事業整理
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西南戦争によって引き起こされた財政難。大蔵卿の大隈重信はこの問題を支出削減という手で乗り切ろうとした。それ自体は至極当然であり否定はしない。軍も例外ではなく予算カットに遭った。
急なことで待遇低下は避けられず、これにより竹橋事件も起きた。鎮圧に伴って犠牲も出てしまう。まったく無駄な犠牲であったし、軍の人間として思うところもあったが呑み込んでいる。
予算削減それ自体は痛手だが、私はこれをポジティブに捉えている。ここまで忙しすぎて細かなところまで目が届いていない。この際、予算削減に対応するという名目で組織の無駄を省くことにした。手っ取り早いのは人員削減である。だが、リストラはできない。切れる人間がほぼいないからだ。
日本軍(陸軍)の建設にあたっては大村益次郎が陣頭指揮をとった当初こそ、史実をなぞったフランス式の体制がとられた。しかし、私が実権を握ると少しずつ「各国の折衷案」という建前にした独自の制度を築いている。部隊や人事などは外部から横槍が入ったものの、教育や研究といった分野は私が好きにできた。
士官学校制度はフランス式からドイツ式への転換を皮切りに、名称変更や就学年数の変化、幼年学校制度を含めて何度か変更がなされている。私は戦後の自衛隊や米軍の教育制度も参考にしつつ独自の制度を編み出したため、史実とは異なるものになっていた。
まず、陸海軍士官共通の教育課程(一年)を導入している。これにはフランスから来た指導官たちに意味わからないと反対されたが、適当な理由をこじつけて最終的には納得させている。その時は、
「世界の軍隊を見聞すると陸海軍が激しく対立している一方で、同期には親しく付き合う者もいる。陸海と戦う場所も必要となる専門知識も異なるが、影響が出ない範囲で共に学習し仲間意識を持たせることは、将来の対立を緩和することに役立つのではないか」
というようなことを言った。フランス人顧問団も一理あるとか、試験的にやるのはいいのではないかと納得。一年の共通教育課程が導入された。陸海軍に分かれていた士官学校、兵学校はそのまま。生徒は進級に伴って陸海どちらに進むのかを希望し、最終的に学校側が定員を考慮して決める。
定員の規模や必要な知識の程度から、海軍に優秀な人材が比較的多く行くようなシステムになっていた。だが、それで陸軍が腐るということはない。海軍より規模が大いことからポストも多いので、出世はむしろ陸の方が望めるという感じで前向きに捉えているらしかった。
もちろん中身も弄っている。士官学校の教育期間は二年(共通教育期間も含めて合計三年。二段階に分けた教育制度は史実の予科、本科制度に近い)。史実では明治二十年(1887年)にフランス式からプロイセン式へと転換されるが、この世界線ではどちらでもない。プロイセン式のように下士官兵を経ることなく、士官候補生(階級は曹長、ただし一般の曹長より上位)として学生期間を過ごした後に少尉へ任官。部隊へ配属となる。原隊という概念も存在しており、ここでは部隊実習でお世話になった部隊のことを指す(原隊の選定基準は出身地が基本)。
兵学校も教育期間は二年(理由は陸士と同じ)。士官候補生(兵曹長、一般の兵曹長より上位)として学生期間を過ごすが、練習航海を経て少尉に任官される点で陸軍とは異なっている。
ここでは紹介しきれないが、ともかく私の手が入ったことで制度は変化しつつも順調に士官の育成は進んでいた。ただ、絶対数がまだまだ足りていない。西南戦争では私(陸軍卿)や士官学校の校長のみならず生徒まで動員されている。人が足りないのに人が切れるか。
なので、山梨軍縮や宇垣軍縮のように人員削減という手は使えない。やれるのは地道な経費削減策である。予算執行に無駄はないか。削れるところはないか。事業仕分けよろしく、ありとあらゆる事柄を精査して徹底的に合理化していく。
