明治六年政変
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伊藤博文は明治天皇の信頼が篤く、四度もの総理大臣を務めた。議会運営において苦境に陥ることもあったが、天皇が詔勅を出すことで援護している。
しかし、彼は最初から天皇の信頼を得ていたわけではない。むしろ疎まれていたといっていいだろう。なぜなら伊藤は木戸に連なる革新派の急先鋒。一方の天皇は改革の必要性は認めつつも、なるべくゆっくり行うべきという漸進派であり、伊藤の姿勢は決して好ましいとはいえない。
間に大久保や木戸が入っているうちはよかったが、彼らが相次いで死亡して伊藤が政界の舵取りを担うことになるとそうも言っていられなくなる。天皇との対峙は避けては通れない。そこで彼は宮内大臣となって天皇との関係改善に尽力した。伊藤の人柄を知った天皇は彼を信頼するようになり、積極的に援護するようになったのである。
閑話休題。
要するに私が何を言いたいかというと、明治期には特に天皇の存在が効くのだ。そもそも維新の理論的な支柱は尊王論であり、天皇を重視する。だから天皇の存在を前にしては逆らえないのである。
――ならばどんどん前に出していこう。使えるものは何でも使うというのが私のモットーである。
「陛下。近衛兵を率いて演習へ行かれるのはいかがでしょう?」
「ふむそれはよいかもしれんな」
天皇は元から興味があったこともあり度々、軍事演習を親閲している。大きなきっかけは明治四年の天長節における近衛兵の閲兵だろうか。あれ以来、天長節観兵式として恒例化している。軍制が整ってきたこともあり、機会があれば軍事演習を親閲するようになっていた。
明治六年(1873年)四月に大和田原で近衛兵が天皇直率で演習を行うことになった。私の勧めである。これには発起人かつ兵部卿である私は無論、多忙のため私が辞任した近衛都督になっていた西郷もついてきた。
「西郷は健脚であるな」
馬に跨って行軍する天皇は感心している。西郷は肥満体で馬に乗れないのだが、何と徒歩で移動しているのだ。私も馬に乗って移動しているが、その姿を見て凄えなと思っていた。やろうとはとても思えないが。
大和田原では数日かけて演習が行われる。予定では二部隊に分かれての対抗演習も含まれていた。指揮官は天皇と薩摩出身の陸軍少将・篠原国幹である。私や西郷という話もあったが、審判をするからと言って逃げた。なぜガス抜きなのに私が前に出なければならんのだ。
さて、演習は数日かけて行われるため泊まることになる。当然ながら野営だ。兵士たちはテントに寝泊まりするが、何と天皇も同じようにした。近くの寺か民家でも借りようと思っていたのだが、計画の段階で不要と伝えられて取り止めになっている。
将兵と同じテント暮らしをする天皇だったが、ここでトラブル発生。四月だというのに暴風雨に見舞われたのだ。春の嵐というやつか。私のテントも風に煽られている。そんなとき、
「大変です!」
近衛のひとりが飛び込んできた。
「何事だ?」
「陛下の天幕が吹き飛んだそうです!」
「なんだと!?」
怪我でもあれば一大事だ。慌てて雨風が吹き荒ぶ野外へ飛び出した。陛下の天幕に駆けつけたが、第一報とは異なり吹き飛んではいない。ただ、外から見てわかるほどに揺れていた。テントが。
中に入ると供奉員が必死になってロープを押さえていた。雨漏りも酷い。設営が甘かったのだろう。設営した奴は後でぶっ飛ばすと決意しつつ、まずは責任者として謝る。
「我々の不手際です。申し訳ありません、陛下」
「風が強いな、山縣。それはいいが、水が漏るのは困る」
言っちゃなんだが随分と呑気なものである。そうですな、と同意しつつ陛下にはすぐに私のテントへと移ってもらった。あそこは雨漏りの心配はない。さっきまで問題なく過ごしてたし。
