後始末
――――――
まだ火薬の匂いが香り、両軍兵士の死体や血のりが戦場であることを主張する。そんななかを私は護衛を引き連れて闊歩していた。目的は悲惨な戦場を見るためではない。何度も戦場に身を置き、人を殺めたこともある。だから戦場というものに慣れてはいるが、出来ることなら身を置きたくない。
ならばなぜ私は居たくない戦場にいるのか。それは西郷が自害した場所へ向かうためだ。彼は最後の突撃に参加したらしく、戦場のど真ん中で遺体が発見された。その場所へ私と西郷の縁者たちは向かっていた。
「腹部と下半身に銃創がある。途中で被弾し、これまでと悟って切腹した後に介錯されたのだろう」
遺体に向かって手を合わせた後、最期について推測する。生存者から聞き取りをすればさらに解像度は上がるだろう。戦後の聞き取りにより、被弾した西郷は周りにいた部下が見守るなか切腹。介錯をした別府晋介も直後に自害したそうだ。推測はほぼ当たっていた。
この戦いで政府軍、西郷軍ともに六〇〇〇を超える死者を出している。非常に大きな犠牲だ。だが、西郷の失敗を見た士族たちはこれ以降、政府への反抗方法を実力からペン――即ち言論へと転換した。相変わらずテロリズムは残り続けたが、ひとまず西郷が思い描いた世の中には近づいたのだった。
動員を受けて九州に動員された部隊は復員が始まる。私もその流れに乗って東京へ戻った。内戦ということで控えめに凱旋祝いが行われる。軍務省に寄って川村に会った。西郷の縁者のなかで唯一、東京に残って兵站を支えてくれていた。そのことへの感謝と、西郷の最期を伝える。電信で概要は伝えていたが、それを見た者としてのケジメだ。
「――というわけだ。助けられずすまなかった」
「いえ。それがあの人の決断だったわけですから、卿を責めるつもりはありません」
川村はむしろ詳細に伝えてくれてありがとう、と言っていた。しばらく川村に付き合って西南戦争の話をしていたが、いつまでも話しているわけにもいかない。キリのいいところで話を切り上げ自宅に帰った。
家では海や子どもたちに出迎えられる。長旅で汚れているから子どもたちの相手も程々に身を清めた。その後、たっぷり可愛がってやった。さすがに長女の水無子は十歳なので恥ずかしがって遠慮する。そうだよな。女の子は成長早いからな。頭ではわかってるのだが、こうして現実となるとくるものがある。
「男親なんてこんなものさ」
ふっ、と諦念百パーセントのため息が漏れた。そのうちお父様なんて嫌いです! 近づかないでくださいって言い出すんだ。いやまあ、思春期過ぎれば過度な忌避感はなくなるんだけども? ただ、それまで私のメンタルが保つかは微妙である。
夜、ショックで黄昏れていると寝室に海が入ってきた。子どもたちを寝かしつけてきたのだ。彼女によると、最近は水無子も寝かしつけに参加しているらしい。やんちゃな弟たちを見かね、お姉ちゃんとしてしっかりしなければと思っているとかなんとか。いや、本当に成長したよ。
いかん。また気分が沈んできた。時間が経って少し回復しつつあったのに……。
「旦那様」
海に構う余裕がなくひとり落ち込んでいると、見かねたのか私の身体を引っ張って後ろに倒す。さすがに貧乏侍時代の煎餅布団は卒業しているが、畳の上に敷いた布団に倒れ込むのは痛いんだよなぁ、と沈んだ思考は受け身をとるという選択肢を排除してなすがまま。成り行きに身を任せる。
だが、予期された衝撃はなかった。後頭部はぱふっ、という擬音が立ちそうな感じに柔らかいものの上に着地する。何かはすぐわかった。眼前に大山脈が聳え立つこの光景。海に膝枕されているようだ。海が女の子座り(ぺたん座り)したことで生まれたデルタ地帯にすっぽりと頭が納まっている。肉つきのいい太ももは柔らかく、何より眼前のお胸様は絶景だ。精神が急速に回復していく……。
「……うん。元気になってきたわね」
「おかげさまで」
お胸様の先から顔を覗かせた海は私の顔を見て穏やかに微笑む。私も同じような笑みを返した。私の気分が沈んでいると見ると、こうして慰めてくれるのだ。
