反主流派
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戦後、所謂「三角福大中」の一角を占め、首相も務めた大平正芳はこのようなことを言っている。
「三人集まれば派閥が生まれる」
金言だな、と思う。大平が言わんとしたことは、二対一に分かれるから派閥が生まれるというものだが、私の解釈は違う。学校の「仲良しグループ」を想像してほしい。スクールカーストなどと言って序列化されているが、よくよく細分化してみると大抵は二人から三人程度のグループに分割される。なるほど、小さな派閥というわけだ。こうして派閥は生まれる、と私は解釈している。仲よしグループの集合体が派閥というわけだ。
薩長のような藩閥もまた派閥といえるだろう。だが、みんな仲良くというのは幻想だ。誰かが栄達するとき、誰かが辛酸を舐める。社会がピラミッド型の権力構造をしている以上、それは避けられない。そして大抵の場合、人間というのは諦めが悪いのだ。――要するに、辛酸を舐めた者は外へ飛び出していって別の派閥を作るのである。
軍部は西郷亡き後、薩摩閥の信吾や川村、大山の支援を得ながら私が完全に牛耳っていた。もちろん私が全てを好き勝手にできるわけではない。この地位があるのも先の三人に加えて大久保や俊輔らの支持があるからだ。偉かろうと……いや偉いからこそ柵は多い。
明治政府は大久保を中心に立憲制へ向けた準備に邁進していた。復帰した板垣も早々にドロップアウトし、在野で言論による反政府運動を行なっている。自由民権運動というやつだ。彼らは五箇条の御誓文(特に「万機公論に決すべし」という文言)を持ち出し、大久保を中心とする藩閥政府を有司専制だと批判した。
私も彼らの言うところの「有司」に含まれている。大久保と個人的にも仲がよく、また軍務省と内務省とは徴兵事務はもちろんのこと、財政緊縮と綱紀粛正の一環として史実(明治十二年)より一年早く行われた靖国神社、招魂社の管轄など事務の一部が重なったり協調したりしなければならなかった。大阪会議でも大久保の懐刀的な立ち位置にあり、民権派からは大久保を含む「有司」のひとりに認定されたのだ。
それは事実なので争うつもりはない。周りからどう思われているのかは大事だが、批判されている「有司」になったからといって大久保の許から去るつもりはさらさらなかった。彼のおかげで今の地位があるのは事実だし、引き立ててもらった恩義というものもある。この山縣、中身は現代人マインドだが恩知らずではない。
このように民権運動やそこからの批判は正直、あまり意に介していなかった。それに私があれこれ動くより、はるかに優秀な大久保が対処した方がいいに決まってる。え? 大久保に任せすぎて過労死する? ……手伝えることは手伝うさ。彼に死んでもらったら困る。
だが、この件を私も無視できなくなった。発端は西南戦争後の財政難に伴う軍事費削減と経費節減である。これを見た軍人たちの受け止めは概ね二つだった。
ひとつは、今は雌伏の時であり、いずれ予算を得て列強に負けない軍備を整えるのだという者たち。主に信吾や川村、大山の他に「明治陸軍三羽烏」といわれる桂太郎、川上操六、児玉源太郎が唱えていた。彼らが史実で揃って本省勤務になるのは後のことだが、西南戦争での活躍だとか才覚を見込んだとか適当な理由をつけて引っ張っている。
もうひとつは戦後の自衛隊のように必要最小限度の軍備でいいという一派である。これは「四将軍」と呼ばれる三浦梧楼、鳥尾小弥太、谷干城、曾我祐準たちの主張だ。徴兵期間は一年のみ、海軍も沿岸警備程度でいいという話だが、これは反対の立場をとるための方便にすぎない。本音は彼らが権力を握るために、私たち藩閥勢力を排除しろというもの。主張の核心部分はほぼ民権運動と同じであった。
彼らは薩長以外の軍人から多くの支持を受けている。政府が藩閥に占められているのは間違っているというのが彼らの主張だが、その実は彼らが偉くなるために私たちを排除したいだけのこと。私利私欲からの行動だ。まったく遠慮する気にならない。
「桂中佐、川上中佐、児玉少佐、立見少佐。君たちに特命を与える」
私は執務室に名前を呼んだ四人を呼び出していた。三羽烏の三人は無論、立見少佐こと立見尚文も優秀な人材だ。
