表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
山縣有朋は愛されたい  作者: 親交の日
殖産興業、富国強兵
46/84

西郷起つ

 






 ――――――




 大阪会議によって政府に木戸と板垣が復帰したはいいものの、すぐに不協和音が響き始める。


 元々、大久保を会議に参加させた動機のひとつに左大臣となった島津久光の動きがあった。久光は何度か東京と鹿児島を行き来していたが、佐賀の乱を機に召し出されて左大臣になっていた。ところが、彼は保守的な人なので急進的なものどころか漸進的な改革(大久保主導)すら嫌い、保守的な意見書を提出する。維新についても「西郷と大久保に騙された」と言い放つ人物なので、大久保が説得したところで効果はなかった。


 政府上層部がこんな具合なので混迷し、大久保は木戸と板垣を引き戻すことにしたのである。だが、これが思わぬ反作用を持った。議会設置を目論む(急進的な改革を望む)板垣と保守的な久光とが連携する動きを見せたのである。具体的には参議と卿の兼任を止めよというものだった。


 維新後、明治政府は数年でコロコロと体制を変更していた。そこで問題となったのが正院と右院の分断である。政府の意思決定において中核を担う参議が正院の内閣を構成する一方、実務を担う省庁のトップ(卿)は右院を構成しているため頭と手が分裂していた。そこで大久保は参議と卿を兼任させて意思決定の統一を図ったのである。


 これによって前記の弊害が解消された一方で、椅子が少なくなるという別の問題が生じた。新たに参画した木戸と板垣は参議となったものの、兼任が前提なところがあるため発揮できる影響力は限られてしまう。だから兼任を止めろと主張したのである。


 この動きに乗っかったのが久光であった。だが、運動は上手くいかず失望した板垣と久光はそれぞれ職を辞した。木戸も続こうとしたようだが、再び病魔に冒され外に出る元気もなくなったらしく留任している。結局、大阪会議の成果は一年と保たずに崩壊してしまった。


「こんなことになるなら詔勅を出すんじゃなかった」


「それは言いっこなしですよ」


 大久保はあるときそんな本音を漏らしたが、未来のことなんて誰にもわからないのだから言っても仕方がない。それに悪いことばかりではないのだ。我々が詔勅に縛られるのと同時に、相手もそうなるのだから。


 というわけで明治八年(1875年)の末、閣議で私はとある建議を行った。とある理由で表現に気を遣っているためかなり迂遠で長々とした建議となっているが、ひと言で要約するとこうなる。


 一般人が刀を帯びるのを止めましょう


 それだけだ。なぜチキって表現をオブラートにしているかというと、前に同じようなことを言ってクビにされた人がいるからである。その人物は森有礼といい、提言した後に猛反発を食らって退職に追い込まれた。同じ轍を踏まないよう気をつけただけである。


 軍制や警察制度により国内の治安維持機構は整っている。刀を差して生活する必要はないでしょう。持ち運ぶのを止めましょうよ、という建議である。反発があるのは覚悟の上。それでも出したのはひとえに国内の治安維持のためだ。


 幕藩時代における特権階級であった武士だが、同時に体制に縛られる存在でもあった。名字帯刀などの特権がある一方で、適用がシビアな切り捨て御免もある(証人がいなければ切った武士がお咎めを受けた)。


 ところが、そんな武士を縛っていた幕府や藩が吹き飛んでしまった。それで暴れ出したというわけではないものの、不平士族が蔓延るなかで「武士という身分」を存在させ続けるわけにはいかない。いい加減、旧時代とは決別して「日本国民(臣民)」としていく。閣議ではそんな説明をした。


 日本を天皇を核とした国民国家としてまとめるには不可避の措置である。森の先例があるので内心ビクビクしていたが、閣議では無事に賛成を得て翌年の三月に通称「廃刀令」として布告された。


 これにおよそ半年遅れる形で、家禄を公債へ強制的に切り替える金禄公債証書発行条例が八月に出される。遅れは渋る三条実美を説得するのに大隈重信が手間取ったためだ。


 武士の象徴であった刀を士族だからと公に帯びることを禁じられ、江戸時代以来の禄制を廃止された。これまでじわりじわりと追い詰めていたものが、ここにきてその流れを一気に加速させる。不平士族はいよいよ加熱した。


