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功山寺挙兵




本日は21:00にも投稿する予定です。ぜひご覧ください!

 






 ――――――




 欧米列強との講和に際して使者となったのは、投獄されていた高杉晋作であった。彼は藩の家老・宍戸備前(親基)の養子であると名乗り、艦隊司令官のキューパーと交渉を行った。交渉の結果、


 ・関門海峡の航行の自由を認める


 ・外国船に対する物資の販売、悪天候時の避難を認める


 ・下関の砲台を撤去すること


 ・賠償金三百万ドルの支払い


 の四条件で交渉妥結となる。なお、賠償金については幕府が負担するということになった。高杉曰く、


「此度の戦は攘夷実行を命じられたが故に起きたこと。我々はそれに従ったまで。賠償は当然、命令者が支払うのが適当である」


 とのこと。朝廷に対する政治的なポーズではあれ、命令は命令だ。おかしなことではない。より現実的にいえば、長州藩にそんな大金を払う余裕はないのだが(文久三年の江戸における米価――1両=0.4石――換算で750万石、長州藩は実高約66万石なのですべて賠償に充てても十一年ほどかかる)。


 何とか欧米列強との講和に持ち込んだ長州藩だが、すぐさま幕府への対応に追われることとなる。朝廷からの追討令を受け、幕府は軍勢を招集した。三十五藩、十五万の大軍だ。総督は尾張藩主・徳川慶勝である。


 幕府軍への対応をめぐり、長州藩では激しい政争が起きた。元々、藩内には村田清風の改革以来の派閥(改革路線の正義派と保守路線の俗論派)があった。近年では正義派が藩政を掌握していたが、禁門の変や下関戦争での敗戦により苦境に追い込まれていた。それを見逃さなかった俗論派は実権を奪い返すべく行動を始める。


 その発端となったのは山口で行われた君前会議。そこでは幕府軍への対応が話し合われた。正義派の井上聞多は藩政改革、武備恭順を主張する。要するに一連の行動に対して幕府へ謝罪はするが、藩内では改革を行い力を蓄え、いずれは尊王攘夷を達成するという面従腹背路線だ。


 対する俗論派は幕府に大人しく従うべきと主張して対立。激論が戦わされたが、会議は藩主の決断により正義派の武備恭順が採用されることとなった。


 ところが、会議を主導した井上は暴漢に襲われて重傷を負う。正義派の主張に理解を示していた政務役・周布政之助も禁門の変に対する責任に苛まれ自害した。


 主要人物が相次いで第一線から消えたことで正義派は打撃を受ける。その隙を見逃さず俗論派は勢力を拡大。正義派の人間が立場を追われていき、俗論派のボスである椋梨籐太が政務役に任命されるなど藩首脳部は俗論派が優位に立った。


 彼らが藩政を主導することになったため、幕府との武力衝突を徹底して回避する方針がとられる。そしてそれは、幕府軍の意向と奇妙な一致を見ていた。


 幕府側においては薩摩藩が独自の行動を見せる。毛利一門の岩国藩に接触し、彼らを介して長州藩との連絡をとったのだ。彼らは寛大な降伏条件で幕府軍を納得させる(幕府軍は将軍より長州藩征討に際しての降伏条件と軍の解散決定を委任されている)とし、それを受け入れるよう要望した。


 他方、幕府軍においては総督の徳川慶勝がそもそも長州征討に対してやる気に乏しかった。総督就任の打診を何度も断っていたのだが、度重なる要請に根負けして就任したのである。薩摩藩、そして慶勝も武力衝突を回避しようという思いは一致していた。


 そして、幕府軍の軍議で薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が武力衝突の回避を献策。慶勝が賛同し、幕府軍の基本方針となった。


 俗論派は戦火を恐れ、幕府との全面対決を回避しようとしている。正義派とて――理由は異なるものの――軍事衝突は望むところではない。とはいえ、いざというときはやる覚悟であるため、俗論派の姿勢は手放しに歓迎できるものではなかった。


 そしてより一層拒否感を高めたのは、そんな俗論派が使嗾する藩の命令だ。十月になって奇兵隊をはじめとする諸隊に解散が命じられた(諸隊は武装組織であるとともに、政派としての側面を持っている)。俗論派は幕府と協調する一方、藩内の権力基盤を固めるために正義派の排斥に乗り出した――正義派はそう看做した。


 それ以前にも何人かの高官が公職を追われている。欧米列強との和睦交渉以来、政務役として藩政を担っていた高杉晋作も職を辞したばかりか、俗論派が台頭する萩は危険だと脱出してきた。


 俗論派の意図を見透かした諸隊はこれを拒否。かくなる上は武力で以って現状を覆すのも止むなし――といった強硬論すら出始める。


 それを抑えるのは私の仕事だ。軍監の私がなぜそんな立場にいるかといえば、下関戦争によって立場が上がったからだ。


 下関戦争で戦った長州勢のうち、私の部隊は比較的善戦した。高杉や俊輔から聞いた話では、講和交渉の際に壇ノ浦と下関において少なくない打撃を受けたらしく、指揮官を処分しろという話も出たそうだ。そんな話が漏れ伝わり、隊内において総督である赤禰武人を凌ぐ名声を得ていた。