翌朝は晴れていた。とんでもないトラブルに見舞われたので天気が恨めしい。が、そうも言ってられない。今日は天皇と篠原少将の対抗演習の日だ。不手際がないよう、準備を整える。
相手は天皇であるから当然ながら接待プレイ。いい勝負を演じて最後は負ける。戦後の講評は紙一重だったね、という感じで終わった。あっさり負けたら指揮官の能力に疑問符がつくから仕方ないね。
今回の演習には陸軍内における私の反対派が多く参加していた。参加させたと言った方が正しいか。鉄道を海岸部に通すことに反対したのは陸軍。海軍は君たちの力を頼っている、と言ったら反対しなかった。そんな陸軍反対派を天皇の対抗演習に参加したという名誉によって意識を逸らす。そうしたらそのうち忘れるだろう。
ふざけた考えだが、これは的中する。演習後、省内の話に耳を傾けると演習に参加した自慢話が聞こえてきた。海軍が羨ましがるせいで優越感マシマシになり、ペラペラと武勇伝を語っている。私に対する不満の声はこうして立ち消えたのだった。
……当然、海軍部内から不満が出る。自分たちは明治元年に天保山でやっただけなのに、陸軍は何度もやっているから不公平だと。まったくもってその通り。川村純義を筆頭に執務室に押しかけてくると、自分たちも天覧演習をやりたいと要望してきた。
「諸君らの熱意は陛下にお伝えしよう」
私は約束を守る主義なのでちゃんと上奏した。天皇も言われてみれば確かに、と天覧での海軍パレードを開催する方向で調整する。もっとも天皇のスケジュールを押さえるのは難しく、すぐやれるものではない。その辺は海軍も分かっていたのだが、不幸な出来事が重なって延期が繰り返される。結局、実施できたのは明治二十三年のことだった。
さて、軍制改革や軍内のごたごたを片づけているところへさらに問題が降ってくる。まずは徴兵反対一揆。徴兵告諭から血税の文言を削除したため名前は変わったが、一揆を防ぐことはできなかった。背景には新政への不満に加え、男手をとられることに対する反発は私の想像以上のものがある。
この鎮圧や慰撫のため各地の鎮台が動き、報告を受けたり対応したりとしばらく忙しかった。そこへ追い打ちをかけたのが「今清盛」こと井上馨の失脚である。原因は汚職だった。
秋田県に尾去沢という鉱山がある。和銅年間に金鉱脈が発見され、産出した金が東大寺の大仏や中尊寺に使われたという伝承が残る古い鉱山だ。金鉱脈は掘り尽くしたものの、銅鉱脈が見つかり別子、阿仁と並ぶ主力銅山となって今に至る。
尾去沢銅山は江戸時代、南部藩が運営していた。ただ、藩は御多分に洩れず財政難であり、御用商人から借金をして運営している状況だった。いくら財政難とはいえ武士が商人から金を借りるのは体面が悪いので、形式上は御用商人が藩から金と鉱山を借りて運営していることになっていたが。
時が経って明治維新を迎えると、採掘権は御用商人に移された。これだけなら何も問題ないにもかかわらず、井上はその形式的な書類を逆手にとって一悶着起こす。御用商人にありもしない借金の返済を迫ったのだ。急に言われてもできるわけない。ましてや形式上の文言を捉えて事実無根の請求をされているのだ。受ける義理はないと考えても不思議はないだろう。だが、それこそが井上の狙いだった。金が返せないなら財産を差し押さえるしかない。そう言って大蔵省として鉱山を差し押さえてしまう。いちゃもんをつけられた御用商人はもちろん破産した。
これだけでも許せないが、酷いのはその後だ。鉱山を競売にかけて無利息で共犯者に払い下げると、鉱山に自分の名前を書いた高札を掲げさせたのである。文句のない汚職であった。
事件は破産に追い込まれた御用商人が訴え出たことにより発覚。司法卿である江藤新平は井上の逮捕を目論んだ。この話を聞いた井上は私のところへ駆け込んできた。