「来るべきものが来るか」


「はい。各地で怪しい動きが報告されています」


 というのは市井における噂ばかりではない。私が軍部に設置した情報機関によるものも含まれている。


 日露戦争という近代史で稀に見るジャイアントキリングに大きく寄与したのが明石元二郎による「明石工作」であるが、逆に日本国内の防諜体制はガバガバだった。防諜を強化するため、少ない軍事費からどうにか捻出して情報機関を設置している。いずれはイギリスのSISのような国内外で活動する情報機関にしていきたい。


 私たちも何もしていないわけではないのだ。廃刀令や秩禄処分が布告されたタイミングで軍や警察へのリクルート活動を強化している。警官や軍人なら刀を帯びていても問題ない。だから警官や軍人になりませんか? というのはかなり穏当だと思うのだ。応募者はほぼいないそうだが。


 そしてついに暴発する。火元は熊本。肥後藩士族の一党である敬神党が蜂起した。十月末のことである。彼らは市内を巡回していた警邏隊(怪しい動きを察知していたため警戒させていた)を排除。それからいくつかの集団に分かれて熊本にいる高官、鎮台が置かれた熊本城を襲撃する。


「何だ、貴様らは!? ここは――」


「問答無用ッ!」


「ぐはっ!?」


「アンタ! ――うっ!」


 鎮台司令官の種田政明宅を襲った者たちは種田の愛妾を除く人物を殺害。参謀長や連隊長宅も襲い、彼らを殺害あるいは潜伏させるなど指揮系統を麻痺させることに成功する。


 賊徒は騒ぎが伝播する前に城へも突入した。歩哨を突破して営内へと侵入。寝静まったところを襲撃されたためまともな反撃もできず、兵営の一部を制圧されてしまった。


 また、騒ぎを知った県令・安岡良亮は自宅に県官や警察関係者を集めて対策について話し合っていたが、そこへ賊徒が乱入する。


「お前たち、早まるな!」


「煩い!」


 安岡は着任以来、不平を吐く敬神党の慰撫に努めてきた。怪しい動きがあると密かに中央から警報が飛んでいたが、強硬手段で鎮圧しようとする警察に対して安岡は説得して思い留まらせようとしていたのだ。襲撃されてもなお、なんとか落ち着かせようとしたが彼らは聞く耳を持たなかった。


「県令、ここは危険です!」


 警官隊が必死に抵抗して安岡を退避させようとする。だが、衆寡敵せず。多くの死傷者を出した。安岡も深傷を負ったが、身を潜めてどうにか難を逃れている。


 ここまでは順調だった。中央から注意はされていたものの、なかなか対応できるものでもない。一応、警邏隊を増やすなどの対策はとっていたものの、結局は後手に回る結果となった。


 鎮台司令官、部隊長、県令と頭を潰され、騒擾に伴う混乱も相まって機能不全に陥っていた政府側。とはいえ、時間が経つとさすがに組織的な動きが戻り始める。その中心にいたのは陸軍少佐・児玉源太郎だった。


「落ち着け! 隊伍を整えろ! 訓練通りにやるんだ!」


 児玉は参謀職にあるため指揮権はないものの、将兵を督励して賊徒を抑止することに成功した。連隊長などの上級指揮官が戻ってくると彼らを補佐。襲撃してきた賊徒を城から叩き出す。


「――ということだそうです」


 反乱が起きたことは電信によってすぐさま東京にも伝わった。周辺部隊に出動待機を命じたが、程なくして鎮圧したとの報告が入る。


「死者六十名程度、負傷者二百名程度……司令官は自宅で戦死か。手酷くやられたな」


「軍旗も一時は賊の手に落ちたそうですからね。取り戻せてよかった」


 連隊設置とともに天皇より下賜された軍旗。部隊の象徴であるだけでなく、天皇の分身といえるもので神聖視されている。それを奪われたとあっては軍の名誉に傷がつくため、奪還できたことは何より。私と信吾はほっと胸を撫で下ろす。


「そういえば、熊本から東京に宛てた電報に面白いものがありましたよ」


 そう言って信吾が紹介したのは戦死した司令官・種田政明の愛妾・小勝が親に宛てた電報だった。


「『ダンナハイケナイワタシハテキズ』か……。簡潔だが要点は押さえているな」


 これは使える、と思った。電信は便利ではあるが、送れる文字数は少ない。日露戦争当時ではあるが、一分間に二十文字程度が限度である。そのためなるべく短く簡潔にする必要があるのだが、この電文はその好例といえた。


 倉屋が印刷業もしている関係から、いくつかのメディアとも取引があった。それらの新聞にこの情報をリークし、幾らかの金も握らせて盛んに宣伝してもらう。結果、人々に電信の有用性を宣伝することになった。軍がやることじゃないだろと思うかもしれないが、電信網の拡大は通信が便利になるので大歓迎。必要な出費なのである。




