熊本籠城戦
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東京へ戻る途中、名古屋へ寄ってそこから東京と熊本へ電報を発する。軍務省と熊本鎮台に対し、職権を以って出兵準備を命じた。海軍に対しても出航準備をするよう命じたが、細かなことは専門家である川村に任せる。
二月十九日、天皇より鹿児島県逆徒征討の詔が下った。西郷軍の出陣からわずか二日後のことである。電信網を駆使してこのことはすぐさま全国へと伝わった。それと同時に各地の部隊に行動が命じられる。最も近い熊本鎮台に対しては、東京へ戻る途中の船で川村と方針を打ち合わせていた。
「長崎を押さえられると外国との連絡を遮断されてしまう。長崎と(長崎攻めの)根拠地となる熊本は死守しなければならない」
長崎は日本のアキレス腱のような存在だ。まず、かの港は日本向け貨物の中継港となっている。中国方面から来た貨物は長崎で仕分けされ、各地に配送されるという仕組みだ。そこが落ちるとこれが機能しなくなる。通商が阻害された列強も怒るだろう。そういった観点からも長崎は死守しなければならない。
次に長崎を通る電信線の存在だ。国内の主要都市は早々に網羅する形で電信網が整備されたが、国外へ行くのは長崎からの一本のみ。落ちると外国との電信が途絶してしまう。これも列強を刺激しかねない。
そんな重要都市・長崎を守るにあたって西郷軍が陸から来るか海から来るかが問題だ。可能性を絞るため、鹿児島の内情について知っている川村に問うた。
「敵の海軍戦力はどれくらいある?」
「最新の情報ではないですが……汽船が数隻程度で軍艦に相当するものはなかったと記憶しています」
「それは好都合だ。西部艦隊は鹿児島沖を封鎖。護衛、作戦支援は東部艦隊に任せよう」
海からの圧力をほぼ無視していいのは助かる。ならば熊本に集中だと思っていたら、川村からストップがかかった。何か問題があったか?
「艦隊の配置はそれでいいと思います。ただ、万が一にも長崎へ奇襲を受けたときに備え、守備隊を置くべきです」
「うーん、そうは言っても熊本鎮台だけで両方を守ることは難しいぞ」
実は熊本鎮台には大きな問題があった。他の鎮台は三個歩兵連隊と各種特科隊で構成されているのだが、熊本だけ二個連隊なのだ。これには理由がある。計画では熊本と小倉の他に鹿児島にも連隊を置くことになっていた。ところが鹿児島の反対に遭って設置できなかった。いつでも編成できるように基幹人員はいるものの、書類上はあって実際には存在しない部隊となっている。
そんなわけで、他より規模の小さい熊本鎮台。二ヶ所を守るのは物理的に厳しい。かといって他所から呼ぶ――現実的なのは広島鎮台だろう――にしても間に合うかは微妙なところだ。それは川村も承知しているらしく頷いている。ここからが本題らしかった。
「ですから海軍に任せていただきたい」
「海軍? ……ああ、陸戦隊か」
「はい」
日本海軍がイギリス海軍を模範としているのはよく知られた話である。歴史のある海軍は接舷戦闘が主流だった時代から存在しており、それに根差した文化も残っていた。そのひとつが海兵隊である。
元は船を操作する人員とは別に、接舷戦闘によって生じる白兵戦へ対応する兵科として「海兵」が存在していた。しかし、戦闘方法が砲戦のみになると本来の仕事はなくなり、兵科を残すために副次的な任務であった派遣先での陸上戦闘に特化するという歴史を歩んだ。
当然ながらイギリス海軍にも海兵隊は存在しており、日本海軍もこれを真似て設置された。だが、私からすると財政が火の車のなかそんなものに人も予算も割いていられない。私が軍内で権力を掌握するとすぐに廃止している。
だが、海軍からはもの凄い反発を受けた。仕方がないので代わりとして陸戦隊を置く(という体をとってはいるが実のところ当初計画であった)。常設の部隊と臨時編成とがあり、前者は基地警備に従事する。多くの場合、大隊編成だ。後者は艦艇ごとに乗員を武装させて臨時編成されるもので、艦名や部隊名を関して「〇〇陸戦隊」と呼ばれる。今回は後者であった。
「それでいこう」
迅速に展開できる陸戦隊は即応性に優れている。他に手段もないことから、長崎の守備は陸戦隊に任せることにした。
