琵琶湖の実験
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少し昔話をしよう。といっても、そんな昔の話ではない。東京を離れていたときの話だ。
首相を退任した私はようやくまとまった時間がとれた。やりたいことは色々あるが、とりあえず急ぎの用事を片づけようと関西方面に向かった。
「凄い凄い!」
「もう、いい歳してはしゃがないの。みっともないでしょう」
同行している水無子が高速で流れる景色を見て、窓枠に張りついている。表定速度でいえば二五キロ程度でしかないが、日常の移動手段が徒歩か人力車である彼女にとっては新鮮な体験だろう。海に注意されるが、
「えー。でも、ヴァルトラウテ(私の愛馬)に乗せてもらったときしかこんな感じはしなかったよ」
と言ってぶー垂れる。興奮する気持ちはわかるけれど、海の言う通りもういい歳なのだから落ち着きを持ってほしい。
ついこの間まで子どもだと思っていたのだが、あれよあれよという間に成長して今では二十四。お嫁に行ってもいい年頃だが、私が愛娘を少しでも長く手許に置いておきたいと思っていることと、本人が拒否しているため未だ家に残っている。
私たちはそれで満足しているのだが、娘が心配でたまらないのが海。良くも悪くも子煩悩なのでいい加減に結婚してほしいらしい。いい人いないの? というのが最近の彼女の口癖だ。見合い話を勝手に持ってきては喧嘩している。
母親とこんな調子だからか、代わって父親である私に甘えるようになった。先述の乗馬もその一環。ストレス発散か、休みの日に乗せてとせがんでくる。断るはずもなく、少し遠出して色々と話をしていた。八割くらいは(主に母親の)愚痴だが、そこは母親とよく似ている。海もまたよく倉屋だったり社交だったりで山積した愚痴を垂れてくるのだ。伊達に二十年以上もそれを聞いてきたわけではない。そうだよな、と聞き役に徹していた。
なお、機嫌を損ねるので意見を言ってはいけない。うんうん、とひたすら話を聞くべし。愚痴るのは意見を求めてのものではなく、とにかく話を聞いてほしいのだ。要求を履き違えてはいけない。
「でもじゃないの」
「お母さんこそ――」
それからまたしても始まる母娘喧嘩。もはや我が家の恒例行事と化していた。……念のため乗っている上等車を貸し切っておいてよかった。一応、山縣家のご婦人とご令嬢。世間体というものがある。同乗している関係者たちはともかく、赤の他人に知られるわけにはいかない。
私は母娘喧嘩に巻き込まれまいと少し距離をとる。君子危きに近寄らず、だ。しかし、すぐ言い負かされたらしい水無子がこっちに来た。海は口喧嘩強いからなぁ。とりあえず娘をよしよししておく。
しばらく続けていると落ち着いたようだが、代わりに海がこっちをじっと見ていた。……後であちらにも行ってご機嫌をとっておこう。お父さんは大変だ。
「そういえば、京都では誠に会えるんですよね?」
「ん? ああ。休暇を貰って来ることになっているぞ」
今、名前が挙がったのは私の長男だ。今年で二十一になる。既に仕事に就いており、その関係で家を離れていた。
誠が就いた仕事は軍人である。中学校の卒業前、いきなり陸士に進みたいと言われたときには驚いた。だが反対する理由もないので受け入れている。ちなみに受験は一発合格(陸士12期、史実の士候1期)。学科試験は帝大レベルなのに加え、体力試験もあるがゆえに東大以上とも謳われる難関校なのだが……我が息子はとても優秀だ。喜んだ私は合格祝いとして懐中時計を贈った。時間には正確に。軍隊生活、集団生活の基本だ。
さらに私を驚かせたのは卒業席次。しれっと恩賜組に入っていた。卒業祝いには新々刀ながら日本刀を贈っている。下級士官には必要だからだ。
ちなみに兵科は騎兵科。身長が高く手足も長いということで周りから勧められたようだが、決め手は私だという。西南戦争から帰ってきたときの姿を見て憧れたのだとか。小っ恥ずかしいことを言ってくれる。
騎兵ということで当然ながら馬が必要。私の愛馬であるヴァルトラウテの妹馬・オルトリンデを譲ってあげた。ちなみに馬の名前が北欧神話のヴァルキュリアなのは私の趣味。ちなみにちゃんと牝馬だ。牡馬なら男性名をつけている(父馬はオーディンというのだが、なぜか「おでん」となって定着。馬も「おでん」で応じるようになった。それでいいのかお前……)。日本名(〇〇号)だと聞いたときどっちかわからない。