 ――――――




 その後も士族反乱が続いた。数日後に秋月、さらに萩で反乱発生。それぞれ熊本鎮台、広島鎮台の部隊が鎮圧にあたっている。だが、これらは所詮、小火でしかない。大火の元は鹿児島にあった。


 鹿児島県は明治維新で大きな役割を果たした薩摩藩の領地であったが、維新後は半ば独立国と化している。廃藩置県後、県令は中央から派遣された官僚が担うことになったが、派遣先と出身地は別にすることが原則であった。長州ですら中野吾一という旧幕臣を県令にしている。ところが、鹿児島県では特例として薩摩出身者の大山綱良が県令となった。


 さらには西郷が設立した私学校(幼年学校、銃隊学校、砲隊学校)へ――私と言いながら――県費を支出し、その原資となる租税(国税)を政府に納めず、私学校出身者を県官吏にするなど大山のとんでもない振る舞いは枚挙に暇がない。


 他にやることがあり、また不平士族の多い鹿児島を下手に刺激して暴発されると困るので政府も仕方なく黙認していた。何なら秩禄処分においても鹿児島や高知に関しては他より優遇するなど懐柔策もとっている。


 とはいえ異常であることには変わりないので、落ち着いたところで長州閥を中心に是正を求める声が高まった。内務卿の大久保も仕方なく県政の刷新に乗り出すも、当然ながら大山は反対。敬神党の乱に始まる士族反乱も相まって頓挫してしまう。


 財政難に苦しむ政府にとって鹿児島の状況は実に頭の痛い問題であるが、軍務省もこれとは別に大問題を抱えていた。


「また断られました」


「はぁ……」


 報告に対して私は深い深いため息を吐く。


 私の所属する軍務省はその名の通り、日本の軍事を司る省庁だ。その日本軍は幕藩体制から引き継いだ部分が相当にあり、保有する武器は近頃発展著しい銃器の展示会のように多種多様だ。まあ、全国に点在した藩は経済力もまちまちなので、こうなることもさもありなん。


 だが、軍隊としてこれは不便である。ゆえにより現実的な方策として、主力小銃を二種類(スナイドル銃とドライゼ銃)に絞っていた。前者は熊本、広島鎮台と屯田兵(開拓使管轄)に、後者はその他の鎮台に配備されている。その理由は弾薬製造設備の所在地にあった。それぞれスナイドル銃は鹿児島、ドライゼ銃は和歌山にあり、旧藩が導入していたものを使っている。


 このうち、和歌山のドライゼ銃の弾薬設備に関しては旧幕府の色彩が強いから使わないでおこうというような意見が政府内で見られたが、私が一喝して使わせた。ものがないなかで、なぜ使えるものを自ら使おうとしないのか。その辺の感覚は理解に苦しむ。


 閑話休題。


 そして近年、弾薬製造設備を集約しようという話になり、鹿児島と和歌山の設備を大阪に移設することが決定された。大久保も了解してのことであり、和歌山の設備は何事もなく大阪へ運搬される。ところが、鹿児島はこれを拒否してきた。


「『これらの機器は藩士の金で購入したもので薩摩の財産』だ? 本気で言ってんのかこいつ」


 明治政府から任命された県令でありながら、国の命令は拒否するのだから始末に負えない(しかもその理屈は独りよがり)。そんな理屈が罷り通ってはならない。私は大久保のところに駆け込んで抗議した。


「国許にはこちらも手を焼いているんだよ」


 だが、大久保も困り顔である。鹿児島は西郷王国といえるほどで、東京に染まったと見られている大久保は同地での求心力を低下させていた。彼が言ったところでどうにもならないという。


「であれば多少、手荒なことをしてもいいですか?」


「まさか鹿児島を攻めるのか?」


「とんでもない。そんな藪を突いて蛇を出すようなことはしませんよ」


 西南戦争はできるならば起こしたくない。とはいえ、これは国の権威にかかわる問題だ。薩摩のことなので一応、信吾と欧州留学から帰国して軍務省陸軍部副部長となっていた大山巌と協議、了解を得た上で設備を密かに運び出す作戦を実行する。


 準備は入念に行われた。薩摩出身者から聞き取りを行って集成館(薩摩藩が設置した近代工場群)の情報を集め、それを元に行動計画を立てる。人員を選抜し、夜間行動する訓練も短期間だが重ねた。少しでも闇に目を慣らすため、作戦決行の前日は陽の光を見ない生活をしてもらう。


