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熊本解放戦

 






 ――――――




 熊本城での戦いが始まった二月二十二日、博多に広島の第五師団が到着した。同月二十五日にやや遅れて東京の第一師団、近衛兵、特設旅団(警官隊)も到着する。私はこの部隊とともに現着。有栖川宮熾仁親王も一緒だ。


 これらの部隊を運んできた輸送船はとんぼ返りして第四師団(大阪)、第三師団(名古屋)、第二師団(仙台)、屯田兵を運ぶことになっている。


 先着していた第五師団は兵員の揚陸が済むとすぐさま南下を開始した。これは勇み足ではなく予定通りの行動だ。西郷軍の規模はかなり大きいことが予想されるので到着し次第、熊本方面へ向かえと事前に命令してあった。


 第一師団も同様で、特設旅団とともに人員の掌握が済み次第、南下させている。ゆっくりしているのは予備兵力兼司令部の護衛が任務である近衛兵くらいのものだ。それでも二日ほどで前進して久留米まで進出している。


 先行していた第五師団主力は二十五日のうちに乃木の第十四連隊と合流する。乃木隊は撤退後、高瀬川を防衛ラインとして設定。陣地の構築にかかっていた。


 この前日、西郷軍は防衛拠点まで前進していたが、乃木隊の動きを察知すると高瀬川を渡河して陣地構築の妨害を行う。だが、乃木隊が事前に有利な場所に陣取っていたことに加え、第五師団からの増援も到着したことでこれを撥ね返すことに成功する。


「敵は迂回戦術による包囲を狙ってきます」


 先に西郷軍と接触していた乃木から情報がもたらされる。これを聞いた第五師団では戦力的に優位であることもあり、後方連絡線の確保のため部隊を少し多めに割くことにした。これが後に功を奏す。


 臨時に乃木隊を指揮系統に組み込んだ第五師団は彼らを先鋒にして前進する。乃木隊は軍旗を奪われた汚名を雪がんとして猛攻撃を行い、西郷軍を敗走させた。追撃も苛烈を極め、木葉を突破して田原坂をも確保する。だが、


「後退!?」


「そうだ。貴官の働きは素晴らしいが、いささか突出しすぎている。このままでは孤立する恐れがあるから後退せよ」


 第五師団長の三浦梧楼はそう命じたが、乃木は従わずに独断で田原坂に居座る。言い訳としては正式に第五師団の隷下に組み込まれたわけではなく、意見が違った場合に従わせる強制力はない、というもの。史実と異なって早々に戦闘序列の概念を持ち込んだことで、乃木に撤退を拒否する大義名分を与えてしまった。これは想定外。


 乃木の言い分は必ずしも間違っているわけではないので三浦も強くは言えなかったようだ。まさか味方を見捨てるわけにはいかず、第五師団も当初の想定より前で西郷軍を迎え撃つことにする。結果、交通事故が起きた。


 乃木隊が追い散らした西郷軍は先鋒隊で、後ろに本隊が続いていた。その中央部隊と乃木隊が、左翼と第五師団の先鋒部隊(一個歩兵連隊)が衝突する。特に左翼は不意の遭遇戦であり、いきなりの乱戦となった。


 こうなると西郷軍が優位となる。刀の扱いに長けた士族と銃剣を振り回す兵卒では前者の方が強い。政府軍右翼は崩壊したが、後ろに続いていた別の歩兵連隊がこれを受け止める。今度はある程度の距離があったため銃撃戦から始まり、連射力に優れる政府軍が一転して有利に戦闘を進めた。


 中央では田原坂に布陣した乃木隊に、西郷軍の中央部隊が激しく攻撃を加える。田原坂を通る道は切り通しで、名前の通り坂道となっていた。標高は一〇〇メートルほどしかないが、防御側に有利な地形であった。それも手伝って乃木隊は数百名でありながら千を超える西郷軍の攻撃をよく防いだ。


 これらの部隊から有力な西郷軍が進出してきていることが後方に知らされた。


「まさか西郷軍の主力!?」


 すぐ後ろにいた第一師団の野津鎮雄少将は驚き、急ぎ救援に向かうべく行軍速度を上げる。随伴していた特設旅団も続いたが、その途中で戦場を迂回して後方連絡線を脅かさんとする西郷軍右翼隊と交戦する第五師団守備隊(乃木の進言を受けて後方を守っていた部隊)に出会う。