まず手をつけたのは私がダサいと思っている軍服だった。貴族文化を継承した肋骨服は濃紺で、戦場においてかなり目立つ。この際だからと濃紺より迷彩効果が見込める茶褐色(カーキ色)にし、形態も明治四十五年制式のものにした。可能な限り装飾を省き、製造が容易なようにという配慮だ。
明治四十五年制式ということで襟は立襟となっている。この立襟、見栄えはいいが首元が窮屈になってしまう。そんな個人的な理由で折襟か開襟にしようとしたのだが、部下たちに大反対された。
「さすがにそれは……」
「これでは諸国の笑い者です」
とまあ、色を変えるだけでもかなりの反対があり、戦場での合理性を盾に押し切った(旧制式の併用は認めることになったが)。その上、デザインをも列国のスタンダードから逸脱しようとしているということで、いよいよ不満が爆発しかねない。さすがに大人しくしておこう、と立襟は残した。
近衛とそれ以外では帽子の五芒星の周りに桜葉がつくかつかないかの細かな違いはあるが、それ以前のように赤か黄色かという大きな違いはない。おかげで量産性は高くなっている。
海軍についても明治十六年の海軍服制を先取りして施行するが、同時にごちゃごちゃしていた下士官の服装も統一した(下士官は階級、兵科によってセーラー服とジャケットのどちらを着用するか分かれていた。これをすべて後者に変更)。
これらの変更を太政官達により「陸軍服制」と「海軍服制」という形で明文化する。海軍のそれは後世にイメージされる日本海軍という感じで満足。陸軍も肋骨服に比べると格段の進歩だと思っている。さらに別に指定されることになる軍属の服装についても陸海の服制に内包し、職業的な事情がある者以外は相当する階級の服制に準じるとした。
被服の作製にあたっても合理化を徹底する。陸海軍で分かれていた製造部も統合。規模も最低限とする。国で背負い込むのは大変なので、外部委託(民間)へ移行するのが狙いだ。これは官営模範工場で、人員育成やノウハウを蓄積して民間に流す。民間は民生品も含めて大規模にやるというわけだ。
洋服の需要はまだまだ限られているが、やがて拡大していく。軍から一定の注文(兵士用の官給品に将校用のオーダーメイド品)もあるから先のある商売だ。美味しい話なので、もちろん倉屋も一枚噛んでいる。
倉屋は下関でも随一の商家。そのネットワークは商人つながりで長州藩全体に及ぶ。これに加えて諸隊や軍で培った私の人脈を駆使すれば、長州藩系の士族のほとんどを網羅する。さらにさらに何度かあった戦役で受傷した将兵にも声をかけた。
話をして乗ってきた人から親類縁者の女手を借りて工場の作業員になってもらう。兵士の待遇を下げるほどの予算不足である軍だから安月給。人脈があるとはいえよく人が集まるなと思うかもしれないが、商売の肝は信用である。赤右衛門さんから『倉屋で工場を作った時にはそれなりの賃金で雇いますよ』と口添えしてもらっていた。すると、あの倉屋さんが言ってることだからと信じて懸命に働く。
「長州人は勤勉ですなぁ」
工場長はそう感心していた。長州出身者に会うと同じことを言いふらしているらしい。それを聞いた長州人は一様に首を傾げていた。私もは、はぁ……と困惑を隠せない。そりゃそうだ。勤勉なのは目の前に人参ぶら下げられているからであって県民性ではないのだから。
ちなみに約束はちゃんと履行された。倉屋の資本で縫製工場が設立され、軍の工場から人を引き抜いて稼働。引き抜かれた人々は熟練労働者として同時代としては高給で雇われる。倉屋の服飾部門は軍の注文を軸にして成長していくのだった。
見直しは兵士の胃袋を支える食糧関係にも及ぶ。軍隊は人の塊だ。連隊所在地では数千の人間が暮らしており、日々消費される物資もかなりの量になる。特に食糧品は大量に必要な分、コストカットの効果は大きい。塵も積もれば山となる、というやつだ。
