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山縣有朋は愛されたい  作者: 親交の日
長州騒乱
5/88

揺れる天秤




本日から二日間、5:00、13:00、21:00に連続投稿する予定です。ぜひご覧ください!




 






 ――――――




 文久二年(1862年)。水戸浪士が老中・安藤信正を襲撃する事件(坂下門外の変)が起きた。この事件、実は長州藩も関係している。


 幕府権威を取り戻すため、安藤は公武合体路線を採用した。朝廷権威に依拠して幕府権威を向上させようというのだ。その象徴として実現したのが将軍・家茂に対する皇妹・和宮降嫁である。


 しかし、この決定は尊王攘夷派を刺激することになった。水戸藩士(西丸帯刀、住谷寅之介など)と長州藩士(桂小五郎、松島剛蔵など)は申し合わせ、首謀者である安藤の暗殺や外国人の襲撃を計画する。


 ところが、折しも長州藩においては長井雅楽の航海遠略策が藩政の主流となり、藩として幕府(安藤)に宥和的な姿勢をとるようになった。長州側は藩士の動員が難しくなったとして計画の延期を求めたが、水戸側は単独での実行を決断。安藤襲撃に絞り実施した。


 ――と、このように坂下門外の変の発端には長州藩も関係していたのである。


 安藤の暗殺には失敗したものの、負傷させることには成功した。しかも傷が背中にあったことから、幕臣より「武士が背中に傷を受けるとは不名誉」との声が上がる。その後、収賄や女性問題などのスキャンダルが次々と明るみになった結果、安藤は老中を解任され藩主の座も退くこととなった(彼が復権させた久世広周も老中を罷免されている)。


 この幕政変革は長州藩にも大きな影響を与えた。安藤と提携した長井は後ろ盾を失ったのを見た藩内の尊王攘夷派が息を吹き返す。すぐさま長井の排斥運動を起こし、藩論は再び尊王攘夷に傾く。


 そんな情勢のなか、私は与えられた仕事を粛々とこなしていた。一応、藩内では尊王攘夷派という風に目されてはいるが、そのなかでも中立に近い穏健派とされている。活動に熱心でないからだ。


 とはいえ、派閥による色は確実に影響している。長井の航海遠略策が採用されていた間は――熱心な尊王攘夷派が比較的大人しかったのもあって――平穏な日々が続いた。まあ、それは結果としてありがたかった。


 万延元年に薩摩藩に行ったが、その間に父が亡くなっていた。山縣家の家督を継いだわけだが、しばらくは服喪や身の回りの整理で忙しい。私生活が多忙のなか、仕事が少ないのはプラスだった。


 だが、そんな生活ともおさらばらしい。長井は排斥運動によって謹慎、直目付の職を免ぜられたが、文久三年に入って航海遠略策の全責任を取らされる形で切腹を命じられた。派閥から見ると政敵であるが、何とも酷い話である。しかも、長井は尊王攘夷派の急先鋒たる高杉晋作の父親と親しく、遺児の面倒を見てほしいと依頼したそうだ。史実の山縣は長井に対する贈位に反対するほど嫌いだったようだが、私はそれほど悪い印象を受けなかった。


 ともあれ、藩論が再び変わったことによって私にも大きな影響があった。最も大きなものは尊王攘夷の必要性をよく理解している、とかいう理由で終身の士分となったことだろう。何という贔屓――というのが本音だが、公式には素直に長年の忠勤が認められたとしておこう。


 その後、私は京都に呼ばれた。長州藩の対朝廷交渉は桂小五郎、久坂玄瑞に任されており、活動を補助するため松下村塾の塾生たちが集結しているのだ。そこで私は高杉晋作と出会う。


 彼は京都に来る前、様々な攘夷活動を行っていた。品川に建築されていた英国公使館を久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)、志道聞多(井上馨)、品川弥二郎などの面々で焼き討ちにする(実行)。武州金沢に観光に来るという外国公使を襲撃する(未遂)など。


「薩摩に置いていかれるわけにはいかんのだ!」


 行ってしまえばテロ行為であるが、高杉はそれを自慢している。時代柄といえばそれまでだが、抵抗感は拭えない。


 やってることだけ見ればお近づきになりたくない人物であるが、私は意図せず彼と親しくなった。いや、親しくさせられたというべきか。彼は何事にもハキハキとしていて豪快な人間だ。運動部のキャプテンみたいな感じで、陰キャ気質の私は逆らえない。彼のペースに巻き込まれ、他の塾生とともに京都を連れ回される。


