半武士、華族になる
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内務卿としての仕事は政党に対する処置だけではない。大久保の後任として政府の政務も見る必要がある。基本は各省卿が担当するが、求められれば意見をするし必要と思えばこちらから口を出すこともあった。軍は無論のこと、私が特に腐心したのは産業(工部)と財政(大蔵)である。
工部卿は佐々木高行。土佐出身で天皇親政を目指す中正党のメンバーだ。そんな人物がなぜ閣僚になっているのかといえば、現実を直視してもらうためである。
中正党は天皇親政の他に倹勤思想を持っていた。無駄をなくしてたくさん働こうというわけだ。その思想には賛同するが、現実には難しい。なにせ初めてのことであり、試行錯誤の連続であるからだ。どうしたって無駄は出る。十分な検討を経てからなら省ける無駄もあるだろうが、近代化を可能な限り急がなければならないためそんな時間的余裕はない。無理なことをわかってもらうため閣僚に据えたというわけだ。
そんな世間知らずさんをお世話することになったのが工部省。ここは発足以来、長州閥のメッカであった。長らくトップを務めた俊輔がいないため、工部省の長州系官僚の他に私がお目付役となっている。いや、職務経験はないんだけども。なまじ現代知識持っているため新しいことへの理解が早く、山縣なら大丈夫みたいな空気が上層部に漂っているのが恐ろしい。
それはさておき、この人事は当初の目論見とは別ながらいい効果をもたらす。私たちの狙い通り、佐々木は自分たちの倹勤思想が非現実的であることを痛感したようだった。しかし、だからといってそれを放棄するのではなく、閣員として政府方針に則りつつ倹勤思想に沿った政策を打つ。その最たる例が官営工場の払い下げであった。
何度も言っているように、政府財政は西南戦争をきっかけに火の車となる。さらに官営事業は公的な事業の常として営業成績が芳しくない。手探り状態で試行錯誤しながらというのもあるが、大きいのは効率を追い求めないことだ。緊縮だなんだと言いつつ、既存の予算はなるべく維持しようとする。必要最低限の金は降って湧いてくるので、どうにかしようとしない。それが大きな原因だった。
史実では大久保暗殺後、井上馨が工部卿となって事業の収益性改善に腐心するのだが、今世では俊輔が続けていたため非効率なまま。それに井上の改善もそれほど効果があったわけでもなく、どちらにせよ官営事業は救いようがなかったということだ。
「開拓使の払い下げが中止となっていて棚上げされていましたが、ここは査定を終えたものから売却していきましょう」
私のところへ突撃してきた佐々木は、積み上がった不採算事業を民間に売却しようと言い出した。省としては鉄道や港湾といった大規模な土木事業に注力するという。売却にあたっては大隈の作成したルール(工場払下概則)だと要件が厳しすぎるため廃止。代わって政府が事業ごとに査定した金額を、期間などについては適宜交渉した上で売却契約を結ぶということも提言してきた。
もちろん工部省の官僚からは大反対。この話を聞いた他の閣僚も後ろ向きだった。折角作ったものを売り払うのに抵抗があるのはわかる。だが、私はこれを認可した。財政が悪いなか、必要のない不採算事業を抱えておく理由はないからだ。
「そもそも殖産興業政策は日本に近代産業を根づかせるために行われている。今、日本の産業界を見れば紡績や製糸、造船に鉱山と民間で経営されているものは多い。ならばこれらの事業を政府が持っておく必要はないでしょう」
殖産興業の役目は果たしたというわけだ。私を援護してくれたのは大蔵卿の松方正義。大隈の下で大蔵大輔を務め、西南戦争に伴う財政悪化とインフレを前に緊縮財政を唱え続けていた。彼と大隈の対立は政府内では有名だった。
明治十四年政変で大隈が下野すると後任の大蔵卿に就任している。松方は早速、徹底した緊縮財政を敷こうとしたが、殖産興業政策を推進したい大久保に阻止された。随分と抵抗したらしいが、ボスである大久保には勝てなかったようだ。結果、財政を緊縮しつつ必要な政策にはきっちり予算をつけることになった。
大久保が生き残って重石になってくれたことで、史実のあまりにも苛烈だった松方財政はかなりマイルドなものになった。うん。インフレ局面でデフレ策を打つのは間違いない。でもものには限度というものがある。会社経営に関わっている身としては、猛烈なデフレというものは歓迎できない。だからこの変化はとても好ましいものといえた。
