政党と内ゲバ
あけましておめでとうございます
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開拓使官有物払い下げを受けて沸騰した世論を沈静化させるため、払い下げの中止とともに天皇より九年後に国会を開設するという詔(国会開設の詔)が出された。この件で住友から文句が来たが、近いうちにやり直すからと言って収めている。払い下げるときは彼らに便宜を図らねばならないだろうが、そのときの担当者が考えるだろう(他人事)。
ともあれ、これを受けて朝野ともに動き出す。政府では国の骨格である憲法制定へ向けて委員会が発足した。委員長は有栖川宮熾仁親王で三条と岩倉が副委員長、参議は委員となったが、実質的なトップは大久保である。その大久保は天皇の命で、ヨーロッパへ憲法調査に行くことになった。随員のひとりに俊輔を従えて。
「山縣さん。留守を頼みます」
「精一杯努めます……」
キリキリ痛む胃を押さえながら答える。別に病気ではない。身体は至って健康だ。物心ついてから風邪も引いていない。これは精神的なものだ。
胃を痛めている原因は私に留守を頼むと言ってきた大久保である。今回の外遊にあたって事実上の政府首班である大久保が日本を離れてしまう。何ヶ月あるいは年単位の話なので後任を立てなければならなかった。その後任に私が選ばれた。選ばれてしまったのである。
それを聞かされたときになぜ私? と思った。自分で言っててなんだが、軍という日陰部署でひっそりとやってきたはず。基本的に大久保にべったり。「従」の姿勢ばかり見せてきたはずだ。それがなぜ留守番とはいえ政府のトップに祭り上げられるのか。
「私でなくとも適任者はいるでしょう。井上(馨)さんとか……」
指名されたときにそう言ったのだが、大久保の考えは違うらしい。思考の経過を説明してくれた。
井上を後釜に据えることは考えたものの、宮中からの反発が大きそうだと諦めたらしい。確かに彼の復帰にあたってはひと悶着あった。天皇親政への回帰を目指す宮中グループが妨害し、井上の参議就任の裁可がなかなか下りなかったのだ。大臣と参議が連名で嘆願してようやく通った次第。この行動から拝察するに、天皇もあまりいい感情を持っていないのかもしれない。
そんなわけで井上案はボツ。薩摩に人材はいないのかというと、黒田が十四年政変でしくじったため除外。その下になると松方正義となるが、代理とはいえ首班にするには軽すぎる。となると……私しかいないな、うん。いや、人材少なすぎな。脱落者が多いからだけども。
そんなわけで薩摩からは出せず、まさか三条や岩倉を担ぎ出すわけにもいかない。有栖川宮熾仁親王も同様である。となると長州しかいないのだが、井上案も潰れ俊輔もいなくなったなか、残るは私だけだったということだ。
これだけ聞くと消去法的に仕方なくという感じだが、大久保の動きからしてそんな感じはしない。なぜなら憲法調査を命じられた翌日には私のところに話を持ってきたからだ。井上案は検討こそしたものの、実現させようと粘った様子はない。普通なら交渉でもっと時間がかかったはずなのだ。それが翌日。あり得ない。
そして何より、いつかの与太話を現実にしたのだから本気度が窺える。外遊にあたって大久保は内務卿を退くこととし、その後任に私を据えたのである。軍務卿は退任となった。
「後任がいないんですが……」
長く私が軍務卿の座に留まっていた原因の半分くらいがこれだ。四年周期で交代すべきかなと思って川村に話をしたところ、軍全体は見きれないと拒否された。陸海軍が交代でトップを務めるという慣例によって統合を納得させているところがあり、いきなりそれを破ってしまうのは憚られる。だから留任し続けていたのだ。これをどうするのかと大久保に訊ねると、実にシンプルな回答が返ってきた。
「西郷(信吾)にやらせる」
「いや、信吾は陸軍……」
「ならば海軍に転籍させればいい」
