内閣発足
――――――
祖母が亡くなった。年末に体調を崩し、年が明けて程なくしてあっさりと。史実では維新に身を投じた私の足を引っ張らないようにとの理由で自殺したが、それよりも畳の上で孫や曾孫に囲まれて逝けたのは幸せだったのかもしれない。
葬儀のために少し休暇をもらった。通夜を終えた後、子どもたちを寝かしつけた海から話を聞く。本当に急なことだったのでその日は普通に仕事に行っており、臨終には立ち会えなかったのだ。だからそのときのことを知るのは彼女だけである。
「これ……」
そう言って海が持ち出したのは短刀。少し古びたその短刀に見覚えがある。母の遺品――功山寺挙兵が成功した後、祖母に渡したものだ。
「そこにあったのか。探していたんだ」
あの日の約束は今でも覚えている。この短刀はその証。どこを探してもないので困っていたのだ。祖母はいつも肌身離さず持っていたのですぐ見つかるはずなのにおかしいなと思っていたが、海が持っていたとは。
受け取ろうと手を伸ばすが、ヒョイと避けられてしまう。え? と驚きの表情になるも、海は澄まし顔で答えた。
「お婆様から頂きました」
だからこれはわたしのものです、ということらしい。
「いやそれは――」
「旦那様のお母上のものなのでしょう? 旦那様との約束もお婆様からお聞きしました」
短刀の由緒を話そうとしたが、知ってると一蹴される。ならばなぜ? 疑問は膨らむ。それを察した彼女は理由を明かしてくれた。
「お婆様は仰っていました。この短刀は旦那様との大事な約束の証。残念ながら自分はここまでだけれど、それをわたしに受け継いでほしい、と」
だからこれは渡せません、と海は短刀を胸に抱く。こうなると祖母の考えも読めてきた。
感覚的というかスピリチュアルというか……とにかく祖母はこの約束が私の躍進を支えたと考えていたらしい。それを海に継承させ、暗に歩みを止めるなと言っているのだ。
「わかりましたよ」
私は海にではなく、物言わぬ祖母へ向けて語りかける。すると、動くはずのないその表情が微かに緩んだように見えた。
「ところで、海の短刀はどうする?」
それは当然の疑問。彼女が祖母の短刀を受け継ぐのならば、彼女が元々持っていたものはどうするのか。末期とはいえ江戸時代に武家に嫁いできて、なおかつ実家もかなり裕福な家だ。短刀は刀ほどではないにせよそれなりの値段がするが、赤右衛門はきっちり買い与えていた。
「水無子にあげます」
「……まあそれでいいか」
警察制度が整ったものの、明治日本の治安はお世辞にもよろしくない。だから今も私は無論のこと、家族に対しても護衛がつけられている。とはいえ万一の可能性もあり、愛娘の最後の砦として渡すのも悪くはないのかもしれない。
とはいえ、今渡したところでどうしようもない。成人したときにということになった。
葬儀を終えると職場に復帰する。天皇にも話は行っているだろうが改めて復帰を報告した。
「もういいのか?」
「はい。無事に送ることができました」
「ふむ……少し話そう」
復帰報告の場で天皇は突然の思いつきをし、野外へと連れ出される。自由すぎないかと思ったが、宮中に天皇を止められる人間はいない。明治維新の遂行者として絶大な崇敬を集めており、だからこそ担ぎ出そうとする人間が現れるのだ。そんな彼に意見をできるのは同じく維新の功労者くらいである。
……私? 私は下っ端なので無理です。
それはさておき、天皇と赤坂仮御所の庭園を歩く。ここは紀州藩の上屋敷だった場所で、現代でも赤坂御用地として残っている。中央にあるのが赤坂御苑。園遊会の会場にもなっており、ニュースでよく映る場所だ。何となく見覚えがあるところで、この時代はこんな感じだったのかと少し感動しながら庭を散策していた。
庭園の半ばに差し掛かったところで天皇が話しかけてくる。
「山縣は早くに親を亡くしていたな」
