鹿児島突入
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私は有栖川宮熾仁親王とともに本隊を率いて熊本へ悠々と入城した。さすが戦争をしていただけあって、至る所に弾痕が見られ戦闘の苛烈さを物語っている。
「よく耐えた」
熾仁親王より谷司令官以下の将兵へお褒めの言葉を賜った。といってもこれは私が仕向けたもの。私が言うより皇族に言ってもらった方がありがたみが増すからだ。
熊本鎮台は連隊の数が少ないため、師団ではなく旅団(熊本旅団)に改編の上で戦闘に加わってもらう。他の部隊も警戒部隊は残しながらではあるが束の間の休息をとっている。もっとも、私たち司令部はむしろ忙しくしていた。
「それで、敵の配置は?」
「斥候によりますと本陣を木山に置き、大津から御船に至る防衛線を敷いている模様です。数はおよそ八〇〇〇」
その配置を地図上に示すと熊本平野を半包囲する形――鶴翼陣形をとっていた。
「さて、これをどう破るか……」
どうすんの山縣さん、みたいな視線が注がれる。
「ここは故事に倣うとするか」
鶴翼陣形は古代から使われている。ゆえに先例はいくらでもあるが、今回は戦国史でも有名な川中島の戦いを再現することにする。
師団を敵の前線に沿って配置。左から右に第一〜第五師団を並べていく。部隊の再編を行なっている熊本旅団、特設旅団、近衛は予備として熊本城に待機させる。
部隊を再配置している間、私の周りでは変事がひとつ。黒田清隆が臍を曲げて帰っていった。元からなぜか黒田とはそれほど仲よくないのだが、とある件で衝突した。それは熊本城へ突入した山川中佐の処遇についてである。
「部隊を置いて行動するとは何事か!」
私は肩書きこそ討伐軍の参軍(副司令官)とはいえ、実質的な最高司令官である。自分で言うのもなんだがとても偉い。だからといって小市民の私が椅子にどっかりと座っていられるはずもなく、小役人さながらに動き回ることが多い。
今回も部隊を見て回ると言って各部隊の様子を見ていたのだが、第三師団のところをふらっと訪れたときに黒田の怒声が響いた。何事ぞ? と首を突っ込みたくなった私は黒田に話しかけ、ことの顛末を聞く。その感想は、
「よくやった」
である。怒られて少ししょげていた山川中佐は救いの神を見たような顔になった。
「どういうことですか。彼は命令違反をしたんですよ?」
「たしかに命令違反ではあるが、戦場は常に動いている。前日に出された命令が今日、正しいというわけではない。それに、次席の指揮官に残りの部隊を任せるなど、処置も間違ってはいないから責められんだろう」
実際、鎮台兵たちはわずかとはいえ山川隊が入城して大歓声を上げた。また、西郷軍も戦線が突破されたことに衝撃を受け、前線を下げている。結果だけで見れば、山川隊が解囲を実現したと言ってもおかしくない。結果論ではあるが、山川中佐の判断は正しかった。そして私は結果さえ伴えば多少の命令違反は構わないと思っている。乃木も同じだ。もちろん責任もとってもらうが。
だが、この措置を黒田は不服として私に辞表を叩きつけると九州を後にした。やることは実に潔いのだが、自分の思い通りにならなかったからと拗ねるのは子どものすることである。政治家としてそれでいいのか? とも思った。
黒田が去った後、彼の地位は西郷の縁者であるからとりあえず連れてきた大山巌(少将)が継いだ。ちょっとしたゴタゴタがありつつも攻撃の準備が完了する。
「撃てーッ!」
ドンドン、と続けざまに大砲が火を噴く。政府軍は数日の休憩を挟んだ後、全戦線で一斉攻勢に出た。といってもこれはあくまで威力偵察。敵の反撃などから弱い部分を探し出すのが目的だ。だから程々に戦え、と命じていた。命じていたのだが、
「敵の反撃に遭い、戦線の一部が崩れました!」
その意図が十分に伝わってなかったのか、それとも後世に数多くの人外伝説を残す薩摩兵が単純に強いのか、反撃を受けて戦線が崩れてしまったらしい。報告を聞くとかなり深く食い込まれたらしく、熊本城下へ突入しそうな勢いだという。私はこれへの手当として予備の熊本旅団を早々に出動させる羽目になる。
そんな想定外もあったが、威力偵察の意味はあった。敵の戦力は右翼が厚く左翼が薄い。ならばと砲撃などで敵右翼を牽制しつつ、左翼に本命の攻勢を行い突破を図る。
「これだけ苛烈に反撃をしてくるなら、それを利用させてもらおう」
薩摩兵のようなフィジカルお化けには頭を使って対抗するのは定石。古今東西よく見られたことだ。しかも何が皮肉かといえば、私の戦術は薩摩発祥のそれを丸パクリしたことにある。
