江華島事件
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今さら言うまでもないことだが、明治維新によって日本の政府は江戸幕府から明治政府に代わっている。それを通告するとともに国交を開こうと日本は朝鮮に使節を派遣したのだが、文書の文言が問題となって受け取ってももらえなかった。
日本では無礼であるとして武力によって開国を強いるという強硬論(征韓論)も出たが、明治六年政変でボツに。国内で騒乱が起きたことから朝鮮の問題は棚上げとなり、西洋式の正式な国交がないまま旧時代の惰性によって交流が続いていた。
今までは国内問題が〜と言い訳もできたが、台湾出兵の成功により小康状態となったことでこの問題に対処する必要が生じる。
対する朝鮮側は日本の台湾出兵とそれに清が宥和的な姿勢を見せたことで、いざ日本と戦端を開いた場合に清は救援してくれるのか? と疑念が生じた。さらに国内の政変で攘夷主義者である大院君が失脚したことで、日本との通好ができる余地が生まれていた。
双方の事情が合致したことで交渉が始まったが、やはり双方の溝は大きかった。あくまでも華夷秩序のなかで生きる朝鮮と西洋の文明を取り入れた日本との立場は容易には埋まらなかったのである。ここにきて現地の外交官から、軍事的威圧によって事態を動かそうという提案がなされた。砲艦外交というやつである。
「――という事情だ。太政官では抑制的に行動せよとの意見だがな」
この国の軍務全般を司る私は海軍部の部長(事実上の海軍大臣)である川村純義に対して太政官がそう注文していることを伝えた上で、どれくらいの兵力量を派遣すべきか諮問した。
「開戦は避けるべきですが、下手に出てあちらに侮られるのも避けたいところです」
川村は軍艦二隻を派遣するとともに、朝鮮に近い熊本と広島の鎮台兵を準備させることを進言してきた。
「本当に戦をする気か?」
ちなみに無理である。師団レベルの軍隊を送り込むキャパは日本にない。その上、この前の騒ぎで数こそいるものの内実は武器さえも充足していない惨憺たる有様だ。大村の遺産である陸軍工廠(造兵司から改称)では特に不足している火砲をフル生産。海外からは銃器を輸入しているが前者は生産能力、後者は金銭的な余裕がないことから充足は当分先の話だ。そんな状態で戦争なんてできっこない。
「陸軍の状況は承知しております。ただ、朝鮮もこちらの内実はわからないでしょう。本国でそのような動きがある、というだけでいいかと」
あとは現場の軍艦が上手くやる、と。そういうことならばと私も承認し、折角なので両鎮台に演習の予定を入れた。出動目的は演習であるが、実際の動きは実戦とそう変わらないから判断が難しいだろう。
出動することになったのは二隻の砲艦だった。雲揚と第二丁卯という長州藩にゆかりのある船だ。長崎を出港した両艦は釜山に入港。朝鮮は突然、軍艦がやってきたことに驚いてはいたが、恐るるに足りないと布告するなどあくまでも強気の姿勢を見せる。交渉はまたしても進展しなかった。両艦は一度、長崎に帰港する。
「なかなか上手くいかんな」
「はい。ここは思い切って実際に力を見せるしかないかと」
「……そうだな。繰り返すが、くれぐれも全面的な戦争に発展しないよう心がけるように」
「承知しました」
事態を動かすため、雲揚に対して清国の牛荘までの航路研究を命じられた。この時期は日本は無論のこと、欧米列強も朝鮮周辺の海域情報を持っていない。この地域の人間なら土地勘はあるものの、帆船と汽船では喫水から何から違う。水深などを測り科学的な安全性を確保するため、この地域では盛んに測量が行われていた。
通常、そういった測量をするには相手国に通告しておく必要がある。日本も欧米列強と外交関係が築かれると通告を受けていた。だが、朝鮮は通好を拒否しているため勝手にやっている。攘夷を掲げる朝鮮はそれに反発して時にドンパチが始めるのだが、日本は知らない相手ではないので見逃されていた。
なので、単に測量のためうろうろしていたのでは何かが起こることは期待できない。それは川村も承知していて、艦長の井上良馨に対しては何かを申し含めているようだ。そして九月下旬、不幸なことに雲揚は西洋の船と誤認を受けて朝鮮の砲台から攻撃された。同艦は自衛権を行使して直ちに反撃。三日間にわたる戦闘の末、砲台を破壊して大砲を戦利品として持ち帰ってきた。死傷者は二名とのこと。
「大変な事件が起きました」
私は政府に対して事件の発生を通報した。軍艦の朝鮮派遣は外務省の要請を受けたものだが、この事件は私たちが半ば意図的に起こしたものだ。もっとも、そのことは伏せてあくまでも偶然たまたま起きた不幸な行き違いということにしている。