 西郷軍右翼隊を率いていたのは桐野利秋。速度を優先したのか麾下には二六〇〇の兵がいながらわずか六〇〇しか連れてきていなかった。それも守備隊(歩兵一個連隊)に苦戦していた理由だったが、ここに増援が加わるといよいよ劣勢となる。第一師団と特設旅団が反撃を行い、桐野隊は早々に敗走した。特設旅団の活躍は目覚ましく、政府軍が苦手とした接近戦でも西郷軍と互角に戦っている。これには率いていた川路利良(従軍にあたり少将の階級を得ている)もにっこり。


 敵右翼を排除した政府軍は第一師団がこれの追撃にあたり、特設旅団は中央部隊の救援に向かった。だが、彼らが到着するより前に勝負は決していた。戦場となった田原坂では双方が猛烈な銃撃戦を展開していたのだが、西郷軍の弾薬が尽きてしまった。西郷軍中央部隊の篠原国幹はこれでは戦えないと撤退してしまう。味方に何の連絡もしないまま。


 そのツケを払うことになったのは西郷軍左翼隊だった。中央の救援に来たのにやることがなくなっていた特設旅団が鬱憤を晴らすべく西郷軍左翼隊の横っ腹をぶん殴る。彼らは士族なので白兵戦はお手のものだが、軍部から銃器の貸与も受けているため鎮台兵と遜色ない火力を持つ。西郷軍左翼隊はとても支えきれず敗走。一連の戦闘で西郷の実弟・小兵衛が銃弾により戦死した。


「田原坂を確保した?」


「はい。お味方は田原坂一帯にて敵軍と交戦。これを退けて確保いたしました!」


 史実だと田原坂は西南戦争最大の激戦地。政府軍が一ヶ月にわたって苦戦する場所だったが、こちらが拍子抜けするほどすんなり確保している。戦闘の詳細を聞くと特設旅団が特に活躍をしたらしい。同時に鎮台兵が敵との白兵戦に苦戦したとも。いやまあ予想通りではあったが、対策しなければならない。


「……いっそのこと旅団を解散させて各部隊に組み込むか」


 単体で使うよりも効果的なのではなかろうか? そう思ったのだが川路に抵抗されて実現しなかった。警官隊は警官隊でまとまりたいらしい。あまりあれこれ口出して臍を曲げられても困るので、精鋭部隊として常に激戦地へ投入することにする。


 日本の土地柄ともいうべきだろうが、戦闘は森林戦として展開される。ここでは私が頼みとしている砲兵部隊が出る場面は少なく、歩兵が主体の遭遇戦や近距離戦がほとんどであった。苦戦と警官隊の奮戦を見た軍内では、本当に徴兵された兵士で戦えるのかという疑問の声も上がり始める。それを払拭したのは、乃木隊が確保した田原の防衛戦であった。


「進めッ!」


 政府軍が頼りにするのは砲兵隊の火力。私が建軍する過程を見てきた西郷軍首脳はそのことをよく知っている。ゆえに砲車が通れるだけの道がこの付近で唯一ある田原は絶対に確保したい。そんな認識の下、西郷軍は田原の奪回を試みた。


 果敢に攻め上る西郷軍の将兵。彼らを出迎えたのは猛烈な銃砲火だった。


「お前らなんて刀持ってても近くにいなけりゃ怖くねえんだよ!」


 政府軍の将兵はこれまでいいようにやられてきた鬱憤を晴らさんと果敢に戦う。彼の言う通り、接近さえされなければ士族にも徴兵にも違いはなかった。


 さらに、陣地防衛の局面でようやく砲兵隊の威力が発揮される。西郷軍は田原の奪回を目指して突撃してくるが、森に入ると部隊の統制が利かなくなるため多くは開けた道を通って攻めてきた。だから砲兵にはいい的であり、道沿いに砲弾が降り注ぐ。みるみるうちに西郷軍は死体の山を築いた。


 砲兵隊が躍動する一方、苦労していたのが歩兵隊である。特に東日本から参戦した第一師団と警官隊は銃の不発に苦しんでいた。主力銃はスナイドル銃だが、銃や弾薬の調達が間に合わないことからドライゼ銃やシャスポー銃も使用している。後者は紙製薬莢を使っており、湿度が高く雨の多い日本では湿気により不発になってしまうことが多かった。その問題点はもちろん私たちも認識していて、だからこそスナイドル銃の装備を急いでいた。今回の戦いには間に合わなかったわけだが。


 併用でなくスナイドル銃に一本化すべきという部内の主張もここから来ている。それは正しいのだが、現実的ではない。弾薬製造設備を鹿児島から運び込み、修理も終えて稼働しているものの戦場での弾薬消費量に対して常に不足気味だ。装備数がより多かったら弾薬不足も深刻化していただろう。