それはともかくとして誠は卒業後、大阪の第四師団に配属された。たまに手紙を寄越してくるが、元気にやっているらしい。私が京都に行くとことは知らせており、可能なら休暇をとってくれと言っていた。最悪、大阪へ行って面会するつもりだったが、無事に休暇をとれたようだ。
「楽しみね」
「そうだな」
水無子はお姉ちゃんとして振る舞ってきた。別居することになっても弟のことが気になって仕方がないみたいだ。ちなみに他の弟はまだ実家に住んでおり、次男の明(十七歳)と末っ子の治(十三歳)は中学校に通っている。
ところで水無子は嫁にも行かず偉そうにできるのかと言われそうだが、結婚していない点を除けば何ら恥ずかしくない。親の脛を齧っているわけではなく、倉屋でちゃんと働いていた。反目しているが同時に母親である海を尊敬しているらしい。倉屋を切り盛りする母を見て、自分もそうなりたいと思ったようだ。今は海の秘書をしている。
話がひと段落したところでガス抜きは終わったと見たか、海がこちらにやって来た。
「少し休みましょう。京都まではまだまだ時間がありますからね」
「そうだな」
東海道線を乗り通すと片道二十時間ほどかかる。ほぼ一日がかりであり、身体がもたない。
「一緒に寝ましょう、お父様」
「まあ。この子ったら……」
「いいよ」
水無子の誘いに乗る。海は何か言いたそうだったがやったー、とはしゃぐ娘の死角でウインク。これだけで伝わった。
そう。これは嘘。水無子が寝るまで横にいて、寝たら海のご機嫌とりをするのだ。目覚める頃にまた寝たふりをして海と交代。今度は本当に寝るという算段である。
すやすやと眠る娘を愛でながら、夫婦で色々なことを話す。結婚してかなり経つからご機嫌とりも慣れたもの。小一時間もすれば上機嫌になった。
水無子がぐずり始めたら寝たふりを敢行。私がまだ寝ているので寝坊助さんと起こそうとした娘を海は制止。お疲れだからそのままに、と言いつつ自分も休むと私の隣に座ってもたれかかってきた。妻の存在とガタゴトという規則的な揺れを感じつつ、今度こそ眠りにつくのだった。
――――――
列車は定刻通りに京都駅へ到着。客車から降りるとホームに迎えが来ていた。
「お疲れ様でした」
人力車が手配されており、分乗して宿泊先へ。お宿は倉屋が出資した旅館だ。東京をはじめとした主要都市に展開している。倉屋も今や三菱や三井、住友と肩を並べる大財閥だからそんなこともできちゃう。さらに経営者が山縣家ということで、軍人たちの定宿みたいになっているらしく経営基盤もしっかりとしていた。
その日は夜遅くに到着したこともあってホテルで一泊。翌朝、私はひとり京都府庁を訪ねる。そこで面会したのは府知事の北垣国道。
「閣下。疏水ではお世話になりました」
「いやなに、京都は私も色々と思い入れのある土地だ。寂れていくのを黙って見てはいられないよ」
京都は幕府が倒れ、天皇も東京に移ってしまったために寂れてしまった。人口の実に三割が流出したのだからかなりのものだ。これは東京や大阪などの都市も似たような境遇にあったのだが、前者が事実上の首都として、後者が商都として復興する傍ら、京都は完全に取り残されていた。
江戸時代には「三都」の一角に数えられたが、今や見る影もない。そんな京都を再生したいと人々は考え、とある大事業を発案した。それが琵琶湖疎水の建設である。琵琶湖から水路を引くことで大津と水運で接続し、物流を盛んにするというものだった。これをさらに発展させたのが北垣であり、疎水を発電や水道用水にも使おうとした。その計画に最終的なゴーサインを出したのが私の内相時代のことだ。
工事は明治十八年(1885年)に始まり、五年の歳月をかけて完成した。疎水はいくつか造られているものの、琵琶湖疎水はすべてが日本人の手によって担われたもの。天皇も竣工式に駆けつけ、疎水の完成を機に京都の復興に尽力せよとのお言葉を述べている。
そして京都復興の手段のひとつとして別荘地としての開発という手法もとられている。私にはその先駆けとなることを依頼され、南禅寺界隈(東山地区)に土地を取得して別荘の建築に乗り出していた。ちなみに名前は無鄰菴(史実準拠)。メインとなる庭園は小川治兵衛に造らせることにしたが、この席で琵琶湖疎水を引き込みたいと依頼した。
「閣下のお願いならば聞き入れたいところですが、ご存知の通りあれにはかなりの税金を投入しています。民が納得しないでしょう」
「わかっているが、そこを何とか頼む」
こちらも東山地区の開発計画に乗っている身だ。多少は便宜を図ってくれてもいいだろうと迫る。すると北垣は、
「……わかりました。ならば『防火用水』との名目で許可しましょう」
と言ってくれた。
「ありがとう」