命令を受けた西部艦隊の艦艇は長崎へ寄港。規模に応じて一から二割の船員を上陸させ、西部艦隊連合陸戦隊を編成した。
また、熊本鎮台に対しても熊本の死守を命令。それに従って鎮台司令官の谷干城は本営のある熊本城に全軍の集結を命じた。彼らには後続の到着まで粘ってもらう。
ここでひとつバカ話が生まれている。廃城令に際して私が城郭の文化財的な価値を指摘、保護すべきと主張したのを覚えていたらしく熊本から城をどうするかと照会が来ていた。それに対する回答は、
「戦なんだからそんなこと気にしている場合じゃないだろ」
である。いや、聞いたときはバカかと思った。四の五の言わず使えるものはなんでも使えと言っておいた。戦いは勝たないと話にならないのだから。
閑話休題。
出征の準備は最前線の九州以外でも進む。今回は全国の部隊に動員がかかった。これまでの士族反乱では近場の鎮台が連隊戦闘団を結成して対処にあたったが、それでは戦力が不足すると判断。全国の鎮台がフルの師団を編成しての出動となる。
また、司令部の人事についても発表があった。征討軍の総司令官(総督)には有栖川宮熾仁親王が任命され、これを補佐する参軍(実質的な司令官)には大将に昇進した上で私が就任。その下に陸海軍部長が置かれ陸軍部長には西郷従道、海軍部長には川村純義と軍務省の組織をそのまま移植したような人事となっている。トップに皇族と長州、脇を固めるのが薩摩(しかも西郷の縁戚)という布陣だ。
この内乱に対しては警察からも支援の申し出があった。あちらさん――というか川路はフランス式警察をモデルにしており、内乱ごときに軍隊が出ていく必要はないというスタンスだった。組織も「警視庁」から「東京警視本署」と名前を変え、地方に出ていくという気概を見せている。
軍と警察は明確に分けたい私個人の心情としては謝絶したかったが、現実として兵力に不安があった。面子を優先して国を滅ぼすわけにはいかないのでこれを受諾する。警官隊は特設旅団として活動させることにした。軍から銃砲の類も貸与している。
武器弾薬の問題があることは既に述べたが、それ以外にも問題にぶち当たっていた。それが兵士の輸送能力である。徴発令に基づいて三菱や倉屋から船舶を徴用しているが、数は十分とはいえない。とりあえず展開の早い近場の広島鎮台(第五師団)と兵力量の大きい東京鎮台(第一師団、近衛兵、特設旅団)へ優先的に割り振っている。全軍を動員した大戦争にはまだまだ対応できていないことが明らかになったが、テコ入れするのはこれが終わった後だ。
「留守は任せる」
「はい」
「お任せあれ」
征討軍の司令部要員のうち、陸海軍部長である信吾と川村は東京で後方業務にあたる。信吾は軍務卿代理の役割もあり大忙しだ。だが、長くやってきて彼らの仕事ぶりには信頼を寄せている。
家では海がしっかり、と激励の言葉をかけてくれた。最近は士族反乱といっても在京していたが、今回は規模が大きいということで現場に行くことになる。彼女としては、私が国の柱石のように扱われているのが誇らしいようだ。いやまあ、どう思うかは個人の自由なのでとやかく言うつもりはない。だが、子どもたちに私が凄いと言い聞かせるのだけはやめてくれ。……そんなことを言ったら機嫌を損ねるので言わないが。
職場も家庭も懸念なし。私は何の憂いもなく戦地へ赴くことができた。
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二月二十日。後に西南戦争と呼ばれる内戦の火蓋が切られた。最初に接触したのは熊本から派遣されていた偵察隊と、西郷軍の先鋒だった。さすがは数々の人外伝説を残す薩摩隼人というべきか、西郷軍はこの偵察隊を容易く蹴散らしている。
このとき西郷軍は捕虜を獲得した。尋問の結果、熊本鎮台が籠城策をとることが判明。ならばと西郷軍は前進を続け、二十二日未明に熊本城を包囲する。
対する鎮台側は城内に主力となる歩兵連隊と各種の特科隊が詰めていた。残る歩兵一個連隊(小倉、乃木希典指揮)は西郷軍を牽制する役目を帯び城外にいる。時間的に合流が難しいという理由もあるのだが。