 元から高杉の後援によって隊内での主導的立場にいたが、下関戦争の戦功により部隊を完全に掌握する。赤禰も私の頭越しに部隊は動かせない有様で、陰の総督とかいわれていた。


 逸る隊員を苦労しながら抑えている私を、萩を脱出した高杉が訪ねてくる。


「山縣。俺は九州へ行く。そこで味方を得るのだ」


「そんな……高杉さんがいないと我々は――」


「下関では立派にやっていたではないか。大丈夫だ。必ず務まる」


 そこで高杉は同志を集めるため九州へ向かうと言った。私は留まって指導してほしいと請願したが、お前なら大丈夫だと聞き入れてくれなかった。


 高杉の脱出後、正義派はますます苦境に追い込まれる。主要な人物が萩に召し出されたかと思えば捕縛されていったのだ。状況が悪くなっているなと感じ、今後の方針を考える。そんななか、十一月に入って奇兵隊参謀の福田侠平が善後策を献策してきた。


「ご家老・益田様の知行地である須佐へ退き俗論派に対抗すべきです。既に公卿の皆様の了解はとっております」


 悪くない提案だが、私の考えは違った。


「待て待て。須佐よりも山口へ行くべきだ。あそこならば左京様(長府藩主・毛利元周)に頼ることもできるだろう」


 毛利元周は正義派に同情的だ。進退窮まったとき、そちらへ逃げ延びることができる。須佐は石見が近く、便宜を図ってくれる保障はない。


「たしかに」


 これに福田も同意。正義派の同志と連絡し、とりあえず正義派の諸隊は山口に集結しようという話になった。集まってきた部隊には俊輔率いる力士隊もおり、無事の再会を祝う。


 山口に入った私たちは藩主に対して正義派の下での武備恭順を推進すべきとの建白書を提出する。また、我々の動きに対して俗論派が弾圧を加え、ともすれば軍事的な衝突に至るかもしれない。それに備えるべく、山口にある藩の武器庫から銃器を調達しようという声が出た。しかし、解散命令が出た諸隊に渡すことはできないと拒絶されてしまう。


「何を!」


 と逆上して強引に奪い取ろうと主張する者が出た。


「止めておけ」


 無論、私は制止する。


「なぜです!?」


「言うまでもないが、我らは苦境に陥っている。相手に口実を与えるべきではない」


 不利な状況でこちらから戦端を開くような真似をするべきではない。武器という目先の利益に釣られて、尊王攘夷の本懐を遂げられなくなるわけにはいかない――そう諭して隊員を納得させた。


 長州藩内で派閥による権力闘争が行われるなか、対外的にも大きな変化があった。武力衝突の回避を目的とし、慶勝から交渉を任された西郷。彼は交渉のなかで、禁門の変で中心的な役割を果たした三家老四参謀の首を出せば、当面の戦闘は回避できると発言した。


 幕府軍には西郷のような不戦派もいたが、副総督(松平茂昭)などの主戦派もおり、彼らに対する言い訳として取り急ぎ物的な証拠を求めたのである。


 彼らの処刑は速やかに実行された。禁門の変の後、職を解かれて身柄を徳山藩(長州藩の支藩)に預けられていた三家老には切腹が命ぜられ、四参謀も野山獄にて斬首となった。この情報を得た正義派は中止を求めたが、容れられず実行されている。


 三家老の首は総督府が設置された広島に運ばれた。後日、首実検が行われて確認がとれると、幕府軍では戦争回避の条件が検討され始める。反対意見などもあったがそれらを調整した上で、その条件が通達された。


 ・五卿の追放(九州の諸藩へ預かり)


 ・山口城の破却


 ・藩主父子の謝罪


 と、内容は比較的易しいものであった。もっとも、ごたごたが落ち着けば改めて幕府から処分される――そんな観測の下に成り立っていたのだが。


 藩としてはいい方向に進みつつあったが、私たち正義派からするとむしろ悪化していた。


 三家老の切腹が行われたが、正義派の暴発を恐れた藩は兵を招集する。これを藩が武力行使に出る兆候だと判断した我々は長府へ向かうことを決定。五卿に随行を願ったところ受け入れられたため、途中で彼らを拾って長府へ向かう。


 言い訳の余地のない逸脱行為であるが、目的は尊王攘夷の達成以上に安全確保である。やらねばならないことはあるが、身内で争いたくはないというのも本音。そこで、長府へ向かう諸隊の代表として赤禰が萩へ派遣されることとなった。目的は捕えられた正義派の釈放と諸隊に対する解散命令の撤回、君前会議にて決定された武備恭順方針の徹底である。


 赤禰を送り出した諸隊は長府に到着。そこでは毛利元周が五卿、そして彼らを警護した我々を歓迎してくれた。五卿は元周と元純(清末藩主、正義派に同情的)に対して、正義派を保護するよう求める。二人も俗論派への傾斜は問題視しており、藩主の敬親に正義派の赦免、復権を求めるとして萩へ向かった。


