明治十四年政変 後編
――――――
黒田は大隈の方針に従って渋々ながら開拓使における官営事業の払い下げに着手した。明治十三年に大隈が「工場払下概則」を制定し、制度的な裏付けをつける。この動きに呼応して払い下げを受けるべく手を挙げたのが関西貿易社と北海社だった。
関西貿易社は五代友厚と住友が立ち上げた組織で、炭鉱と山林の払い下げを願い出る。他方、北海社は開拓使大書記官であった安田定則という人物(薩摩藩出身)が設立したもので、こちらも同様に開拓使の事業払い下げを申請した。
倉屋と関係が深い住友が出資する関西貿易社のことは海を介して私の耳にも入っている。話題になっていることでもあるので気にかけていたのだが、おかげでとんでもない話になっていることを知った。
「船に土地建物、各種施設で投資額およそ一五〇〇万円。それを約四十万円で払い下げる上に無利息三十年分割払いぃ?」
これを聞いたとき、最初は売却額の桁を間違ったんじゃないかと思った。だが、確認しても間違いはないという。さすがにヤバすぎる。閣議で黒田がこの件を提議したが、私が突っ込むより先に大隈が問題にした。
「これは明らかに払い下げの概則に違反している」
先に制定した「工場払下概則」であるが、これはなかなか厳しいものであった。競争入札とし、買い取り金はすぐさま支払うことになっている。もちろん官営事業に投下された資本、またその資産価値はかなりのもの。今の日本にそんな要件で金を払える団体はごく僅かだ。それがルールだと言われたらそれまでだが、ちょいと恣意的や過ぎないかという感は否めない。
「いや、これで問題ない」
しかし、黒田は問題ないと強行突破を図る。それに待ったをかけたのは有栖川宮熾仁親王。概則に照らせば売却の要件に沿わないと反対した。これに私も乗っかったが、ルールが厳しすぎるので緩和したらどうかという意見を付け加える。これは住友以下、財界からの要望も踏まえたものだ。
「これでいいのでは?」
風向きが変わったのは大久保のそんなひと言だった。それから参議たちが次々と賛成意見を述べていく。これを見た黒田はご満悦だ。私は察した。この酒乱、私以外のところに根回しをしていたな。変だなと思ったんだ。反対意見を述べたときに大久保が目を丸くしていたから。なんでそんなこと言うのかといわんばかりに。どうしてそんな反応するのかと思えば、そういうことだったのね。
閣議は黒田の根回しが奏功して出席者は賛成多数。提議は通過して天皇の裁可を仰ぐこととなった。完全な仲間外れにされてしまったわけだが、私も似たようなことをしたことはある。因果応報というか、こういうこともあるさと気持ちを切り替えることにした。主張は続けていくけどね?
あの後、大久保や俊輔からもしかして話が行っていなかったか? と問われたので頷いておいた。すると二人は渋い顔をして、黒田にはよく言い聞かせておくと言った。仲直りに飲みに行かないかと言われたが、酒乱と一緒はちょっと遠慮しますと言っておく。シンプルに嫌だ。木戸のように制圧できればいいのだが、私は上背はあっても細いヒョロガリ。柔術も人並みだ。そう言うとすごく納得された。
ともかく、閣議で事前に話がなかったのは残念だが私はあまり気にしていない。負けは負け。次に向けて切り替えていくしかないのだ。だが、そうは思わない奴がいたらしい。数日後、東京横浜毎日新聞にこんな記事が掲載された。
「関西貿易会社の近状」と題された記事で、この会社が五代友厚の息がかかった会社であり、ここに対して開拓使の事業が格安で払い下げられようとしている。これは黒田による五代に対する明らかな利益供与だと述べているのだ。
「山縣さん?」
件の記事が出た日、私は大久保に呼び出された。例の閣議決定は天皇の裁可を待っていて公になっていない。つまり、政府内の誰かが情報をリークしたことになる。容疑者のひとりが私らしい。まあね、言論界との繋がりは深いからね。
「私じゃないですよ」
記事を書いた東京横浜毎日新聞は本木昌造の築地活版が印刷を請け負っている。リークして掲載されるなら福地の東京日々新聞など、倉屋が印刷を請け負っている新聞だと反論すると納得された(まあ仮にやるとなったら自分の息がかかった新聞にリークなどしないが黙っておく)。
代わって疑われたのは大隈だった。彼かもしくは彼の部下だろうと目されている。理由はリーク先の東京横浜毎日新聞。社長は沼間守一という人物で、自由政党創立委員や国会期成同盟のメンバーだ。旧幕臣だが大蔵省や司法省に出仕した経歴の持ち主で、司法省時代に上役だった江藤新平や河野敏鎌(佐賀閥)との関係で大隈ともつながりがあるらしい。そのラインが動いたのでは、と政府内で専らの噂だ。
