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嵐の訪れ




本日から二日間、5:00、13:00、21:00に連続投稿する予定です。ぜひご覧ください!




 






 ――――――




 奇兵隊は身分を問わず隊員として受け入れている。もっとも、身分が関係ないわけではない。所謂、士農工商といわれる階級はワッペンにより区別されているだけだが、被差別階級については「屠勇隊」という部隊に集められている。明確な差別だ。後に統合されるが、寝る場所などの差別は残る。それでも同時代でいえば画期的なことだった。


 そして私は高杉の推薦によって奇兵隊に入ったわけだが、新人にも関わらず幹部クラスの地位を与えられた。高杉は総監を退いたが、影響力は大きい。コネ万歳。


 しかし、コネに甘えてるだけではいけない。私は暇を見つけては高杉の許へと通い、彼の教えを受けていた。一般教養は前世の記憶があるので問題ないが、軍事に関しては完全な素人だ。もちろんネットなんかで得た知識はあるが、軍事教育を受けたわけではない。松下村塾に出入りしていた期間もわずかで、講義もろくに受けていないのだ。そんなわけで松陰の教えを受けた高杉の許に通っているのだが――


「山縣。お前、才能あるな」


 高杉の教えはネット知識に毛が生えた程度のものだった。考えてみれば当たり前で、この時期の日本に入ってきたのは西洋軍学の理論。ほとんどの人間は実戦を経験していない。だから細かなところはわからないのだ。なので、ネット知識と大差ない。あっという間に私は高杉に並ぶ西洋軍学者となった。


 私が高杉に教えを受けている間、奇兵隊では一悶着起きている。高杉の後継として隊の総督となった河上弥市以下十名余が脱藩したのだ。都落ちした公卿のひとり、澤宣嘉を擁して但馬で挙兵するのだという。但馬生野(天領)には農兵論を唱える豪農がおり、代官は言論に寛容であったから人々は感化され攘夷思想が高まっている。そういう下地のある但馬は生野にて挙兵するのだという。


 まあ、向かった頃には八月十八日政変によって政局がガラリと変わっているわけだが、彼らには知る由もない。上方へ着いた一行は、そこで先に挙兵していた天誅組の壊滅を知る。時期尚早との声もあったが、河上らは天誅組の仇をとるべきと強硬に挙兵を主張。軟派を制して但馬生野にて挙兵と相成った。


 檄文によって集まった農民はおよそ二千。なかなかの規模だったが、天誅組の件でピリピリしていた上方諸藩の動きは早かった。翌日には姫路、出石藩が合計千九百の藩兵を動員。鎮圧に差し向けた。


 これに動揺した蜂起軍では再び解散論が持ち上がる。その場は河上らの威圧で蜂起継続と決まるも、夜のうちに澤をはじめとした軟派は離脱してしまう。これを知った農民たちは騙されたと怒り狂い、河上たちへと襲いかかる。河上らは自害し、かくして幕藩勢力と戦うことなく生野蜂起は失敗に終わった。


「そうか……」


 顛末を聞き及んだ高杉は瞑目した。高杉と自害した河上は出自が同じ大組士の家柄ということもあり、親しい友人だったのである。


 奇兵隊も総督の脱藩騒ぎでゴタゴタしていたが、十二月になる頃には三代目総督として赤禰武人が就任して収まりを見せた。ちなみに私も高杉の推薦により軍監(副官)となっている。見識を高杉が認めているということで、入って日が浅いにもかかわらず反対はなかった。


 そんな高杉はというと、文久四年(1864年)の一月に突如として脱藩した。桂小五郎の説得で二月には帰藩したが、罪を問われて野山獄へと投獄されている。


 私は野山獄の高杉と面会して問いかけた。


「なぜ脱藩を?」


「京から退去を命ぜられたのでは攘夷が遠のく。ゆえに工作をしようと思ったのだ」


「高杉さん。今は機を待つのです。焦りはわかりますが、急いては事を仕損じる、ですよ」


「……そうかもしれんな」


 高杉は苦笑した。


「それでは――」


「ああ、待った」


 用が済んだので帰ろうとすると、高杉に呼び止められる。


「昨年末に帰藩した村田蔵六という男がいてな。江戸にいる桂さんが推挙したのだが、西洋の学問に通じた一廉の人物で、奇兵隊の指導もしてもらっている。一筆書くから、山縣も会ってみるといい。素っ気ない男だが、見識は確かだ」