必ず立派な庭園にして見せる、と約束した。まあ、実際の作業にあたるのは小川治兵衛なのだが。
「明日は大津へ行く。折角だから疎水を遡上していこうか」
「是非ともご覧になってください」
とまあそんなやりとりがあり、翌日の移動は舟となる。家族揃って疎水を遡上。大津へ至った。途中、蹴上のインクラインに水無子が興奮していた。例によって海に注意されていたが、内心で私も興奮していたのは内緒である。
「お待ちしていました」
大津では軍務省から派遣された軍人たちの迎えを受け、彼らが手配した人力車に乗って彦根町に行く。
「準備はできているか?」
「はい。後は閣下たちの到着を待つばかりです」
「それは楽しみだ」
なんて会話をしていると琵琶湖湖畔に出る。
「わあ、大きい」
「まあ」
驚きの声を上げる母娘。さもありなん。琵琶湖湖岸には巨大な木組みの櫓が聳え立っていた。
「地元の大工たちを総動員して造らせました」
そこは大阪の工兵隊を動員しろよと思ったが、彼らも監督と作業にあたったそうだ。あくまでも「演習」という名目でだが。……近代戦で櫓を組む機会はないだろという突っ込みはしないでほしい。
櫓は高さ十メートル、横十メートル四方の舞台。湖岸からはそこにアクセスするためのスロープが設けられていた。何をするかはもうおわかりだろう。そう。人力飛行機の飛行実験――正式名称は「琵琶湖実験」で、私の私的な呼び方は「◯人間コンテスト」である。
会場設営に工兵隊が絡んだことからわかるように、この実験は軍が行っていた。そこへ私が妻と娘を連れてのこのことやって来たのにはちゃんとした理由があった。
「あっ、店主! 旦那様も!」
私たちを見つけて駆け寄って来たのはひとりの青年。名前を二宮忠八という。裕福な家に生まれるも父の事業失敗と死去、さらに放蕩兄の浪費によって家財を失った苦学の人である。二宮は家計を支えるために様々な仕事をする傍らで勉学に励んだ。
そんな彼は今、倉屋に雇われている。きっかけは倉屋が今治に設けた造船所の噂を聞いて訪ねてきたことだった。その噂とは、造船所の工員は希望すれば教育を受けられるというもの。これは概ね正しく、倉屋では終業後に夜学校みたいな形で工員に教育を施していた。見込みのある者は東京にある企業内学校に呼んで専門教育を受けさせ、現場主任や技術者といった幹部につける。こうして倉屋は独自に技術者を養成していた。
二宮もそんな噂を聞き、今治の造船所へやって来たのだ。当時の責任者のところへ飛び込み、雑用でも何でもやるから雇ってくれと言って来たらしい。凄い迫力だったらしく、責任者は気圧されて頷いてしまった。すぐにヤバいと思ったが今更取り消すわけにもいかず、ただし仮採用と付け足したそうだ。情けない。
だが、今回ばかりはその情けなさに救われた。二宮はテキパキと働き、夜の勉強も他の工員よりはるかに熱心に受けたらしい。成績も抜群で、すぐさま東京の学校に送り込まれた。
そして彼は出会った。飛行機に。
史実でも二宮は飛行機にいち早く着目した人物として知られているが、現世でも経緯は異なれど同じように飛行機に魅入られた。きっかけはたまたま目にした紙飛行機。倉屋で飛行機開発に従事している講師が暇つぶしに飛ばしているのを目にして虜になった。
すぐさま講師に直談判。化学や物理学の本を読んでおり、成績もよかったことから学校を修了すると研究員のひとりとなった。生計を立てるために自分が考案した凧を作っていた経験もあり、様々なアイデアを出していく。既に倉屋で蓄積されていた知識に二宮のアイデアが加わり、研究は飛躍的に進歩した。天才による技術加速ここに極まれり。
当然、二宮のような優秀な社員の話は海に伝わり、海から私へと伝わった。いや、二宮忠八って名前を聞いて驚いたね。そこまで熱意があるならば、と航空機開発部門の責任者に引き上げた。その方がやりやすいだろう。ついでに陸軍嘱託の地位も与えている。何でそんなことをしたかといえば、軍の研究は行き詰まりを見せていたからだ。やっぱ学校で作られた秀才は頭が固い(偏見)。
それはさておき、二宮を媒介にして軍と倉屋は飛行機の研究開発に勤しんだ。そしてついに、人力飛行機の製作に漕ぎつけた。こいつが成功すれば、後は飛ばせるだけのエンジンに目処さえつくだけで有人飛行が可能になる。ライト兄弟の記録をぶっちぎり、人類初の有人動力飛行を日本人の手で行うことも夢ではない。
「二宮。飛行機の調子はどうだ?」
「準備は万端です。……きっと飛んでくれます」
不安そうだが、しかしその瞳には確かな自信を感じることができた。