「山縣さん。何とかしてくれ」
「何とかしろって……」
同じように訴追されても処分を免れたではないかと井上。それは事実無根であったからで、真っ黒なあんたとは違うんだよ。正面からそう言えたらいいのだが、藩閥としてのまとまりが生きている今は正論より情理の方が罷り通るので、そんなことをすれば長州人から総スカンを食ってしまう。本心ではこの場で縛り上げて役所に突き出してやろうかと思っても、現実には庇い立てしなければならない。
「まあ、やってみます」
渋々だが、江藤のところへ行って不問に付すよう頼み込む。いやそうはいかないよと言われた。当然である。江藤が言っていることは道理なのだが、無理を通さなければ収まりがつかないところまできていた。
というのも、井上は短気な性格で逮捕されかけていると聞いて烈火の如く怒った。そのエネルギーは長州閥の取り込みに向かい、自分は被害者ですといった格好で支持を訴えていた。なので私のように情報を集めていない限り、井上は善と思われている。これが政治だと言われたらそうとしか言えないが、個人的にはまったく納得できない。
まあ、私の気持ち云々はともかくとして、長州閥が井上の逮捕は絶対反対ということで意見を一致させていた。もし逮捕に踏み切れば彼らが暴発しかねないのだ。その辺りをよくよく説明した上で、
「井上さんには公職を退いてもらう。それで決着させてくれないか?」
ひいては別の問題となっている予算についても司法省に有利なようにするということだ。それで収めてくれないか、と言うと明治政府が吹っ飛ぶよりマシだと思ったらしく江藤も頷いてくれた。
どうにか江藤を説得した私は妥協案を携えて井上の許に舞い戻る。こんなの呑めるか、と憤慨していたが木戸や大久保がいないうちに政府を瓦解させていいのかと詰め寄ると大人しくなった。負け惜しみなのか、辞職に際して腹心の渋沢栄一と連名の意見書を出している。あれこれ言っているが、端的に言うと明治政府の人間たちの財政感覚のなさには呆れる、という趣旨の意見書だ。わからんでもないが、汚職をした人間が言うな。
とにかく最悪の事態だけは回避した。岩倉使節団が出発して以来、大蔵省とその他による財政問題が勃発し緊張関係にあった。まとめるべき太政大臣・三条実美は争いをコントロールできず、西郷も政治にはあまり関与しないという有様である。
さらに宮古島漁民遭難事件があって台湾に出兵すべきだという話が湧き出たかと思えば、国交を開かない朝鮮は無礼だから征伐しろなんて話も出てくる。出兵、出兵ってお前らは戦闘民族か。しかも軍部の私は賛成するものとして扱われている。さすがにムカついて言ってやった。
「今の軍備で朝鮮に行ったところで清国にやられるだけです」
朝鮮に手を出せば宗主国である中国が出てくる。まともな外征の経験もなく、また軍備も貧弱なので勝てないとはっきり言った。少なくない金を使っておいてそんな体たらくかと言われたが、
「こんなので足りるわけないでしょう!?」
と逆ギレする。そもそも部隊を充足させている段階で、装備もそれに伴って調達していくようにしていた。そうでもしないと割り振られた予算では足りないのだ。しかもこれは陸軍に注力した結果であり、外征にあたって補給線を守る海軍は放置したまま。戦力的には幕藩時代に毛が生えた程度だ。とても戦えない。
「――そういう次第ですから清国と干戈を交えることができる状態ではないのです」
行くなら台湾に行け。私は言いたいことを言うと黙った。
こんな調子で日を追うごとに閣議の雰囲気は悪くなっていった。耐えかねて大久保たちに帰国命令が出るほどだ。これを受けて五月末にまず大久保が帰国したが、
「国を離れている間にどうなったか知りたい」
と謎の言い訳をして国中を視察して回っていた。大久保が逃げている間にも朝鮮問題は拗れる。
