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明治十四年政変 前編


【お知らせ】後編は今月31日の0時に投稿されます(前編だけで年またぐのはどうかと思ったので)

 

 






 ――――――




 話は少し遡る。


 三菱による不当廉売を止めるために大久保の説得に向かった日。要請に難色を示されたので一旦は引き下がろうと席を立ったときのこと。


「ところで山縣さん。政体についての草案はできたか?」


「あ……」


 今日が提出期限の課題を忘れた学生のようなリアクション。心境もまったく同じだった。


「その様子だとまだみたいだな」


「あはは……。申し訳ない」


 一応、休んでいた理由は草案について静かな環境で熟考したいからというもの。今の今まで完全に忘れていたが。


 すみません、と詫びると大久保は手をひらひらと振る。


「責めているわけじゃない。出してきたのは黒田くらいのものだ」


 二ヶ月の超特急で出てきたそうだ。いくらなんでも早すぎやしないか。あの酒飲み(黒田)ってそんなに仕事ができるクチだったっけ? 何度か仕事をしたことがあるので記憶を辿るもそんな記憶はない。


 おかしいなと思っていたらちゃんと裏があった。あれこれ書き連ねていたが、要するに立憲政体の導入は時期尚早というもの。文章量は多いけど中身はぺらぺらだったというオチである。大学のレポートかな?


「色々と考えていますのでもう少し時間をください」


「構わないよ。あまりにも遅すぎると催促するかもしれんが、今年中に出してくれれば問題ない」


「ありがとうございます」


 と言われたものの、早いに越したことはないよなと無理しない範囲で草案の作成に取り組む。脳内では過激なものから史実に近い穏当なものまで浮かんでいたが、実際に書き上げたものは概要に留めている。


 政体としては当然ながら立憲君主制をとるが、模範とするのはドイツではなくイギリスだ。君主の絶対的な権能を諸々の国家機関に委任する。天皇は国家の象徴とする日本国憲法の表現を持ってきた。基本は明治憲法に依拠しつつ、ところどころ修正している。その他、三権分立や改憲の余地を残すための規定もつけた。


 出来上がったのは通達から半年後のこと。これを見た大久保は、


「……ほう。とても興味深い」


 とじっくり読み込んでいた。


 この後も井上、俊輔が意見書を提出する。井上のものはヨーロッパの制度を書き写しただけのものだが、俊輔のものは日本の国情に合わせた工夫がなされている、というのが大久保の評価だった。


 かく言う大久保も参議として意見書を書いている。ずるいなと思ったのは、私と俊輔が呼ばれて色々と意見を求められたことだ。それぞれの意見書を見て、優れていると思った者を呼んで指南させる。忙しいのはわかるけども、やはりずるい。


「少しいいか?」


 その日の帰り。俊輔に促されて飲食店に立ち寄った。海が怖いので少しだけだぞと言って付き合う。俊輔もあまり長くは拘束しないと言ってくれた。海のことは彼も知っている。元から付き合いもあるし、何より私の恐妻家ぶりは有名だからだ。妻同士も仲がよく、俊輔の妻である梅子を通じて私をあまり変なところに連れ込まないように申し送られているらしい。


 さて、個室に通され料理が運ばれてくるまで雑談に耽る。担当は軍務と工務。金を使うセクションであり、最近の寒い政府の懐事情を嘆く。愚痴っている間に料理が届いた。あまり他人に聞かれたくないから人払いをしておく。


「いや、小助があんなことを思っているとは」


 俊輔の話は立憲政体についてのものだった。私がほぼ独学だったのに対して、伊藤は井上毅の助力を得て作成したという。これを明かされる前に自分の案はひとりで考えたと言ったものだから色々と訊かれた。どこで知識を得たのかとか、目指すべき政体は何かとか。そんなことを小一時間ほど話して解散した。


 史実だとドイツ的な政体に惹かれた俊輔だが、この世界だとどうなるか。できればイギリス的な立憲君主制を目指してほしい。私も運動するつもりであるが、決定的な役割を果たせるかは微妙だ。軍隊の整備で手一杯というのもある。


