四姉妹の産声
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私の欧州滞在中、日本では大日本帝国憲法が公布されている。内容はほぼ史実と同様だが、いくらか変化もあった。大きいところでは内閣の規定が憲法上に盛り込まれ、首相に国務大臣の任免権が付与された。
また、陸海軍も軍務大臣の下――すなわち政府の統制下に置かれている。統帥権干犯問題や軍部の暴走はかなり抑止できるはずだ。史実では、山縣と伊藤の間で軍部を独立させると暴走の懸念があることを了解した上で独立させている。しかし、人間はそこまで賢くない。絶対にないとはいえない以上、あることを前提に進める。性悪説で思考する私の癖だった。
私は欧州に来ているが、明治憲法に大きな影響を与えた憲法学者のシュタインの許を訪ねている。俊輔の勧めだ。はっきり言ってこれっぽっちも興味はなかったが、帰ったとき絶対に感想を聞かれると思ったので付き合いの関係からシュタインを訪問する。
意外にもシュタインは親切に対応してくれて、何かの参考になればと個人的に講義をしてくれた。日本の国家安全保障の観点から現在の領土の他に、朝鮮半島を確保すべきと助言を受ける。
……でもなぁ。
現代人からすると、あそこにはあまり関わりたくないというのが本音だ。絶対に面倒なことになる。しかしながら他国が朝鮮を確保した場合、日本に攻め寄せてきたときの戦場は対馬や九州だ。本土が戦場になると勝っても負けても悲惨である。ならば多少の面倒は承知で勢力圏(という名の緩衝地帯)を設けるべきかもしれない。可能であれば油田がある満州や樺太も押さえたいが……まあ国際情勢を見ながら慎重にいこう。
折角ウィーンに来たのだからと、シュタインの講義を聴く傍らで音楽鑑賞に勤しむ。さすがは「音楽の都」と呼ばれるだけはあって、演奏は超一流。CDやネットで聴く以上の迫力があった。ちなみに私の好みはベートーヴェンの『第九』だ。落ち着きたいときには『月光』も聴く。あとは……ワーグナーの『ワルキューレの騎行』である。なぜ好きなのかは語るまでもないだろう。
「素晴らしい演奏だった」
「そうですね。こういう芸術面でも人を育てなければと思いました」
「余裕ができれば、芸術学校みたいなものを作るのもいいかもしれないな」
なんて会話を海としている。
ひとしきり音楽鑑賞を楽しむと、オーストリア=ハンガリー二重帝国を離れて再びドイツへ。そこでは皇帝ヴィルヘルム二世、宰相ビスマルクとの会見がセッティングされていた。後者との会見ではかなり緊張したが、大きな失敗もすることなく無難に終えている。両名からは仲よくしていこうね、というような当たり障りのないメッセージを受け取った。まあ敵対する理由もないし、学ぶべきことは多い。拒む理由はなかった。
そうこうしているうちに欧州滞在も最終盤となる。帰りの船にはイギリスから乗ることになっており、私たちは再びイギリスへと舞い戻る。途中、パリに少し滞在して海がオーダーした服の試着を済ませた。本縫いをしたものを日本へ送ってもらうよう手配する。
私も秋山を捕まえて、ベルタの車を使った長距離移動の話をした。やはり実例を示した方が早いと思ったのだ。こちらの読み通り、秋山は興味を示してより研究すると言った。私からも、研究用として自動車を一台だけ軍に置くことにしたと伝える。帰国したら実験でも何でも使ってくれ、と言っておく。
夫婦がそれぞれパリでの用事を済ませると、ドーバー海峡を渡ってイギリスへ。そこで欧州における最後の仕事をこなす。それは造船所の視察だ。
「やあ、待ってたよアリー」
「ここか?」
「うん。設計図を見せながら説明するよ」
ジョニーに案内された部屋で設計図を見せられる。そこには前弩級戦艦の典型的な武装配置が描かれていた。すなわち主砲を中心線上の前後に主砲、左右に副砲群、若干の速射砲と水雷艇対策の機関砲という配置だ。さらに速力は十六ノットと比較的快速であった。