熊本城の戦いにおける初弾は籠城する鎮台側から放たれた。これを合図に西郷軍は城への総攻撃を開始する。最大の焦点となったのが藤崎台の西にある段山という小さな山だ。この頂上からは城を見下ろすことができ、堅牢さで知られる熊本城の弱点とされていた。当然、西郷軍はここを狙うし、鎮台側も特に練度の高い歩兵第十三連隊第三大隊(小川又次大尉指揮)を守備に就かせている。
しかし、元より鎮台側が数的劣勢である上、最大の焦点というべき場所なので来攻した西郷軍の数が半端ではなかった。総数一四〇〇〇のうち、二割ほどの三〇〇〇が投入される。対する小川大隊は特化隊の増援を受けていたものの、それでも七〇〇名ほどであった。四倍の敵を相手に奮闘するものの午前中には段山から駆逐されている。
段山が要衝であったことはその日のうちに明らかになった。近郊で指揮をとっていた連隊長が段山からの狙撃で負傷。翌日、死亡した。
形勢は鎮台側が明らかに不利であったが、日本の城郭でも屈指の防御力を誇る熊本城の力も助けに脅威的な粘りを見せる。段山を失陥した以外には西郷軍を寄せつけず、城本体はどこも失っていない。これには築城主・加藤清正も泉下で喜んでいることだろう。
他方、城外においては乃木の歩兵連隊が熊本に接近していた。
「あれは……?」
高瀬という場所に進出したとき、乃木は熊本の方角に薄らと白煙を認めた。西郷軍との戦闘が既に始まっていると直感した乃木は熊本へと急ぐ。その途中で、自分たちの存在を知った敵が迎撃に来ていることを知る。
乃木は冷静だった。もうすぐ陽が落ちる(会敵予想は午後七時)ことから夜陰に紛れて奇襲を仕掛ける。不意を突かれた西郷軍は敗走するが、程なく増援を受けてリベンジしてきた。よく支えていたものの、敵が自軍の倍に達して包囲機動をとり始めたことから撤退を決断する。
だが、結果としては判断が遅かった。優勢な敵軍の存在に加え、夜間の戦闘ということで部隊の統制が十分にとれない。それが元で混乱し、大事件を生む。軍旗奪取事件である。旗手が撤退に伴う混乱のなかで戦死。西郷軍がこれを奪取したのだ。苛烈な戦闘に双方とも疲弊していたので追撃はなかった。
この件を乃木はかなり気にしており、二十五日に戦地へと着任した私に対して謝罪文が送られてきた。死んでお詫びするといった勢いだったが、生きて奉職することが何よりの償いだと説得している。だがそれだけでは収まりがつかないらしく、先鋒に志願しては上官を困らせるのだった。
乃木隊との戦闘後、西郷軍の方針に変化があった。内部では熊本に拘るか否かで揉め、最終的に西郷の判断で熊本を包囲しつつ主力は小倉を目指すことになる。この結果、西郷軍を乃木隊のみで相手をすることになった。乃木隊の後ろには誰もいないので、まさしく自分がやらねば誰がやるという状態。やむなく乃木隊は真正面から西郷軍主力と激突した。
「無謀ですよ、連隊長!」
この判断に隊内からはさすがに反対意見が出た。万を数えんとする敵に対して正面から戦うのはあまりにも無謀だと。しかし、これに乃木はこう返している。
「それは承知の上だ。だが、ここで何もしなければ怒涛のごとく北九州を陥れるだろう。それだけは防がなければならない」
乃木はこれがこの場から動かない死守ではなく、時間稼ぎの遅滞戦術だと説明。それで誤解が解け、隊員たちは乃木の命令に服した。
北上を企図する西郷軍の先鋒およそ一四〇〇と乃木隊は木葉にて会敵。事前の想定に反して乃木隊は優位に戦闘を進めた。朝から戦い始め、昼過ぎまでは西郷軍の進撃を阻むことに成功する。ところが後方へ浸透されかけると天秤は西郷軍へと傾く。それでも乃木隊は脅威的な粘りを見せ、日没まではその場に踏み留まった。夜間の撤退を試みたときに側面から攻撃を受けて敗走。大隊長が戦死する被害を出している。
とはいえ、この判断が奏功した。出鼻を挫かれた西郷軍は部内の対立もあり方針と行動が一貫していない。熊本城を強攻することを諦めていない一部の部隊は独断で攻撃を継続するなどグダグダだった。乃木隊に進撃を阻まれたこともあり、西郷軍はやってくる新政府軍をこの場で迎え撃つことにした。
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