そしてその松方であるが、大久保に野望を挫かれても緊縮財政は諦めていない。鬼の居ぬ間に……というわけか、私のところに来て緊縮財政を訴えた。だが甘いな。大久保より与み易しと見たのだろうが、倉屋を抱えているから彼以上に私は頑なだ。それに国家債務一千兆とかいう現代日本から来た私にとって、多少の財政赤字は気にならない。要は債務の利払いさえできていれば問題ない。借り換えという手段もあるのだから。とはいえ、外貨準備であったり災害への余裕であったりは考慮しなければならないが。
「確かに政府財政が芳しくない今、不必要な事業を払い下げるのは有効だと考えます」
佐々木は事前に松方を説得していたらしく、大蔵省からはむしろ歓迎された。まあ、佐々木が事業払下とセットにしていた鉄道、港湾への予算増額は私が潰したからな。大蔵省としては大喜びだろう。もっとも、計画を白紙にしたわけではなく、より洗練された計画を練って実行に移すつもりだ。その頃には大久保も戻ってくるだろう。
とにかく、議会で政党が幅を利かせる前にさっさと幹線計画は確定させておきたい。奴らは鉄道が来るとなるや、自分のところに鉄道路線を引かせようと躍起になる。予讃線の郡中以南において、政友会と民政党が別々の路線を提唱し、与党が変わる度に予定線が変更され「朝令暮改線」とまで揶揄された例もある。一方、大八回りのように政治家による誘致が現実的なものであることもあるため一概には言えないのが厄介なのだが。
「――という感じで進めたいと思っています」
「うん。適当だと思いますよ」
そして井上馨についてもちょくちょく訪ねてはこれからの政策を話し、アドバイスをもらっていた。別に承認を経る必要はないのだが、私の立場は長州閥の力によっているところがある。だから気を遣ってボスに根回しておくのだ。面倒だけどね!
さらに宮中からの妨害を抑止するために天皇にも国政を報告する。後の世にいう内奏というやつだ。その場では天皇から宮中の意見を反映した御下問もあり、彼らが何を問題に思っているのかを窺うことができる。それを私が奉答したり、主務省卿から御進講したりして懸念を払拭することに務めた。これは大久保の読み通り。
まあこんな調子で周りに支えてもらいながら何とか無難に政府を運営していた。その間にあった大仕事は維新の立役者のひとりである岩倉具視の国葬。咽頭癌を発症した岩倉は天皇の見舞いも甲斐なく、明治十六年七月二十日に死去した。
岩倉の死後、太政大臣が追贈される。葬儀の準備に少しの時間を費やし、二十五日に国葬が営まれた。大功ある人物であるとして天皇から特旨が下され国葬が決定。だが、具体的にどう進めるのかについては暗中模索といった様子だった。結局のところ実務は政府に投げられたため、私が現代の国葬を参考にして段取りをつけた。その流れで私が葬儀委員長になる。
どうにかこうにか葬儀を終えたが、いつもこんな調子では大変だ。法制化すべきだと唱えたのだが、そうなると天皇の葬儀も定義しないわけにはいかない。だが、ご壮健にもかかわらずそのような法制化は不要であると反対された。変に粘る必要も感じなかったので引き下がったが、この分だと天皇が崩御するまでは前例踏襲となる。法制化するのは桂や西園寺が首相をしている時期だろう。まあ頑張れ、と陸軍省であくせく働いているであろう桂太郎に心の中でエールを送った。その日、桂は不意にくしゃみをしたとか。
私も必死だったので月日が経つのは意外に早く、気づけば年が明けて大久保たちが欧州から帰国する。
「お帰りなさい」
「ただいま帰りました」
「いい勉強になった」
帰ってきた大久保と俊輔はいい顔をしていた。実りのある憲法調査だったのだろう。当然の流れとして欧州での調査の話となり、二人が特に印象に残った言葉を教えてくれた。
「憲法は国の歴史や伝統、文化に基づいたものでなければならない、か……」
ドイツの憲法学者であるグナイスト、シュタインから同じようなことを言われたという。二人はプロイセン流で憲法を制定することに決心したようだ。しかし、あくまでも「流」である。プロイセンの憲法をそのまま導入するなんて考えはない。グナイスト、シュタインが言ったようにその国の歴史や伝統、文化に基づいた憲法にすることを心がけ、日本に合った憲法を編み上げるのだ。
早速、憲法制定のための準備委員会が開かれる。大久保たちの出発前に開かれたはいいものの、それ以後は議題もないため放置されていた。それが議題を得て動き出したのだ。