これは日本がイギリスへ発注した主力艦。いよいよ海軍強化に本腰を入れようとなり、温めていた計画にゴーサインが出たのである。予算も下り、海軍念願の主力艦の建造に乗り出した。今、私が目にしているのは軍内で「甲艦」と呼ばれている主力艦の設計図だ。
「うん。注文通りだな」
設計担当者からひと通り説明を受けた私は頷く。その性能は満足のいくものだったからだ。一方のジョニーは少し険しい顔をしていた。
「アリー。本当にいいのかい?」
「何が?」
「火力も防御力も清国の船には及ばないけれど……」
言いにくそうにしながらもはっきり言った。そう。日本が主力艦の建造に踏み切ったのは清国に対抗するためだった。
東洋一の船といえば日本海軍の持つ扶桑だったが、1885年に覆される。清国海軍に戦艦定遠、鎮遠が配備されたためだ。排水量は七〇〇〇トンを超える巨艦であり、東洋唯一の戦艦だった。
清国は早速、その武威を見せつけてくる。翌年に両艦は長崎へ入港。長崎の人々は見たこともない巨大な船に度肝を抜かれた。……と、これだけなら大清帝国の力を誇示するだけで済んだのだが、人間は愚かだ。大きな力を持つと気が大きくなる。彼らも例外ではなかった。
寄港した艦隊からは日本側の許可がないにもかかわらず勝手に水兵が上陸。飲酒して酔っ払ったまではいいが、市内で暴れ回るのだから始末に困る。当然、日本の警察が飛んできて間抜けをしょっ引く。すると一部の水兵が仲間を取り返すべく武装して交番を襲撃。警官は帯剣していなかった(外国から抗議があって居留地に駐在する警官は帯刀を禁じられていた)ため警棒で応戦して撃退したのだから恐れ入る。
その翌日、長崎県知事と清国領事が話し合って水兵の上陸は原則禁止。上陸させるときは士官に監督させるという約束をし、それが合意されることを期待して拘留されていた水兵を釈放した。だが、清国側は舌の根も乾かぬうちに再び水兵を上陸させる。約束した翌日にやるのだから悪意しか感じない。
上陸した水兵たちは復讐しようと思ったのか交番を襲撃。今度は数百人がまとまってやって来たので交番に詰める警官では多勢に無勢。集団リンチに遭って二名が死亡、一名が重傷を負う。これを見た長崎市民が助けに入り、日本側と清国側とが入り乱れての大乱闘となった。
警察の応援も来たが、清国側が武装していることから対抗すべく帯剣しに戻ったため介入が遅れた。最終的に日本側は死者二名、負傷者三十余名。清国側は死者四名、負傷者五十余名を出している。
長崎事件と呼ばれたこの事件は当然、日清間の外交問題に発展した。長崎と東京でそれぞれ両国間での協議が行われ、双方が見舞金を払うことになる。清国側の被害が大きいことから日本側の方が多く出すことになった。
当時、話を聞いた私はこの決着にかなり反対した。経緯を聞けば明らかに清国側に落ち度がある。にもかかわらず、単純な被害の多寡で見舞金の額を決めるなんて間違っている、と。しかし、外相の井上は清国を徒に刺激しないためだ、と反対を一蹴した。
このような経緯があり、一刻も早く清国に対抗しなければならないという考えがタカ派を中心に湧き上がる。そして温めていた建艦計画を提出し、これが認められたのだ。
計画の骨子は大型巡洋艦(甲艦)と小型巡洋艦(乙艦)を四隻ずつ建造すること。両艦級ともに二隻はイギリス、もう二隻は国内(横須賀と倉屋)で建造することとしていた。
「たしかにこれでは厳しいだろう」
スペックだけ聞けばかなり有力な船に思えるが、ここに排水量と主砲の大きさを加えると一気に現実に引き戻される。排水量は五五〇〇トン。主砲も十インチ(四十口径)であった。連装砲にしたかったが、とても収まらないので泣く泣く単装砲二基二門。防御力もお察しであり、とても七〇〇〇トンの定遠級戦艦に対抗できそうにない。
「だったらやはり二隻をキャンセルして戦艦を二隻造るべきだ。今ならまだ――」
「悪いがそれはできないんだ」
ジョニーの言うことは正論だ。目には目を、歯には歯を、戦艦には戦艦を。それはわかっているし、戦艦を建造するだけの資金がないわけではない。ではなぜ戦艦を建造しないのか。それは運用できないからである。