 年が明けて明治十年(1877年)、工作員たちは通常の弾薬運搬任務を帯びた汽船・赤龍丸に乗り込んで鹿児島へ向かった。政府と鹿児島の間で緊張が高まっているということで、あちらもかなり警戒していた。報告では監視の目が至る所で光っていたそうだ。とはいえ、相手は訓練は受けたものの、素直に教えられた通りにやるため一定のパターンがあった。その隙を突いて工作員たちは活動し、見事に機械類の奪取に成功する。


「よくやった!」


 大阪の工廠に運び込まれた機械は多少の不備(部品がなかったり破損していたり)があったものの、暗闇のなか監視網をかい潜って持って帰ってきたのだから上出来だ。


 他方、鹿児島側はこれを知り激怒した。自分たちの財産を泥棒されたと怒り、仕返しの意味も込めて政府の弾薬庫を襲撃。武器弾薬を分捕った。やられたらやり返す。まるで子どもの喧嘩である。面子があるので止めないが。


 赤龍丸の件で興奮する鹿児島に対して、更なる燃料が投下される。大久保と川路利良は独自に鹿児島の内偵をさせるため、薩摩出身の警察官を選び帰郷させていた。このことは大久保たちから後になって聞かされたことだ。まあ間の悪い。


 彼らは組織に潜入するため帰郷したが、こんな時期に帰ってきた人間(警官)だ。誰だって疑う。だから即刻捕縛され、来訪の目的を調査されてしまった。そしてとんでもない誤解が始まる。


「西郷どんのしさつに来たわけだ」


 この「しさつ」という言葉。普通なら「視察」と解すところだが、頭のなかが物騒になっている彼らは「刺殺」と解釈した。話は瞬く間に鹿児島を駆け巡る。半ば狂乱状態だ。内偵に来た警官たちは捕まって拷問を受け、川路利良の指示で西郷を暗殺に来たと白状する。拷問の末の自白なので側から見れば怪しいが、彼らにとってそんなことはどうでもいい。


 弾薬庫襲撃と暗殺計画の露見で興奮した私学校生徒たちをコントロールすべく鹿児島に西郷が戻ったものの、私学校における会議では圧倒的多数で武装蜂起と決まった(名目は西郷暗殺を指示した人間を罪に問うこと)。


 それが二月の初めのことであるが、鹿児島が容易でない状況にあることは東京にも伝わってきた。元より赤龍丸のことで鹿児島の怒りを買うことはわかっていたので、事態を説明するため私と西郷の縁戚である川村純義とで説明のため船(倉屋の汽船)で鹿児島に乗りつける。万一に備えて兵士(鎮台兵)も同乗させていた。


 しかし、目的だった西郷との面会は果たせなかった。鹿児島側が拒否してきたのである。粘った末に出てきたのが大山県令だった。


「西郷さんに会わせてください」


「ふん。泥棒が何を言うやら。それに先生(西郷)を害そうと警官を送り込んできた相手と会わせるわけにはいきません」


 私たちは大山が何を言っているのかわからなかった。西郷を暗殺して我々に何の得があるのか。冷静に考えればわかりそうなものだが、興奮していて聞く耳を持たない。


「今年になって鹿児島に帰ってきた警官が先生の暗殺を指示されたと言ったんですよ!」


 ネタは上がってるんだ! と机を叩いて犯人を問い詰める昭和の刑事ドラマみたいなことをする大山。さらに我々はこれを問い詰めるために立ち上がる、と武力蜂起まで示唆されたものだからこちらは大慌て。埒が開かないので話し合いを諦め、急ぎ東京へ戻った。私は途中、熊本鎮台に対して警報を飛ばす。


 事態は一気に動こうとしていた。








やや長くなったのでカット




「面白かった」


「続きが気になる」


と思ったら、ブックマークをお願いします。


また、下の☆☆☆☆☆から、作品への評価もお願いいたします。面白ければ☆5つ、面白くなければ☆1つ。正直な感想で構いません。


何卒よろしくお願いいたします。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 明治維新で日本が一気に近代化したわけではないことがよく分かる
[良い点] 面白いです続き楽しみにしてます
[一言] 史実より規模を抑えられたにせよ、政務に忙殺されて介入できず(ほぼ)史実通りになってしまったにせよ、(長州出身の山縣が主人公なので)萩の乱を1、2話分やってから西南の役へと思っていましたが、や…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