台湾出兵
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明治時代に突入し、いよいよ士族反乱のフェーズに入る。その裏でとある事件へとつながる底流が存在した。それが台湾問題である。
現代日本における沖縄県は明治初期まで琉球国という名の独立国であった。そして琉球は日本と中国の間に位置しており、双方の影響を受けている。江戸時代は薩摩藩に服属する一方、中国の王朝とも冊封関係にある国――要するに日中両属の国であった。
近世においてはそんなふわっとした関係でも問題はなかったのだが、近代に入り公的な国家の領域という概念が入ってきたことで琉球はそんな状態であることを許されなくなってしまう。そんな背景もあり、日本と清には琉球をめぐる潜在的な緊張関係があった。
もっとも、それがすぐさま戦争になることはない。日本はそもそも国内がゴタゴタしておりとても清と戦争している余裕はないからだ。清もまた欧米列強の中国進出に直面しており、日本なんて本気出せばボコボコにできる東夷に構っている暇はないのである。
完全に棚上げにされている状態であったが、ある問題が起きて国際的にこの問題が大きく進展する。きっかけは明治四年に起きた琉球漁民殺害事件だった。首里に納税へ向かった船が遭難して台湾に漂着した。ところが、その船員たちが台湾の先住民に殺害されたのである。運よく現地民に保護された者は生きて帰ることができたが、これを琉球を管轄する鹿児島県が問題視。政府に責任追及を提言する。
これを受けた政府内では出兵論が出るが、まずは清に抗議しようということになった。しかし、清も面子があるので日本に対して簡単に謝るわけにはいかず議論は進まない。そうこうしているうちに、今度は備中国(岡山県)の船が難破して台湾に漂着。現地民による略奪を受けた。
相次ぐ狼藉に政府はもちろん言論界も沸騰。当時、外務卿の職にあった副島種臣が渡清して抗議する事態に発展する。ところが、それでも清はまともに取り合わない。清の外交当局は台湾を「化外」とし、清の管轄外であるから責任なんてないと言ったのである。
「ほーん」
報告を軍務省の執務室で聞いたのだが、気のない返事をしたことは覚えている。気持ちとしてもあっそ、って感じで無関心だった。台湾云々は今のところどうでもよくて、もうすぐ始まる士族反乱であったり陸軍の整備だったりに注力したいのである。
だが、そうは考えない者たちがいた。信吾(西郷従道)以下の武官である。彼らは盛んに台湾出兵を求めた。信吾が私のところにきてその必要性を力説する。
「高まった外征の機運を晴らすためには台湾に出兵すべきです」
「とは言ってもなぁ……」
台湾出兵と征韓論。同じ外征ではあるが、両者には決定的な違いがある。朝鮮には国家があるのに対して、台湾はフロンティアであるということだ。台湾は清領じゃないかと先の事件の経過を見て思うかもしれないが、清はご親切に違いますと言っている。どういうことか。
清の外交当局は言った。台湾は「化外」であると。つまり、自国の管轄する場所じゃないと言ったのだ。ということは国際法において台湾は無主の地ということになり、最初に旗を突き立てた国のものとなる。一方の朝鮮は(清の立場でいうと)保護国であり、下手に手を出すと戦争に発展してしまう。ならば高まってる外征欲を台湾に向けようというのは合理的である。
言ってることはわかるのだ。出兵は外征能力の検証――言うなれば極めて実戦的な演習に最適であるし。とはいえ、士族反乱に対処しなければならない以上はリソースをそちらに割きたくないという気持ちもあってあまり積極的になれなかった。
とまあ私個人は消極的だったのだが、組織としては台湾行くぞとなってしまっている。仕方ないので閣議の承認を得た上で人事を出し、準備を進めることにした。適当に時間が経ったところで時機を逸したとか言って中止にする方向で行く。そのうち熱も冷めるだろう、とそう思っていた。
ところが、佐賀の乱が起きて懸念されていた士族反乱が現実となってもなお、彼らは台湾出兵に拘った。その背後にはアメリカ人のチャールズ・ルジャンドルがいた。南北戦争に従軍した経験や外交官であったことを買われ、明治政府に軍事・外交顧問として雇われている。ルジャンドルは外交官時代、アメリカ船が同様に台湾で遭難した際に事件の対応にあたっており、彼が武力解決を吹聴していたのだ。
ルジャンドルはアメリカ公使のチャールズ・デロングの支持を受けて自由に行動していたが、公使がジョン・ビンガムに交代すると支持を得られなかったこともあり台湾出兵は延期となる。兵員と物資が長崎に集まっているなかで急転直下の中止。それにはアメリカ外交官の人事以外にも理由があった。
