鉄道
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後の世に倉屋騒動と呼ばれる騒ぎは私の完全勝利に終わった。倉屋は補助金を取り上げられることもなく造船業と海運業に本格的に乗り出した。横浜で旧式の船を一隻買い付け、船長などを雇い訓練航海をしている。一定の水準に達すれば下関を拠点に大阪から瀬戸内海、豊後水道を結ぶ定期便でも運行したいと思っていた。
補助金は倉屋の経営でいわば私的な結果だが、公的な――政治的な結果を述べると兵部省における私の権威が高まった。不祥事(事実とは違うが)を告発してもなお西郷が私を支持し続けたということは薩摩系の軍人たちにとって衝撃だったらしく、反対派は上位陣が処罰されたこともあり大人しくなる。面従腹背であった川村純義(兵部大輔、海軍部)も、
「今回のことは申し訳ありませんでした」
と私のところに詫びを入れにきた。彼は騒動を見て見ぬふりをしつつ、海軍を独立させようと動いていたらしい。しかし西郷の対応を見て、その路線を一時放棄するようだ。
「川村さんは関わってなかったのでしょう。謝る必要はありませんよ」
ニコニコと応じるが目線は鋭く。何かやったら容赦しない、という言外のメッセージだ。川村も弁えているらしく頷いた。
部内は固まったと見た私は七月に入って各地の鎮台、軍港(予定地を含む)を視察して回ることにした。東京鎮台にはじまり横浜(東海鎮守府)、横須賀(軍港予定地)、仙台鎮台、大湊(軍港予定地)に至る。そこから西廻り航路に乗って舞鶴(軍港予定地)、下関経由で長崎(西海鎮守府)、佐世保(軍港予定地)、熊本鎮台へ行き、折り返して呉(軍港予定地)、広島鎮台、大阪鎮台、名古屋鎮台を巡察。東京に戻るという行程だ。すべての衛戍地(陸軍部隊の所在地)を巡るのは手間だし時間もかかるので司令部所在地のみとする。
「いってらっしゃいませ」
「ませ!」
海と子どもたちに見送られて旅立つ。海とはハグ、水無子と誠には頭を撫でてお別れだ。カバンを片手に家を出た。
視察といってもそんな大仰なものではない。調子はどう? と言いながらあちこちを回る程度だ。予定地は本当にそこでいいのかという最終確認(史実を知っているので本当に形式だけ)である。
鎮台では訓練の様子を見ることになっていた。訓練内容は本省で作成した教範通りに行うことになっている。ゆえに全国どの部隊も同じ内容だ。
教範はフランスの軍事顧問団にも見てもらいお墨付きをもらっていた。本当によくできている、とありがたい評価を貰っている。……まあ、米陸軍の基礎訓練を(現代戦に必要な技能を省いて)採用したのだから出来はよくて当然である。もちろん未来の軍事訓練を参考にしましたとは言えないので、欧米視察で得た知見に私がアレンジを加えたという触れ込みだ。
訓練のキャッチフレーズは「兵舎から兵営、兵営から軍へ」。軍隊生活の基本は中隊である。「中隊長はお父さん、班長はお母さん」などという言葉があったくらいだ。このフレーズもこれが前提となっている。つまり、まず兵舎で起居を共にする中隊単位の練度を上げ、次に兵営にある大隊や連隊での練度を上げ、最終的に旅団や師団における軍全体の練度を上げる、ということだ。
視察では教範通りにやっているか、また不都合はないかなどの意見や感想を現場で見て吸い上げるというのが主な目的である。まだ徴兵令が出されていないため入営しているのは壮兵と呼ばれる元武士たちだ。軍は創設間もないため人員不足。贅沢は言っていられず、実践経験がある者を指揮官に据えていた。そんな状況なので質にムラがある。そんななか理想的な訓練をしているのが諸隊にいた者たちが指揮官にいる部隊だ。
「そこ! 腕が揃ってないぞ、やり直しッ!」
「集合が遅い! 懲罰走ッ!」
旧藩士で固められた部隊が和気藹々としているのに対して、諸隊出身者の部隊は怒声が絶えることがない。さすがに心配した部内からあれでいいのか? と問い合わせがあった。それに対して私は、
「問題ない」
と常に返している。兵士には訓練期間ごとに厳格な基準が定められ、各期間の最後に行われる期末試験でクリアしないと先に進めないようになっていた。一度だけ再試験があるものの、それにも落ちれば留年。兵役期間(三年)は消化されるものの、一年ごとの昇進が受けられず退営した際の階級により後々まで残る。だから罵倒されようと何クソ、と励む仕組みになっていた。