噂は噂を呼んで陰謀論の域に達しつつあり、大隈と福沢が三菱の意向を受けて動いていたとまことしやかに囁かれている。住友の広瀬宰平もまた、開拓使の事業払い下げに出遅れた三菱が挽回策としてリークし払い下げを頓挫させようとしたとの観測を述べてきた。
たしかにあの記事には怪しいというか、不思議なところがある。黒田と五代の仲があって事業が格安で払い下げられようとしているとあるが、格安で払い下げられる先は関西貿易社ではない。明らかな誤報なのだが、これが故意か否かによって話は変わる。
ともかくこの記事によって世論はざわついた。だが、それを他所に手続きは粛々と進む。七月の末に天皇の裁可があり、翌月の初めに公表されると世論は沸騰する。新聞各紙もこれを一斉に批判。実に恣意的なのは、このような不当な払い下げが罷り通るのは議会がなく民意が反映されていないからだという言説がポンポン飛び出してくることだ。本当に誰か裏で仕組んでいるのではなかろうか? そう疑ってしまう。あるいは政府批判の収束点がそこなのか。
政府はこの猛反発を受けてさすがに危機感を覚えたらしい。三条実美は今になって払い下げの中止を考えだし、慌てた黒田が三条邸に押しかけてあくまでも払い下げの実行を迫ったという。
「閣下。開拓使の事業払い下げについてですが……」
「いいところに来てくれた」
世間のムーブメントに乗り遅れまいと、東京日々新聞の福地源一郎も私のところへ取材にやってきた。政府系の新聞ということで偉いさんを取材することも多い同紙だが、なかでも私のインタビューは受けがいいらしい。割とぶっちゃけた話というのが人気だそうだ。話すことは全部、大久保たちに確認をとっているのだけれども、そんな話を世間の人々は知らない……。
それはさておき、この事態に困った大久保はどうにか事態を鎮静化しようと私に相談してきた。言論界に働きかけてくれとのことなので、福地の取材で訂正を試みる。世間で話題になっている格安での売却先は違うのだと。どうしても黒田を叩く格好にはなってしまうが、この際だからそれは仕方ないと目を瞑る。……別に仲間外れにされた恨みじゃないよ本当だよ。
「なるほど……」
「これならば世間の注目を集めることにもなる。君のところの経営にもいいのではないか?」
「そうですね。他社とは違う報道ができれば耳目を集めますからね。論戦も望むところです」
福地は戦う気満々だった。こういうところは実に武士らしいなと思う。後日、東京日々新聞では「払下問題につき山縣参議の談」という記事で、事実誤認であることが報じられた。東京横浜毎日新聞の調査不足を論難しつつ、あるいは何か別の意図があったのかと邪推するような書きぶり。これは私の注文通りだ。福地はいい仕事をする。
この記事をきっかけに政府系と民権派の新聞とで批判記事の応酬が始まるが、私にとってはどうでもいい。大久保の依頼通りにメディアを使って批判を逸らす。これは当初こそ狙い通りに運び、大久保も満足していた。
だが、議論されるにつれて――細かな事実関係はともかくとして――黒田が格安で事業の払い下げをしようとしたことには変わりないことが再認識される。すると議論はまたしても政府批判へと収束していった。
「これは誰かを切らないと収まりませんよ」
もう一度、同じことをやってくれと依頼してきた大久保に対して私はそう言った。民衆もそこまで馬鹿じゃない。こうも短い間に同じ手は通用しないし、何よりネタがないのだ。捏造は私のポリシーに反する。そこまでしてやるようなことには到底思えなかった。
「何とかならんか?」
「なりませんね。事ここに至ってはどちらかを切るしかありません」
黒田か大隈か。そのどちらかを切り捨てなければならないと決断を迫る。そして大久保は――
「……では大隈さんを」
大隈を選んだ。黒田とは同郷というのもあるだろうが、それ以上に大隈に対する疑惑が大きいだろう。大隈に連なる誰かが情報をリークしたことは明白だ。獅子身中の虫となる要素は排除しておきたい。頭を切れば下も離れるだろうとの計算だ。官僚がまた不足するが、今は財政難の時期。金が一番かかる人件費をカットするいい機会だと思うことにしよう。
酷い話だが、江戸幕府が曲がりなりにも飼い慣らしたとはいえ、今の世の中には「武士道」なんて連呼する似非ではなくリアルガチの武士が大勢いる。大半を占める平民だって何かあれば一揆も辞さない江戸時代マインドのままだ。そんな状況で後ろから銃を撃ちかねない奴らは極力、排除しておきたい。
大隈のクビを切ることになり、私たちは根回しを開始した。七月末から天皇が巡幸に出ており有栖川宮や大隈、黒田などはこれに同行している。私と大久保は俊輔や信吾たち他の参議を説得にかかった。