二宮に案内されて実験に使う飛行機が置かれている場所へ行く。そこにあったのは竹の骨組みに帆布張りの機体。機首には二枚翅のプロペラがついている。操縦席は脱出が容易なスケルトン。座席と操縦桿、そしてペダルがあった。自転車を漕ぐためのペダルだ。チェーンで動力を伝え、ギアで方向を変えてプロペラを回す。プロペラを考えたのは二宮で、動力にチャリ漕ぎを提案したのは私である。
機体の見た目はフェアリーソードフィッシュのように完成されているが、操縦席(胴体)は洗練されていない。当初案では空気抵抗を考慮して操縦席を覆う案もあった。ただ、琵琶湖で試験することからわかるように墜落することも想定している。落ちたときに少しでも助かる可能性が上がるようフルオープンにした。
それは隣で待機する軍の試験機も同じだ。さらに開発に携わる技術者たちが万一の可能性をなくすため、試験前に入念なチェックをしていた。
「山縣閣下!」
「おお、長岡くん」
技術者たちの最終チェックを眺めていると、こちらに駆け寄ってくる人物が。軍務省の課員である長岡外史だ。試験の監督のためこちらへやってきたらしい。
「お迎えせず申し訳ありません」
「いや、急に予定を変更したのはこちらだ。気にしていない」
本来なら鉄道で来る予定だったが、北垣との会談で疎水を遡上することを突然思いついた。そのことは電報で知らせたが、色々と予定が狂っただろう。だからなぜ出迎えに来なかった、と責める気はなかった。
私たちの到着で役者が揃い、いよいよ実験が始まる。まず軍の試験機が櫓の上に運ばれた。車輪がついているため地上滑走は容易だ。軽くペダルを漕いでプロペラが、操縦桿を動かして舵がちゃんと動くことを確認。
「いけます!」
パイロットが機体の状態は良好であると告げた。
「並走班、問題ないか!?」
「いつでもどうぞ!」
櫓の上から責任者が声を張り上げる。並走班とは小舟に乗る者たちで、飛行する機体に並走して墜落したときにパイロットと機体の残骸を回収する役割を担う。手漕ぎだと間に合わないので機走式だ。活躍しているのはイギリスで取得した焼玉エンジン。小気味いい音を立てて動く様は愛嬌がある。
「閣下。実験の準備が整いました」
「うん。始めてくれ」
私がゴーサインを出すと、パイロットが勢いよくペダルを漕ぎ始める。いいぞ! という掛け声とともに機体にとり付いていた者たちがダッシュ。滑走が始まる。櫓から落ちないよう、でも少しでも速度をつけるため限界ギリギリまで。一メートルあるかないかというところまで機体に勢いをつけた。試作機はその勢いのままに空中へ飛び出す。
後ろにいる私たちからは櫓から飛び出した機体が沈み、隠れて見えなくなる。それから一秒、二秒、三秒……。実際にはそんなに経っていないかもしれないが、とにかく時間が長く長く感じられた。横では海と水無子が揃って手を合わせて祈っている。
「あっ!」
それは誰の声だっただろうか。櫓の先にいる者たちが一斉にこちらを向く。それとほぼ同時に、櫓の先に試作機が姿を露わす。
「……飛んだ」
自然と言葉が出た。そしてそれが伝播する。
「飛んだ! 飛んだ! 成功だ!」
「やったー!」
「よしっ! よーしっ!」
それぞれが思い思いの方法で喜びを表現する。各人で内容は違えど、試作機の開発にあたって苦労したことは同じ。同じ経験をしているからこそ喜びを共有し、その労苦を労い功績を称える。
試作機は思いの外順調に飛行していたが、パイロットの足に限界がきて五〇〇メートルほとで着水した。空気抵抗もかなりのものだったのにむしろよく飛んだよ。
並走班がパイロットと機体の残骸を回収して戻ってくる。落ちたときに怪我などはしていないそうだ。
次いで倉屋の試作機が櫓上に運ばれ、先ほどの要領でテイクオフ。こちらも問題なく飛び、やはり五〇〇メートルくらいの地点で着水した。
その日の夜は試験場の近くでキャンプファイヤーして飲めや歌えやの大騒ぎ。立場の上下関係なしに喜びを分かちあう。あまり遅いと宿泊先に迷惑になるので一次会はほどほどに。周りを見れば二次会の算段をつけているが私はここまで。すると、長岡から最後に締めの言葉を言われ前に出された。
「あー、諸君。まだ飲み足りないだろうから手短にいくぞ。……飛行機の開発でまだまだやるべきことはたくさんある。だが、今日のようにひとつひとつ解決していけば必ずや成果は出る。今日はおめでとう。明日からも頑張ろう。では解散!」
労いと発破の言葉をかけてその日は解散となった。
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