渋柿オヤジ
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陸軍大学校は参謀を育成する機関である。しかし、陸軍は創設されて日が浅い。各分野に精通した専門知識を有しているとはいえなかった。だからこそ勉強会という形で月曜会ができたわけだが、頑張っても書物のなかの世界。本当に正しいのか、と疑心暗鬼に陥っていた。
そんな陸軍に「正しい知識」を授けるため、ひとりの人物が来日した。名前はクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコフ・メッケル。かの有名なメッケル少佐だ。
日本陸軍は創設以来、フランス軍をモデルにしつつ制度を整えてきた。これは実のところ妥協であった。幕藩体制下で幕府や諸藩がイギリスやフランス、ドイツにオランダと兵制を模倣した。それらを統合して陸軍を発足させるにあたってどの兵制で統一するかとなって、最大公約数的にフランス式になったのである。
しかし、普仏戦争の結果としてプロイセン(ドイツ)の方が優れていると証明されたためその軍制の導入を模索。フランスもそうはさせじと妨害してきたが、日本は遂に腹を決めてドイツをモデルにすることとし、教官の来日を正式に依頼した。
極東におけるプレゼンスを拡大する好機だと考えたドイツは、部内で戦術の権威として知られていたメッケルに白羽の矢を立てた。参謀総長のモルトケが訪日の説得交渉にあたり、「モーゼルワインが飲めないところには行きたくない」という発言を逆手にとって、「日本にも輸入されているから問題ないな」と辞令を出している。
モーゼルワインはあるか、なんて照会電報が飛んできたと聞いて訳がわからなかったがこういう裏話があったらしい。なお、メッケル少佐は「一年くらいなら……」と折れたが、日本側から要請した期間は三年。ドイツ側も同意していたが、そのことは知らされなかった。言ったら確実にひと悶着あるだろうから既成事実化してしまおうということらしい。
もちろん日本の動きにフランスは激怒した。前年、大山が渡欧した主な目的はフランスに対する弁解であった。損な役回りをさせてしまったが、そのときは宮内卿として天皇に捕まっていたためどうしようもない。帰ってきたときにお疲れ、と存分に労っておいた。
さて、メッケルは史実において日本陸軍に多大な影響を与えた人物である。導入しようとするドイツ軍制とは何ぞやということを徹底的に叩き込み、敗戦によって日本陸軍が消滅するまで影響は残った。来日したときに軍関係者ということで面会したのだが、有名人ということで平静を装うのが大変だった。
「意外によく整っていますな」
メッケルは陸軍大学校で教官を務める傍ら、軍事顧問として陸軍のアドバイザー的な役割も担っている。教官としての仕事の合間を縫って軍制の調査をし、指導改善していくのがメッケルの仕事だった。上の発言は調査がひと通り終わっての発言である。
私は大山に乞われてメッケルの報告に立ち会っていた。今は大山がトップだが、制度設計はほぼ私が軍務卿時代にやったこと。西洋の軍人からの評価を聞くのは当然である(余談だが、当時の陸軍部長だった信吾も呼ばれていた)。
「これを考えたのは山縣閣下だとか」
「そうですね」
メッケルがこちらを向いたので肯定する。その後、いくつか質問が飛んできた。大半はかつて部内に説明したことだったのでそれを踏襲する。
「……閣下はクラウゼヴィッツをはじめ、ドイツ軍学への造詣が深いようですな」
「西洋の文献はドイツに限らず色々と勉強しています」
前世では漠然とした知識しかなかったが、現世でそれでは無責任なので勉強に勤しんでいた。『孫子』をはじめとする東洋兵学はもちろん、西洋兵学の本が入手しやすくなるとそちらも読み漁っている。また、脳内には機動戦や縦深作戦、エアランドバトルなど未来のドクトリンも詰まっていた。
「ヨーロッパに来訪された経験はあるようですが、ほぼ独学でこれとは……。閣下の才覚には敬服いたします」
「少佐にそう言っていただけるとは光栄です」
日本軍なんて……と、少し見下していたところがあったのだろう。しかし、意外に整備された内実を見てメッケルは考えを改めたようだった。
これが先制パンチとなったようで、メッケルは自国の流儀を押しつけるのではなく、自身の持つ知識を伝授することに留める。それでもこちらの得る知識は大きかった。特に今現在、陸軍が採用しているフランス軍を打ち破ったドイツ軍の知識は大変参考になる。他国があれこれと試行錯誤するなか、その本流であるメッケルから直接に指導を受けられるのは大きなアドバンテージだ。
メッケルの指導は陸軍に大きな衝撃を与えた。革新的なモルトケ式戦術の講義は人気を博し、噂を聞いた士官が暇を見つけては講義を聴きに来ている。彼の講義は特別に誰でも聴講可能にしたため、校長の児玉源太郎さえも講義に潜り込んでいた。
そしてその影響は反主流派の根城と化していた月曜会に壊滅的打撃を与える。主催の長岡外史は学生(一期生)として講義を受け、先進的なモルトケ式戦術に大きな衝撃を受ける。さらに許されていた聴講に東京周辺にいる会員が訪れ、同じくカルチャーショックを受けて帰っていく。
月曜会は非薩長将校が中心となり、そこに陸軍非主流派の将官(四将軍)が乗っかっていた。ただ、将校と四将軍は軍拡の点で意見が割れている。後者は必要最小限度でいいと言っているのに対して、前者は列強と同等の軍拡を目指すべきと考えていた。この考えはむしろ主流派に近いものであり、両者が接近する土壌は整っていたといえる。