「山縣も遊べ」


「は、はあ」


 しかもこの人、頭はキレるのだ。伊達に「松下村塾の双璧」を為していたわけではない。


 高杉の面白いところは、そんな風に豪快な振る舞いをしたかと思うと、突如として藩に十年の暇乞いをしたところだ。しかも、藩が用意した学習院用掛(朝廷との交渉役)のポストを蹴って。それが認められると剃髪し、妻と女中を連れて田舎の村に引き籠った。嵐のような人である。


 そして、嵐に翻弄されているのは何も私だけではない。一番割を食ったのは将軍・家茂であろう。安藤信正の失脚後、薩摩藩の実質的なトップである島津久光が勅使を伴って江戸へ行き、幕政改革を主導した(文久の改革)。これにより自身の政敵であった一橋慶喜、松平慶永ら一橋派が復帰。文久三年の一月には上洛し、孝明天皇に対して攘夷実行を確約させられることとなった。


 一方、これを聞いた長州藩は歓喜。関門海峡に戦力(海峡の砲台群に加えて軍艦四隻)を派遣し、海峡封鎖の準備を整える。そして攘夷実行の日とされた文久三年五月十日、海峡を通過しようとしたアメリカ商船に対して砲撃を行った。総奉行・毛利元周は躊躇していたが、久坂玄瑞ら強硬派が押し切ったらしい。結果、


「砲撃を受けた夷狄の船は周防灘へと逃れました」


 命中弾はなかったものの、突然の事態に驚いて逃走したらしい。賢明な判断だが、周りは大喜び。


「やったぞ!」


「やはり蛮夷など恐るるに足らず」


 という具合にますます攘夷に燃えていた。また、これを聞いた朝廷からもお褒めの勅が下された。おかげでますます調子に乗る。その後も長州藩はフランス、オランダの船を砲撃。こちらは命中弾があったようだ。


 ……オランダは開国以前より通商をしていたはずなのだが、彼らは何も思わないらしい(ちなみに砲撃を受けたオランダ船には長崎奉行の許可証に加え、幕府の水先案内人が乗っていた)。


 話を聞いた私は疑問に思い、さすがにやりすぎではないかと声を上げた。しかし、周りは立て続けに異国船打払が成功したことでお祭り騒ぎ。聞いてもらえないばかりか、攘夷派から白眼視されてしまった。付き合いきれないなと感じた私は、病気と称して家に引き籠る。


 相次ぐ成功に藩全体が調子に乗っていたところへ冷水がぶっかけられた。犯人はアメリカ海軍の軍艦ワイオミング。商船に対する砲撃への報復に現れたのだ。長州藩は迎撃したが、軍艦一隻を沈められ、一隻を大破させられる。また、陸上砲台も艦砲射撃によって大損害を受けた。


 それからさほど日も経たないうちに、フランス東洋艦隊(二隻)が来襲。砲台に猛射撃を加えて沈黙させると陸戦隊を揚陸させた。砲台を占拠し、民家を焼き払うなどやりたい放題。長州藩は増援を送るも艦砲射撃に阻まれ、まごついている間に陸戦隊は撤収してしまった。


 米仏に手痛い反撃を受けた長州藩だったが、なぜか士気は落ちない。領民は一揆を起こして反発したのだが、それを抑え込みつつ軍備増強に走る。砲台を増強し、士分に拘らず広い身分から兵士を募った所謂「長州藩諸隊」を編成した。


 長州藩の暴走は止まらない。攘夷実行を見た幕府は外国船に対する砲撃、小倉藩領への侵入について問いただす使者を送る。ところが、長州藩は使者が乗ってきた軍艦を戦力補充のために拿捕。使者も殺害してしまった。拿捕はすぐさま解かれたし、使者も公式には暗殺されたということになっている。しかし、幕府も何が起きたかは察しており、両者の間に不穏な空気が流れた。


 他方、京都では一向に攘夷を実行しない幕府に対して、三条実美ら攘夷派公家は不満を募らせる。やがて彼らは天皇親征による攘夷を画策し、朝議を支配していた彼らは大和行幸を決定する。それを知った尊王攘夷志士たちは天誅組を結成し、「親征の先鋒」として大和にて決起した。


 しかし、肝心の孝明天皇は攘夷を求めているものの、実行者はあくまでも将軍であり、家茂に任せるという考えは変わっていない。過激派公家とその裏にいる長州藩を排除するため、天皇は自身の腹心たちを動かして対抗勢力を動かすべく運動を始めた。


