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二つの巨星

 






 ーーーーーー




 人吉陥落の報が熊本の司令部に届くより前、それ以上のビッグニュースが京都から飛び込んできた。


 木戸孝允死亡。


 西南戦争の勃発に伴って、天皇とともに京都へ向かったところまたしても病が悪化。治療の甲斐なく命を落とした。彼は死ぬ直前まで政府と反乱を起こした西郷のことを心配していたそうだ。


 木戸とは高杉と入れ違いで上役になり、大村も加えた三人で長州藩の軍制について話し合った。明治維新後も同郷者という括りで協力している。大久保との関係もあって時に離れることもあったが、決定的な対立には至っていない。


 明治維新を成功させた立役者のひとりであることに疑う余地はなく、高杉や大村、西郷、大久保と並び私が尊敬する人物だ。人はいつか死ぬものとはいえ、享年四十五。満年齢では四十三だ。


「木戸さん……早い。早すぎるよ」


 悲嘆に暮れたが、ここは戦地。そして私はこの征討軍において実質的な司令官なのだ。悲しみに暮れている暇はない。さすがに知らせを受けた日は凹んでいたが、翌日からは指揮に戻った。


 征討軍は宮崎方面へ撤退した西郷軍を追いかける。八月上旬にかけて戦いを続け、圧倒的優位に立っていた。指揮している立場からするとようやくここまで漕ぎつけたといった感じだ。それにしても西郷軍は強い。後世に薩摩兵の人外伝説が語られるわけだと納得した。


 そんな人外たちを追い詰めている大きな要因は物量である。強力な兵器より充分有効な兵器を多数投入せよとはよく言ったものだ。西郷軍は宮崎の根拠地化を推し進めたものの十分ではなく、そもそもの拠点であった鹿児島を失ったために物資は減る一方。これまでも西郷軍は物資不足により勝ちきれない場面があったが、戦場が宮崎に移ってからはそれが著しく増えている。


 そんなわけで局地的に負けることはあっても全体では勝利を続け、西郷軍を徐々に追い詰めていた。旗色の悪さは現場の兵士たちがよく感じ取っており、最近では降伏する者も出始めている。


 西郷軍は延岡の北にある和田峠に布陣しており、そこには西郷本人もいるらしい。対する私たち政府軍は包囲する形で接近していた。政府軍主力、およそ五万が集結しての戦いということで私が指揮している。


「敵はどれくらいだ?」


「三〇〇〇少しと見られています。和田峠に主力を配し、他で周辺を固めている様子」


 との報告が上がった。対する政府軍は中央に第二、第四師団を置き、右翼に特設旅団、左翼に第三師団がいる。予備として第一師団(一個連隊欠)が控え、熊本旅団と第一師団を抜けた一個連隊が周辺に展開。包囲網を敷いていた。


 八月十五日。およそ七十年後には「終戦の日」と記憶される日付に、私は攻撃命令を発した。主攻は中央の第二、第四師団が担う。先に仕掛けたのは第二師団。ところが彼らは泥濘に足をとられ、そこへ飛んできた西郷軍の砲撃で混乱する。さらに西郷軍の一隊が斬り込みをかけてきた。


「第四師団に前進を命じろ!」


 近くの山から観戦していた私はすぐ指示をする。もっとも伝令が伝わる前に第四師団は救援に動いていた。増援を得たことで敵を撥ね返すことに成功する。


 それからは両師団で西郷軍の主力を攻め立てた。進撃する歩兵を援護すべく、砲兵は盛んに砲撃を行う。西郷軍も撃ち返し、熾烈な砲撃戦となった。その下で両軍の歩兵が戦う。一進一退といった様子であり、なかなか決着はつきそうにない。そこで私は次の手を打つ。


「第三師団に前進命令」


 左翼の第三師団に和田峠と梓峠の境へ進撃を命じた。別方向から圧迫するためだ。事前の偵察でここを守る部隊は少数だと判明している。弱点を攻めるのは戦いの基本だ。


 周辺の敵部隊が増援を送り込んだが、第三師団はこれを突破。さらに彼らの正面にいた長尾山の敵軍も駆逐する。主攻と定めた場所では決着はつかなかったものの、別の場所では敵を押し込むことに成功した。西郷軍を完全に包囲する形となっており、政府軍の勝利であろう。


「翌朝を期して総攻撃をかける」


 西南戦争の勃発は二月で今は八月。半年ほど続いた戦いを終わらせるべく、翌朝に総攻撃をかけると全軍に通達した。戦いに終わりが見えたことで将兵の顔は明るい。だが、その裏で私はひとり怪訝に思っていた。


 というのも、西郷隆盛が果てたのは鹿児島だと記憶している。だが、ここは宮崎。私が介入したことで歴史が変わったのかもしれないが、どうもおかしいなと思っていた。


 もやもやするなかで翌日を迎える。さて、総攻撃だと思っていると、司令部に伝令が飛び込んできた。


「敵軍から降伏する者が現れております!」


 その数が尋常ではないという。敵は三〇〇〇余と見積もられていたが、うち二〇〇〇ほどが投降してきた。率にして七割。はいそうですかとスルーするわけにはいかない。投降した者たちが進撃路を塞いでいるのだ。結局、十六日は敵兵の収容をすることになって総攻撃は延期となる。