驚いたのは我々より先に動いていた人物がいたことである。それは大久保子飼いの井上毅。彼は大久保の側近であり、大隈の意見書も目にしている。その主張が福沢諭吉の著作に近く、イギリス流憲法は絶対反対との立場から参議たちの説得に東奔西走していた。
俊輔を訪ねると熱海での話し合いを持ち出し、大隈排斥が認められなければ自分は故郷に帰ると言い出す。困った俊輔は好きにやれと空手形を切り、これに満足した井上毅は欧米遊学から帰国した井上馨の説得にかかる。実質的な長州閥のトップは私と俊輔の二頭体制だが、名目上は井上馨になっていたためだ。おまけに彼は省卿の任にない非職の参議なので動きやすい。
宮島で静養していた井上馨の許に突撃して説得(ついでに熱烈なプロイセン憲法支持者にしてくれたが)。次いで薩摩閥に取りかかるが、首魁である大久保は避けて松方正義に声をかけた。こうして外堀から埋めていく作戦だったが、二人が動き出して間もなく私が大久保を動かしたので本丸からも堀が埋められることになった。
こうなると話は早く、あっという間に参議は大隈排斥論に染まる(天皇に随行している者は除く)。私たちはこれを盾に大臣格である三条実美や岩倉具視に大隈排斥を訴えた。
さらに私たちへ思わぬところからアシストがあった。それが非主流派で構成された中正党からの働きかけだ。彼らは非薩長系(あるいはその非主流派)がメンバーで、私たちを排除して天皇親政を目指す勢力。彼らの排除対象には大隈も含まれており、敵の敵は味方の論理で私たちの動きに賛同した。特に金子堅太郎は「大隈派の官僚から陰謀を聞いた」と証言。陰謀論を煽りに煽った結果、東京にいる政府要人は大隈排斥で統一された。
参議は大隈の罷免に加えて払い下げの中止、九年後に国会を開設するとの合意を行う。これは私が大久保に働きかけたものだ。
「まだ早い」
意見したときの第一声はそれだったが、私はそうも言ってられないと断行を迫る。
「私もそう思いますが、単に払い下げを中止しただけでは盛り上がった世論を落ち着かせるに至りません」
だからこそ、国会開設というニンジンをぶら下げてやって、民権派に内ゲバを始めてもらった方が色々と動きやすいと献策した。
「今は政府批判ということで、イギリス民権だろうがフランス民権だろうが関係なく、呉越同舟しています。特に焦点となっているのが国会開設です。それを呑んでやることで争点をなくし、細かな違いを浮き彫りにしてやれば四分五裂するでしょう」
実際、民権運動は自由党と改進党その他に分裂していく。大久保はなるほど、とこれを取り入れたのだ。
罷免の動きを大隈が察知したのは十月に入ってからのことで、もはや出遅れであった。十月中旬に天皇が帰京すると岩倉が払い下げの再考を上奏する。事実上の中止提案だ。その間に私たちは随行していた有栖川宮熾仁親王と会談し、大隈排除を呑ませる。これには頷くしかない。自分以外の大臣と参議が既に合意しており、覆せるはずもないからだ。
かくして大隈を除く大臣と参議の意見は一致。連名で天皇に大隈罷免を上奏する。天皇は薩長による陰謀かと思ったそうだが、中正党も賛同しているため余程の事態なのだと受け止めてこれを認めた。
これと同じ日に大久保と俊輔が大隈に面会して事の次第を伝えている。大隈はそのような陰謀はないと釈明したが、閣議の内容が事前に流出したことは紛れもない事実。リーク先から考えて大隈系官僚が犯人である可能性が高い。部下の不始末の責任はトップにとってもらう。そしてこの際、事実か否かはどうでもいいのだ。とにかく目に見える形で責任をとってもらわなければ。
「何にせよ払い下げは中止される。開拓使も事務作業が終われば廃止。黒田も適当なところに置かれるだろう。大隈さんと痛み分けということだ」
「後日、必ずや挽回の機会を与える。だから辛抱してほしい」
という具合に大隈を説得。それならまだ許せる、と大隈も納得して罷免されるより前に「身内の不始末の責任をとる」という理由で辞職した。
やはりというべきか、それを知った大隈系官僚が大量に辞職していく。有名どころでは佐野常民や河野敏鎌、前島密に犬養毅である。だが、私たちは獅子身中の虫がいなくなってよかったとむしろ歓迎するのだった(人材不足という現実からは目を逸らしながら)。
読者の皆様へ
今年一年ありがとうございました。毎度、何かしらの感想を頂けて執筆の励みになりました。来年も続けていきますので、よろしくお願いします。
それでは良いお年を
「面白かった」
「続きが気になる」
と思ったら、ブックマークをお願いします。
また、下の☆☆☆☆☆から、作品への評価もお願いいたします。面白ければ☆5つ、面白くなければ☆1つ。正直な感想で構いません。
何卒よろしくお願いいたします。