まず、朝鮮の在外公館から情勢不穏が伝えられた。すると板垣退助が居留民保護を名目とした出兵を提案。さらになぜか突然やる気を出した西郷が使者として朝鮮に乗り込むなどと言い出す。これを後藤と江藤が支持した。
「行くとしても丸腰では危険だ。いくらか護衛は連れて行かないとならんぞ」
三条は至極真っ当な忠告をするが、西郷は聞く耳を持たない。議論は平行線。これだけでも手詰まりだが、さらに事態はややこしくなる。清国から帰国した副島が使者の派遣には賛成しつつ、外交は外務卿の役割と自身が朝鮮へ行くと言い出した。
「戦の先手争いじゃないんですよ?」
と諫めたが全員に猛反発を受けた。変なこと言ってないだろ、頭戦闘民族が。不貞腐れた私はそれ以来、閣議でひと言も発さなかった。
そうこうしているうちに木戸も日本へ帰ってくる。一部始終を聞くと呆れた様子で、体調がすぐれないと言って閣議に出ようとしなかった。木戸に山縣も賛成かと訊かれたが、とんでもないと答える。
「今は対外戦争などやっている余裕はありませんよ」
そう答えると同感だと頷かれた。
その後も西郷はよくわからないが駄々を捏ねて朝鮮行きを押し通そうとしていたが、三条が天皇のご意向であると突っぱね続けた。
九月に入って岩倉が帰国すると緊張度は一気に高まる。西郷は遂に自殺を仄めかすまでになった。何が彼をそこまで駆り立てるのかは知らないが、はっきり言って迷惑である。彼を止めるためには最低でも対抗馬となる大久保を政府に引き戻す必要があった。
「私は西郷さんを押さえておく。その間に大久保さんと出来れば木戸さんを説得してくれ。できるか? 俊輔?」
「やって見せるさ」
私は帰国した俊輔と連携して大久保の復帰を画策した。西郷を止められるのは大久保しかいない。その認識は俊輔も同じであった。私が西郷に軍備が整っていないなどとプレゼンしている間に俊輔が大久保を説き伏せて政府に復帰させる。もうひとりのキーパーソンであった木戸は本当に体調が思わしくなく復帰させることはできなかった。とはいえ、大久保が出てきてくれれば何とかなるはずだ。
ここまでずっと矢面に立たされてきた三条は心労により倒れ、太政大臣の職務を岩倉が代行することになった。さもありなん。三条にはゆっくり休んでほしい。
代わった岩倉に西郷らは迫るが、自分の意見があると拒絶されてしまう。岩倉は天皇に判断を委ねることにした。これなら文句も出ないはず。
西郷は天皇に直訴しようとしたが大久保や伊藤、私などの反対派が宮中工作を行って妨害。謁見は叶わなかった。絶望視した西郷は公職の一切を辞職すると表明する。
目論見通り、天皇は遣使の中止を決定。あわせて西郷の辞職願いも陸軍大将を除いて受理された。これを聞いた賛成派の板垣、江藤、後藤、副島も辞職する。さらに彼らの支持者が相次いで辞職したため、特に近衛で人手不足に陥る。
「……まあ、いい機会かもしれないな」
近衛は士族を中心に編成されていたが、彼らが抜けた穴は士族ではなく全国の鎮台兵から選抜することにした。後世の近衛師団と同じ方式である。むしろいい機会だと思うことにしよう(そうでも思わないとやってられん)。
後に明治六年政変と呼ばれる政争はこのように決着した。特筆すべきはこれによって維新の三傑のうち、大久保の一人勝ちとなったことである。西郷は下野し、木戸も体調がすぐれず指導力不足を露呈した。そのため薩摩閥では大久保が残り、長州閥においても現時点で瑕疵なくやっている俊輔と私が相対的地位を上げる。これにより大久保をトップとし、私と俊輔がそれを補佐する次の政府構造が確定するのだった。
【豆知識】作中で演習をした大和田原は現在の習志野
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