 西南戦争を最後に一応、国内は落ち着いた。軍備も国内ではなく外敵に備えるという方針に転換されたため、これまでほぼ凍結されていた海軍の整備が本格化する。陸軍もまだまだ整備の途上であり、仕事は二倍とはいかないまでも五割り増しくらいにはなった。忙しい忙しい。


 本来の歴史なら、今年(明治十三年)の二月末に参議と省卿の兼任が廃止され、私は晴れて(?)軍務卿の地位を退くことになる。だが、今世では大久保が生き残り制度的に参議の地位を上げなくとも大臣たち(有栖川宮や三条、岩倉)の頭を押さえて政策決定するだけの政治力を有しているため、兼任制は継続していた。


 ……まあそれはいい。問題は大隈だ。意見書をなかなか提出しないのである。最初はじっくり考えているのだろうと思っていた。大久保も一年以内に出してくれればと考えていたが、その期間を過ぎても意見書が出されないのである。


「大隈はなぜ意見書を出さないんだ?」


 困り果てたのは発案者である大久保だ。催促してものらりくらりと躱されてしまうだけ。年が明けてもこんな調子なので、大久保は次第に疑念を抱く。


 実はサボってたんじゃないのか?


 私と俊輔に漏らしてきた。すると俊輔が一計を案じる。政治について語り合う、という名目で自身に近い参議たちを熱海に集めた。そこで立憲政体についての話を大隈に振り、何かしらの見識があるのかを探るというのだ。


「それはいい」


 これに賛同した大久保に請われ、私もこれに協力することになった。意見書のせいで立憲政体に詳しい人として認知されている気がするのは気のせいだろうか。ともあれ、私は俊輔とともに大隈の立憲政体への理解度を測る役割を担う。


 優先順位はとても高く設定され、一月末には熱海に私と俊輔、井上(毅)、黒田、大隈が集まって政治課題についての話し合いが行われた。だが、これは意外な方向に進む。


「開拓使は存続させるべきだ」


「いや、財政の観点から整理すべき」


 開拓使の黒田と会計担当の参議である大隈との間で、開拓使の廃止問題について激しい言い争いになったのだ。本命は立憲政体であり、開拓使の話はカモフラージュ用の話であった。ところが、こちらの意図に反してそれが思わぬ論争の引き金となってしまったのである。


 政府財政が逼迫するなか、様々な事業が大隈の手によって整理された。開拓使もそのひとつ。北海道の開拓が急務と考えた黒田は開拓使次官に就任した明治四年、十年総額一千万という巨額の予算を投じた開発計画(開拓使十年計画)を立案する。今年がその最終年。大隈は財源も乏しいのでこれを以て計画を終了すべきと言い、黒田はまだやるべきことがあるとして存続を主張していた。


 難しいのは両者ともに見るべきところがある点だ。大隈の言う通り、財源が乏しいなかで北海道に巨額の予算を突っ込むことはできない。だが、北海道の開拓はまだまだ道半ばという黒田の主張も正しいのだ。


 ジャッジは相互の政治力、周辺環境に委ねられることになる。その結果、大隈の主張が採用された。というのも、北海道開拓を急いでいた前提が崩れてしまったのだ。


 そもそも開拓使が置かれたのはロシアへの備えである。特に樺太の領有権問題があり、兵士と移民を続々と送り込んでくるロシアに圧迫されていた。だが、樺太・千島交換条約の締結によってロシアの脅威が弱まり、北海道の開拓を優先する必要性が薄くなる。そのため政府首脳も大隈の主張を通したのだ。なお、皮肉なことに樺太を捨てるべしと唱えたのは他ならぬ黒田である。なんというブーメラン。


 この件で大隈に思うところがある黒田は大隈に噛みついたわけだが、今さら判断が覆ることはない。


「――というような次第で、あまりわかりませんでした」


 二人の言い合いが続いたことで時間が圧迫され、大隈の憲政に対する理解度を測るには至らなかった。大久保にそのことを報告すると、


「うむむ……。こうなれば直接、訊ねるしかないか」


 時間もないからとストレートな手段に出る。いくら絶大な権力を握る大久保とはいえ、真正面から「出せ」と言えば反発されかねない。そこで反発しようのない相手から訊ねてもはうことにした。それが有栖川宮熾仁親王である。皇族からなら下手な反論や誤魔化しはできないはず。そんな見込みで根回しをし、大隈に意見書を督促してもらった。