「はっ。父は二十二、母は五つのときに亡くなりました」
天皇とは家族について話したことがあった。それを覚えていたらしい。驚きつつ、何歳で誰が亡くなったのかを答える。すると天皇は頷きつつ、
「此度は祖母を亡くしたと聞いた。大往生だな」
「そうですね」
この時代の寿命はおよそ六十歳程度。それからすると九十を超えた祖母の人生は大往生といっていいだろう。
続いてどんな人だったかと訊かれたので、厳しい人だったと答える。実際、私の姉妹には避けられていた。他家に嫁ぐと用事があるとき以外は実家に寄りつかなかったからな。しかし、私にとっては今世での母の代わりみたいな人だった。
「山縣にとっては母の代わりか……」
天皇は何かを噛み締めるようにしきりに頷いていた。それからも祖母について色々と訊かれたことを答えていく。話題にしやすいのはわかるけどなぜ? と思いながら。
そして話は功山寺挙兵の後日談に及ぶ。
「ほほう」
これに天皇が食いついた。
「約束は母から妻へ。なんともいい話ではないか」
「は、はあ。恐縮です……」
話している身からすると小っ恥ずかしいのだが。そもそも短刀を預け預かりしたのは咄嗟のアイデア。節刀にヒントを得たものである。だからあまり持ち上げられると困ってしまうのだ。
そんな私の気持ちを他所にキラキラした目を向けられる。武士に憧れていたからこういった忠孝や仁義というものが好きなのだろう。お婆様見ていてください、と出世街道を驀進するという話は美談としてウケるだろうけども。
こうしてあれこれ話しているうちに、ふと天皇がポツリと漏らした。
「西郷は師のようなものであった……」
その言葉にギョッとする。世間的には反乱の首魁ということで国賊という扱いになっているからだ。だが、この場がオフレコであることを思い出して落ち着く。天皇が西郷を慕っているのは周知の事実だからだ。それは西南戦争の後も変わらない。公の場で言えないことを言ったのは、ある意味で私に対する信頼の表れなのだろう。
「かつて言っていた。山縣は西洋の戦をよく心得ている、と。西南の役でよくわかった」
あの人、天皇にそんなこと言ってたのか。
「そなたのことは頼りにしておる。これからも頼むぞ」
「はっ。精一杯努めます」
私の想像以上に天皇から信頼されている理由がわかった。人の知らないところで西郷が余計なことを吹き込んでいるせいだ。その知識と西郷への憧憬が悪魔合体して私に西郷の姿を見ている。
……訂正するのも面倒だからこのままでいこう。今まで通りにやっていけばいいんだ。後で何か面倒事が起きそうな予感がビンビンするけども、起こったときの自分が何とかするさ。
こうして私は現実から目を背けた。
――――――
宮内卿としての仕事は無難にこなした。経験がないので一般の事務は宮内大輔に丸投げする。下にいたのは吉井友実。天皇親政を唱える宮中派だったが、佐々木と同様に工部省に異動させて現実を勉強させれば大人しくなった。
この吉井、西郷と深い深い関係がある。単に同郷というだけではない。上野の銅像を建てた発起人でもあるが、何より西郷隆盛と名づけた人物なのだ。どういうことかといえば、明治二年に西郷を叙位しようとなった際、本人が不在だったため吉井に名前を照会されたのだ。だが、彼はずっと西郷を「吉之助」と呼んでおり、本名をすっかり忘れていた。
しかし、勤王精神を骨の髄まで叩き込まれた薩摩武士にお上からの御下問に答えないということは許されない。吉井は必死に考えた。そして微かな記憶から呼び覚ましたのが「隆盛」という名前。だがしかし、これは父親の名前であり本人は「隆永」や「武雄」と名乗っていた。間違いに気づいたときには時すでに遅く。西郷も優しさなのか、それ以降は隆盛と名乗っている。
