佐賀の乱
――――――
明治六年政変により西郷らを筆頭に政府を去る者が続出した。やむなく政府機構の再編に乗り出したのだが、その過程で私は参議に昇進している。政府の主導権を握った大久保が各省の長が参議になるべき、と提言したことがきっかけだ。これで昇進したのは私の他に俊輔(工部卿)、寺島宗則(外務卿)だ。
「参議か……。益々励まねばな」
「そうだな」
私と俊輔は参議として初めての閣議前に会って奮闘を誓う。これまでは誰かの下で動く立場だったが、参議となった今は我々が動かす立場となる。大久保や木戸と同じ立場になったわけだ。力には責任が伴うわけで、今一度気を引き締める。
大久保の提言によって省の長官は参議に登用されたわけだが、大臣職の下に参議でもある省庁の長がつくという構図は後の内閣制に通じるものがあると気づいた。というか、間違いなく意識している。どうでもいいっちゃどうでもいいのだが。
立場以外にも変わったことがある。それは役職名。兵部省の長を務めてきたわけだが、私の参議就任とともに機構はそのままに名前を軍務省に変更した。これで私は参議兼軍務卿となる。
大久保は政変中に参議に復帰していたが、これとは別に新たな省庁を立ち上げてそこの長官に収まっていた。彼が立ち上げた省庁の名前は内務省。戦前日本を代表する超巨大官庁である。大久保が外遊中、ドイツの帝国宰相府とフランスの国内省を調査。これをモデルにして日本の内務省は設置された。
設立時の内務省の職掌は広範である。内政については大蔵、司法、文部省が管轄する分野以外のすべてを掌握していた。薩摩系官僚のメッカである警察も取り込み、まさしく薩摩閥の牙城といった感じである。ところが、設立前に私へそこの長にならないかと打診が来ていた。
「山縣さんとは志を同じくしている。是非ともやってほしいのだが……」
嫌だよ。なぜ薩摩の巣窟みたいな役所へ行かねばならんのだ。もしかして私は大久保に嫌われているのだろうか? あるいは西郷シンパとして警戒されている?
とにかく、内務省のトップになんぞなりたくない。が、真正面から嫌とは言えないのでいやぁ、と困った顔で笑って時間を稼いでいる間に頭をフル回転させる。
「……まだ軍の整備は途上ですし、何より最近は各地が不穏なのでありがたい申し出ですが、辞退させてください」
結局、建軍を言い訳にすることしか思いつかなかった。しかし大久保もそれでよかったようで、特に気にした様子もなくそうかと言って引き下がる。ダメ元だったのかもしれない。
「大久保殿から随分と買われているのだな」
皮肉るでもなく、木戸が純粋な感想を述べる。今は閣議後。私と俊輔そして木戸の三人が集まって打ち合わせをしていた。何か議題があるわけでもないのだが、閣議後に集まるのが慣例化していた。私と俊輔は別に省の長官であり忙しく、木戸は帰国してから病気がち。なかなか集まれないので、閣議で顔を合わせたら時間を作って話し合うようにしていたらこうなった(木戸はたまに病欠するが)。
「しかし、内務省は職掌が大きすぎる」
木戸は内務省に批判的だった。広範な所管事務に加え、内政に対する権限が大きすぎることを問題視している。時代を経ると殖産興業や鉄道事業は職掌から外れるわけだが、それでもなお戦前日本を通じて一流官庁であり続けた。現代の一流官庁といえば財務省(旧大蔵省)だが、戦前は二枚看板。性格をつけるなら内務省が陽キャで大蔵省が陰キャであろう。だから木戸の批判も間違ってはいない。
「それもそうなんですが、今の情勢では必要だと思います」
明治政府として様々な改革を行なってきたが、その反動エネルギーが蓄積されている。今は巨大地震の前といった感じだ。時折、一揆といった形で現れるが、そんなのはまだやさしい方。予震でしかない。本震はもう少し先である。
「そういえば、佐賀がまずいらしいな」
「江藤さんもそっちへ行ったし、そろそろかもしれない」
現状、最も危険と思われているのは俊輔が言った通り佐賀県だ。明治六年政変により征韓論を支持していた者たちが政府を離れた。そのひとりが江藤新平であるが、彼はその年の末に病気を理由に政府へ帰郷を願い出た。
下野した参議は西郷を除いて愛国公党を結成。翌年の一月半ばに「民撰議院設立建白書」を『日清真事誌』に掲載した。ところが発表の前に江藤はひとり東京を出発し佐賀に向かう。政府から帰郷の許可は得ていなかったため追手が出されるも捕まえられなかった。