強引すぎるが、大久保の政治力なら朝飯前。かくして信吾は一夜のうちに海軍へと転籍し、第二代軍務卿となることが決まった。ちなみに陸軍部長の後任は大山巌。これだと軍部が薩摩に染まるが、そこは私が首班として上手くコントロールしろと大久保は言った。難しいことを言うなこの人と思ったが、軍上層部との関係は良好で実動部隊である中堅幹部には桂たち長州系も多い。まあ不可能ではないだろう。すべては私の政治力にかかっている。……なんでこんなことになったんだ(遠い目)。
そして目下、最大の懸念点は天皇親政を目指す宮中グループ(中正党)である。こいつらへの対処はどうしようかと思っていると、大久保からアドバイスがあった。
「山縣さんは陛下との関係が深い。拝謁する以外にお召しを受けることも多いから、我々のやっていることをよくよくご説明しておけばいいだろう」
西郷(と木戸)ロスから立ち直った天皇ではあるが、彼らを――特に西郷を慕う気持ちに変わりはない。初期には西郷とセットで天皇に仕えていたためか、私に西郷の幻影を見ているらしく頻繁にお召しを受ける。拝謁した回数は参議たちのなかでもダントツではなかろうか。大久保はそんな天皇との直接のパイプも後任として相応しい要素に数えたようだ。
ちなみに井上は条約改正交渉に挫折して辞任した寺島宗則に代わって外務卿に就任している。首班扱いではないため不満そうだと風の噂で聞いたが、政治的な緊張関係を考えると申し訳ないけれども譲れない。まあ、何かあれば相談に行って顔を立てることにしよう。
しかしこれで果たして大丈夫なのだろうか。私は不安しかなかったが、大久保はいささかの憂いもないといった様子で旅立っていった。
大久保出立後の国内に目を向けると、議会が開設されることになって自由民権運動がますます高揚した。国会期成同盟が板垣退助を党首とする自由党に発展し、翌年には大隈重信が党首の立憲改進党が誕生する。
この「政党」の誕生は警察関係者――ひいては内務省の人間をピリピリさせていた。党勢拡大と称して板垣が各地を飛び回っている。彼らは議会を五箇条の御誓文にある「万機公論に決すべし」との文言を実現する機関と位置づけ、支持の拡大を図っていた。
「法を犯さない限りは抑制的に振る舞うように今一度、通達を出せ」
内務卿となった私はこれらの運動を過度に取り締まらないよう何度も言っていた。反発する者もいたが、無闇に取り締まれば政党に格好の攻撃材料を与えることになる。だから監視はすれど統制はかけるなと言った。
統制が緩んだ効果(?)か民権運動は政府批判も含め政治宣伝を活発化させ、思わぬ大事件を誘発してしまった。それが明治十五年四月六日に起きた板垣退助岐阜遭難事件である。急進的な民権運動、民権派と官権派の新聞の対立を見た相原尚褧という人物が岐阜で演説していた板垣を襲撃したのだ。
「それで!?」
「はい。負傷こそしたものの命に別状はないとのことです」
これを聞いて安堵する。史実を歪めているので板垣がここで退場するのではと思ったが、そうはならなかったようだ。
後日、新聞でこの事件が報道された。脚色がなされたのかかなりドラマチックで、襲撃直後に板垣は「吾死するとも自由は死せん」と発言したと書いてあった。これを読んで、この事件が「板垣死すとも自由は死せず」という板垣のよく知られた名言のネタになっていたことを知る。
なお、襲撃した相原という人物は思い込みが激しいタイプらしく、東京日々新聞を深く信じていたそうだ。これに対抗する民権派が許せず、国のために首魁である板垣を殺害しようと思ったらしい。
う〜ん。これを聞くとペン(言葉)も立派な武器だなとつくづく思う。タチの悪さは武器以上ではなかろうか。言葉でも人は殺せる。このことは心掛けておかねばならないだろう。
私の放任姿勢に対しては内部から異論もあった。好き放題言われているのが我慢ならん、という感じだ。彼らの気持ちもわかる。だが、私は何と言われようと姿勢を曲げない。こんなことでは離反されそうだが、そこは大久保パワー。渡航前に部下たちへ私の言うことはよく聞くように、と厳命されている。帰ってきたときに言うこと聞いていなかったとバレたら後が怖いので大人しく従ってはいるが、いずれ暴走する輩も出てくるはずだ。