敵左翼に仕掛けた戦術は、戦国時代に島津家の躍進を支えた釣り野伏せであった。敗走を偽装するのがかなり難しいが、そこは逆転の発想。擬装が難しいならば本当に敗走させればいい。鎮台兵に突撃させれば勝手に負けて帰ってくる。それを追ってきた敵に対して残りの部隊で攻撃をかけ、正面には予備隊を手当てするのだ。丁度、黒田とほぼ入れ替わりで屯田兵が来たので彼らを使う。
この作戦は見事に成功する。敵左翼はまんまとこちらの策に嵌り敗走。御船をも放棄して後退した。さらに誤認か戦線整理かは不明だが、敵が優位に運んでいた最右翼も退却する。思わぬ戦果に現場も困惑したのか、司令部にどうするかとお伺いが立てられる。
「とりあえず、行けるとこまで行ってしまおう」
よくわからんが、敵本陣のある木山目掛けて進撃せよと命じる。だが、世の中そんなに上手くはいかないもので、頑強な敵の抵抗に遭遇した。
それでも敵の両翼をもぎ取り、こちらが鶴翼陣形をとるような形になった。外線的な作戦形態であり、内側――すなわち敵本陣に対してかかるプレッシャーは大きい。耐えかねた敵中央(本陣)は後退。孤立を避けるために右翼も退避せざるを得なくなり、後に関ヶ原以来と修飾される大会戦はわずか一日のうちに政府軍の勝利で幕を閉じた。
熊本方面から西郷軍は撤退していき、戦場は人吉へと移る。精強な薩摩兵に苦戦を強いられているなか、熊本城に詰めていた私は東京からの報告を眺めていた。軍務卿としての事務は東京で軍務卿代理を務めている信吾に任せている。ただ、東京に帰ってたときに浦島太郎では困るので、報告だけはするようにと言ってあった。それを眺めていると、ふと一枚の書類が目に留まる。
「救護班の派遣願いねぇ……」
一部の元老院議官や旧藩主から救護班の派遣願いが出されたが、逆賊をも救護するのは如何なものかと思い却下したそうだ。
「東京にすぐこれを送れ」
「はっ」
私はすぐさま東京に電報を送った。内容は救護班の派遣を認可するというもの。たとえ敵だろうと同じ日本人。それに幹部以外の兵士は必ずしも自分の意思で参戦しているわけではない。良くも悪くも団結が強い薩摩だ。柵で仕方なく参加している者も少なくないだろう。だからこそ救護する意味はある。
衛生科を設置しておきながら、この戦場に衛生兵はいない。専門知識を要するがゆえ、絶望的に人が足りていないのだ。戦闘部隊の指揮官ですら不足しているなか、いわんや医療部門をや。それでも何とか軍司令部所在地には病院を設立するところにまで漕ぎつけた。
後方支援として、熊本の病院を使い傷病者の治療は行なっていた。とはいえ、病院で働く者すら不足しているのに、戦闘部隊に随伴する要員の育成など手が回るはずもない。各隊に隊付衛生兵は存在するものの、任務に医療行為は含まれず負傷者を後送するのみだった。
だが、下手すると置いていかれるなかで自分たちを助けてくれる衛生兵は兵士たちの強い味方。病院内や復帰した者は衛生兵に感謝の言葉をかけ、なかにはちょっとした差し入れをしたり便宜を図ったりする者もいた。この話は古参兵からやや誇張された形で伝わっていき、野垂れ死にたくなければ衛生兵を大事にしろ、とまで言われるようになる。
それはさておき、話を救護班のことに戻す。私がまさかの認可の判断をしたことで、向こうはかなり慌てたそうだ。急いで連絡をとったものの、発起人たちは不在だった。彼らは既に別ルートを使って運動を行なっていたのだ。その別ルートというのが、私の横にいる有栖川宮熾仁親王である。
発起人のひとりである佐野常民は元老院議官。そのトップである議長こそが熾仁親王なのである。そのルートを使って親王に直訴を試みていた。このことを知った私はすぐに親王に説明。やって来る佐野に対して、救護団体「博愛社」の設立を許可することを申し合わせた。
「逆賊といえど、元は臣民であることに変わりはない。その心意気には感心する」
熊本城の近くにあるジェーンズ邸にて認可が伝えられる。そこに私も同席し、軍としての見解を伝えた。
「戦地から負傷者を拾ってくるのは衛生兵の役割だ。なので貴殿らにはそれ以外のところで活動してもらいたい」
具体的には野戦病院や熊本にある軍病院での活動だ。その他に、戦闘が終わった後の戦場であれば立ち入りと救護活動は自由にしていいとも。
薄情であるが、敵兵の負傷者は後回しというか今のところほぼ放置されている。一応、助けろとお触れは出しているものの、やはり敵という意識が強いらしくあまり積極的ではなかった。それを補ってくれる存在はありがたい。が、一応そこは危険地帯。ゆえに識別のため彼らには象徴を身につけてもらう。
「赤い十字ですか」
「そうだ。大山少将から話は聞いているし、私も欧州を訪れた際に耳にしたことがある。赤い十字は貴方がたのような活動をする者たちの象徴だとね」
ゆえに衛生兵も赤十字の腕章を付けさせている。それらは軍で調達したものだが、製作者は将校や下士官の家族。材料を渡して製作を委託した。ケチれるところはケチっていかねばやってられないのだ。出来上がったのは母ちゃんの手芸作品といった感じだが、これがいい味を出している。