「それで出てきたのがこれですか?」


「ああ。そうだ……」


 大久保が頭痛を堪えるかのように頭を押さえる。病気ではなく精神的なものに由来する痛みだ。なぜわかるかって? 私も同じことをしているからだよ。


 読み進めていくうちにスネアドラムが大太鼓に変わる。頭痛が痛いくらいだ。内容はイギリス型の立憲政体をとるべきだというもの。ここまでは私も納得できる。問題はここからで、早急に憲法を制定して二年後に議会を開き、政党内閣を組織すべきというのだ。


 まずひと言。お前は何を見てきた???


 政府首脳はほぼ全員、漸進的な立憲政治の確立という点で一致している。そこに保身という側面があることは否定しない。だが、同時にこれが最も現実的な策なのだ。


 民権運動家は盛んに政府批判を行い、自分たちこそ政権担当能力があると口にするが、所詮は口先だけ。変化があまりに急すぎて目的地が拡散してしまっていた。その上、現代の日本人からすると想像できないほどにバイタリティに溢れており、リーダーシップをとりたがる。結果、船頭多くして船山に登るのたとえ通りになって迷走してしまう。


 政党に身を投じるのはなぜか。現代なら(世襲はともかくとして)何かしらやりたいことがあるからだ。それは今日でも似たようなものである。その先が政府の官吏であったり、政党の政治家であったりするだけだ。ただ、彼らはとても純真だった。些細なことでぶつかって離合集散を繰り返す。あいつ嫌いだから俺は改進党にいく、といった現象が生じるのだ。


 そんな不安定な存在に政権を任せるとか本気かと言いたい。政府内も派閥争いはあるけれども、大久保以下がこれを押さえ込んである程度の一貫性を持っている。相対的に安定した存在であり、将来はともかく今のところは批判されようとも有司専制による政治を行うべきだ。


 ついでにいえば、この時期に多くの日本人は「政党」というものにいいイメージを持っていない。何らかの目的を持って人々が集まる政党の性格は「一揆」に近く、封建制を通じて醸成された悪いイメージが大きく影響していた。


「それに殿下(有栖川宮)には内密にしてくれと提出したそうだ」


 オフレコにしてくれと頼んだということは、大隈にもヤバいという自覚はあったらしい。まあ現にこの場で見た人間全員の反感を買ったからな。ちなみに有栖川宮熾仁親王はオフレコでという大隈の願いを聞かず、大久保はもちろん三条や岩倉にばっちりリークされている。前者は我々の差し金であるという理由もあるが、後者にも持っていったのはあまりに過激すぎると思ったからだそうだ。まったく以てその通り。


「どうせ福沢(諭吉)あたりに唆されたのだろう」


 大隈はこのところ福沢諭吉と交流を深めていた。その縁で慶應義塾出身の官僚が大隈の下に結集。大隈閥を形成していた。そのせいか彼らの影響を受けた言動が散見されるようになっている。これまで歩調を合わせていた大久保も距離を置くほどの入れ込み具合だ。


 さすがにこれは問題だということで、大隈を呼び出して真意を問うことにした。三条や岩倉、有栖川宮熾仁親王も了解の上でのいわば査問である。呼び出された大隈は、


「申し訳ない」


 と陳謝。


 内容は福沢に唆されたのかという質問については、


「自分の見込みです」


 と否定する。さらに意見書はあくまで将来的な予想であり、個人の見解だと述べた。……いや、議会設置して政党内閣を組織すべきとか言っておいて「予想」は苦しすぎるだろ。これを聞いた者たちは一様に何言ってんだこいつ、という目を向けていた。それを感じたのか、最終的には寛大な心で許してくださいと懇願し始める大隈。さすがに憐れに思われ、査問会はそこでお開きとなった。


 それからしばらくは平穏な日々が続いたが、嵐はすぐにやってきた。発端はやはりというか黒田と大隈であった――。









 長くなったので前後編に



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