逃げようとしても無駄である。歩哨当番が兵士たちに割り当てられており、互いに監視する仕組みになっていた。共謀すればとも思うが、実際に逃げたら本人は行政に連絡して地の果てまで追いかける。そして原隊は「欠落を埋める」という理由で地獄の訓練を課す。どこの衛戍地においても一度は経験しているらしく、脱走はごく稀であった。
また、集団脱走も難しい。これは簡単で城に詰めていることから出入りは城門を通るしかないからだ。堀が行手を阻み、意を決して飛び込んでも水音でバレる。しかも外に出たところで城下町。そんなところにずぶ濡れの集団が現れようものなら怪しまれるに決まっていた。結果が容易に想像できるため、集団脱走は起きていない。
全国を回ったところ、現在の訓練内容で問題はなさそうだった。むしろ問題は指揮官の質である。士官は言うに及ばず、下士官も満足のいくレベルには達していない。だが、どちらも相応の教育が必要であり、士官学校の卒業生や下士官に昇進する兵士(原則として兵役を終えた後に勤続を願い出た兵に対して各鎮台司令部所在地に置かれた教育大隊において下士官教育を行い伍長に昇進させる)が増えるまで待つしかない。
そして海軍はというと、悪いが完全に後回しである。金がない上に、戦闘艦艇は今のところ完全に外国頼りなので余計に金がかかる。だから計画に留めて陸軍の整備を優先していた。艦艇はすべて旧幕藩から引き継いだものだ。海軍部内の不満はかなりのものがあるが、主流である薩派がこの前の一件で発言力を失い失速していた。私も十年ほどで本格的に整備を始めると約束して収めている。
「こんな辺鄙なところに置くんですか?」
とは同行している部下(海軍)の言。横須賀、大湊、佐世保、呉と見事など田舎である。だが、天然の良港であり海軍基地という面においては格好の場所だ。何より土地が安いので懐にも優しい。まあ、さらに土地献納などを求めて予算をケチっていくのだが。
後半は伏せながら海軍士官の外人から聞いたという体で軍港としての良港足り得る要件――広い湾を持ち水深が深く波が穏やかで敵の侵入を阻む地形であること――を話した。その観点でいくとこれらの港町は適している。
「そして呉だ。ここは最高の港湾になるぞ」
私が脳内で思い描く国防構想の中核となるのが三大要塞計画だ。三大要塞とはすなわち帝都を守る東京湾要塞、北方を守る津軽要塞、そして西部に睨みを利かせる瀬戸内要塞である。呉はその中核となる場所だ。島国日本の生命線である造船を瀬戸内海の中にある呉で行い、関門海峡や紀伊、豊後水道で敵の侵入を阻む。要は瀬戸内海全域を要塞化するということだ。たとえ航空機が発達しても四方に陸地があるから迎撃できる。まあ、史実のように迎撃できないレベルまで押し込まれたらどうしようもないのだが。
「それは……楽しみですな」
この構想は将来的な海軍拡張を示唆するものであり、部下は満足そうにしていた。空手形を切っているのではなく、ちゃんと考えてやってるんですよというアピールである。
そんな具合でほぼ日本を一周する視察旅行の日程を消化した。帰京して早々、新橋へ行くことになる。本日は明治五年九月十二日。新橋〜横浜間の鉄道開業日だ。天皇が乗車されるのだが、そのお付き(供奉員)として新橋駅に停車場(駅)にいた。
文学風にいえば「マッチ箱のような」蒸気機関車がホームに待機している。周りには文明の利器を興味深そうに見つめる人々の姿があった。汽車への乗り込んだのだが、お召し列車ということで客車は上等車(グリーン車みたいなもの)が仕立てられていた。座り心地もこの時代のものとしては悪くはない。
「山縣は鉄道に乗ったことがあるのか?」
と聞いてきたのはなんと天皇その人であった。政府高官が乗っているのだが、どこかそわそわしている。そんななかでやけに落ち着いている私に目が留まったらしい。
「はい、陛下。以前、西洋を訪れた折に何度か」
あちこち弾丸旅行をしていたのでよく利用した。それ以前に現代では鉄道の存在が当たり前。蒸気機関車ということで逆に新鮮であった。
「そうか。鉄道は便利だな。これが兵庫まで伸びるのだろう? 楽しみだ」
