裏店主
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明治十二年(1879年)に入った。いよいよ緊縮財政が敷かれる。厳しいがやるしかないので粛々と政務をこなしていた。
世間では自由民権運動が盛り上がりを見せる。明治七年の民撰議院設立建白書から始まったこの運動は着実に支持を拡大していく。この時期の運動は「豪農民権」とも呼ばれた。運動の主な担い手が豪農と呼ばれる裕福な農民になったからである。
豪農が運動に参加するようになったのは、誰あろう政府の施策がきっかけである。士族反乱が相次いだとき、地租改正への反対運動(一揆)との結合を恐れて政府は地租を引き下げた。さらに大久保や大隈の下での積極的な財政政策、西南戦争によるインフレも相まって、小作料に頼る豪農の負担が大きく減った。こうして生まれた余裕を使って運動に身を投じたのである。
運動への参画者は士族や豪農が中心ではあるが、それ以外の社会階層に属する人々――ブルジョワから貧民まで、政府に何らかの不満を抱く者を結集させていった。
「板垣たちの運動が最近、益々盛んになっているな」
「ええ。色々やっていますが、なかなか収まりませんね」
大久保と話し合っていると、不意に民権運動の話題を出してきた。
政治運動といえば高尚に聞こえるが、実態としてはかなり暴力的な側面を持っている。治安を徒に悪化させるため、政府も讒謗律や新聞紙条例を制定して抑え込みを図っていた。まあ、こういうのは大抵成功しないし、実際に成功していないのだが。
「山縣さんのところで印刷をやっていたでしょう。実際のところどういう受け止めなんですか?」
「いや〜。私も政府の一員ですから注意はしているんですが……」
印刷業をやっているので新聞業界にも影響力がある。その縁でいくらか記事を書いてもらったし、逆に取材を受けることもあった。メディアとそれなりに関係があり、多少は本音で話せる仲だ。そのなかで、メディアには条例による弾圧に劇的な効果はないことは感じていた。
「あまり政府寄りの記事を書くと購読者が減るそうで」
新聞だって商売だ。利益が出なければやっていけない。人々は大なり小なり政府に対して不満を抱えている。政治なんてそんなものだが、そのような状況なので政府を攻撃する方が売れるのだ。ましてや新聞を買うのは財布に余裕がある人々――つまりブルジョワや豪農たち、運動の中心にいる者なのである。彼らに買ってもらうために政府批判をするのはある意味では仕方ないといえた。
もちろんその気になれば倉屋で引き受けている紙面の印刷を止めればいい。だが、私たちも商売でやっている。そんなことをしても他の印刷業者に逃げられるだけで、私たちに何のメリットもない。
「何かしら補償があれば応じるところもあるかもですが」
「そんなことをする金がない」
大久保は即答。
知ってた。
だから言論統制は難しいのだ。
「まあ、御用新聞みたいなものを作るしかないでしょう」
ペンにはペンを。暴力による統制には限界がある。それはナポレオン以下、古来より偉人たちが指摘するところだ。
政府に好意的な新聞がないわけではない。そこに金を突っ込んでどんどん記事を書いてもらう。いい政策をしても世間は評価してくれない。極端な話、悪法でも宣伝の仕方などでいいものに見せることはできる。正直者は馬鹿を見る――政治とはそんな世界だ。
「そちらで作ってくれないか? 裏店主?」
大久保が使った「裏店主」という言葉。それは倉屋を運営する海の後ろにいる私を指すものだ。地方の商家が日本でも指折りの大店に急拡大した背景には何があるのか。興味を持った人間が色々と調べたようである。
「……その呼び方はやめてください」
私は露骨に顔を顰めた。そう呼ばれるのが嫌いだからだ。たしかに色々な場面でアシストはしたが、ほとんどは海や従業員たちの頑張りである。それを私ひとりの手柄のように言われるのが嫌いだった。直感だが、この呼び方には賞賛よりも大きな悪意を感じる。それも好かない理由だ。
「すまない。それで、どうだろう?」
「さすがに無理だと思いますよ」
赤右衛門がやっていた事業も今や完全に取り込んだ倉屋。しかし、手がける事業のなかではその規模は微々たるものだ。軍需品の製造を筆頭に造船、印刷業が主力事業。特に造船は国内で運用される汽船の大半を建造している。ライバルである三菱もこの分野では顧客であった。
こうして莫大な利益を得る一方、先進技術を取得するために巨額の投資も行っている。なので差し引きトントンといった感じだ。なので赤字を軽々に引き受けるわけにはいかない。政府が補助金をくれて補填してくれるのなら考えるが、財政に余裕はないからくれないだろう。ならやらない。倉屋がやってるのは商売で慈善事業ではないのだ。
「そうだろうな……。はぁ、こんなことになるなら奨励するんじゃなかった」
大久保は後悔を口にする。彼がやったわけではないが、明治政府は発足間もないころに新聞発行を奨励していた。