そんな人物だが、侍補や宮内大丞、同少輔をを務めるなど省務には通じている吉井。彼に任せておけば間違いはない。では私が暇をしているかといえばそんなことはなく、天皇の学問を扱っていた。差配するのではなく私が教える側。内容は軍事と政治だ。
特に前者の御進講ではアシスタントとして軍務省から四天王(桂たち)を呼ぶようにしていた。顔つなぎというやつだ。いずれ軍の高官として指導する立場になる。早いうちから経験を積ませておいて損はない。……初回は誰も彼もがガチガチに緊張していて、終了後の慰労会で思いっきり揶揄ってやったが。
そして私による御進講は天皇たっての希望で極めて現実的なものとなった。題して「建軍の歩み」。等身大の国情を知りたいとのことだ。どうも信吾になってから形式的な報告に変わったらしい。だから私に元のような報告をしてほしいという。
「少し耳の痛いお話もあるかと思いますが……」
「構わん」
美辞麗句を並べたところで日本が欧米列強からすれば取るに足らない極東の小国である、という現実は変わらない。曲がりなりにも人種差別反対、というお題目が掲げられている現代とは違い、この時代は有色人種に人権などないようなもの。私も天皇も――いや、この時代の東洋人は西洋人から有形無形の「侮蔑」を感じていた(もちろんジョニーのような例外もいるにはいるが)。だからこそ舐められないために邁進しているのだ。
さて、肝心の御進講は冒頭に五箇条の御誓文を持ち出した。四つめの「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」を引用し、
「建軍に際しては、まず第一に武士の悪弊を捨て去らねばなりません」
と述べた。何を以て「武士の悪弊」とするかといえば、幕藩体制から続く補給や後方支援態勢の軽視だ。特に補給というか兵站の概念が無いに等しい。ドイツから来たメッケル少佐に兵站という概念を注入されたことは有名だ。もっとも、日本人の気質なのか五十年もすれば忘れ去られたが。
戊辰戦争で見た藩兵(特に士分)は酷いものだった。装備は従者に持たせて移動するから戦場以外では武具を自分で持ち運ばない。行軍は幕府軍も新政府軍も宿駅制度を使うのでどこへ向かうかはバレバレだ。
まあ、星の数ほどある諸藩の部隊が集まった烏合の衆なのでまとめるなんてまず不可能と言われたらそれまでだが、仕方がないで済ませていい問題ではない。何より欧州から帰国したときに未だ装備を統一しようとした形跡さえないのだから、兵站軽視と言われても反論のしようがないだろう。
「勇猛果敢で忠義を重んじる武士の気質は大いに保存すべきですが、一方で先に挙げた悪弊は除かねばなりません」
「そう言うからには策を打っているのだろう?」
「もちろんです」
史実に遅れて今年(明治十八年、一八八五年)、参謀本部が設置された。以前から桂たちに設置を求められていたが、トップに据えるだけの人材がいないため拒否していたものだ。彼らの言うことは割とほいほい聞いていたので頑なな私の姿勢には困惑していたが、軍令を司る機関を信頼できない人間に任せられない。将官は反主流派が多く、史実では彼らが長岡外史の主宰する月曜会に入会し、参謀本部を根城に対抗してきた。
この月曜会とは士官学校の一期、二期生を中心に組織された組織で、表向きは最新の軍事知識を勉強する会ということになっている。しかしその実態は非薩長出身者の地位向上を求める団体であり、そこに非主流派の将官が合流したことで政治的な色彩を強めていた。対抗策は既に打ってあるのでじきに打破されるが、ともかくそんな奴らが跋扈しているところにポストを新しく作ってやることなどできないのだ。
そんなわけで参謀本部の設置には反対してきたが、ようやく任せるに足る人物が将官に上がった。今年、少将に進級した川上操六である。有栖川宮熾仁親王を参謀総長に迎え、川上を陸軍次長に据えた。皇族のトップは言っちゃ悪いがお飾りであり、川上が本当の参謀総長であった。また、児玉源太郎を第一部長(作戦などを担当する部署)とし、彼らにはその才能を十全に発揮してもらいたい。