 投降兵による混乱は十七日になっても収まらなかった。なにせ急に二〇〇〇人もの食い扶持が増えたのである。もちろん蓄えはあるが、再配分に不足分の手配、さらには野晒しにするわけにもいかないので収容先の手配などやることは山積みだった。


 事務作業でクソ忙しいなか、投降兵から情報を得ることを忘れない。質問はもちろん、なぜ投降してきたか。これまで頑強に抵抗してきたのにいきなり降伏してきたのだから当然の疑問だった。


「解軍令?」


「はい。窮地に追いやられた我々には決戦しかないが、その前に降伏したい者は降伏せよ。それぞれが望むように行動せよ……と言われたそうです」


 そんな訓令があり、解軍令と呼んでいるのだそう。それを聞いた私はやはりここで決戦となったか、と思い気を引き締める。


 だが、決意は裏切られた。


 十八日早朝、今度こそと思い気合を入れたところに伝令が駆け込んでくる。私は朝に弱く、起きてから頭が回るのに時間がかかるタイプだ。その間、ちょっと不機嫌になる。だから二日連続で騒がしくされて今度は何だと内心で愚痴っていると、眠気を吹き飛ばす報告がもたらされる。


「西郷軍の残党が第三師団を奇襲。突破されました」


「……は?」


 最初は理解できなかったが、時間をかけて情報を咀嚼する。要は西郷は逃げたということだ。決戦だと思っていたのにとんだ肩透かしである。


 詳しく聞けば、西郷は可愛岳周辺にいた第三師団隷下の部隊を攻撃。完全な奇襲であり、兵士たちは慌てて逃げ出したそうだ。食糧と弾薬も持ち逃げされている。


「夜のうちに移動していたのだろう。まんまとしてやられたよ」


 決戦と見せかけて逃げとは思わなかった。完敗である。


「どうしましょうか?」


「追うに決まってるだろう!」


 西郷は討伐対象。我々は討伐軍。追わなくてどうするというのか。馬鹿なことを言う奴に喝を入れながら追撃にかかる。だが、敵は多く見積もっても一〇〇〇に満たない少数。対するこちらは万に上る大軍。機動力はあちらが上であり、捕捉することはできなかった。半月ほど鬼ごっこを続けることになる。


 彼らの足取りは掴めており、話によれば少数の治安維持部隊を蹴散らして鹿児島に入ったらしい。私たちもそれを追って鹿児島に舞い戻る。


 西郷軍は城山周辺に展開していた。城山は鹿児島城が築城された際、詰めの城として整備されたものだ。しかし、城代の代わりが任命されず荒廃していた。そこに西郷たちがやってきたのである。


 西郷軍は鹿児島市街地の完全な掌握を狙っていたが、残っていた守備隊が司令部を死守した。西郷軍がやってきたのが九月一日。そこから絶望的な戦いを潜り抜け、本隊が帰ってくる三日まで守り抜いた。四日の攻撃を完全にシャットアウトした政府軍は城山を厳重に包囲する。今度は逃げられないように。各指揮官にも言い含めているため、彼らも神経を尖らせていた。


 最終決戦間近という雰囲気だったが、敢えて攻撃はせずにキーパーソンの到着を待った。そのキーパーソンとは信吾のことだ。東京から急遽、呼び寄せることとなり仕事を片づけるのに時間がかかっている。ちなみにこれは大山の提案だ。


 なぜ信吾を呼んだのかといえば、先日の戦いで彼の甥である菊次郎(西郷の長男)が降伏してきたからだ。右足に銃弾を受けて歩けなくなったため、西郷ら幹部の計らいで投降したという。大山も縁者ではあったが、より近しい信吾を呼び寄せようと言ってきたのである。


 ついでに、私たちは可能ならば城山で立て籠もる西郷を説得して降伏させようとしていた。背いたとはいえ維新の大英雄であり、ここで失うのは惜しい。軍上層部には西郷の縁者も多くおり、彼らの助命嘆願もあった。私も世話になった身であり、親しくしてもらった恩もあるためこれを受け入れている。


 私たちの動きに呼応するかのように、西郷軍の側でも助命を求める動きがあった。十九日に河野、山野田という敵兵二名が西郷の助命を求めて西郷軍から派遣されてきたのだ。


「どうか命ばかりは……」


「こちらも西郷さんには生きていてほしいと思っている」


 我々は元よりそのつもりであったため、翌日には私と西郷縁者(信吾、大山、川村)連名で降伏を勧める書状を持たせて敵陣へ返した。意外と戦闘なしで終わるかなと楽観的であったが、二十一日に山野田が持ち帰ってきたのは謝絶する返事だった。