衛生兵は腕章のみだが、博愛社のメンバーには鉢巻であったり旗指物なりに赤十字を描かせることにした。とにかく目立つが、目立つゆえに誤射などを避けられる(はず)。味方にはくれぐれも撃つなと言い含めた。西郷軍にも捕虜を使者(一方通行)として送って通知はしたが、守るかは知らん。博愛社のメンバーにはそのことも伝えておく。
そんなわけで、戦場に博愛社のメンバーが現れるようになった。政府軍の負傷者は衛生兵たちによって回収されるが、西郷軍の負傷者は後回しになる。彼らを見つけると収容し、担架や救急馬車(安比蘭斯と言っていたが直させた)に乗せて後送していく。通達にもかかわらず敵味方の誤射や妨害を受けて死傷者を出しながらも、彼らはその博愛精神を発揮して活動を続けていた。素晴らしく尊いことだ。
私が博愛社関連のことで動いている間にも戦地は動く。人吉に戦場が移ったが、ここは隘路になっており大軍は通れない。西郷軍はそんな地形を利用して寡兵で我々を食い止めていた。
「ん……?」
足止めを食らい苦々しい顔をしていた第三師団の山田少将はしかし、西郷軍の弾幕が薄くなっていることを察知した。これは弾切れを起こしているのではないか、と直感して総攻撃を命じる。
これが大当たり。
山田は比較的防備が薄い場所を重点的に攻め、西郷軍を崩した。勝ち始めると勢いに乗るのはどこも同じ。当たるべからざる勢いで進撃する第三師団は先々で西郷軍を蹴散らしていった。そして六月一日に人吉の町へと突入を果たす。このとき城と陣地の間で砲撃戦となるが、
「はっ! 相手はどこ狙ってるんだ?」
と政府軍の兵士が嘲笑したように、砲の性能差ゆえに射程が足らず西郷軍は一方的に撃たれるという状況になった。なおも抵抗を試みた西郷軍だったが、抗いきれず人吉を放棄。四日、彼らに協力していた現地部隊は政府軍に降伏した。
人吉の陥落は、これと並行して五月から行われていた大口方面の戦いにも影響する。水俣に布陣して大口の攻略を企図した第四師団だったが、西郷軍に大敗して根拠地である水俣を失陥しかけた。ただ、私が増援として第二師団を送り込むと、数にものを言わせて反撃する。
西郷軍は信じられないバイタリティを発揮してこの猛攻を凌いでいたが、六月初めに人吉を落として余力が生まれていた第三師団が攻撃に加わりさすがに支えきれなくなった。六月中旬、壮絶な白兵戦の末に大口は陥落。六月中には大口付近から完全に駆逐される。
「このまま鹿児島へ向かうぞ!」
大口方面を指揮していた野津少将は気焔を上げ、鹿児島への進撃を開始する。西郷軍はどうにか止めようとするが、政府軍の先鋒はおそらく政府軍の最大戦力である特設旅団だった。それを同時代の陸軍としては火砲の比率が高い正規の師団が援護。これを押し留めることはできず、西郷軍はズルズルと鹿児島方面への後退を強いられる。
その鹿児島には開戦間もない三月、勅使として柳原前光が一〇〇〇余の兵士を率いて訪ねていた。目的は国父・島津久光に対して西郷軍の慰撫を求めることだ。蜂起したが、今ならなかったことにするというのである。だが、久光は国父という立場を使ったとしても彼らは言うことを聞かない。そう言って協力を拒否。ただ、加担することもないと明言した。
前光は言質をとったことを一定の成果としつつ、退去にあたっては最悪の置き土産をしていく。西郷軍が収監していた警官を解放し、軍事施設を破壊して弾薬類も押収していったのだ。島津家は勤王の家柄であり、家臣たちもよく教育されている。彼らが勅使に対して躊躇している間の犯行だった。
その後は主に熊本で政府軍と西郷軍はドンパチを繰り広げていたわけだが、四月中旬に熊本を解放するとまたもや鹿児島に政府軍が来襲した。これは大口方面から侵攻する部隊の援護作戦であり、大山巌少将を司令官とした鹿児島方面軍を編成。先鋒は第五師団(三浦梧楼少将)で、四月二十七日に海軍艦艇の援護を受けて鹿児島への上陸を果たす。熊本旅団と屯田兵も後続として送り込まれた。
大山はまず暫定的に軍政を敷いて治安維持にあたったが、五月に正式な県令(岩村通俊)が赴任するとこれを解いている。当然だが、西郷軍は鹿児島の奪回に動いており、岩村が赴任してくる前から攻防戦が始まっていた。だが、西郷軍は守りを突破できないばかりか、上陸を巧みに利用して反撃してくる政府軍に苦戦。五月中に追い散らされてしまう。手を拱いてる間にも戦局は進展し、六月下旬には大口方面から政府軍が雪崩れ込んで鹿児島方面軍との合流を果たした。
西郷軍の残党は西郷が本拠地としていた宮崎方面へと敗走。私たち政府軍もそれを追い、戦場は宮崎へと移るのだった。
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