「わかりました」


 私は村田への手紙を受け取り獄を出る。平静を装っていたが、内心ではとても興奮していた。村田蔵六――後の名は大村益次郎。近代日本軍の建設者である。


 早速、高杉からの紹介状を携えて村田を訪ねた。彼は今、兵学校の教授役を拝命している。待つことしばし、ついに対面した。


「お初にお目にかかります。山縣小助です」


「村田蔵六と申します」


「「……」」


 会話がない。両者無言。気まずくなって私から適当な話を切り出すが、どれもひと言二言で片づけられてしまう。高杉が言ったように素っ気ない人物のようだ。ちょっとしたコミュ障だろうか。


 ただ、用兵の話になると少し口数が増える。村田は宇和島藩に出仕し、江戸に滞在していた経験もある。私はまだ江戸に行ったことがないのでどうだったのか訊ねた。そのなかで台場についての話が出た。


 現代にも遺構が残っているが、所謂お台場は江戸時代に外国船の襲来から江戸を守るために造営されたものだ。大砲が据えつけられ、海を睨んでいる。それがどのようなものなのか気になった。


 というのも、私は今、壇ノ浦支営の長として同地の警備を担っている。現在、長州藩は攘夷を実行中であり、関門海峡を封鎖していた。壇ノ浦は海峡で最も狭くなっている要衝で、砲台も設置されている。しかし、昨年の米仏軍艦の来襲時に壊滅的な打撃を受けており、復旧を急いでいた。その参考にしようと思ったのである。


「台場か……まあ、参考にはなるでしょう」


「含みのある言い方ですね。村田殿には思うところがあるご様子。お聞かせ願えませんか?」


 私の求めに頷いた村田は、


「あれは絵に描いた餅だ。江川先生が造られたが、あれはタクチック(戦術)ばかり考えてストラトギイ(戦略)というものが考えられていない」


 そうこき下ろす。曰く、江戸の目の前に防衛施設を造るとは何事か。そこまで入られてから防備にあたるのは手遅れ、とのことだった。


 たしかに後年、東京湾の防備は抜本的に見直される。防衛対象に横須賀軍港が加わったという理由もあるが、ともあれ日本は敗戦まで三浦半島と房総半島に砲台群を築いて東京湾要塞を形成。防備を敷いた。


 台場は十字砲火を形成するよう工夫されて配置されるなど、戦術的には適っている。しかし、東京の目と鼻の先で防衛するのは戦略的には間違っている――村田はそう指摘したのだ。


「その点、台場は参考にならぬ点もあるゆえに気をつけるがよろしい」


「なるほど。たしかに戦術と戦略は履き違えないようにしなければなりませんね」


 勝負に勝って戦いに負けた、などといわれる。これは往々にして戦術と戦略の履き違えによって起こることだ。大いに戒めなければならない。


「ほう?」


 そんなことを頭で考えていると、村田が興味深いとばかりに声を出す。


「何か?」


 何に興味を示されたのかわからず困惑する。そんな私に対して村田は笑みを浮かべながら、


「貴殿はなかなか異国語への造詣が深いようだ。タクチックとストラトギイ……それを理解しているとはな」


 と指摘された。


 ……やらかした。それぞれ脳内翻訳して戦術と戦略と言い換えたのだが、この時代の人間はあまり知らない。外国語を修めている者はごく僅か。そういった知識人は弟子を教育するものの、わかりやすいよう日本語に訳してしまう。だって、その方が楽だから。


 いや、とにかくどうにか誤魔化さなければ。焦りつつも脳内で言い訳を考える。


「しょ、松陰先生に教えていただいたのです」


 吉田松陰が生前、授業で口走ったことをたまたま覚えていたことにした。授業で口走った、というのがミソ。授業内容を覚えている者はいても、発言を一言一句違わず記憶している者はまずいない。死人に口なしであるから、事実を確かめる術はないのだ。完璧。


「そういうことにしておこう」


「あははは」


 村田は訝しんでいたが、笑って誤魔化した。


「貴殿とは仲良くできそうだ。今後ともよろしくな」


「是非に」


 ちょっとしたやらかしはあったが、概ね友好的な雰囲気で面会を終えた。




 ――――――




 八月十八日の政変により京都での勢力を後退させた長州藩。藩内ではこれに不満を抱き、進発論が台頭していた。


 進発論とは軍勢を京都に差し向け、実力行使によって松平容保を排斥しようという強硬論である。当初は慎重論が強かったのだが、参預会議(一橋慶喜、島津久光ら公武合体派による合議政体)の失敗、それによる公武合体派の退京を見て強硬論が勢いづく。


 そんな状況で池田屋事件が起きた。京都に潜伏していた尊王攘夷派の志士を、新撰組が襲撃した事件である。これにより長州藩士も何名か犠牲になった。犠牲者には松下村塾の「三秀」「四天王」のひとりに数えられる吉田稔麿も含まれていたが、私はそれ以外の名前に衝撃を受けた。