「征韓論に反対しておきながら台湾出兵では道理が通らないではないか!」
台湾出兵について私が言及すると木戸が怒りを露わにした。内心ではですよねー、と思っている。まったくもってその通り。まあ、帝国主義の時代は弱肉強食の時代でもある。弱いものを食い物にするのも間違ってはいないのだが。
私は後であくまでもポーズであり実際にやる気はないと説明して収めたのだが、事は私がコントロールできなくなってしまう。というのも、台湾出兵に関与するのは軍だけではないからという理由で、征討軍の人事権や編成権の一切が三条実美に握られてしまったからだ。これで臍を曲げた木戸は参議を辞任してしまう。
さすがに狼狽した政府は出兵を一旦延期するが、待ちきれなかった信吾(台湾蕃地事務総督)は独断で台湾へと出発する。
「し〜らね」
台湾出兵のハードルは高かった。大久保が徴発令の制定に動いてくれてはいたが、まだ文章を揉んでいる段階だ。だから佐賀の乱のときと同様に船をチャーターしなければならなかったが、国内の船会社は倉屋を除くと消極的だった。チャーターされている間にシェアを他企業に奪われるのではないかと懸念していたのである。
私はこれを逆手に取り、船の都合がつかなくて出兵できないな〜困ったな〜(棒)とサボタージュしていたのだが、明治政府が購入した船の運行を任せるという条件つきで三菱蒸気汽船会社を口説き落とした。信吾の出兵はこれのおかげである。余計なことしやがって。
台湾へ向かったのは熊本鎮台の一個大隊(特科隊含む)と「植民兵」と呼ばれる出先で永住することを条件に加わった者たち。佐賀の乱ではこういった士族兵は道案内など必要最低限の現地協力者としていたが、私の統制が利かなくなった台湾派遣軍はそんなの関係なしに士族を軍に組み込んでいた。
「何のために士族兵を編成しなかったと思ってるんだ。はぁ……」
誰もいなくなった執務室でため息を吐く。佐賀の乱では近隣の県から士族の志願兵(というか義勇軍)がいたものの、大久保に話を通して道案内などの現地協力者にしかせず、戦闘には参加させていない。近代国家の特質には暴力の独占があり、軍に属さない士族が戦闘に参加されると困る。士族反乱の意義――士族を平民を含む軍隊が鎮圧し、士族の本業である戦闘も国民軍が代替し得ることを証明することができなくなるからだ。
私が愚痴るなかでも事態は進展する。といっても正規軍と地元の部族の戦いであるから戦闘は一方的だった。連戦連勝で集落を制圧していく。その過程での戦死者は十名にも達せず、負傷者も二十名程度。一見順調であるが、現地の状況は深刻であった。
現地軍を最も苦しめたのは病気だった。特にマラリアなどの感染症。撤兵までに一万六千件以上の発症が報告された。出兵したのは軍人以外を含めて六千人ほどなので、ひとり二回以上は罹患した計算になる。病死者は五百名を超えた。
私たちもただ報告を聞いていただけではない。建軍の時点で衛生科を設置。今回の出兵にも医官を帯同させている。だが、彼らは漢方医であった。ついこの前まで江戸時代だったのだからまあ当たり前である。そのためマラリアに対する治療の術を持たず、彼らにできたのは対症療法のみであった。
「おそらくマラリアでしょう」
お雇い外国人であるレオポルト・ミュレル(プロイセン軍医)に相談したところ、そんな回答が返ってきた。キニーネを処方するといいだろうということで、注文をかけると同時に交代の医官を派遣することになる。
「私が行きたいところだが、仕事を放り出すわけにもいかない」
代わりにセンベルゲルという医師を監督役として派遣することになった。このミュレルは明治四年から三年契約で明治政府に雇われ、文部卿の大木喬任直属として大学東校(東大医学部の前身)をドイツ医学に染め上げた人物である。契約が満了すると明治政府はミュレルに再契約を打診したのだが、大学東校のなかで日本人の下につくことでは改革できないと条件が折り合わなかった。
その話を聞きつけた私はすぐさま彼の許を訪ね、軍務省であれば衛生科の全権を委任すると勧誘する。医者の地位が低い日本においては、自身が先頭に立たなければ改革が進まないと考えていたミュレルにこの申し出を断る理由はなく、帰国を取りやめて軍務省に三年契約で雇われることになった。
ミュレルの身分は衛生科顧問であり、衛生科が掌る事項について改革を提案する権限が与えられている。組織の都合上、省内の最終決定権は私が握っているわけだが、医学など民間療法以外の知識は持っていないためほぼそのまま通していた。
