだと思っていると、清国の日本公使館から急報が飛び込んでくる。五〇〇〇余の部隊が増援として送り込まれようとしているというのだ。


「これは由々しき事態です」


 陸奥は朝鮮における数的優位が崩れてしまうとし、更なる増派を提言した。これは御前会議での発言であり、天皇はこれに懐疑的な意見を述べられる。


「……朝鮮は今のところ落ち着いている。清国が増援を出す理由はないだろう。虚報なのではないか?」


 実際その通りだったのだが、それはあくまで結果論。万が一があるといけないという理由で追加の一個連隊(丸亀の第十二連隊)が渡海した。


 ここまで日清間で進められてきた外交だったが、ここにきて列強から介入を受ける。絡んできたのはロシアとイギリス。ロシアは清国が働きかけた結果で、イギリスはロシアへの対抗からの行動だ。


 六月末にロシアから撤退の勧告がなされた。もし何かあればその責めは日本が負う、とかなり強い態度をとっており、さすがの陸奥も慌てた。だが、少ししてロシア公使からロシアの干渉はないとの報告が上がる。ロシア政府としてはドイツと対峙しているなか極東で火遊びしている暇はないと判断したらしい。実際、以後は何も言ってこなかった。


 一方、イギリスからは仲介の提案がなされる。時間を稼ぐにはもってこいだとこれに乗り、朝鮮の内政改革を求めた。しかし、これを伝えられた清国は撤兵が先だと拒絶する。清国は西太后と光緒帝とが権力争いをしていたが、光緒帝側は「反日愛国」をスローガンに開戦も辞さない態度をとった。西太后と彼女に連なる李鴻章もこれに表立って反対はできず、開戦へと向かっていく。清国の強硬姿勢によってイギリスの仲介は破談となった。


 朝鮮問題は難局に直面していたが、ここで最大の懸案が解決する。すなわち七月十六日、日英通商航海条約の調印だった。イギリスは調停を諦めたらしく、「上海の権益に差し障りのない限り日清の事情には関知しない」ことを伝えてきた。イギリスのお墨付きを得たということで、日本はより大胆な行動をとる。


 同月十九日、日本は清国に対して要求を行う。五日以内に朝鮮の内政改革と撤兵問題について提案を送れ。この間に朝鮮へ援軍を送った場合、それは我々に対する脅迫と見做す、というものだった。もの凄く持って回った言い方だが、シンプルに言えばボール投げ返してこい。もし助っ人呼んだら戦争だぞ、という最後通牒に等しいものだった。


 また、朝鮮公使の大鳥も活躍する。六月から国王の高宗に謁見し、彼から「朝鮮は独立国」という言質をとっていた。条約改正が成ると、陸奥は大鳥に対して日本の立場を不利にしないよう注意した上で、朝鮮における行動を委任する。戦争の大義名分を作れという命令だった。


 これを受けて大鳥は二十日、高宗に対して朝鮮が独立国なら「属国を保護する」と言って来ている清国軍は問題だから出ていくよう要求せよ、と迫る。回答期限は二日後であり、朝鮮からは期限ギリギリになって「撤退を求めている」との回答があった。だが、大鳥はこれを「緩い」のひと言で一蹴。二十三日、日本軍に王宮を囲ませて圧力をかけた。その時である――圧力に耐えかねたのかわからないが、王宮の守備兵が日本軍へ発砲したのだ。これを大義名分にして日本軍は王宮を制圧した。


 日本に保護(?)された高宗は態度ガラリとを変える。内政改革を実行するとし、閔妃政権の要人は解職。さらに大院君を執政に据えて改革にあたらせる。大院君はかつて親清派だったが、壬午軍乱に際して清国に拉致られた挙句に「凶鮮王」などと馬鹿にされたため親日派に宗旨替えしていた。


 そして二十五日、朝鮮政府から日本に対して牙山に展開する清国軍の掃討が依頼され、朝鮮半島の沖合で開戦の号砲が鳴った。










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さすがに日清戦争は変わらないか
参謀次長は陸軍と海軍で1人ずついるかんじですか?
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