同時に教育にも熱を入れ、まずは背骨ともいえる日本軍としてのドクトリンを策定することに力を注ぐ。中堅以下の将校や下士官など部隊で指導にあたる人材を育成すべく習志野に参謀本部直轄の教育部隊を創設。金がないので大隊規模だが、各部隊から技量優秀者を引き抜いてきている。質でいえば近衛に匹敵する精鋭だ。隊長には私子飼いの立見尚文中佐を充てた。ここで学んだ者たちが部隊に行って指導。ドクトリンを浸透させるのだ。
そして参謀本部と並ぶ目玉組織が陸軍兵站部。こちらは桂太郎を部長にしている。桂はプロイセンに私費留学して感銘を受け、同国の軍制導入論者となっていた。その特質ともいえる参謀本部の設立に熱心であったので、この人事には難色を示した。次長は自分で児玉が部長でもいいのではないかと。そんな桂に私は言ってやった。
「プロイセンの参謀本部は元は兵站を扱う部署だった。私が兵站を重視していることは君も十分承知しているだろう。だからこそプロイセンを知る君に兵站部を任せたいのだ」
なんてもっともらしいことを言えば是非やらせてください! と前のめりになった桂。ちょっろ。
――とまあ、こんな感じに組織を整備して将兵の考えを改めようとしていますよと伝える。天皇が望んでいた実務的な報告だ。
「兵士が強いことはもちろん大切ですが、一方で彼らが十全に戦える態勢を作ることも大事です。腹が減っては戦はできぬ、刀折れ矢尽きるという諺があります。これらが示すように兵士が戦場で飢えることも、武器弾薬が尽きることもあってはなりません」
「もっともだ。しかしそれは簡単ではない……。山縣はそのために何が必要だと思う?」
「経済力です。有り体に言えば金です」
その答えは天皇にとって意外だったようで、金? とおうむ返ししてきた。なのでもう一度「金です」と言っておく。同じようなやり取りを桂たちとしていたので慣れたものだ。
「腹が減っては戦はできぬと申しましたが、同様に金がなくては戦はできません。兵を養うにも、武器を買うにも金がかかります。私は平時に肝心なことは強兵を養うだけではなく、経済力をつけていくことだと考えます」
政府は税金によって財政を運営する。軍事費もここから出るわけだが、税収が渋ければ軍事費も少なくなってしまう。だからこそ元のパイを大きくすることが重要で、そのためには産業を振興して国全体の経済力をつけていかねばならない。もちろん重税を課して国民から搾り取ることもできるが、それが常態化するのは健全ではない。
「経済力は軍事力。私はそう考えております」
「……そういえば、山縣の夫人は会社経営をしていたか。まさかそれを考えて?」
「まあ、少しでもお役に立てればと」
強ち間違ってはいない。より正確には政府財政に期待できないので、やりたいことを実現するために自由に使える財布が欲しかったからだが。海も倉屋を大きくできてWin-Winなのである。
しかし、天皇は「凄い」と純粋な目を向けてくるので少し心が痛む。どう言い繕っても金儲けだからだ。その使い道がたまたま国益と一致しているというだけなのである。
「現在、軍需物資の国産化に取り組んではいますが、現実には外国から輸入するしかありません。そのためには金が要ります。殖産興業は無論、ありとあらゆる手段を以て拡張にあたることこそ肝要だと私は考えます」
だからお金儲けしててもお目溢ししてください。贅沢を好ましく思わない天皇に不信感を抱かれぬようアピールしておく。金儲けに耽る私の行いはどうかと思っていたが、そういうことなら構わない、と天皇から言われたので狙いは成功した。