「担当官を任命し、周辺の農家と特約を結んでこい」
私は各地の部隊にそんな命令をした。どれくらいの量が必要になるかはわかっている。必要量を農家から直接買い入れるのだ。現代でいうところの契約農家というやつである。中間の業者を介さずに安く仕入れるのだ。これで穀物や蔬菜類を確保。肉や魚といった主食は獲れる獲れないという幅があるためこれは市場から確保する。いずれは畜産を支援して生肉や生乳の確保も目指したい。この辺は大久保の内務省との折衝が必要となってくるが。
軍の部局も整理対象となる。日本は言うまでもなく小国だ。個人的な考えになるが、戦前の日本は国際的地位の向上によって「大国」として振る舞う必要から背伸びをし、結果として盛大にこけたと思っている。だからこそ、我々は小国ゆえにリソースは限られているのだと自覚をし、それを維持発展させるのはもちろん最大限活用していくという意識が大事になってくるだろう。
軍においては陸海の対立を緩和し、リソースの食い潰しを避けていく。遠くない将来、軍事行動は陸海軍(あるいは空軍も加えた)の協同作戦となる。いや、島国という性質上、今現在においても必要不可欠だ。
私は「統合運用」という言葉を使いこれを強調。組織への浸透を図っていた。基本的に陸海で共通する部署は大臣直下の組織に吸い上げている。なかでも重視したのが研究開発。日本軍はようやく小銃の開発に手をつけようかという状態で、先端工業製品の塊である軍艦に至ってはそのノウハウすらない。だがいずれは必要になると専門の部局を設置。限られた予算のなかで優先的に予算を割り振っている。
先の西南戦争ではスナイドル銃、ドライゼ銃を併用したことから、史実のような弾薬不足には陥らなかった。とはいえ、紙製薬莢を使うドライゼ銃は充足を確保するための非常手段。補給の観点からも早急に金属製薬莢を使う銃にしたい。
ならスナイドル銃を調達すればいいじゃないと思うかもしれないが、時期が悪い。何度も言うように西南戦争で日本政府は財政難。加えてこの時期は銃器が飛躍的に発達しており、第二次世界大戦の戦車や航空機のように新型も数年で陳腐化する状況だ。
銃器専門家として知られ欧州留学から帰ったばかりの村田経芳をリーダーに小銃の国産化に向けたプロジェクトが組まれたが、必要性の低下と予算がつかなくなったことで計画は凍結される。
しかし、村田は諦めなかった。事業整理が行われる最中、村田は私の執務室に乗り込んできてこう言い放つ。
「自分は銃器の発達著しい今、また今後この国が世界の一等国となるために装備は輸入より国産化すべきと考えます。卿はどのようなおつもりでしょうか?」
「それはまったく同感だ。しかし、物事には順序というものがある。金がなければ何もできないんだよ」
「事情は承知していますがせめて設計だけでもさせていただけませんか? 予算は少しでいいんです」
予算がつかないと断るが、村田はそう言って粘る。あまりにしつこい上、言っていることは決して間違っていないので起案書持ってこいと言ってしまった。それが運の尽き。
数日後、村田はウキウキ顔で現れた。よく見たら目元にクマが。徹夜して仕上げたのかな? ともかく、差し出された起案書を読む。
国産化の対象とされたのはスナイドル銃でもドライゼ銃でもなく、革新的といわれたシャスポー銃(グラース銃)だった。ドライゼ銃の弱点であったガス漏れを克服し、さらには金属薬莢が使用できるよう改造されたこの銃は射程が倍の一二〇〇メートル。初速も上がっている。文句はなかったため、なるべく予算を抑えるため試作のみに留めるようにとの条件付きで承認した。