そんなことは私も大久保も百も承知。それでも放任するのは渡航前に交わした了解事項があったからだ。これは大久保の渡航前のこと……
「予想通り、議会開設が決まって民権運動が勢いを増している」
何とかならないか山縣さん、と大久保が相談してきた。メディアが噛むことはとりあえず私のところに持ってくるのやめてくれないかと思いつつ、ひとつ考えていたことがあったので献策する。
「古来より敵の敵は味方と言います。ここはひとつ敵を創り出すことにしましょう」
計画はこうだ。議会開設を前に、本場の欧州でその何たるかを勉強してもらう――そんなお題目を掲げて板垣に洋行を勧める。他方、民権家たちの間にはサクラを仕込み、これを批判させるのだ。問題は資金だが、これは私が倉屋を介して三井に出資を促すことにする。民権運動に対して離間工作を仕掛けるわけだ。
「なるほど」
話を聞いた大久保はこれを快諾する。その直後に洋行が命じられたため、この件は私が進めることになった。もちろんバレたら大問題になるため官僚たちには知らされていない。極秘で進められた。
こんな発案をしたのも、大久保や俊輔から板垣が洋行の相談に来たという話を渡航前に聞いていたからだ。俊輔は井上馨を介して三井に出資させようとしたようだが、私に話した方が遥かに早い。政府の機密費を倉屋を介して三井に渡してやった。
後藤象二郎が資金調達に奔走するなか、三井がポンと用立ててくれて問題は解決。後藤は出資者を蜂須賀家だと説明したようだが、誰であれ洋行の資金的な目処がついたことに板垣は喜んだそうだ。ただし、いざ行くとなると党内に波紋を広げることは自覚していたらしく、ごく一部の人間にしかこのことは知らされていなかった。
洋行についての秘密保持には気を遣っていたようだが、人の口に戸は立てられない。このことは噂話として世間に広まっていた。まあ、私が軍の諜報機関を動かしてちょいちょい噂を振り撒いていたのもあるが。もちろん板垣は否定し、自由党員もまあそうだよなと与太話にしか思っていなかった。
さて、いつこの爆弾を爆発させようかと思っていたが、好機は思ったより早く来た。というより、こちらの事情で暴露せざるを得なくなってしまった。原因は省内の抑えがきかなくなってきたから。いくつか不穏な動きが伝えられたため、ここでカードを切ることにした。
そんなわけでトラップカード発動。ターゲットは東洋のルソーこと中江兆民だ。こちらの息がかかった者に中江を歓待させて飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをやってもらう。泥酔して前後不覚になったところで新聞記者に洋行の噂について質問してもらった。すると今村和郎と栗原亮一が随員として渡航することをゲロる。この爆弾発言に場は騒然とし、数日のうちに各紙が報じることとなった。これが七月初旬のこと。
このことを知った自由党員たちは衝撃を受け、幹部である大石正巳や機関紙・自由新聞の記者である末広鉄腸などが洋行を止めるため板垣に直談判した。さらに資金調達に動いた後藤象二郎も詰められ、堪らず出資者が蜂須賀家というのは嘘だということも発覚。党内の混乱に拍車をかけた。
だが、板垣はあくまで洋行に拘る。出所の怪しい金は使わない、と支持者である豪農たちから資金を募って金を工面しようとした。それでも止めようとする大石や末広はこれを政府の策略だと止めようとする。
勘のいいガキは嫌いだよ、と言いたいところだが工作が少し露骨すぎたかなと反省していた。なにせ東京日々新聞をはじめとした政府系新聞が挙って板垣の洋行を歓迎する記事を書き立てていたからだ。もちろん私の指示である。相手の嫌がることをやるのは戦いの基本。ならば板垣の洋行を全力で支援してやろうというわけだ。
周りの制止にもかかわらず、板垣はあくまで意思を曲げない。曰く、政府の策略だろうが何だろうが洋行は自分の意思である、と。確かに我々は板垣のことを応援しているだけに過ぎない。言い分は間違っていなかった。この件は板垣の粘り勝ちとなり、大石たち反対派の追放という形で決着する。だが、無体な措置だと反発する者を生み、発端となった中江兆民や田口卯吉といった面子も離党した。