 九州へ行っていた高杉が戻ってきたのはそんなときである。戻ってきて早々、高杉は挙兵を訴えた。


「このままでは何もしないうちに我々は解体されてしまう」


 帰還して諸隊の様子を見た彼は、諸隊の隊員が減っている状況を目の当たりにした。事実、俗論派による圧力で家族が困っている、あるいは幕府へ恭順する藩の姿勢を理由に隊を離れる者が相次いでいる。彼の言うことは正しいが、


「高杉さん。今は待つべきです」


 赤禰や毛利元周、元純らが萩で交渉しているところで、今挙兵すれば彼らに迷惑がかかってしまう。状況が悪化しようとも、これらの結果が出るまでは大人しくする。それが諸隊の総意であった。


 十二月になると条件のひとつ、五卿の問題を解決するため福岡藩から使者がやってくる。幕長の合意により、五卿は九州五藩の預かりとなるため移動を求めた。しかし、五卿はこれを断固拒否。なおも食い下がる使者に対して五卿の代表的な存在である三条実美も妥協し、条件つきで九州行きを受け入れた。その条件とは、


「長州には世話になった。しかし、その長州は藩論二分され、今にも内乱が起きようとしている。これが解決しないうちには九州へ渡ることはできない」


 というもの。要するに、長州藩内における対立を収めることだ。福岡藩はこれを受け、幕府軍首脳に働きかけを行う。同時期に西郷は薩摩藩より、長州の赦免に向けて動くよう指示を受けた。薩摩、福岡の両藩は以後、条件(長州藩の内戦阻止)達成のために奔走する。


 薩摩藩(西郷)は藩主父子からの謝罪文書が提出されたことで、幕府軍の目的はほぼ達成されたと主張。解兵論を唱え、十二月末に解散命令を出させている。


 また、福岡藩は長州藩(萩政府)に対して五卿が出した条件を説明。内戦寸前となっている原因である正義派と俗論派の緊張を解くため、投獄している正義派の釈放を行い、諸隊と交渉すべきと説いた。しかし、俗論派が占める長州藩はこれを拒否している。


 幕府サイドから長州藩の内戦阻止へ向けて働きかけが行われる一方、諸隊の側へも自重を求める者が現れた。萩から帰ってきた赤禰である。


「五卿が無事に九州へ渡られた暁には、諸隊を存続させ藩士へ取り立ててくれるそうだ」


 萩政府がそう約束したと言い、恭順論を説く。


「待ってください赤禰さん。我々が求めた武備恭順、藩政改革、同志(正義派)の釈放はどうなったのですか?」


 私は当然の疑問をぶつけた。彼を萩へ送り出したのはその三点について糺すためだ。しかし今、彼の口から出たのは諸隊に対する処遇だけ。言っては悪いが、萩サイドに丸め込まれて帰ってきただけである。


「……」


 私の問いに赤禰は答えない。


「ここは五卿のうちおひとりを擁して萩へ行き、我々の要求に対して談判を求めるべし!」


 結局、萩に対しては要求への明確な答えを求めるべき、というのが諸隊の総論となった。しかし、赤禰は壊れたレコードのように恭順論を繰り返す。さらに高杉を見ると、


「和を乱す高杉を受け入れるべきではない!」


 と言い放つ。赤禰は萩へ行ってミイラ取りがミイラになった感があり、諸隊とかなりの温度差が生じていた。高杉の存在は赤禰以外は認めており、彼がいくら騒いだところで高杉排斥を考える者はいなかった。


 とはいえ、現実問題として五卿の九州行きが幕府との戦争を回避する条件である以上、これは容認せざるを得ない。下手に粘れば幕府や長州藩の武力が諸隊に向けられる可能性もあった。


 赤禰の意見に耳を貸したわけではないが、自然と萩への恭順も止むなしという空気が諸隊の間に漂っていた。そのなかでもひとり高杉は俗論派との対決を主張。業を煮やした彼はついに少数の支持者のみで決起することにした。


「……高杉さん。本当にやるんですか?」


「ああ。腹は決まった」


 高杉は師である松陰から「死ぬべきと思ったときには死ね」と教えられていたそうだ。そして死ぬべきは今なのだと言う。


「我々は恭順論でいきますが、できる限りのことはさせていただきますから」


「頼むぞ山縣。お前たちがいれば、我々の命脈は保たれる」


 高杉は私の肩をポンと叩いた。


「小助。生きろよ」


「お前もな、俊輔」


 高杉と行動を共にする俊輔とも別れた。


 高杉の計画に賛同した諸隊は御盾隊、力士隊、遊撃隊。このうち御盾隊は決起直前に脱落した。長州藩から逆に説得されてきた長府、清末藩主や内戦回避を目指す五卿に説得されたためだ。これに高杉は怒り狂ったが、なんとか仲裁に成功する。


 ともあれ十二月十五日、高杉晋作は功山寺にて八十四名という少人数で決起した。










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何卒よろしくお願いいたします。




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