江藤の帰郷は征韓論に共鳴した佐賀藩士が結成した征韓党から指導を求められたためだ。しかし、いざ帰郷してみると征韓党の他に反政府の立場をとる憂国党がおり、士族たちの不平不満はもはやコントロール不可能な域にまで達していた。江藤は指導を諦め、題目通り佐賀で静養する。
「電信のおかげであちらの動きはわかっているが、かなり拙い」
この前は佐賀の県官から熊本鎮台に対して治安出動が打診されたそうだ。司令官の谷干城は慰撫に努めるよう促しつつ、部下に命じて情報収集にあたらせていると報告がきた。江藤にせよ谷にせよ、現地の人間は不平士族を除きどうにか穏便に事を運ぼうとしているようだ。
話し合いでは長州の前原一誠以下の同類(不平士族)に軽挙妄動を慎しむよう連絡することを確認して解散した。
だが、彼らの努力を水の泡にする事件が起きる。赤坂仮御所(皇居は火災に見舞われたため天皇は赤坂にいた)から帰る岩倉具視を不平士族が襲撃した喰違の変だ。下手人は明治六年政変で離脱した者たちということで、政府側のボルテージが上がる。
「野に下った者たちを監視し警戒を怠るな!」
そんな号令が発せられた。折しも佐賀県令の岩村通俊が交代のため召喚されており、後任には弟の岩村高俊が任じられる。彼は戊辰戦争に際して長岡藩との交渉を担っていた人物だ。脳筋な人間であり、間に入って調停するというキャラではない。佐賀の不平士族を蜂起させようという大久保の意図が人事から察せられた。これは木戸も同意見である。
さらに大久保は軍務卿である私の頭越しに熊本鎮台に対して命令を送っていた。曰く、佐賀士族の鎮圧にあたれ、と。司令官の谷はよく心得ており、私の命令がなければ受諾できないと言い返している。……それはいい。よくはないが、百歩譲ってそれはいいとしよう。問題は、この電信が佐賀士族に伝わってしまったことだ。
明治初期に急ピッチで電信設備が整備されたが、東京から熊本に宛てたものは佐賀を中継する。それを中継したのが県の官吏をしていた征韓党の士族だったのだ。当然、この情報は仲間に伝えられた。話を聞いた士族たちは怒り狂う。まあ、自分たちが正しいと思っていたのに、それを鎮圧せよとの命令が出るのだ。気持ちはわからんでもない。ともかく佐賀士族たちは怒り、他府県出身者は身の危険を感じて逃げたそうだ。
「軍務省は鎮圧準備にかかるように」
「わかりました」
閣議では人を遣って慰撫に努める傍ら、実力での鎮圧も可能なよう軍務省に対して出動待機命令が下る。これを受けて近隣の熊本、広島鎮台に先遣隊として一個大隊の派兵を準備させた。
また同日、大久保が自ら佐賀へ行き事態鎮圧にあたりたいとの申し出がなされる。事態が切迫しており、致し方ないという雰囲気が流れていた。まさか丸腰で行かせるわけにもいかないため、佐賀への派兵準備の傍らで大久保のために東京鎮台から護衛の一個大隊を出すことにする。
「大阪でも一個大隊、広島と熊本からは本隊として各一個連隊を出します」
ここで言う大隊とは歩兵大隊のことだが、実際には特科連隊から抽出した部隊も派兵されるので実数としてはもっと多い。広島と熊本は単独で、東京と大阪から派遣した部隊は合同で連隊戦闘団を形成することとなる。派兵規模としては増強三個連隊だ。
部隊の編成は電信を使って命令を飛ばせば鎮台の仕事になるが、移動手段はこちらで手配してやらなければならない。軍務省として国内の汽船会社に声をかけ、必要な船をチャーターした。このなかには外国籍の船も入っている。
私は事変に備えて徴発令の制定を求めていたが、徴兵令に反発が起きてるなかでそれをやると更なる反発を招きかねないとして却下された。政治的コストが高いのはわかるが、いざ何かがあった時の対応が遅くなってしまう。法的な裏づけがないので通常の取引となり、担当者は交渉で苦労したそうだ。すんなり進んだのは倉屋だけであったという。
二日後に大久保へ反乱の処分を一任するので佐賀へ向かえとの命令が下った。しかし、先述の理由で船舶の手配が遅れたため、出発は申請から一週間後の二月十四日となってしまう。
「遅いぞ」
大久保から文句を言われたが、徴発令のような法的な裏づけ(とそれに伴う強制力)があればもっと早かったと言い返しておいた。是非とも検討を、とのひと言も忘れない。そのおかげか、佐賀の乱の後に史実よりも早く徴発令が制定された。事変に対する対応という大義名分が得られたことが大きかった、とはそれを主導した大久保の談である。
さて、東京でもたもたしている間に佐賀の情勢は大きく動いていた。大久保が出発した翌十三日には江藤が佐賀へ帰還。鎮圧にやってくる政府軍を打ち払うと決め、本格的な戦闘準備に入る。そこへ新任の県令・岩村高俊が佐賀へ着任した。岩村は県庁となっていた佐賀城に入るが、十六日に佐賀士族が城へと攻撃を開始。熊本鎮台から護衛として派遣され、共に入城していた半個大隊(半数は別ルートを進行中)と交戦した。