外務省はこれに驚き、慌てて交渉を担当していた外交官(一時帰国中)を朝鮮へ派遣。居留民保護に努めるとともに、事件を処理するため朝鮮当局と接触した。この事件のインパクトは思った以上のものがあった。よくわからない蛮夷はともかく、日本にすらボコボコにされたということは朝鮮にとってとてつもないショックを与えたのである。攘夷勢力をなりを潜め、朝鮮の姿勢は宥和的なものに変わった。
交渉の機運が高まったことで日本も黒田清隆を正使、井上馨を副使とする交渉団を朝鮮に派遣。日章旗を掲げていたのに攻撃されたことは遺憾であり、謝罪を求める。また、このような事件が起きる度に使節を派遣するのは煩わしいので条約を締結し、簡潔に運用したいとの希望を述べた。対する朝鮮は今回の事件があくまでも偶発的なものであることを強調する。英国艦隊が来るとの噂があってピリピリしていたが故の偶発的な事故だったと。
朝鮮側が過失を認めていたことで謝罪文書が手交された。条約については当初、拒否する姿勢であったが清の李鴻章から受け入れるべきとの助言を受けたことなどから態度が軟化。条約(条規)が締結される。また、事務レベルで付録と規則(貿易章程)が結ばれた。これはあくまで日朝間のことではあるが、こと通商関係は後に続こうとする欧米列強の意向を多分に受けたものだった。
条約の内容は日本が列強と結んだ条約が参考にされ、日本に有利なものとなっている。まず、朝鮮は「自主の国」であることを確認し、日本の領事裁判権を認めるのみならず無関税とされた。おかげで日本の国内価格より廉価な米穀が大量に輸出され、朝鮮において深刻な穀物不足に陥る。それでようやく関税の必要性を悟るわけだが、日本は相手にしなかった。関税が設けられるのは明治十六年のことである。
貿易の主役は当初、元から関わりのあった対馬商人であった。しかし、次第に政商や銀行といった大資本が進出。経済圏は条約で許された開港地の外へと拡大して現地民とトラブルが発生するようになった。それでも日本と列強の関係同様に問題を起こした人間は領事裁判権によって軽い罰を受けるのみ。不平不満を溜め込んでいくことになる。
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ガラガラガラ……と音を立てながら東京の街を人力車が走る。江戸幕府が滅びた直後はゴーストタウンと化していたが、帝都として再び政治の中心となったことで賑わいを取り戻しつつあった。
私の勤務地は三宅坂だが、未だ江戸時代の名残が強い。百年経って高層ビルが立ち並ぶとは未来を知っていてもなかなか信じられなかった。そんなことを思いながら、自宅までの道のりを人力車に揺られる。
自宅と軍務省はそれほど離れていない。その気になれば徒歩通勤可能な場所だが、周りからはお願いだから人力車か馬で通勤してくれと言われている。仮にも参議兼軍務卿なんだから世間体を気にしてくれというのだろう。理屈はわかるが実感はない。
「ただいま〜」
「「おかえりなさい!」」
帰宅すると子どもたちが駆けてくる。長女の水無子と長男の誠だ。二人に遅れて海が顔を出す。その手には次男の明が抱かれていた。
「お帰りなさい」
「ただいま。誰か来ているのか?」
玄関に見慣れない草履があった。私も一応、持ってはいるものの普段から洋服しか着ないためしまってある。海や子どもたちが使う女性用や子ども用のものは見ればわかるため、それらに該当しないこの男物の草履は来客を意味していた。
「じいじ!」
私の問いに海が答えようとしたが、その前に水無子が答えた。どうやら赤右衛門が来ているらしい。彼女は初孫かつ孫娘ということで猫可愛がりされて懐いてる。
今日もご機嫌な子どもたちに手を引かれて居間へと連れていかれた。そこには元気な孫たちを見守る赤右衛門の姿があった。
「お久しぶり……というわけでもありませんか」
「広島に来られたときに立ち寄ってもらったときにお会いしましたからね」
朝鮮に圧力をかけるために熊本、広島の両鎮台に出兵準備させていた。あくまでもポーズなので暇だったらから、下関まで足を伸ばして赤右衛門に会ってきたのだ。それ以前にも佐賀の乱へ出征した帰りに立ち寄ったりと、機会を見つけてはちょくちょく会っている。
「朝鮮が開くということでしばらく忙しくしてましたが、それもひと段落して東京に来ることができました」
来訪の目的は? なんて野暮なことは訊かない。可愛いひとり娘と孫たち、なかでも自身の後継者となる予定の明を見に来たのだろう。
子どもたちのことを赤右衛門に任せ私は奥へ引っ込む。ダサいと思っている肋骨服から普段着に着替えて戻ると、赤右衛門が待ってましたとばかりに立ち上がった。
「婿殿。少し話がしたいのだが、外へ行かないか?」
「え? あ、はい」
まったく予期しておらず慌てた。とりあえず承諾したものの大丈夫かな? と海を見たが事前に打ち合わせていたらしく笑顔でいいよと頷いていた。ほどほどに、との注文はついたが。いや、私は飲まないけどね?