ともあれ障害がなくなった板垣は自身の体調不良により延期されたものの、十一月に念願の渡航を果たす。後藤の資金は使えず、自身が借り受けた金も届かなかったため現地では貧乏暮らしを強いられたが、本人は満足しているとのこと。それは何よりだ。
板垣の洋行は自由党を混乱させようと打った一手だったが、その効果は私の予想を超えて絶大であった。渡航費をめぐって主に改進党系の新聞が出資者は三井だろうと追及。これに自由党系の新聞がお前たちは三菱から金をもらってるだろう、と反発する。あとは互いに非難の応酬となり、そこへ政府系の新聞が適度に茶々を入れて問題を蒸し返すことで混乱を助長した。人々の関心はそちらに移り、政府批判は下火になる。
「さすがです閣下」
「大久保卿が後任にしたのも納得ですな」
内務官僚は一斉に掌を返し、私の評価は上がった。これを盤石なものにすべくさらなる手を打つ。舞台はこの頃ちょっとした騒ぎになっていた福島県である。
福島県に着任した三島通庸は道路工事のためとして男女が二年間月一で働くか、ひとりあたり十〜十五銭を負担させると布告。これに福島県会が反発して両者は対立する。さらに県会で県が前年比二・五倍の増税を提案。当然、県会は否決した。三島は内務省に対して原案執行の許可を求めてきたが、さすがにヤバすぎるので一・五倍に修正の上で認可している(これでも凄まじい上げ幅であるが私にはこれが限界だった)。
なかなかやっているが、三島は止まらない。自分に反抗する県会をコントロールすべく、旧会津藩士に帝政党を組織させて自由党員を襲撃させた。三島には民権運動が盛んな福島の引き締めを依頼したのは事実だが、誰もそこまでやれとは言っていない。
やり方があまりにも強引であり、反発もかなり強かった。これを訴え出ようとした佐治幸平らを逮捕したことがきっかけで千人を超える農民が警察署に押しかける騒ぎとなる。先述のように私は抑制的に振る舞うことを求めたが、現地の三島は徹底的にやれという指示を出していた。警官は威勢のいい三島の言葉に従って強硬手段に訴え、武力で鎮圧する。
「三島はやりすぎだ……だが、警察署に押しかけるよう煽動した者は許せない」
騒擾を誘発したということで徹底的な捜査を命じた。強い内務卿としての姿を示すためのパフォーマンスである。
私の意向を受け、福島県では民権派の拠点に捜査のメスが入った。そこから政府転覆に言及した文書が見つかったため捜査は厳しいものとなり、最終的な逮捕者は二千人に上る。弾圧と呼んで差し支えないだろう。とはいえ、これで私の省内基盤は確固たるものになった。ヘラヘラしてるだけじゃない。やるときにはやる奴なのだと官僚たちに認めさせたのだ。
なお、あまりに強引すぎるので福島事件と呼ばれる捜査にひと区切りついた段階で三島は栃木県知事に異動させている。こちらでは田中正造と対立するのだが、それは別の話(というかもう少し穏便にやれ)。
板垣というボスを失った自由党は急速に弱体化していった。指導力の欠如に加え、運動の中心を担っていた豪農たちが松方デフレによる打撃で余裕を失ったことも大きい。熱量が下がっている焦りからか活動も先鋭化し、明治十七年(1884年)までに加波山事件、秩父事件などの激化事件を起こす。
自由党員が絡んだこれらの事件の目的は政府転覆であり、もちろん厳格に対処した。特に秩父事件は数千人規模の武装蜂起であり、警察では間に合わないために軍隊が出動して鎮圧にあたっている。加波山事件も対応方針で紛糾することとなり、自由党の解散を決める要因のひとつとなった。
もう一方の改進党も党内の方針がまとまらず、大隈や河野敏鎌(副総理)が脱党。党組織は辛うじて維持されるも、その機能はほぼ停止するなど政党は私が主導した政府の分断策と内ゲバによって一時的にその機能を停止した。この間隙を突いて憲法制定へのプロセスが動き出すのである。
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