突然の指名
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帰国した私を待ち受けていたのは条約改正問題だった。明治日本の悲願ともいえる条約改正問題を振り返る。
そもそもなぜ条約を改正しようとしているかといえば、その内容が不平等だから。言うまでもなく、日本を開国させたきっかけはペリー来航である。以後、不平等なものながら条約を結んで国交を樹立した。
不平等な点は、
治外法権(領事裁判権、法権)
関税自主権(税権)
片務的最恵国待遇
の三点である。うち三つ目の片務的最恵国待遇については法権の撤廃と税権の回復なくしては実現し得ないので、明治政府は前の二点について改正を目指して動いていく。
それと同時に貿易も始まっているが、最大の相手国は開国させたアメリカではなくイギリスだった。なぜそうなったかといえば、日本の開国から程なくしてアメリカが内戦を始めたからである。国内がごたごたしていて貿易どころではなく、その間にイギリスが日本市場を押さえたというわけだ。
「太陽の沈まない国」という覇権国家の代名詞を冠して呼ばれるだけはあり、イギリスの影響力は極めて大きい。日本を含むアジアの主要な航路は大体イギリスが押さえている。倉屋が海外航路を拓くにあたってもこの壁に直面した。とにかく、東アジアにもイギリスの非公式帝国としての支配が及んでいたのである。これを見るとやっぱり経済力は重要だと感じさせられた。
さて、これだけ聞くとイギリスの天下だからあまり快くない。しかし、これは日本にとってある程度メリットがある話でもあった。通商には道中が安全であることが必要だ。一般に、いくら近道だからといっても戦場のど真ん中を突っ切って商売する人間はいない。
安全を確保するためにはそれなりの軍事力が必要であり、それ相応のコストがかかる。だが、イギリスは非公式帝国を維持するためにそれを自主的に支払っていた。そこに上手く乗っかれば安全性に関するコストをほとんど負担せずに貿易が可能になる。――そんな持ちつ持たれつな関係が東アジアというか、世界的に広がっていた。
しかし、そうはいっても不都合な点が出てくる。まず問題となったのが税権であり、開国直後は二〇%の関税をかけられていたが、諸外国の圧力でこれを五%に引き下げられた。おかげで国庫収入が激減してしまう。これを問題視する大蔵省の意向もあり、明治六年に外務卿の寺島宗則は税権の回復を目指して交渉する。
寺島の交渉は失敗するが、次に交渉を行なった井上馨は一転して法権の撤廃を志向した。日本の西洋化をこれでもかとアピールする井上外交は「鹿鳴館外交」などと批判される。そして列国から条件とされた外国人判事の採用と内地雑居が問題視され、井上は辞任に追い込まれた。
そして今現在、外相を務めているのが大隈重信である。明治十四年政変で政府を追われたが、井上の推薦もあって復帰した。その大隈も井上路線を継承して交渉を進め、アメリカを皮切りにドイツ、ロシアと新条約の調印に漕ぎつけた。これは先に述べた貿易で、イギリス優位の状況を挽回したい各国の都合によるものであった。
しかし、イギリスはこれに猛反発。さらに極秘で進められていた交渉をタイムズ紙にすっぱ抜かれ、井上時代に問題となった外国人判事の採用が盛り込まれていたことで世論は沸騰する。
「大隈さんが襲撃された?」
「ああ。右脚を切断したそうだ」
「それはまた……」
爆弾テロに遭ったとのこと。当然、警備もつけていたが爆弾テロとなると経験もなく防ぐことができなかった。これについては検証と対策のため検討委員会を省内で立ち上げたが、それとは別に政治的な問題が浮上していた。
「議会の開会が目前に迫っているが、このままでは乗り切るのは難しいだろう」
大久保に対する批判は前々からあったが、井上に続いて大隈もやらかしたことでいよいよ強まっているという。そこで大久保は議会の開会を前に政権を他に譲ろうと考えているらしい。