大久保に半ば無理矢理な形で宮内卿に据えられたわけだが、もしかするとこのようなすれ違いを見透かして推したのかもしれない。そう思ったのは彼に面会したとき、上の話をしたときの反応だ。なるほどなるほど、と興味深く頷くとニヤリ、と笑った。私にはそれがお手本のような「計画通り」という顔に見えたのだ。追及してもはぐらかされてしまったが。
ともあれ天皇との関係は以前よりもさらに深まり、私が在京しているときは頻繁に召し出されるようになった。その席では最新の軍事情報や日本の軍備(戦備)計画を話すことが通例となり、宮中グループからは「軍事顧問」と皮肉を込めて呼ばれるようになる。
そして迎えた年末。事前のロードマップに沿って内閣が設立されることとなり、私は宮内卿から離れた。留任を打診されたが、府中でやることがあるからと断っている。その妥協として頻繁なお召しになったのだが。
内閣設立にあたっては当然といえば当然ながら、初代の総理大臣は誰にするかという問題が持ち上がる。すなわち形式的な政府首班である太政大臣を務めた三条実美か、実質的な政府首班である大久保利通か。しかし、政府首脳の大半を占める薩長の見解は一致していた。
総理大臣を決める宮中での会議。何とも言えない緊張感が支配するなか、口火を切らされたのは私。
「私は大久保内務卿が適任と考えます」
「同意」
私の言葉に松方正義が続き、打ち合わせ通り薩長の参議たちが次々と賛成を口にする。参議全員の賛同を得た稟議書も、大久保が「考え直せ」と言っただけで潰してしまえるだけの政治力の持ち主だ。彼以外に考えられない。
三条派も大久保の名前を出されては屈せざるを得ず、総理大臣は大久保ということで決まった。かくして史実ではなかった夢の大久保利通内閣が爆誕する。
総理大臣 大久保利通
外務大臣 井上馨
大蔵大臣 松方正義
軍務大臣 大山巌
司法大臣 山田顕義
文部大臣 榎本武揚
農商務大臣 西郷従道
逓信大臣 伊藤博文
そして私は内務大臣に就任した。軍務大臣かなと思っていたのだが、「自分の後任は山縣さんしかいない」との大久保たっての希望を受けての人事である。もっとも大久保の政治権力の前には抵抗するだけ無駄なのだが。
なお、史実の伊藤内閣とは少し顔ぶれが異なっているのは首班が大久保だからである。特に文部大臣には森有礼を充てる案も出ていたが私が潰した。英語を国語にしろと言っているような人間を教育行政のトップに就けられない。天皇も森大臣案にはいい顔をしておらず、大久保は無難に榎本武揚を据えた。この辺りの感覚は流石である。
かくして政府の体制は整えられた。他方、民間においては議会開設に先駆けて私擬憲法が盛んに作られている。政府では諸制度の構想に忙殺されて後回しにされた感のあった憲法制定だが、内閣成立を機に動きが加速した。
要因のひとつはとんでもない私擬憲法が飛び出したこと。主権在民や議院内閣制など易しいもので、抵抗権やら革命権にまで言及したものがあった。極めつけは皇帝(天皇)を擁立する可否を国民投票にて決めるというもの。これはとんでもない危険思想だということで排除に乗り出した。そうして保安条例が制定され、危険分子とされた民権家を皇居周辺から退去させている。また、私擬憲法の制作も禁じた。
保安条例の制定と運用が内務大臣として私がやった初仕事となる。現代の感覚からするとやりすぎ、弾圧だなどと思うだろうし否定もしない。だが、民権家には壮士という用心棒的な存在がおり、武器も持ち出して敵対者を脅すなんてことも普通にやっている。それなりの強硬姿勢で臨まなければならない。なるべく穏健にと思っていたが、当事者となってみると弾圧も止むなしと思ってしまう。
「本当は地方制度を整えるとか、インフラ改良方針を決めるとかしたいんだけどなぁ」
大臣室でそんなことをぼやきながら仕事をするのだった……。
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