内閣吹っ飛んだ
【訂正】前話において甲艦の艦級を金剛型としていましたが、これを鞍馬型に訂正しています。既に金剛型コルベットが存在しているためです。訂正して回ったつもりでしたが残っていました。同じミスを発見した場合はご一報ください
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迎えた第二回衆議院議員選挙。この選挙は品川弥二郎内相による選挙干渉があったことで有名である。私が東京を離れて統制を利かせる気もないため、現世でも同様に選挙干渉が行われた。ただ言っておくと、選挙干渉は彼の独断ではない。事はそう単純ではなく、様々な思惑の上に干渉が行われた。
まず大きいのは天皇の憂慮である。第一議会に続いて第二議会も政府と議会が対立。二進も三進もいかず議会解散となって選挙に突入したわけだが、何もしなければ同じ議員が当選する。同じ議員が当選すれば議会も同じような動きをし、また解散になるのではないか――そのような懸念を抱いている、とは侍従長から漏れ聞く。
「宸襟を悩ませないよう、一度で決めねばならん」
松方たちは天皇の憂慮を聞き、そんな決意を固めた。なかでも品川は望む結果(政党勢力の敗北)が得られるまでリセマラする気だったが、この一度で勝負を決める方針に転換。とりあえず政府、内務省から全国の府県知事に中立の人間が当選するようにせよ、との指令が出された。裏返せば政党の候補者を排除せよとの指示だった。
一方で松方たちは極秘裏に選挙対策本部を設置する。選対本部のメンバーは松方、品川のほか内務省次官の白根専一や大浦兼武警保局主事など内務官僚が多かった。彼らは政府に好意的な候補者を支援する策を考え、買収も含む金銭的な支援を行う。また、品川は松方の指示もあって、天皇の許に足繁く通って選挙情勢を報告した。
このような上からだけの動きではなく、下からも呼応する動きがあった。一部の知事からは警察力を動員した民党候補者の妨害が具申される。内務省としては公式に回答は返していないそうだが、知事の職権で実行する者も現れた。
知事たちの過激な動きは天皇の憂慮を知ったからだ。天皇は品川の報告だけでなく、独自に侍従を使ってコンタクトをとり、各府県の選挙情勢をリサーチしていた。縁故採用とはいえ、知事にもなる人間はそれなりに頭が回る。本省からの指示に、異例ともいえる宮中からの選挙情勢の照会。これらを合わせれば、最高権力者である天皇が何を望んでいるのかは明らか。特に勤王の志の強い薩摩系の知事たちを中心に忖度して選挙干渉を行う者が出たのである。
対する民党も黙ってはいない。彼らは実力組織を持っていた。それが壮士と呼ばれる者たちだ。民権運動の活動家といえば聞こえはいいし、実際に政治活動に動員されているから支援者と呼べなくもない。だが、その本質は暴力装置だ。喧嘩上等。殴る蹴るなど当たり前。なかには暗器を持っている者もいた。彼らの仕事は対立候補の壮士や警察とやりあうこと。エスカレートしすぎて火縄銃と大砲を持ち出す、なんてこともあった。いわば日本版黒シャツ隊(あるいは突撃隊)。
次第になくなって明治末期にはほとんど見られなくなるのだが、この時期は全盛期。選挙干渉に乗り出した警察と壮士が激しく衝突して全国で死傷者が出た。
この他にも官製の選挙不正が多発した。まず、警察が有力議員である林有造、松田正久の逮捕を試みたことだ。幸い(?)というべきか、司法省が後ろ向きだったため何も起こらなかったが。さらに開票でも不正が行われ、裁判によって選挙結果が覆されることもあった。基本的に内務省が何かやらかして、司法省が暴いたり止めたりするというような構図だ。
ともあれ、手段を問わない松方たちの選挙干渉の結果、
「よしっ、着実派(政府派)が勝ったぞ!」
政府派が一六八、過激派(民党)一三〇で政府が勝利した。あくまで彼らの推計では。
だが、この数字は政府が盛りに盛りまくった粉飾決算もいいところで、実態はまったく異なる。
たしかに自由党が百議席を割るなど民党は過半数を維持できなかった(自由党九四、改進党三八)。しかし、吏党も議席を増やしたとはいえ一二四議席と過半数には届いていない。ならばあの一六八という数字はどこから出たのか。それは民党所属でも穏健派は政府派と見做して勘定に入れていたからだ。なので一六八という数字は真っ赤な嘘なのである。