さらに立見尚文の存在だ。私が重用する四天王に佐幕派だった立見が含まれており、昇進に関しても立見をはじめ非薩長出身者も活躍していれば薩長出身者よりも先に昇進させていた。そしてとどめとなったのがメッケルの講義。これにより主流派が勢力維持だけでなく、先進的な知識を取り入れようとしている姿勢が示された。争点がなくなったことで月曜会の中心だった将校たちは穏健化する。
史実と異なり四将軍の根城であった監軍部も参謀本部もなく、天皇と伊藤も私が押さえているため彼らは孤立。その後、大山が月曜会の解散を命じると唯一の支援者だった井上を頼るも多勢に無勢であったため拒否されてしまう。将校たちは解散を受け入れたため、四将軍は抵抗する術を失う。軍における再起の目は与えない、と大山は彼らを予備役編入として陸軍の権力闘争は一応の決着を見た。
そしてこの時を私は待っていたのである。月曜会の解散によりフリーになった長岡を呼び出した。
「貴官は新しい物好きと聞いている」
「は、はあ……」
それがとうした? みたいな反応だ。困惑しているのがよく伝わる。元は反対派閥のボスに呼び出されてひと言目が「君って新しい物好きらしいね」と言われれば当然といえば当然か。でもこれ以外に言葉が思い浮かばなかったのだからしょうがない。
「そんな君に是非とも紹介したいものがある。きっと気に入ってくれるはずだよ」
そう言って取り出したのはいつぞやの紙飛行機。てってれー、と出してみたものの長岡は相変わらず困惑中。微妙な空気が漂うが構うものか、と紙飛行機を飛ばす。
「これは……」
再び長岡の声。だが、今度は困惑ではなく感嘆といった様子だ。私はこれで釣れた、と確信する。
「今更言うまでもないことだが、我が国は列強に遅れをとっている。これを挽回するにはただ彼らが進んだ道を愚直に進むだけでは足りない。まったく新しいものを生み出さねばならないと考えている。活路は空だ」
「なるほど……山縣閣下のお考えはわかりました。この長岡、喜んで協力いたしましょう」
「ありがとう。君には期待しているよ。日本の航空分野を是非とも引っ張ってもらいたい」
史実では二宮忠八からの意見具申を突っぱねたものの、後に飛行機が実用化されていくと自身の不明を恥じて二宮に直接謝罪した。一兵卒相手に将官が謝るなんて考えられないことだが、そんな素直で真っ直ぐな長岡に私は好感を持っている。実行力もあり、困難が予測される飛行機開発の推進役になってくれるはずだ。反面、暴走しがちなところもあるが、そこは上手く手綱を握ってやればいい。結局は使い方なのだ。
長岡は陸大卒業後、本省勤務をしながら飛行機開発に邁進する。その熱は先に話をしていた四天王以上のものがあった。やはりというか「使えるのか」あるいは「使い物にならない」といった感じで消極的な意見が目立つ。しかし、長岡は飛行機は必ず役に立つ、と反対派をねじ伏せる。そして航空本部が設置されると初代本部長として活躍。世間では長岡を加えて「山縣五奉行」などと呼ばれるようになる。
閑話休題。
メッケルに話を戻すと、陸大の一期生は彼にみっちりしごかれた。日本陸軍を担う人材に育てるためである。だが、その過程で思わぬすれ違いも生じた。
「学生が退学処分?」
「講義中にメッケル少佐と言い争いになり、激怒した少佐は帰国するとまで言い出しまして……。宥めるには当該学生を辞めさせるしかなく」
内務大臣を務めてはいるが、軍籍は残っている。現役の陸軍大将として軍部が今どう動いているのかを知っておくことは必要。なので最低でも月一のペースで四天王の誰かを呼んで情報提供を受けていた。そのなかで校長の児玉からそのような話を聞かされる。
詳しく聞くと、それは講義中のこと――
『諸君らは未だ充分な見識があるとはいえない。例えば今、私と諸君が指揮官として戦場に立ったとしよう。諸君らが日本軍を率いたところで、私がドイツ陸軍の一個師団を率いれば容易く撃破できるだろう』
『教官! それは聞き捨てなりません。近衛含め精鋭七個師団を以てすれば――』
『黙れ! 学生如きの口答えは許さん!』
という具合に言い争いになったという。まあ、話を聞く限りは学生に発破をかけるつもりだったのだろう。言い方からして、自分の知識を伝授されれば対抗できるようになる、と解釈できる。だが、差別に敏感になっている日本人からすると我慢ならなかったのかもしれない。不幸なすれ違いというやつである。
最終的にメッケルは件の学生は「文明国の参謀として不適格」とまで言い放つ。現代人からすればそこまで言わなくても……と思うが、コンプライアンスなんて言葉はない。それに学校という場では教師は神で生徒は奴隷みたいなもの。致し方ないといえばそれまでだが。
そんなトラブルはありつつも、メッケルの指導は本気だった。一応、陸軍大学校には優秀者を選抜しているのだが、一期生で卒業できたのは半数に留まっている。もっともこれは学生の質の問題というよりは、それだけ厳しい指導が行われた結果であるともいえた。
適当に仕事をこなしていてもいいのだが、メッケルは本気で日本陸軍を強くしようとしてくれている。学生たちもそんな彼を「渋柿オヤジ」と渾名し慕っていた。言い争いなって退学になった根津一も、メッケルは日本陸軍の恩人であると述べている。
彼の薫陶を受けた世代は、後に軍高官として大いに活躍することになるのだった。
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