「松助が!?」


「ええ。急を聞いて駆けつけたところを会津藩兵に見つかり、手傷を負ったようです」


 脱出して藩邸まで逃げ延びたものの重傷を負っており助からなかったそうだ。尊王攘夷運動で知人を失うのは――吉田松陰をカウントしないなら――初めてである。私はショックでしばらく仕事が手につかなかった。


 そして、藩ではこれをきっかけに強硬論が一気に藩論を支配。周布政之助や高杉晋作はあくまでも自重すべきと説いたが、強硬派の三家老(福原元僩、益田親施、国司親相)や久坂玄瑞は聞かず、軍を率いて京都に入った。


 上洛した長州藩勢は藩主の処分を解くよう嘆願書を朝廷に提出する。嘆願に対して朝廷内では賛成意見もあり、それぞれの派閥が激しく対立した。しかし、肝心の孝明天皇は長州藩を掃討すべしとの意見を変えず、穏便に済ませようと退去を勧告していた一橋慶喜(禁裏御守衛総督)もやむなく掃討に乗り出した。


 長州藩のなかでも久坂は勧告に従おうとしていたが、それ以外は主張が容れられるまでは居座り続けると主張。朝廷側が排除の姿勢を見せると挙兵した。


 蛤御門で長州藩と会津、桑名藩の間で戦闘が勃発。それを皮切りに各所で戦闘が始まった。長州藩は筑前藩が守る中立売門を突破し御所への侵入に成功するが、援軍に駆けつけた薩摩藩に追い散らされてしまう。


 久坂玄瑞は戦端が開かれたことを遅れて知り、戦闘に加わったときには既に大勢は決していた。それでも藩主の無実を訴えるのだと鷹司邸に侵入して鷹司輔熙に取りなしを依頼するが、輔熙は拒否して邸宅から脱出した。


 主人のいなくなった鷹司邸に対して、対応にあたった越前藩は大砲まで持ち出して攻め立てる。邸は炎上し、最期を悟った玄瑞は入江九一に遺言を託して脱出させると自害した。もっとも、逃がされた入江もすぐさま発見され討たれてしまった。だから玄瑞の遺言が何だったのかは知ることはできない。


 御所に向かって発砲したことは当然ながら問題視され、長州藩は朝敵と認定された。幕府からも藩主・毛利慶親に対して将軍からの偏諱である「慶」の字を、嫡男・定広についても「定」の字を剥奪するとの通知があり、それぞれ敬親、広封と名を改めている。


「大変なことになったな……」


 朝敵認定されたことで長州征討が始まるのかと憂鬱になりつつ、仕事場である壇ノ浦に顔を出す。ここには砲台があり、去年米仏連合艦隊によって破壊されたものを再整備している。


 砲台を見ていると海岸近くの平地に築かれ、崖下に位置するものも多かった。また、各砲台は独立しており、より効率的に打撃を与えられる「十字砲火」などはまったく考慮されていない。これでは敵から丸見えで、崖の上に着弾した場合には破砕された岩などが降り注ぎ無駄に被害が出てしまう。


 そこで私は村田蔵六の助言を受けたとして高杉に直談判。整備途中の砲台を抜本的に設計変更させようとする。具体的には整備が進む海岸線の砲台を放棄して崖の上へ構築し直すとともに、十字砲火を構成するように砲の向きを変更するというものだ。


 しかし、思い通りにはいかなかった。獄中の高杉を説得することには成功するが、藩からは難色を示される。それでも諦めず説得を続け、村田の援護もあって私が預かる壇ノ浦と隣接する御裳川、八軒屋の砲台を改良する妥協案に落ち着いた。


「さて、作業はどうなっているか……ん?」


 進捗状況を見に来たのだが、作業が止まっている。それ自体は問題ない。今は昼休憩の時間だからだ。私が気になったのはとある奇兵隊隊員の一団。彼らは新しい草履の裏に筆を持って何かを書き込んでいる。すれ違いざまに見れば「薩賊会奸」とあった。察するに薩摩の賊、会津の奸臣という意味であろうか。そう大書した草履を履くと、地団駄を踏むように殊更に地面に足を強くつけながら歩いていった。周りの隊員もいいぞいいぞ、と囃し立てている。


「しょーもな」


 時代が変革するなかで迷走するのはともかくとして、こんなことをやるのは感心しかねる。憂さ晴らしにしても程度が低い。呆れて物も言えず、私はその場を通り過ぎるのだった。










「面白かった」


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また、下の☆☆☆☆☆から、作品への評価もお願いいたします。面白ければ☆5つ、面白くなければ☆1つ。正直な感想で構いません。


何卒よろしくお願いいたします。




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