幕末にも新聞は存在していたものの、それらは佐幕派。新政府にとって目障りなのですべて廃刊に追い込んだ。すると残ったのは外国人によって経営される新聞だった。これはまずいと思った新政府は新聞紙発行条例を出して新聞事業を奨励。これにより新たに創刊したり、論調を変えて復刊する新聞が相次ぐ。彼らも馬鹿ではないから反幕府、親明治政府(維新支持)の論調をとった。
だが、民権運動の広まりとともに商業的な観点から政府に批判的な論調が目立つようになる。それは多くの場合、経営していた富豪が民権運動に染まったか、業績不振で代わった経営者が民権運動に携わる富豪だったか。とにかくこの全体的な流れは止めようがない。
「まあまあ。やり過ぎたものを咎めるくらいでいいじゃないですか」
政府系の新聞もないわけではない。東京日々新聞は有名だ。そこの主筆である福地源一郎に頼めば間違いないだろう。
「福地か……」
大久保も岩倉使節団の一等書記官を務めていた福地のことは知っていた。彼はなかなか面白い経歴の持ち主である。旧幕臣であり、自身が創刊した新聞で佐幕論を唱えて新政府に発禁処分を下された。そのときの論説が、徳川幕府が倒れてできたのは薩長による幕府だというのである。怒られるのも無理はない。このとき逮捕されたが、木戸の取りなしもあって解放されている。これが長州とのつながりができた契機だった。
その後、お札でお馴染みの渋沢栄一に俊輔(伊藤博文)と引き合わされて意気投合。大蔵省に出仕し、俊輔について外遊にも出かけた。徳川幕府時代には外国奉行(外務省のような役所)で働いて英語とフランス語のスキルで御家人、ついで旗本に成り上がる。遣欧使節団(文久)にも参加し、ロシアとの国境確定交渉にも携わった。そのような経験を買われて岩倉使節団の一等書記官に抜擢されたのだった。
帰国すると大蔵省を辞め、東京日々新聞を発行する日報社に入社。紙面の改良により発行部数を伸ばし、同社を成長させた立役者である。また、政府寄りの主張を民権派新聞から批判されるほど政府にべったりであった。
そのような話を聞くと、維新から間もない頃は新政府を批判していた人物とは到底思えない。ただ、この時代の主義主張というのは必ずしも確固たる考え、あるいはイデオロギーに依拠してものではなかった。福地の場合も単純化すれば、江戸幕府を潰した薩長が嫌いだったものが俊輔に懐柔されて好きになり、新政府にも好意を持ったというわけだ。
――以上のような思考回路で行動するため、初期に政派は主義主張で分かれているわけでは必ずしもなく、恩讐関係に依拠していることがしばしばあった。つまり、誰々は嫌いだからあいつとは違う政派に与する、といった感じに。そんな調子だからときの政治家が「普選は時期尚早」と言うのも納得である。
ちなみに私も福地と親交があった。俊輔に紹介されたのもあるが、倉屋が手がける印刷業の顧客のひとりでもあるからだ。それに先の西南戦争では自ら戦地に乗り込んできて色々と記事を書いていた。その世話をしたのも私である。その代わり、政府のスポークスマンとして色々な報道はしてもらっているが。
「そうするよ」
色々と考えていたようだったが最終的に大久保は福地に依頼することにした。私からも口添えをしてほしいとのこと。そのくらいならと了承した。
私たちの意向を受け、東京日々新聞では政府に好意的な記事が連日のように紙面を飾った。すると予想通りに民権派の新聞が反発。これに東京日々新聞も反論し、論争に発展する。記事も政府の政策から外れて新聞自体に対する批難の応酬になった。そのため政府批判は後景に退き、民権運動によるバッシングも低調になる。
「福地はいい働きをしてくれた」
これを大久保が意図していたのかはわからない。ただ、少なくとも私が福地に注文した通りにはなった。風向きが変わったことで大久保は満足そう。
「これでひと安心ではありますが、だからといって何もしなければ元の木阿弥です」
「それはそうだ。……元老院では憲法の草案を作成しているらしい。いよいよ憲法を施行しなければならないか」
「立憲制、議会の設置くらいはしないと収まりはつかないでしょう」
すると、大久保はしばし瞑目。この間に何かを決断したらしい。
「よし。我々も憲法制定に取りかかろう」
この短時間に随分と思い切った決断をしたな。そう思っていると、大久保は私を見て言う。
「どのように進めていくべきか、参議たちの意見が聞きたい」
初めてのことだから為政者たちの合意を得て進めたいという。大久保は三条実美や岩倉具視にも話を通し、彼らから全ての参議に対して立憲政体のあるべき姿、実現までのスキームについての意見を書面で提出するよう通達された。しかも宛先は天皇。
こりゃ下手なものは出せない。そこで熟考したいから、という理由で少し長めに休みをとることにした。倉屋の方でやらなければならない(海からも催促されていた)仕事もあるため、軍務卿としての仕事を信吾と川村に任せ、長めの休暇をとって東京を離れた。
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