日本の港湾施設は現状、五〇〇〇トンほどの船にしか対応していない。それから考えると甲艦のサイズでもかなりギリギリだ。戦艦ともなればどんなに小さくしても一万トン前後になるのは確実。そんな船どこで整備と補給をするのかとなる。差し迫った脅威を前にして、悠長に港湾拡張から始めましょうとは言っていられない。ならば今できる最大の船を整備しようとなった。それが甲艦なのである。
――と、ここまでジョニーに説明すると、彼もようやく納得してくれた。
「だが、この船も悪くはないだろう?」
甲艦の仕様についてはかなり妥協に妥協を重ねた。だからこそ私は丁度いいお手本を大いに参考にさせてもらった。それがドイツのドイッチュラント級装甲艦である。かの船はヴェルサイユ条約下にあって、重巡以上戦艦未満の絶妙な位置につけた。私もそれを念頭に攻撃力は戦艦のやや下、防御力と速力は巡洋艦並みとする仕様を提案。これが軍部で受け入れられたという次第である。
「ああ。ここまで詰め込みながらバランスも崩していない。よくまとまっていると思うよ」
武装や装甲を積みすぎるとトップヘビーになってしまう。だが、甲艦は排水量の制限があることから余計なものをつける余裕がなく、必要最低限のものを載せたスマートな船に仕上がった。さすがに戦艦とはまともに戦えないが、巡洋艦ならば圧倒することができるだろう。
「巡洋艦以上戦艦未満の絶妙な船だね。新しい艦種になりそうだよ」
「なら『ポケット戦艦』ってのはどうだ?」
「いいねそれ! 艦種はそう呼ぶことにするよ」
さすがはポケット戦艦と呼び出した国。ジョニーはあっさり飛びつき、甲艦はポケット戦艦と呼ばれるようになる。すまんなドイツ海軍。この呼び名は先にもらった。
とはいえ、ジョニーが評したように甲艦は攻防バランスよくまとまったものとなっている。もちろん戦艦とまともに撃ちあったらとても敵わないが、それ以外ならば問題ない。戦艦はたしかに強力だが、それだけを揃えれば勝てるというわけではないのだ。巡洋艦や駆逐艦の援護があってこそ輝ける。野球で四番打者を揃えれば勝てるわけではないのと同じだ。そして甲艦は縁の下にいる巡洋艦や駆逐艦を叩き、戦艦を丸裸にすることが基本的なコンセプトだった。
設計図を見せられて説明を受けた後は、実際に建造されている現場に足を運ぶ。まだ骨組みの一部しか姿ができていないが、一年もすれば船体は完成するという。そこから艤装があるので竣工は二年ほど先になるとの見立てだが、今から楽しみである。
そして四姉妹のうちの二隻は先述のように日本で建造されることになっていた。私が帰国して程なく、イギリスから甲艦の設計図が送られてくる。国内でそれを複製し、横須賀の造船所と倉屋に配った。その後もイギリスで製造された部材が順次、送られてきてそれを国内で組み立てる現代でいうところのノックダウン方式で建造が進められる。
国内建造にあたってはイギリス側と微妙な交渉があった。当初、イギリス側は四隻ともイギリスで建造することを主張したのに対して、日本側は半数を国内で建造したいと希望する。イギリス側はかなり渋ったが、日本側は受け入れられないならばフランスに依頼するとした。
このとき、日本にはフランス人お雇い外国人であるエミール・ベルタンがおり、こちらにも艦艇の建造依頼をしていた。イギリスもこの動きはキャッチしており、極東でのプレゼンスを維持するために日本側の要求を丸呑みしたのである。
日本側としてはまさしく計算通りであった。たしかにフランスに艦艇建造の依頼はしていたが、甲艦に関してはブラフ。青年学派のベルタンには彼らの真骨頂ともいえる軽快巡洋艦(整備名目は乙艦)二隻を任せ、やはり日仏で一隻ずつ建造する。こちらについてはまた別の機会に。
甲艦の四姉妹は明治二五年と翌二六年に、乙艦も明治二五年に竣工した。事前に整備された宇治型巡洋艦とともに大小の巡洋艦四隻ずつを基幹とした四四艦隊が完成するのである。
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