岩村たちも最悪の場合、戦闘に突入するであろうことは覚悟していたが、あまりに急だったため十分に準備ができているとはいえなかった。そのため二日ほどで弾薬と食糧が乏しくなり、夜陰に紛れて城を脱出。別ルートをとっていた友軍と合流したが、部隊の四割が戦死するという有様であった。
「準備していた各鎮台の部隊を出せ」
交戦状態に入ったとの報告を受けた私はすぐさま待機させていた部隊に出動を命じる。十八日に神戸を出港した大久保には大阪の部隊が加わり、広島沖で広島の部隊も合流。翌十九日に博多へ到着した。
同地では計画通りに広島鎮台の一個連隊、東京と大阪鎮台の二個大隊を臨時で統合した特設連隊を以て二個の連隊戦闘団を結成する。軍の全体指揮は大阪鎮台の野津鎮雄少将が担う。大久保はあくまで全体指揮である。
一方、佐賀城から撤退した岩村県令は久留米に展開した熊本鎮台の本隊(連隊戦闘団)に収容された。この二軍は二十日以降、連絡を取り合いながら連携して佐賀へと迫る。これを防ごうとする佐賀士族との間で戦闘が行われた。
状況は電信網により東京へと伝わっている。大久保が博多に到着した十九日、佐賀城の攻撃を知った明治政府は佐賀征討を発出。二十三日になって征討軍の人事が発表された。総督は東伏見宮嘉彰親王、参軍として私(陸軍部)と伊東祐麿(海軍部)が任じられる。残念ながら出征する羽目になった。
「こんな時期に悪いが、肥前(佐賀)へ行ってくる」
佐賀行きを命じられた日、帰宅すると海にそのことを告げた。何も言わずご武運を、とだけ返す彼女のお腹は大きくなっている。しばらく東京での生活が続いていたため頑張った結果だ。ちなみに臨月。楽しみにしていた途端にお仕事で離れなければならない私の気持ちを答えよ(畜生め!)。
お上の命令には逆らえないので泣く泣く佐賀へ向かった。そして私が東京にいない間に子どもが生まれましたとさ。男の子。明治からとって「明」と名づけた。
話を佐賀に戻すと、福岡より佐賀を目指す政府軍を迎撃するため佐賀士族も県境へ進出。朝日山、三瀬峠、六田村にて交戦した。三瀬峠と六田村では敗退するが、朝日山は突破に成功。続く中原でも大損害を受けつつも野津少将が陣頭に立って兵士を鼓舞し押し切った。
佐賀士族は吉野ヶ里遺跡近郊で迎撃するも、大久保の政府軍主力と熊本鎮台の連隊戦闘団が挟撃。これを突破した。その知らせが入る前に私は東京を発っていたので、神戸に寄港した際に知った。東伏見宮殿下率いる佐賀征討軍は近衛大隊のみ。護衛程度なのでこれで問題ない。
結局、私たちが佐賀に到着したのは三月十四日。そのときには戦闘は終わり、逃亡した江藤らの追捕を始めていた。江藤が司法卿の時に定めた指名手配制度を使い、写真を使い捜索した。その結果、逃亡者は鹿児島や高知で次々と発見される。
江藤以下は佐賀に護送され、裁判にかけられた。といっても出来レースであり、結果は最初から決まっている。碌に弁明の機会も与えられず死刑判決が下った。しかも族籍剥奪の上で梟首である。
この点について私は大久保に公然と反発した。処分があまりに前時代的である、と。
「江藤を擁護する気はありません。そうお断りした上で申し上げます。内務卿は不平等条約改正のため洋行されたはず。にもかかわらず梟首などという残虐な刑を与えるのは国際的に悪影響を与えかねません」
治外法権を何とかしようと話している時に斬首して首晒すなんてことをすれば、西洋人はすぐさま残虐だ野蛮だ非人道的だと叩いてくる。条約改正など夢のまた夢だ。しかし、大久保は事件の処分については自分に委任されているからこれで問題ない、と言って取り合わなかった。
結局、裁判では筋書き通りに死刑が言い渡される。江藤も覚悟していたらしく堂々としていたが、続いて『梟首』というワードが飛び出すと一転して怒り狂った。思わず気押されるほどの剣幕であったが、刑吏に取り押さえられて連行されていく。
審理は江藤以外に対しても行われ、三百名ほどが有罪判決を受けて何らかの処罰が下された(一万人あまりは無罪)。少し後味悪いが、これにて佐賀の乱は終息したのだった。
「面白かった」
「続きが気になる」
と思ったら、ブックマークをお願いします。
また、下の☆☆☆☆☆から、作品への評価もお願いいたします。面白ければ☆5つ、面白くなければ☆1つ。正直な感想で構いません。
何卒よろしくお願いいたします。