これで村田は水を得た魚のように開発へ邁進する。欧州で得た知識を活かしつつ、日本の貧弱な工業基盤を考慮。三年の開発期間を経て完成したのが十三年式村田銃(明治十三年に正式採用)である。これはコイルスプリングの代わりに松葉バネを使用したことをはじめオリジナルとはいくつかの相違点があったが、どうしても国産化できない銃身(ベルギーから輸入)を除く全ての部品が国産品であった。
「見事なものだ」
試作銃の出来は満足のいくものであり、村田銃は直ちに採用。量産に移された。ただし、量産にあたって一点だけ修正させた箇所がある。それは刻印された菊の御紋章をなくすことだ。これについては村田とちょっとした議論になった。
「西南の役では小銃を放棄して退却する者もいたとか。これ(菊の御紋章)があることでそのようなことを防ぐことができます」
「銃を後生大事に守って兵が死んだのでは意味がないだろう。非常時の銃の取り扱いに関してはよく教育すればいい」
村田の配慮だったのだろうが、たかが銃一挺のために兵士が命がけで戦わないといけないなら戦争なんてやめてしまえ。もったいないの精神は大事だが、本当に大切なものを見失ってはいけない。
この他にも多くの経費削減策や高効率化を行なっている。東京を拠点にしているが、あちこち動き回らざるを得ない。忙しすぎて目が回りそうだ。
「このところ忙しそうにしているが、身体は大丈夫か?」
というようなことを大久保に言われたが、他にも俊輔や信吾たちから同じようなことを言われている。
「そんなに疲れているように見えるか?」
「見えるわよ」
何言ってんの、と呆れた様子を隠さないのは我が妻・海。出張で各地を飛び回っていたが、それでも東京で過ごす日の方が多い。おかげで夫婦の時間も以前より増えた結果、彼女のお腹に四人目の子どもができていた。お腹も膨らみ移動も大変そうだ。
水無子たちがお母様の代わりに頑張る、と息巻いていたがその気持ちだけ受け取った。椿山荘へ引っ越した段階で既に使用人を雇っている。一家の手では豪邸の管理などできるはずもない。私も政府高官であり、そんな人間がお手伝いのひとりもいないのは箔がつかない、と周りから言われたというのもある。
使用人は倉屋に縁のある人々の親族から募った。赤の他人に生活スペースを任せるわけにはいかない。使用人が来た後も海は一部の家事は自分でやっていたが、妊娠を機に家事のほとんどを任せている。
「この子も生まれるんだから、旦那様には元気でいてもらわないと」
「海さんの言う通りですよ」
「「お婆様!?」」
夫婦の話に割り込んできたのは祖母だった。本人の希望もあって長州に留まっていたが、この時代としては生きているのも不思議なくらいの高齢(八七歳)。実際、向こうで一度倒れている。だから説得して東京に連れてきた。
「お身体は大丈夫なのですか?」
「ええ。今日は調子がいいようです」
寄る年波には勝てず寝込むことも多い祖母だが、元気なときは子どもたちの相手をしたり庭園を子どもや使用人を伴って散歩したりしている。まさか自分が大名屋敷の庭園を歩けるようになるなんて。長生きしてみるものだねぇ、と言っていた。気持ちはわかる。
「いいですか、小助さん。夫を支え家を守るのが武家の妻の務め。しかしながら、それは夫あってのことです。お身体は大切になさってください」
「はい。肝に銘じます」
老いたりとはいえ祖母の凛とした雰囲気は健在だ。思わず背筋が伸びてしまう。
たしかにいくらなんでもオーバーワークだったかな、と私は自分の仕事を見直すことにした。立場を省みると、私は陸軍大将で軍務卿兼参議、近衛都督。うーん、多すぎる。現代でいえば防衛大臣兼第一師団長みたいなものだ。そりゃ忙しい。
というわけで多忙を理由に近衛都督を辞任することにした。さすがに不義理なので、後任として同じ長州の鳥尾小弥太を推薦。無事に承認される。彼とはそれなりに気心知れた仲で、無事に勤め上げてくれると思っていた。あの時までは……。
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