さらにさらに、農商務相の陸奥宗光は旧友である星亨に資金を提供。そればかりか吏党に対して分断工作を仕掛けて民党側に十名余りを走らせている。とんでもない背信行為であり、松方たちから非難された。対する陸奥は選挙干渉を行い、あまつさえ死者を出すなどあり得ないと言って辞表を叩きつける。
この陸奥の動きは俊輔の援護であった。俊輔はこれまでの議会を見て政府党の必要性を感じた。その設立を枢密院に諮ったのだが、天皇や松方の反対で頓挫している。ちなみに私も反対した。
「俊輔。君の構想には大いに賛成だが、まだ時機ではない」
「いや、今こそやらねばならん」
ちょっとした論争になったが、喧嘩別れというほどではない。だが、陸奥はこれで松方内閣に見切りをつけ、倒閣路線に舵を切ったわけだ。政党に倒されれば政党結成の必要性を実感するだろうとの見立てである。更に進んで伊藤内閣の設立を陸奥は目論んでいたようだが、これは残念ながら実現しなかった。
話を政局に戻すと、第三議会では当然ながら選挙干渉に対する猛烈な批判が加えられることが予想された。松方たちはそれをどう乗り切るか知恵を絞っていたが、弾は身内から飛んでくる。俊輔、陸奥に後藤が揃って品川の選挙干渉を批判したのだ。
「ご奉公を認められないほど空しいことはない」
とは品川の発言だ。松方に慰留してくれと頼まれたので義理で引き留めたとき、品川はこう言った。私は本人のやる気がないし、何にせよ選挙干渉は追及される。品川に泥を被ってもらえなければ本丸が落ちかねないぞ、と政権延命策として閣僚を交代させるべきだと助言。松方は無念です、と言いながら品川の辞任を認めた。そう思うなら最初から不正をするな、と言いたい。
だが、ここで思いがけず後任問題が持ち上がる。というのも、松方が後任にあてたのが副島種臣だった。これを聞いた天皇は大丈夫かと懸念を表明する。副島は六十を越える老人だ。内相はただでさえ忙しい上、選挙干渉で追及を受けるのは必至。体力的にもたないだろうから、別に人を立てるべきでは? とアドバイスした(天皇の提案は河野敏鎌)。しかし、松方は人望があるのでと押し切った。
この他、閣内で松方たちを批判した陸奥も辞任。後任に件の河野をあてがう形で慌ただしく内閣改造をしているうちに第三議会を迎える。
第三議会で政府を口火を切ったのは意外にも貴族院だった。不意打ち気味に政府へ反省を求める非難決議が採択される。続いて衆議院でも選挙干渉について激しく非難する上奏案が出された。松方たちは予め予想していたので多数派工作の結果、三票差で辛くも否決に持ち込んだ。
それで安堵したのも束の間、民党は文言をマイルドにするとともに決議案へと下方修正した二の矢を放ってくる。さすがにこれは予想外で対応が間に合わず、また賛同する議員も多かったことから可決されてしまった。
民党議員が口を開けば選挙干渉を絡めた政府批判。選挙戦での死闘を示すように、議員のなかには松葉杖や包帯姿で登院している者もおり、彼らには何ともいえない凄みがあった。そんな彼らの激しい追及の矢面に立たされた副島は内相の激務も伴って消耗。結局、三ヶ月ともたずに辞任して河野敏鎌が内相となった。
さらに内相となった河野が止めを刺す。前任の副島が辞任した要因に激務があった。それは単に大臣としての忙しさだけではなく、省内の統制に大きなリソースを割かねばならなかったことにある。というのも、副島は閣僚となったものの選挙干渉は問題視する立場をとっていた。ゆえに白根次官をはじめ、選挙干渉を主導した官僚を更迭しようとした。だが、彼らも自分が正しいと思ってやったこと。処分される謂れはないと抵抗し、副島はそのせめぎ合いに負けたのだ。
しかし後任となった河野も彼らを処分すべきだと考えており、就任の条件にした。他に天皇を納得させる人材を立てられる見込みはなく、政権を維持するために松方はやむなくその条件を呑んだ。ところがあちらを立てればこちらが立たず。処分を受けた者の多くが薩摩閥に属しており、大山は同じ派閥にもかかわらず切り捨てるのは無情だと不満を表明。宥められず辞任に至った。
松方は大久保に調停を依頼したが、政権はもはや泥舟になっていると諭され、逆に首相の座を降りるよう説得された。松方はそれでも戦い続ける気だったが、この話がどこからか漏れると閣僚から次々と辞意を表明される。万策尽きた松方は肝心の議会でも主要な予算要求が容れられず、議会が閉会すると失意のうちに辞職した。