 天皇が期待していたのは公武合体派。そのなかでも薩摩藩を掌握する島津久光の上洛を望んでいた。ただ、その薩摩藩は生麦事件に端を発するイギリスとの武力衝突が目前に迫っており、側近の大久保利通は「まだそのときではない」と止めている。


 ただ、天誅組が蜂起すると悠長なことは言っていられなくなった。薩摩藩は兵士を上洛させている暇はない、と京都守護職・松平容保(会津藩)らの協力を取りつけ、武力による攘夷派の排除に乗り出す。


 八月十八日の早朝、会津藩を筆頭とした諸藩が御所の門を封鎖。安全を確保した天皇は大和行幸の中止、三条ら攘夷派公家を排斥することを決定した。慌てた三条らと長州藩は堺町門に集結。長州藩兵(堺町門の警備任務を帯びている)と会津、薩摩藩兵との間で睨み合いとなる。


 このような状況で京都の町には緊迫した空気が流れていた。公武合体派は事態収拾の方策を話し合い、緊張の原因である長州藩の堺町門の警備任務を解き、京都からの退去を勧告することとなった。こちらにはいくらかの反対があったものの押し通され、長州藩兵はやむなく京都を退去している。


 計画が頓挫したことと、長州藩兵が京都を退去したことにより孤立無援となった天誅組は程なくして討伐された。この件に不満を抱く三条らは退去する長州藩兵とともに長州へ下向したが、これは処分内容の禁足に反するものであった。


「これからどうするんだろう?」


 事の顛末は領内で噂になっており、私の耳にも入っていた。この事態を受けて強硬論が昂っていると聞く。先行き不安であった。


 そんなとき、私の家を訪ねてきた人物がいる。


「高杉さん」


「山縣。元気にしているか?」


「え、ええ……」


 高杉は隠棲したが、下関で外国艦隊に藩が打撃を受けると復帰。出自に拘らない藩兵部隊、奇兵隊を創設していた。ただ、藩士により編制された撰鋒隊との間で刃傷沙汰となり、その責任を問われて総督(隊長)から降ろされている。そんな彼が何用なのか?


「奇兵隊に入らないか?」


「え?」


 唐突な勧誘に困惑していると、高杉はいきなり核心を突いてきた。


「お前からは現状に対して何か言いたい、という意思が感じられる。今の立場では言っても無駄だという諦観もな。それについては何も言うまい。だが、男子ならばそれを言えるようになる立場になろうという気概を見せろ。後ろでヒソヒソと不満を溢すは軟弱者の思考だぞ」


「っ!」


 私は歴史を知っている。もちろんこの世に起きた全ての事象を知っているわけではないが、それはある意味で神のようなものだ。そして私の価値観は多分に現代的であり、この時代のそれからズレている。歴史的な評価や価値観の相違からテロだ何だと思い冷笑していたのだが、高杉はそれではダメだと言われた。もっともなことである。


 彼の言い分はわかる。私も内心で思っていたことだからだ。だが、同時にこうも思っていた。一般人だった私に何ができるのだろうかと。


「……私に、私にできるのですか?」


「知らん」


 ええ……。そこはできると言ってほしかった。私は落胆するが、


「だが、やらねばわからん」


 高杉はこうも言った。


「才覚は自ずから備わることもあれば、自らの研鑽によって得ることもできる。オレも剣術バカだったが、松陰先生のおかげで学を修めた。剣術はともかく、学問は間違いなく努力の成果だと思っているよ」


 とにかく、高杉は後ろであれこれ言うのではなく前に出ろと言う。立場が伴わないというのであれば、言えるだけの立場になれるよう努力しろとも。


「これから戦が始まる。山縣。奇兵隊に入れ。そこで己の価値を示せ」


「……はい!」


 高杉の言葉に心動かされた私は、彼の推薦で奇兵隊に入った。










「面白かった」


「続きが気になる」


と思ったら、ブックマークをお願いします。


また、下の☆☆☆☆☆から、作品への評価もお願いいたします。面白ければ☆5つ、面白くなければ☆1つ。正直な感想で構いません。


何卒よろしくお願いいたします。




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― 新着の感想 ―
[一言] 主人公がやっと「人間」になった回。 未来の事を知りながら何もしないゴミから漸く、一歩進んだ。
[一言] やはり奇兵隊に入りましたか。ここまでは主人公の心中はどうあれほぼほぼ史実の通りですね。あとはなるべく早い時点で村田蔵六を引っ張り出せるかどうか。
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