 東京では不足する弾薬を確保するため、信吾が必死になって調達していた。長崎に陸揚げされた輸入弾薬はそのまま戦地へと送り込まれている。弾薬集積地となった長崎は海軍陸戦隊が増強され、旧式の軍艦が警備に張り付いていた。


 話を戻すと、政府軍は弾薬不足や不発、さらには折から降り始めた雨に苦しめられながらも田原を死守する。降雨による視界不良、春先の低温による霧に紛れて近接戦を仕掛けてくる西郷軍。陣地を奪取されてしまうこともあった。奪回に投入されたのは警官隊の他、各部隊から剣に覚えのある士族を募って臨時で編成された抜刀隊。建前としては、川路に断られた警官隊の代わり。例の曲が生まれないのは悲しいな、と思い作らせたのは秘密だ。


 田原における戦闘は正しく一進一退。攻防は二週間ほど続き、戦死者は合計すると二〇〇〇を超えた(負傷も同程度)。もっとも敵はそれ以上で、戦地からは篠原国幹(敵の副司令官格)を戦死させたとの報告も入っている。また、連日の戦闘で弾を撃ちまくった結果、敵は弾薬不足に陥っているらしい。日を追うごとに攻め手は緩み、やがて撤退していった。


「追え!」


 私はすぐさま追撃を命じる。既に戦場にいた第一、第五師団、特設旅団(警官隊)に加えて、ようやく到着した第四師団(大阪)も参加させる。なお、この時点で第三師団(名古屋)も来ていたが、彼らには別任務を与えており動かせなかった。


 第三師団に与えられた任務とはずばり、八代への敵後方上陸である。これによって鹿児島と熊本の分断、兵力が分散されることを狙っていた。地理的な関係で遅れてやってくる第二師団(仙台)、屯田兵についてもここに投入される予定だ。


 上陸部隊の指揮官は黒田清隆(中将)。その下には山田顕義(少将)がいた。地上に私、上陸部隊にこの二人というのは、奇しくも戊辰戦争(長岡戦争)の再現であった。いやまあ、少将以下は多いが中将となると数が限られてくるから仕方ない。山田がいることも含めて偶然である。


「承知した」


 命令を受けた黒田はそう言って出発したが、どことなく嫌そうだった。任務というより、私に指示されるのが嫌らしい。まあ、西郷を上手く使って軍における薩摩閥を弱体化したし、彼の牙城である開拓使管轄下の屯田兵を設立するときも、兵隊なんだから軍務省が掌るべきだと揉めた。そんな相手の指示に従うのが面白くなくて当然か。


 上陸部隊は長崎から輸送船に分乗し、八代上陸を目指して出発する。先鋒は一個連隊および特科隊だ。それから三波に分かれて上陸を行う。予定地点には西郷軍の警戒部隊がいたため、別の場所へ上陸。察知して排除を試みた西郷軍を追い返した。


 驚いたのは熊本を包囲する包囲軍であった。彼らはなかなか苦しい立場にある。当初、万を超える部隊が展開していたが、主力が政府軍の迎撃に向かってしまう。さらに補充のために度々、兵力を引き抜かれたため包囲には兵士がいささか不足していた。仕方ないので川の水を堰き止めて水攻めにするも、鎮台側の兵力集中にもつながり効果があったとはいえなかった。


 そして、ここへきて政府軍が後背への上陸。正直なところ包囲軍としてはこれ以上の戦力を割きたくなかったが、何もしなければ最悪の場合、挟撃される恐れがある。渋々、なけなしの兵力(永山弥一郎隊の二〇〇〇)を上陸してきた政府軍の迎撃に回した。


 両軍は小川という場所で激突する。


「ここを奪われれば後ろの味方が危機に陥る。死力を尽くせ! 矢尽き刀折れるまで戦うのだ!」


 永山は部下たちを叱咤するが、戦訓を踏まえて距離をとった戦いを心がける政府軍とまともに戦うことができない。結局、敗走を余儀なくされた。


 だが、続く松橋での戦いは違った。雨と西郷軍が行った水門破壊により戦場一帯が泥濘となる。さらにこれらの部隊はドライゼ銃装備であったため雨の湿気により弾薬が使いものにならなくなっていた。戦力低下は免れなかったが、複数方面から攻撃を仕掛けて突破する。