よかれと思ってやった選挙干渉がめぐりめぐって自身の内閣を吹き飛ばしたのだからとんだ皮肉である。もう少し真っ当にやっていればよかったものを。
辞職した松方は病気を理由に小田原へと引っ込んだ。彼と入れ替わるように私と俊輔が上京した。正確には呼ばれたというべきか。誰にといえば天皇である。用件は後任の首相選定であった。
「今、政府と議会は変わらず対立している。これを乗り切る手腕、また巡りとしては山縣伯が適当ではないだろうか?」
首相選定会議の冒頭、信吾がそう切り出した。確かに、と応じたのは大山。薩摩閥ではそういう方向で話が進んでいるのだろうか。チラリと大久保の表情を窺うが、いつもの厳しい顔。内実はよくわからないが、とりあえず拙い方向に向かっているのは確かだ。私は待ったをかける。
「待ってください。一年ほどで日も浅く、ここで再び出るのは議会への心証もよくないかと」
まあ、誰がなろうとも民党が反対することを目的としている以上、心証も何もあったものではないが黙っておく。そして否定するだけでは印象悪いので、後任には俊輔を推した。長州閥の二枚看板のひとりだ。格としては申し分ない。
「伊藤伯も申し分ないが、ここは任せてもらえないだろうか?」
と名乗り出たのは意外にも大久保だった。ボスの発言に私を推していた薩摩閥は慌てるかと思いきや、誰も彼もが平然としている。どうやらあちらは大久保ということで話がついていたらしい。藩閥の巡りからすると長州にと言いたいところだったが、
「大久保になら任せられるな。是非ともこの難局を乗り切ってくれ」
天皇が賛成したことで大久保が組閣することになった。第二次大久保内閣である。ただ彼は就任にあたってとある要望をしていた。それは議会対策のため、重臣たちを内閣に総動員するというもの。伊藤第二次内閣の異名「元勲内閣」が現世でも現れたのである。しかもその首班は大久保利通ということでさらにパワーアップしていた。
「山縣さん、伊藤さん。お二人には補佐をお願いしたい」
聞けば松方内閣崩壊時のゴタゴタで薩摩閥は動揺しているそうだ。そんなわけで、安定している長州閥の協力は欠かせないという。もちろん否はない。
第二次大久保内閣は元勲と呼ばれる藩閥の重鎮が揃い踏みするこれ以上なく重厚な布陣となった。役職としては、
総理大臣 大久保利通
内務大臣 山縣有朋
外務大臣 陸奥宗光
大蔵大臣 井上馨(松方正義)
軍務大臣 榎本武揚
司法大臣 河野敏鎌
文部大臣 芳川顕正(井上馨)
農商務大臣 後藤象二郎
逓信大臣 伊藤博文
となっている。括弧内は交代が予定されているものだ。蔵相には井上馨が就任するが、松方が小田原での充電を終える(病気療養の建前から復帰する)までのスポット登板。これは文相の芳川も同様だ。天皇もならばと芳川の就任を認めている。
また、外相となった陸奥は俊輔が是非にと推薦した結果だった。天皇の陸奥嫌いは相変わらずだが、彼が有能であることもわかっている。それに俊輔と接する態度を見て、彼が鈴をつけている間は問題ないだろうと認めた。
私は樺山の件もあって軍の引き締めを図りたい。そんな思惑もあって軍務大臣に復帰しようと思っていたのだが、大久保からの要請で内務大臣に就任している。理由は前とまったく同じ。私が政党に融和的だからだ。要望していた軍の統制については榎本を介して行うことになっている。
「大久保さんの要望ですから従いますが……」
口ぶりから滲むように人事には不満だった。そんな私に大久保は、
「聞くところによると、山縣さんは暗黙の了解として軍務大臣は陸海軍が交代で出すことにしたとか。前の大臣は大山。陸軍から出ているわけだ。山縣さんは陸軍だから次の大臣にするわけにはいかないだろう?」
「それを言われると弱いですね……」
「榎本さんにはこちらからも、陛下からもよくよく言っておく」
そういうことならば、と納得した。
「ところで、山縣さん。琵琶湖で随分と面白いことをやったそうじゃないですか」
「お聞き及びですか」
「ええ。新聞であれだけ報道されればね。陛下も随分と気になさっていたようですよ」
「あ、あはは……」
それは説明に行かねばならないかもしれないな。私は面倒くせぇ、という内心を押し殺したものの苦笑いが出てしまった。
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