「内閣を組織してから数えてもかれこれ四年近く。そろそろ退くいい機会だと思う」
「いいと思います」
衆院議員の任期は四年。総理もそれくらいのスパンで交代するのでいいのではないか、と私見を述べる。大久保はそれをうんうん、と聞いていた。
「それで、後任は誰にするのですか?」
まあ当然の質問だろう。大久保生存により初代総理大臣は俊輔ではなくなった。とはいえ藩閥のバランスからいうとやはり彼が妥当だろう。政治手腕も確かだ。そう考えて提案したのだが、大久保はきょとんとしていた。予想外といったリアクション。
「え?」
「え?」
「「……え?」」
最後ハモった。……いやそうではなく。
「俊輔でなければ誰に?」
幻の井上馨内閣か? なんて夢想していると察し悪いな、とストレートにディスられた。
「山縣さん、貴方だよ」
「……え?」
さすがに想定外すぎる。たしかに第一議会を担当したのは山縣だ。時期的には妥当なのだが、長州閥で第一の実力者である俊輔を差し置いて総理になるのはいかがなものか。しかしどう言えばいいのか咄嗟に思い浮かばず言い淀んでいたが、続く大久保の言葉で抵抗は無意味であると知った。
「既に陛下へ話はしてある。後任は山縣さんだと申し上げたら、陛下も山縣ならば安心だと仰っていたよ」
既に退路は断たれていたようだ。浮かんだ回答は「はい」と「わかりました」だけ。わかりました、と答えておいた。
だが、さすがに義理は通さなければならないと俊輔のところへ出向いてかくかくしかじかと事情を説明。気を悪くするかなと思ったが私の杞憂だった。
「小助は大久保さんに気に入られているし、欧州で議会の勉強もしてきた。第一回の議会を担任するのにこれ以上の人材はいないさ」
と歓迎された。上辺だけかなと思ったが、それなりに長い付き合いだ。本音かどうかはさすがにわかる。本心からの言葉だった。
それから私は組閣の準備に追われる。交代の時期については大隈が回復して辞表を提出してからということになった。既に大久保含む閣員は辞表を出しており、天皇がそれを了承しつつ保留しているという状況だ。大隈の辞表を待って総辞職となる。その後、私に組閣の大命降下の予定だ。三条暫定内閣? そんなものはない。
とにかくタイムリミットが迫っており、大急ぎで人選を済ませる。といっても人は基本的に大久保内閣から引き継ぎ、問題を起こした外相と私が務めていた内相に関して後任をあてただけだ。その顔ぶれは以下の通り。
総理大臣 山縣有朋
内務大臣 伊藤博文
外務大臣 青木周蔵
大蔵大臣 松方正義
軍務大臣 大山巌
司法大臣 山田顕義
文部大臣 榎本武揚
農商務大臣 井上馨
逓信大臣 後藤象二郎
大隈の下で外務次官をしていた青木周蔵を昇格させて外相に。後任の内相には枢密院議長をしていた俊輔を据えている(元は逓信大臣だったが、憲法制定の作業や大同団結運動を頓挫させるため、後藤象二郎にその席を譲っていた)。
さて、内閣の交代は順調に進んだ。大隈の辞表が提出されると、天皇は保留していたものも含めて辞任を認める。続いて私に組閣の大命降下がなされた。ここで次期首相は一度参内。大命を拝受するとともに、国務大臣の人事を言上して内諾を得る(難色を示された場合は都度調整)。
後日、改めて閣員とともに参内して認証式を行う。私の発案で現代日本の流れが持ち込まれている。なお、(現代でもそうだが)国務大臣に任ずることを天皇は認めるのであって、誰をどの大臣にするのかについては首相が決めることになっていた。
大臣の人選について天皇から特に何も言われなかった。ただ、
「よろしく頼むぞ」
とのお言葉は賜っている。もちろん、任されたからには全力で取り組む所存。天皇にも粉骨砕身努力いたします、とお答えした。ちなみに私は非職ながら陸軍大将の身分を持つ現役軍人。これについてどうするのか訊ねたところ、特旨により現役のまま総理に就いてよいとのことだった。ほっとひと安心。