立見とは戊辰戦争で新政府軍と旧幕府軍という敵同士だった。その指揮力は卓越しており、西南戦争では城山の戦いで活躍している。立見は薩長に対する敵愾心を抱いていたが、現世において陸軍にスカウトしたのは誰あろう私。謹慎しているところを訪ね、お前が必要だと口説き落とした。なので私だけ例外となっている。
そんな彼らに与えた仕事は、中長期の軍備整備計画の策定だった。
「諸君も承知の通り、西南の役で政府の財政は窮乏。各方面で緊縮が行われている。軍も例外ではない。非常に残念なことではあるし、政府の一員として申し訳なくも思っている。……だが、ここで不平不満を言っていても仕方がない。尺蠖の屈するは伸びんがため。諸君には将来の帝国に必要な軍備の見積もりと整備計画を作成してもらいたい」
「「「「はっ!」」」」
四人は承諾し、それから進め方などいくつかの問答をした上で仕事に取りかかる。仕事を分担することにしたらしく桂と児玉は教育や軍制といった中央、川上と立見は部隊や兵営といった地方に関する事柄を担当。それぞれの提言をまとめ、年末に報告してきた。
中央に関しては特にプロイセンへ留学をしていた桂がプロイセン式の軍制を取り入れることを主張。彼らから教官を招聘するとともに、欧州列国に倣い参謀本部を設置すべきとした。あわせて、戦地において参謀と名のつく者が必ずしも最新の軍事知識を持っていないことも問題視。参謀を育成する専門の機関を設けるべきとする。
地方についてはできるだけ早く師団制に移行するべきとの提言がなされた。国内での防衛戦であれば現状でも対応可能だが、国外での戦いとなると主に補給の面で不安がある。その補給面では早期に装備を統一すべきだとも言われていた。小銃を村田経芳が開発していることは軍内でも知られた話だが、火砲についても統一すべき(できれば国産で)というのが今回の提案だった。
「なるほど。わかった。新型砲については国産を前提に調査を始めてくれ」
私は最近気づいたのだ。歴史をある程度知っている身なので、あれこれ指示ができる。何ならワンマンでやっちゃってもいい。だが、それだと弊害が目立ってしまう。何でもやることは他の人の成長を阻害してしまうのが第一。後世でいうところの指示待ち人間ばかりになる。それに私も神ではないからいつかボロが出るだろう。ならばいっそ部下たちに任せ、明後日の方向に向かうものだけこちらで適宜修正していく方がいい。こっちも楽だし。
そんな邪な考えを抱きながらガンガン部下に仕事を振っていく。だが、別にサボっているわけではない。基本は適材適所であるからして、私は私にしかできない仕事をやる。それは何か。天皇以下、偉い人たちへの説明である。
大蔵省の大隈には経費節減に努めておりますとアピール。これは何らかの事情で急に入用になったとき、割り当てられた予算から捻出しろと言われることを避けるためだ。リスクヘッジである。
内務省の大久保にも戦死者の祭祀であったり徴兵事務だったりでお世話になるので、定期的に挨拶に赴いて関係を築いておく。工部省の俊輔も長州閥としての行動や鉄道建設について話し合うために頻繁に会っている。彼らも予算が削られたために鉄道建設計画をほぼ放棄せざるを得なくなったが、大動脈である東海道線だけは維持した。なお、史実では明治二十二年(1889年)に全通する東海道線は、軍が海岸ルートで妥協して着工が早まったことから一、二年ほど早くなりそうだという。それは嬉しい報告だ。
――とまあ、ここまではそれなりに良好な関係を築けている相手。問題は宮中と天皇である。
明治天皇は自身を支えてくれた功臣である西郷が敵に回ったことにショックを受けて塞ぎ込んでいた。それを諌めていた木戸も死亡したことで無気力状態に陥る。公務は一応こなすものの、学問への熱は失われ御進講もほとんど受けていない。
そんななかで蠢いているのが侍補と呼ばれる天皇の側近たちだ。彼らは天皇親政こそ悲願であり、その意味では有司専制と批判される大久保体制は望ましくない。自由民権運動と共鳴して政府と陰ながら権力闘争を演じていた。天皇は彼らに引っ張られてしまうのが史実なのだが、私はこれを止めるため頻繁に天皇へ謁見している。
「おお、山縣か……」
私の姿を見ると天皇が微笑んだ。欧米視察から帰ってきて軍務に携わるようになって以来、西郷とともに天皇の教育に携わった。宮中では西郷の部下のように思われており、天皇も同じように認識している。そのせいか、西郷の代わりとして思われているようだ。