自分で言うのもなんだが、維新を経て私は偉くなっている。木戸が亡き今は長州閥で俊輔と並んでツートップ。政府全体で見ても両手の指のうちには入るだろうし、政治的な実権という意味では片手の指で足りるかもしれない。
立場が上昇していくことはわかっていたし、そうなるように振る舞ってきた。とはいえ、元は小市民。下っ端には下っ端の苦しみがあるように、偉い人には偉い人の苦しみがあるのだ。
この時期の政府は個人個人が好き勝手に動き回る、いわば幼稚園みたいな状態で私は振り回される先生のようだった。あれこれ好き放題振る舞うから、間に入って調整する私は大変な苦労を強いられる。とにかくストレスが溜まり、耐えかねてヘラってしまうことがあった。そういうときに彼女は慰めてくれる。
曰く、自分も同じだから何となくわかるとのこと。そういうときは私が慰めている。何となく態度でわかるのだ。私たちは似たもの夫婦であるといえる。
精神が回復してきたところで、私のなかにちょっとした悪戯心が芽生えた。手慰みに触り心地のいい海のムチムチ太ももをさわさわ。癖になる手触りだ。美容に気を遣っている彼女の努力の賜物である。
「もうっ」
抗議の意味を込めてぺしっ、と肩口を叩かれるが本気で嫌がってはいない。そのまま流れで夜戦へ突入した後のことである。最近の――私が出征中の水無子の様子を聞かせてくれた。
「あの子は別にあなたを嫌っているわけではないんですよ」
戦地に行っている私は大丈夫だろうかと心配していたらしい。手紙のやりとりをしていて、それが届く度によかったよかったと言っていたとか。何通かは彼女が保管しているそうだ。いやだ、意外にお父さんっ子。
そんなわけで、水無子は私を嫌っているのではない。いわば好き避けをしているというのが海の見立てだった。それを聞いて安堵する。
「そうか。よかった〜」
「いや、よくないわよ」
安心して脱力すると、海がグイッと顔を近づけてくる。視界は彼女の端正な顔で占められた。
「何がよくないんだ?」
過度なファザコンというわけでもなし。ダメなところがあるのだろうか。この時代の感覚から私はズレているのであてにならない。海の――というか周りの人の忠告は可能な限り聞くようにしていた。
「旦那様は家を空けすぎ」
仕事柄、仕方のない側面もあるが家族との時間が少ないのではないか。海はそう言いたいようだ。水無子の天邪鬼な態度は家を空けがちな父親に対する反抗心と、普通の家族愛とがせめぎ合った結果ではないかと。
我が子が可愛いのは海も同じ。この際だからと日頃の不満を色々と言われた。何か事があればお上から夫(父)が頼りにされるのは嬉しいし誇らしいが、同時に長期にわたって会えないのは寂しい。難しいのはわかるが、もう少し何とかならないかと。
私は出征する以外にも、視察のため全国各地を飛び回っている。新幹線も飛行機もないのでひと月単位の出張になることもしばしば。さらに陸海軍を分けず、そのトップの座に留まっているため、恐らくは史実の山縣以上の激務だ。
それでもなるべく家族との時間はとるようにしてはいた。他の高官たちのように仕事の後に飲みにはいかない。海が怖いので女遊びもせず、仕事が終われば可能な限り早く家に帰っている。仕事が遅くなることもあって帰ったのは日付が変わる前、なんてことも珍しくないのだが。
「色々と頑張っているんだけどな。でも、当分は平穏なはずだ」
史実の通りに進めば二十年ほどは大きな戦争はないはず。それだけの時間があれば子どもたちは成人する。その間、戦場に拘束されずにこれまでより長期間、子どもたちを構うことができるだろう。
考えようによっては親離れする時期に接することになるのだが……いや、先のことは考えない。それがきっと幸せだ。
もう少し家族との時間をとることにし、定時帰宅を心がけた。しばらくは平和なので誰も何も言わない。信吾などから聞いた話では、人当たりはいいけど付き合いは悪いと周りから思われているらしいが、有象無象より家族である。
西南戦争の戦功により私は勲一等旭日大綬章と年金を得た。同時に大久保や伊藤ら他の参議、省卿も授賞している。史実の山縣はこれを元手に旧久留里藩黒田家の下屋敷を購入。椿山という名称から、椿山荘という名前の別荘を建てた。