「戦線が広い……我々だけでは支えきれんぞ」


 黒田はそんな文句を言ったらしいが、そんなことはこちらもわかっている。既に増援は出発しており、彼が文句を垂れた翌日には第二師団が到着。戦列に加わった。


 一連の戦いによって上陸部隊は熊本城からおよそ十キロの地点に接近。城からもこれは確認でき、谷司令官は城外への連絡を試みる。何度か威力偵察を兼ねて城外へ部隊を放ち、西郷軍の配置などを確かめた。その結果、包囲はかなり緩んでいることが判明。谷は連絡部隊を出すことを決断する。


「頼むぞ」


「必ず成し遂げます」


 連絡部隊に選ばれた部隊の隊長・奥保鞏は谷の激励にこう返した。西郷軍の決起は予想されていたこととはいえ、察知してから籠城するまで時間的な余裕がさほどなかったこともあって城内の備蓄は乏しい。さらに、数日間の猛攻に対する応戦で乏しい物資を消耗していた。早期に城外と連絡をとり、解囲されなければいけない。奥は重大な使命を帯び、味方の支援を得つつ西郷軍の包囲を抜け出した。


「なるほど。直ちに兵を差し向けよう」


 奥隊は首尾よく上陸部隊と接触に成功する。報告を受けた黒田は第三師団の他、上陸地点周辺を守り鹿児島方面からの敵に備えていた第二師団の一部も熊本解放戦に投入することを決定。部隊が北部へ転用された。それが思わぬ危機を招く。


 政府軍との激しい戦闘により西郷軍も消耗していた。特に兵員において顕著であり、補充のため鹿児島で新たな部隊(一五〇〇)が編成される。ところがこれを熊本まで動かそうとしたとき、政府軍が八代へ上陸。補給路を遮断されてしまった。西郷軍は八代を奪取し、敵の上陸部隊を孤立させようと鹿児島の新部隊に攻撃させた。それが配置転換の後であったため、政府軍に隙が生まれていたナイスタイミングだったのである。


 奇襲を受けた鹿児島方面の政府軍は混乱した。西郷軍は八代目前まで電撃的に侵攻することに成功するが、快進撃はそこまで。第二師団はどうにか混乱から立ち直り、急報を聞いて慌てて帰ってきた部隊も加えて反撃に乗り出す。まともに戦えば二〇〇〇にも満たない部隊で師団の相手などできるはずもない。西郷軍は敗走し、協力していた宮崎八郎(熊本出身)が戦死。隊長格の別府晋介も重傷を負う壊滅状態となった。


 鹿児島方面の西郷軍を排除した上陸部隊は改めて熊本解放作戦を発動する。これを阻まんと負傷を押して前線で指揮をとった永山を切腹に追い込み御船を占領。抵抗を排除しつつ川尻も奪取した。なかでも第三師団所属の山川浩中佐(会津出身、歩兵第六連隊長)は精鋭を選抜するとさらに前進。薩摩軍の包囲を破って熊本城に入城した。当然、城を守る熊本鎮台の将兵には大歓迎を受ける。


 いよいよ上陸部隊への押さえが利かなくなった西郷軍。田原からの政府軍の追撃をよく防いでいたが、全軍包囲の危機に陥ったため堪らず後退する。熊本城を包囲していた部隊も木山へと撤退。敵がいなくなったので政府軍は悠々と熊本へ入った。時に四月十六日のことである。










気になっている方もいるかもと前回の補足。乃木が奪われた軍旗は後に奪還しています(史実でも奪い返したが、それ以前に再授与されていたため処置に困り、倉庫の奥に元の軍旗が仕舞い込まれ忘れ去られていました)




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と思ったら、ブックマークをお願いします。


また、下の☆☆☆☆☆から、作品への評価もお願いいたします。面白ければ☆5つ、面白くなければ☆1つ。正直な感想で構いません。


何卒よろしくお願いいたします。




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[気になる点] この世界でも黒田の嫁斬殺を大久保と川路は揉み消すんだろうか。 この時代の人物は大概キチエピまみれで、伊藤の猥褻行為だのカー〇ックスだのといった醜聞が比較的マシに思えてくるのが不思議だ。…
2024/10/02 19:54 ラビットフット
[良い点] スルメ系歴史小説 [一言] 抜刀隊も陸軍分列行進曲も好きだからその配慮は助かる
2024/10/01 00:11 ブルグント騎士団国
[良い点] 西南戦争について知っていることなんて、西郷隆盛が自刃したことくらいしか知らなかったので、ここまで大規模な内戦が起こったとは… [気になる点] 史実の方が詳しくないから、おそらく史実より優勢…
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