文部省時代と同様に軍内で西洋医学を広める一方、私の発案で作られた衛生科学校の講師をしてもらっている。ミュレルは通常の医学校から人材を獲ればいいと言っていたが、敢えて軍独自に学校を作った。これは家が貧しくとも能力のある人間を逃さないためだ。日本は国の全力を挙げて近代化に邁進しなければならない。人はその要である。網は広く張っておく必要があるのだ。
話を台湾出兵に戻すと、ミュレルが推薦したセンベルゲル以下の医官を派遣。既存の人員と交代させた。緊急確保してマラリアと診断された患者に投与したキニーネは効果覿面。効果があったと報告が上がっている一方、センベルゲルに関してはトラブルばかり起こして戦力にならなかったとのこと。彼よりも同時に送った製氷機械の方が役に立ったそうだ。これを聞いたミュレルはドイツ人の面汚しなどと怒っていた。
「ひとまず台湾のマラリアはこれでいいだろう。だが、あまりに知見が少なすぎる」
あくまでも史実通りになればという話だが、日本は日清戦争において台湾を獲得する。そのときも今回のようにパンデミックを起こしていたのでは堪らない。また、日本国内でもマラリアのほかコレラや赤痢といった感染症が蔓延している。それらの対策を行う組織が必要と考えたが、公衆衛生という概念が生まれてさほど時が経っていない。明治政府にその余力もないため、当面は先述の医学校で研究機関を立ち上げることにした。
かくして立ち上げられたのは衛生研究室。その名前からわかるようにわずかな人と部屋が割り当てられただけの小規模な機関だ。しかし、地方の衛戍地や戦地などで知見を重ね、やがては他部署と統合されて大きな組織になるのだがそれは別の話。
台湾の制圧自体はほぼ完了した。私は信吾が独断で出発した時点で大久保に対して諸外国へ出兵の通告を行うべきと進言。大久保も同意してその通りにしたのだが、清はもちろん列強からも批判的な態度をとられた。それも当たり前で、通告とは名ばかりの完全な事後報告であり、最悪の場合は国家間の戦争に発展しかねない。清に利権が山盛りの列強としては、要らぬ波風を立てて欲しくないというのが本音なのだ。
だからというか列強――特に大きな利権を持つイギリスが和平に向けて積極的に動いた。駐清イギリス公使のウェードが日清の間に入って和平を斡旋。イギリスといえば(翳りは見えるものの)世界一の大国であり、極東の国が逆らえる相手ではない。日本側としては応じない理由はないし、清側も李鴻章が宥和論を唱えていたこともあって八月に北京で和平交渉が行われた。
日本側は大久保利通が出席。セコンドとして台湾出兵に関与したルジャンドルと法学者のボアソナードが随伴した。清側は恭親王が応対する。
「謝罪と賠償を」
「撤兵を」
交渉は当然ながら難航した。日本は清側が「化外」と言ったのだから国民を保護するために出兵しただけ。文句を言われる筋合いはないと強気に出る。一方の清も欧米はともかく、自らのホームグラウンドである東アジアの国に下手に出るわけにはいかない。それに本気を出せば日本ごとき簡単に潰せる――なんてことを本音では思っているため屈するわけにはいかないのだ。
とはいえ、双方とも引きたい事情もある。日本は嵩む戦費に戦病者が山ほど出ているのが実に頭が痛い問題だ。それに本当に清と戦争になることまでは望んでいない。清も北洋大臣として外交を司る李鴻章が東アジアで団結して欧米列強に対抗しようとする考えを抱いており、日本と徒に関係を悪化させる必要はない。ここは大国である清が譲って度量を示そう、という考えを持ったことから次第に歩み寄っていった。
以上のような裏話もあって交渉開始から二ヶ月が経った十月末に合意が成る。内容の第一は台湾への出兵を日本の正当な権利行使であると清が認めるということになっていた。また、日本のみならず欧米列強の船舶が難破した際にも同様の事件が多発しているため、このようなことがないよう清は台湾の統治を強化することとされる。それに期待して日本側は十二月までに台湾から撤兵することになった。遭難者に対しては清から十万両の見舞金が出されることにもなっている。
これはとても重要な意味を持っていた。日清両属の琉球が潜在的に日清間の懸案事項だったわけだが、この処置(見舞金支払い)で琉球民は日本国民であるといえなくもないからだ。もちろん話はそう単純ではないものの、重要な先例であった。
交渉が決着して日本に届くと人々は勝った勝った勝ったと喜んだ。明治政府はこれを大々的に喧伝し、国内の不満を戦勝の馬鹿騒ぎで発散させようとする。その余韻が残っている間は不穏な空気が薄まったのは狙い通りではあったが、所詮は一時凌ぎに過ぎなかった。
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