委員会はまず、帰国組による調査報告から始まる。事前に資料が配布され、大久保たちがそれに基づいて報告。結論としてプロイセン流に憲法を制定すべきと提言した。
「異議のある者は?」
委員長の有栖川宮熾仁親王の問いかけに応える者はいない。異議なしということでプロイセン流に憲法を制定することに決まった。
続いて具体的なプロセスに話が及び、まずは憲法制定に先立って周辺環境の整備を行うことが帰国組から提言される。すなわち皇室の藩屏としての華族(貴族)制度の制定、行政機関として内閣の発足だ。さらに準備委員会を発展させ、天皇の諮問機関とする案も出た。後の枢密院である。
これらの案も可決されて翌年に華族制度、次の年に内閣制度を発足させることになった。また、肝心の憲法については大久保を委員長、俊輔を副委員長とする起草委員会が発足。実務担当には井上毅が推された。
しかしこの井上には問題がある。プロイセン憲法の熱烈な支持者であり、その熱は派遣先の欧州で俊輔に窘められたほど。大久保の腹心だが、彼からしてもこいつはどうなのかと思わざるを得ないらしい。
「ならば部会制にするのはどうでしょう?」
そこで私が提案した。何だそれというような空気になったので説明する。簡単にいえば、憲法にざっくりとしたアウトラインを作成しておく。どんな内容を盛り込むのかを本当にざっくりと。例として皇室、立法、行政、司法を挙げた。
「このように部門別に条文を考え、後に統合していくのです」
帰国組に分担して編纂させれば井上の関与は低くできる。出来上がるものについても最終的には省卿や欽定憲法という建前、また性格からも天皇が関与するだろう。多数の人を介すことで井上の色を限りなく薄めることが可能だ。
「しかしまとまるのだろうか?」
「そのために時間をとっているのですよ」
議会開設までに設けた猶予は九年。あと七年ある。それまでには出来上がるだろう。最終的には天皇が関与する。そこで言い争いはともかく、何が何でも自己の主張を貫徹させようとするとは考えにくい。そんな考えもあったが伏せておく。
それっぽいことを言う能力は維新を経験し、政治家としてやってきたおかげでぐんぐん成長していた。嬉しくはないけどね。
特に対案も出ず、懸念を払拭する唯一の案ということで私の提案が採用された。諸々の人事が発せられ、私も無事に内務卿を退任する(後任はもちろん大久保)。よしこれで非職だと思っていたら別のポストへ就くよう辞令が下りた。それは宮内卿。
「なんで!?」
年甲斐もなく驚きの声を上げる私。いつものように大久保のところへ駆け込む。
「陛下の信任厚い山縣さんなら務まりますよ」
そんな軽い感じに言われても。
話を聞けば、華族制度であったり内閣制度であったり、とにかく国家の根幹に関わる制度を整えていく。この大事なときに宮中勢力からあれこれ茶々を入れられるのは避けたい。だから私が宮内卿として侍り、干渉を抑制してほしいとのこと。要するに防波堤になれということだ。
「欧州に行っていたときの話は聞いている。随分と上手くやっていたそうじゃないか」
その調子で頼む、ととても軽い調子。子どものお使いじゃないんだからさ。結局、交渉して内閣発足までという期限を設けてもらった。天皇に対する敬意はあるが、堅苦しいところは嫌いだ。早く脱出したい。
ただ、私の思いとは別に、このことが世間に公表されると家族からとても喜ばれた。
「陛下のお側に侍るなんて光栄じゃないですか」
「孫が宮内卿……夢でも見ているのかしら」
特に海と祖母は大喜び。祖母なんて天に召されてもいいなどと言っていた。縁起でもないことを言わないでほしい。年齢的にはそうだが、まだまだ生きていてほしいのだ。
それから予定通りに制度改正は進んで行った。明治十七年に華族関連の法令(華族授爵の詔勅、華族令)が公布され、旧大名家と公家に加えて功労者に対して爵位が与えられることになる。私は功労者ということで伯爵位を賜った(華族令には史実で記載のない公侯伯子男の等級を盛り込んでいる。明治二十七年のものに近い)。椿山荘も伯爵邸というわけだ。それなりの格好もつくだろう。
この件でも祖母が感激していた。山縣家は長州藩士ということになっているが、実際は武士といえるか極めて怪しい(何ならギリギリアウトの)家柄だ。そんな生まれの私が宮内卿となり、また爵位を得たことは無上の喜びだったよう。ただ少しはしゃぎすぎたか、年末に体調を崩してしまった。
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