赤右衛門とともに家を出る。彼は元気だがいい歳をしているから人力車で移動と行きたいところだったが、生憎と車夫は帰してしまっていた。明日まで来ない。歩くしかないかと思っていると、赤右衛門が家の裏手に回る。そこには二台の人力車と車夫が待っていた。
「……最初からこうするつもりだったんですね」
「まあな」
随分と用意周到なことで。私たちはこの人力車に乗って赤右衛門が事前に手配していた店に行く。そこは私もたまに会食で使う料亭だった。当然のように個室へと案内される。
「ところで婿殿。周りにいるのはどなたかな?」
「……お気づきでしたか」
商人なのによく気づく。実は軍務省を出てからずっと、私の周囲には護衛がいた。明治六年政変への反感から岩倉具視が襲撃される事件(喰違の変)が起きているが、そういった襲撃事件は今後もないとは限らない。そこで私は大久保と川路利良(警察のボス)を説得し、政府要人を護衛する部署(警視庁警備部)を設置させた。
こうして創ったはいいものの、金も人員も限られている。警護に回せる人間は限られるぞ、と説得に際しても渋られた。なので基幹人員は警察が出し、実動部隊は巷に溢れる士族を雇用することにする。嘱託職員というやつだ。旧藩出身者は同郷者、華族(公家)は尊王論者を採用。こうすることで秩禄処分の規定に基づき、秩禄から警察官の俸給に切り替えることができる。まさしく一石二鳥。
護衛は現代のように大っぴらなものではなく、陰からそっと守るタイプだ。嘱託職員で人を賄っている都合上、組織的な訓練などできないためである。ちなみに、赤右衛門が気づいたのは自身が守られていた経験があるから。下関での争いでは暴力的な手段に出る者もいたらしい。身を守るために護衛を雇っていたことがあり、警戒されていることは肌感覚でわかるという。お見それしました。
そこまで話したところでようやく本題。聞いて確かに子どもたちの前ではできないなと思った。ちょっと汚い話だ。運ばれてきた料理をつつきながら話す。
「婿殿のおかげで朝鮮には早くに参入できたよ。ありがとう」
「いえいえ」
赤右衛門には事前に朝鮮が程なく開国することになるだろうと話し、市場へ進出する準備をさせていた。不平等条約からくる特権的地位を最大限利用して利益を上げている。
「いやぁ、藩札の件といい東京でのことといい、婿殿にはお世話になりっぱなしで申し訳ない」
「気立てのいい娘さんを嫁にくれたのです。何を仰いますやら」
ははは、と笑いあうが聞く人が聞けばとんでもなくダーティーな話だ。藩札の件、というのは明治政府が全国的な貨幣統一のために藩が独自に発行していた藩札を政府発行の通貨に換金したことを指す。私はこの情報を事前に赤右衛門に教え、彼はその通りに藩札を買い漁った。
……はい、立派なインサイダー取引です。世が世なら豚箱行きである。まあ、そんな法律はないがな! 同じことをして大儲けした企業はある。後藤象二郎からリークを受けた三菱とか。とにかくこれで倉屋は大儲けしていた。
東京での話は印刷業や造船業、海運業のことだ。こちらも外国から技術者を招聘したり、必要な施設を政府から払い下げるよう政治的な工作をしたり、軍から仕事を提供したりと諸々の便宜を図っていた。それらの事業に手を出すことができたのは倉屋の経済力あってのことだが、外国人の雇用や施設の払い下げにかかった多額の費用を賄えたのは先のインサイダー取引で得た資金によるところが大きい。
――婿殿のおかげだ。三国一の婿殿、などと誉め殺しにされる。そんなことないですよ、とひたすら謙遜していた。その合間に商売の話も挟まり、朝鮮米による利益を海がやっている造船・海運業に投資するという。造船所を拡大し、圧倒的な船数で同業他社の三菱に対抗するそうだ。
「石川島は手狭ですから、新しい船台は別の場所に造るといいですよ」
個人的には四国の今治がいいよとも勧める。私が抱く瀬戸内要塞の内部にあるので地理的に安全。対岸には東洋一の造船所ができる(予定)呉があり、鋼材を仕入れるにも便利な土地となるだろう。
「婿殿の言うことなら間違いないな!」
赤右衛門は酒が入って陽気になっているのか、普段の姿からは想像できないキャラ崩壊を起こしていた。酔っているせいかトンデモ発言まで飛び出し始める。海は三十手前だがまだ五人はいけるなんて、現代なら大バッシング受けること間違いなしだ。
ひと頻り騒ぐと、今度は電池が切れたように眠ってしまう。この人こんな酒乱だったっけ? と思いながらも中居さんと一緒になって介抱していた。
こんなお爺ちゃんを子どもたちには見せられないので、寝静まった頃を見計らってひっそりと帰宅。海には程々にって言ってたでしょょ、とこっぴどく怒られた。彼女はこうなることをわかっていたらしい。先に言ってくれ、なんて言えば火にガソリンを注ぐので大人しく怒られました。解せぬ。
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