「そうか……わかった」


 正直、そう返すので精一杯だった。西郷はここで死ぬ気なのだと思ったからだ。同席していた信吾たちも暗い顔をしていた。


「あっ、そういえば山縣殿にこれを渡してほしいと手紙を預かってきました」


 山野田は踵を返そうとしたが、忘れてたとこちらに向き直り手紙を渡してくる。読もうとすると山野田に止められた。曰く、西郷からひとりで見るようにと言伝されているとのこと。事情はわかったとはいえ、私には征討軍の参軍という立場もある。一応、周りに諮る。


「いいだろうか?」


「参軍が我々に伝えるべきと判断されたら話してください」


「――とのことなので必ずしも沿うことはできない。西郷さんには詫びておいてくれ」


「わかりました。それではご免」


 今度こそ山野田は自陣へと帰っていった。彼が帰った後は普通に仕事をする。この手紙は敵からのものとはいえ私信にあたるから、仕事の間に読むのは違うと思ったのだ。戦地でもできる仕事をこなして業務を終え、ようやく西郷の手紙を読む。挨拶から始まる普通の手紙であったが、そこには今に至る彼の本心が書かれていた。


 最初は昔を懐かしむような内容だった。「昔」と言ってもほんの十年ほど前のこと。干支が一周するかしないかというような時期の話だ。しかし、思い返すと本当に色々ある。西郷も同じ――いや、木っ端役人だった私と違って藩政の最前線にいた彼からすれば私以上だろう。手紙には私と出会って天下国家を論じ、共に皇国のため奮闘してきたとあった。


 ここまでうんうんと読んでいたが、これが盛大な前振りであったことに手紙を読み進めてから気づく。


 話は進み、建軍のことになる。徴兵か壮兵(士族兵)かで揉めたね、と言われた。


 私はおや? と思った。


 征韓論(明治六年政変)に話が及び、下野した西郷の心の裡が明かされる。


 曰く、下野してから私学校を設立して生徒を教育してきた。彼らはとても優秀で、内心ある思いが湧き出たという。即ち、生徒たちの方が徴兵された兵士たちよりも役に立つのではないかと。西郷はかつての壮兵論を捨てきれていなかったのだ。


 野望は芽生えたものの、じゃあやろうとはならなかった。自分が蜂起すれば大きな騒乱を巻き起こすことになるという自覚があったからだ。自身の欲望と理性の板挟みになり、逃避のため鹿児島を離れていた。だが、事態は西郷の与り知らぬところで動く。私学校の生徒が政府による暗殺だ何だと暴走し、遂に蜂起に及んだのである。これを見て理性が負けた。自分がどこまで通用するのか試してやろうと。だから暴走を止めず傍観したという。


「えぇ……」


 ここまで読み進め、ついそんな声が漏れる。この話を信じるならば、西南戦争の大きな要因は兵士の在り方になってしまう。色々な立場をかなぐり捨てて言うなら下らない。というかしょーもない。死んだ兵士が気の毒だ。


 衝撃のカミングアウトを受けて頭がクラクラしたが、手紙にはまだ続きがあった。


 動機はともかくとして西南戦争が起き、今日に至るまで戦ってきた。参軍が私と聞いて西郷はどちらが正しいか決着だと意気込んだらしい。いやさ、バトル漫画じゃないんだから。色々とツッコミ満載だったが、結論として徴兵の方がいいねとなったらしい。鎮台兵でも戦えるし、西郷軍は兵員不足でジリ貧になる一方で政府軍は補充を受けて戦闘力を維持した。


 まあ、私から言わせると個々の戦闘力はともかく、結局のところ戦いは数ですよということだ。それに相手がいくら強かろうと、適切に作戦指導すれば勝てる。先日の宮崎における決戦。あれはこれまでと違って西郷自身が指揮していたらしい。自分の目で見て徴兵に対する疑念は完全に払拭されたとのこと。なら降伏してよと思ったが、西郷には別の狙いもあったようだ。


 手紙にはこうある。


『自分が敗れたりとなれば、各地に燻る火種も絶えるだろう。そうなれば内政と軍備に注力できる。内政に大久保、軍備に山縣あり、百万の俊才これを助けるならば憂うことなどない。自分は御国の人柱として故郷に眠る』


 と。


「西郷さん、死ぬ気ですか……」


 そんな言葉が自ずと出てきた。独り言なので応える者はいない。


 西郷の気持ちはわかった。翻意させようと何度か手紙を出したが黙殺される。私も信吾たち縁者も無視されていた。


「最後にひと花咲かせようとこちらに突っ込んでくるはずだ。警戒を緩めるな」


 こうなったら是非もなし。務めを果たそうと総攻撃の準備をさせる一方、最後の突撃に備えて防備を固めさせた。果たして九月二十四日の早朝。西郷軍が政府軍の司令部を目指して突撃してきた。我々はこれを迎撃する。


 太平洋戦争におけるバンザイ突撃のようなもので、兵士たちは恐れ戦いていたが戦闘はこちらの圧倒的優位。午前九時までに主要な幹部は戦死あるいは自害。残った者も降伏し、ここに西南戦争は終結した。










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― 新着の感想 ―
正直補給物資(例)弾薬などの物量的にも西郷軍に勝ち目は無かったのではないかなと思います。あとこの世界ではなんとか紀尾井坂の変を阻止できれば!新設ボディーガード頑張れ!
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