小市民の私はセレブみたいな生活への憧れがないわけではなく、また近代日本庭園に大きな影響を与えた山縣の文化的影響も考慮して史実をなぞり購入。一八〇〇〇坪という広大な土地へ思うがままに庭を造った。その才能は本来の山縣から引き継がれていたらしく、それなりのものができたと思う。何より広大な土地を好きに弄れる、という金持ちにしか許されない遊びに凄く興奮した。
巨大な土地を好き勝手に開発する――前世ではゲームでしかやれなかったことが現実にやれる。それに興奮して暇を見つけては設計を練っていた。ゲームにどハマりしたときのように、これだけやってればしばらくは十分という感じだった。だが、国としては勲章と年金では功績に対して不十分だと思ったらしい。私の預かり知らぬところで陸軍大将への昇進が決まっていた。それが発令されたのは翌年の一月である。
旭日大綬章より上位の勲章となると大勲位菊花大綬章となるが、未だ三条実美らも授賞していない(この時点では天皇と熾仁親王のみ)ものを序列が下の私が受けるわけにはいかない。となると軍籍における褒美となるが、建前とはいえ正副司令官が同時に大将となるのは体面がよくなかった(熾仁親王は皇族であるし)。そのため、時期をやや遅らせての昇進となったわけである。
年金に加えて昇進によって給料アップ。また、海がやっている倉屋の経営も順調そのものであった。個人として懐は常夏であったが、軍――というか政府の懐にはブリザードが吹き荒れていた。
「金がありません」
会計担当は端的にそう言った。さもありなん。西南戦争の戦費はおよそ四一〇〇万円。当時の税収は四八〇〇万円だから、戦争でそのほとんどが吹っ飛んだことになる。秩禄処分などを経て少しは財政がよくなっていたところでこれだ。致し方ないとはいえ、戦費を賄うために不換紙幣を濫発したものだから止めのインフレまで招いている。政府財政はまたしても火の車となり、皺寄せは各所に及んだ。
私が責任者になっている西南戦争の勲功調査による恩賞選定(戦国時代的にいえば論功行賞)についても、大隈重信(大蔵卿)より配慮を求められている。迂遠な言い方だが、要するに金ないから恩賞をケチれというのだ。
命懸けで戦った人間にそんな仕打ちできるか。
そう反発したが、予算の減額は免れなかった。仕方がないので与えられた予算内で可能な限りの恩賞を与える。
予算の削減は軍事費そのものにも及んだ。対応が間に合わずに兵士の待遇が下がってしまった。この恨みは予算を削った張本人である大蔵卿・大隈重信に向かう。おかげで一部の近衛兵が暴動を起こし、大隈邸近くで銃撃や放火に及ぶ。
同じ近衛兵、東京鎮台の部隊が出動して鎮圧にあたる羽目になった。死者も八名出たが、多くは士官たちによる実力を背景にした説得で沈静化。騒動では四〇〇名弱の処罰者が出ている。
「まったく……」
閣議で会ったとき、大隈は怒りこそしないものの迷惑そうにしていた。いやまあ、家を襲撃されたのだ。気持ちはわかるし、騒動を起こした彼らの行いは褒められたものではない。だが、原因の一端は彼にあるのだ。もう少し自覚してほしい。軍側の人間としては思うところがないわけではないが。
昔ならば――自力救済が罷り通る世の中ならば、彼らの蜂起は何らかの意味があったのかもしれない。だが、法が整備されて力が意味も持たなくなった世界ではただ命を空費しただけだ。そうなっているのだから仕方ないといえばそれまでだが。
敵と戦ってならともかくとして、こんなことで人が減るのは歓迎できない。蜂起の大きな要因は予算の削減による待遇の悪化(史実では恩賞の不公平さもあったが、これは私が担当者である以上偏りは許さなかった)。いくら喚いたところで予算が戻ってくるわけではないので、手をつけていなかった部内の改革に着手するのだった。
「面白かった」
「続きが気になる」
と思ったら、ブックマークをお願いします。
また、下の☆☆☆☆☆から、作品への評価もお願いいたします。面白ければ☆5つ、面白くなければ☆1つ。正直な感想で構いません。
何卒よろしくお願いいたします。