安心したといえば、政党の受け止めもまた私の心を穏やかにしてくれた。というのも、私に組閣の大命が下ったことは早々に知れ渡った。果たして政党はどう反応するのか、正直なところ戦々恐々としていた。大久保の子分が出てきたとか書かれるのかなと思っていたのだが、意外にも好意的な記事が目立つ。なぜなのか不思議でならず、大久保と囲碁をしているときに訊ねてみた。
「それは内相のときに山縣さんが緩かったからだろう」
民権運動を弾圧するために様々な法令が出されている。私の内相時代も保安条例を制定したが、運用は極めて厳格に行うよう全国の警察に訓令を出していた。そのため政府の人間としては比較的、民権運動に理解のある人物として捉えられているらしい。
「……まさか私が後継になったのはそういう意図もあります?」
「ああ」
大久保はあっさり認めた。首相にされたのは議会対策というわけだ。話を持ちかけられたときにも漏らしていたが、民権家たちからの評価を聞いて腑に落ちた。
「ところで、議会にはどんな姿勢で臨むつもりだ?」
「え? いや、普通にやろうかと……」
意外な質問だったので上手く答えられなかった。そもそも議会に臨む姿勢とは何なのか。前世も含めて未経験なので感覚がよくわからない。
「これは黒田が言っていたことだが――」
酒乱(黒田)が言ったこととは、政府は議会に左右されず一定の姿勢を貫く……教科書的に言うと超然主義であった。
「いえ、それには同意できません」
なのでキッパリと否定する。
「議会の協賛がなければ予算も法律も通りません。もちろん他に方法はありますが、あまり多用すると列国からの視線も冷たくなるでしょう」
勅令などは伝家の宝刀。あまり頻繁に抜くとただの鈍らと同じだ。抜くべきときにとっておくべきである。そしてそれは今ではない。
「ですから、議会の協賛を得られるよう妥協は必要でしょう。もちろん政府支持者が多数を占めることが理想ですが……何もしなければ難しいかと」
そして、とり得る手段として選挙干渉とか不正選挙とかがある。近代の独裁者・スターリンは言った。「投票する者が決定するのではない。投票を集計する者が決定する」と。だが、少なくとも私は絶対にしない。現代人としての認識からだが、大久保には欧州視察で学んだことだと説明する。
「議会を見て感じたのは、対立から双方が如何に歩み寄るか。議論を通して双方が納得できる形で最大限の利益実現を図ることこそ、議会の要点と感じました。反対のための反対には断固たる姿勢をとりますが、それは相手次第です」
真っ当な手段としては政府寄りの政党を組織することだが、やるとしてもまだ早い。黎明期、主に自由党がテロ上等の過激な活動をしてくれたおかげで、天皇をはじめ政府首脳の政党に対するイメージは最悪だ。実際、政府党を組織しようという動きはあったものの、天皇以下の反対に遭って頓挫している。
「まあ、かなり厳しいものになるでしょう」
未だ選挙は行われていないが、おそらく民党勢力が勝利する。議会運営は難しいだろうが、それを承知で何もせず突っ込む。少数与党による議会運営の困難さを示し、政府党の組織を働きかけるつもりだ。
「そうか……山縣さんの覚悟はわかった」
大久保は何があっても支援するという実に心強い言葉をくれた。厄介事を押しつけた自覚があるのか随分と優しい。
念のため、閣議でも大久保に話したような論理で議会に臨むよう閣僚たちに念押しする。とにかく最初の議会であるから無事に終えることが第一。事の性質を見極め、理非によって態度を決すべきだと訓示した。
翌明治二三年(1890年)七月に行われた衆院選挙では予想通り民党勢力が勝利した。定数300に対して民党171、吏党84、無所属45である。仮に吏党と無所属の支持を得ても過半数には届かない。議会運営にかなりの困難が予想されるなか、第一回議会を迎えることになった。
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