気の毒だが、この人にはしっかりしてもらわないといけない。経過報告を御前で読み上げながらそんなことを考えていた。質疑応答を終えた後の雑談タイムで私はこう切り出す。
「……そういえば、八月の末から陛下は巡幸なさることになっていましたね」
「ああ」
明治維新後に行われた天皇の大規模な巡幸を六大巡幸という。すなわち九州と西国(明治五年)、北海道と東北(九年)、北陸と東海道(十一年)、甲州と東山道(十三年)、山形と秋田および北海道(十四年)、山陽(十八年)である。このうち北陸、東海道の巡幸は明治十年に行われる予定だったが、西南戦争の勃発で延期となっていた。
なぜこのことを話題に出したのか。それは天皇にひと言もの申すためである。
「陛下。ひとつお願いがございます」
「申してみよ」
何を言うのだろう? といった感じで天皇は私を見る。これは諫言だ。言うのはとても勇気がいるが、自分や部下たち、そして国のため。そして諫言が許されるくらいには天皇と信頼関係を紡いできたと自分に言い聞かせて口を開く。
「それでは恐れながら……陛下。このようなことを申し上げるのは大変心苦しいのですが、ここは心を鬼にして言上いたします」
西郷、木戸と立て続けに自分を支えてくれた臣下を失って、天皇もショックだったのだろう。その気持ちはわかる。私も何度か戦争を経験したが、その度に親しい友人や部下を失った。病気で突然死んだ者もいる。喪失感は半端ない。実体験を交えつつ、天皇の置かれた境遇には理解を示す。
「ですが、陛下はこの国のお上でもあります。お上は普く民を慈しむもの。臣下の死を悼むのは当然ですが、お上としてのお勤めや研鑽は怠りませぬよう」
勿体ぶった言い方だが、端的に言えば公私はきちんと分けましょうということだ。特に天皇は二人の死以来、公務こそこなすものの勉学に身が入っていない。引きこもり予備軍みたいなもので、政府の人間が戦争の後始末なんかで忙しいことも相まって宮中の人間が幅を利かせている。天皇にはしっかりしてもらって、政府と円滑な意思疎通をしてほしいところだ。
「うむ。わかってはいるのだがな……」
天皇は苦笑する。本人としてもままならないのだろう。わかってはいるが、喪失感は凄まじい。どうしても活動できないのだ。
「――もっとも、このような諫言はあくまで前口上なのですがね」
「え?」
ぽかーん、と間抜けな顔をする天皇。だがこれは本当だ。同じようなことはこれまで周りから散々言われてきただろうし、天皇も直そうとは思っていたはず。それでもできないのならば、別のアプローチをかけるまで。
「陛下も異口同音に言われ、それこそ耳にタコができるほど聞いているでしょう――」
そこまで言うとくすっと笑われる。緊張した空気が緩んだかなと内心で安堵しつつ言葉を続けた。
「私からはひとつだけです。今度の巡幸にて民草をご覧ください。お上が慈しむこの国の民衆を」
「なぜだ?」
「鹿児島から凱旋し、将兵一同が謁を賜った日です。そのとき陛下は負傷兵を気遣われ、負傷した日時を尋ね、傷跡に触れて労り、痛みはないかと御下問がありました。我々は平身低頭、感涙を流したわけですが、あの光景にこそ陛下が復調される鍵があると思うのです」
私から言えるのはこれだけだ。立ち入っておいて無責任なと思われるかもしれないが、結局のところ精神的な問題を解決できるかは本人次第。いやまあ、史実通りならこれから三十年以上君臨するわけだから問題なく乗り越えるはずである。だが、その過程で私のアドバイスが何かの役に立ち、政府と余計な摩擦を起こさなければいいなと思っての行動だった。
「……なるほど。心に留めておくとしよう」
「ありがとうございます」
寛大な心で諫言を容れてくれた。感謝を述べてその日は御所を後にする。
それから天皇は少し活動的になった。内閣に三十分程度だが臨席するようになり、趣味の乗馬にも精を出すようになる。特に乗馬はよほど好きなのか雨の日も風の日もお構いなしに馬を乗り回し、馬と飼育員たちが疲弊。やりすぎだと諌められる場面もあった。まあ、ちょっとでも元気になったのならいいことだ。
懸念されていた天皇のメンタルは少し回復してきた。そんな我々にとある大事件が迫っていたのである。
運命の日。
明治十一年(1878年)五月十四日を迎えた――
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