天皇は巡幸からの帰路、品川までで仮開業していた鉄道に乗ったことがあった。それで一発で鉄道を受け入れたらしい。当然、鉄路が最終的に兵庫まで至ることも知っており、画期的な交通手段が兵庫、そしてゆくゆくは日本全国に普及することを望んでいるようだ。
この時期、天皇の欧化が進んでいた。きっかけは岩倉使節団から委任状を取りに日本へ戻っていた俊輔から洋装の写真を求められたこと(当時は国家間交渉に際して国家元首の肖像を交換するという慣習があった)。天皇は武士気質の人で、軍事関係の事柄では軍服(洋装)を着ていたが、このことがきっかけで公務においても洋装をするようになる。
欧化にあたってアドバイスを求められたのが私だった。なぜかといえば、私が西洋かぶれと言われるほど日常生活が欧化していたためである。服装は軍服、髪は総髪で築地精養軒に出没しては洋食を食べるといった感じだ。私がこんな調子なので海も同じようにしていた。結果、山縣一家は西洋かぶれとなったわけだ。だって洋装の方が前世に似ていて楽なんだもん。
それはさておき、山縣は西洋かぶれという評判を政府高官が知らないわけがない。天皇も同じである。これだと嫌われそうなものだが、改革派へのブレーキ役ということで元から一定の評価を得ていたことで問題視されなかった。西郷の宮中改革で士族が登用され、月三度のペースで省の長官と話し合うという慣例ができ、そこで何度か御進講したこともある。なのでむしろ、山縣なら変なことを吹き込むこともないだろう、といった信頼さえあって私が困惑してしまう。
閑話休題。
天皇や有栖川宮、西郷ら政府高官に外国使節、そして鉄道建設に携わった関係者を乗せた列車は汽笛を鳴らし、新橋を出発した。
横浜にて式典が行われる。そこで天皇からお言葉があり、鉄道開業を祝うとともに今後は全国に敷設していくことを望むとのことだった。その後、一行は再び列車に乗って新橋へ戻り、そこでもう一度式典を行い解散する。
新橋に着いたのが午後一時ということでそのまま兵部省へ向かう。道中、天皇の言葉を反芻していた。
「鉄道の全国敷設か……」
史実の日本において鉄道整備は昭和になっても続けられた。東海道線など国が敷設した路線もあれば、民間が敷設した鉄道を国有化している。気の長い話になるが、私が気になったのはそこではなく今だ。
現在、東京から神戸に至る鉄道建設が計画されていた。新橋〜横浜間の鉄道はその一環である。ただ、線路をどこに通すかで揉めに揉めていた。工事がしやすい東海道を主張する者がいる一方で海運に客をとられ利益が見込めない、敵艦隊からの攻撃を受けるといった理由から中山道を通すべきと言う者もいた。敵艦隊云々を言ってるのは兵部省(史実だと陸軍省)だったりする。
今はそうでもないが、軍部(陸軍)の主張はかなり気宇壮大ものだ。日本の中央はその多くが山地であるが、そこをぶち抜いて鉄道を敷設しようとしていた。最終的に山縣が説得され東海道ルートが選ばれるが、それまで陸軍の抵抗は強かったという。
今世も部内では内陸ルートが推されていたが、私は思い切って海岸ルートを推進することにした。反対の声が少ないうちに押し切ってしまおうという算段だ。通すのは大変だが、通ってしまえば動かしにくくなるのが日本である。
これに関しては薩長問わず渋られたが、彼らに反対を押し通すだけの政治力はない。頼みの綱である西郷は私の判断ということで異を唱えず、長州系の井上馨はむしろ賛成するというような状態だった。孤立した軍部はどうすることもできず、部内で不平を吐くことしかできない。
「山縣さん。軍は随分と不満を溜めている様子だが……」
西郷が不平分子が私を標的に凶行に及ぶのではないか、と懸念を伝えてきた。薩摩系軍人を抑える役割を担ってもらっているが、そんな彼から見て危険というならかなり危うい状況なのだろう。
「わかっています。捌け口も用意してあるのでもうしばらく辛抱してください」
これだけのことをやったら不満も溜まろうというものだ。維新の推進者たちということで行動力はピカイチ。大村のように暗殺することも辞さない。私も死にたくないので、彼らの目を逸らすため行動する。
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