薩摩へ
本日から二日間、5:00、13:00、21:00に連続投稿する予定です。ぜひご覧ください!
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万延元年(1860年)。私は藩命によって薩摩へと向かっていた。江戸時代は言うまでもなく幕藩体制が敷かれ、武家社会に限らずあらゆる人々が幕府支配の下で暮らしている。武家もまた幕府を頂点にした縦の繋がりがあるわけだが、大名同士の横の繋がりも依然として存在した。
やり取りは基本、使者に書状を託して行われる。戦国時代では書状は簡潔な内容で、具体的な中身は使者が口頭で伝えた。今はそんなことはなく、聞かれたくないこと以外は書状に認められている。
そんな使者に今回、私が選ばれたのだ。まあ、藩士としては下っ端なので、ただの書状の送付役。郵便配達員みたいなものだ。しかし、お気楽な話ではない。上役に呼び出されて仕事の話をされたとき、
「使者として赴き、滞在中は薩摩藩の内情を探るのだ」
との指示が出ていた。要するに内偵だ。文治政治が行われているとはいえ、統治者は一応戦士階級である。戦いに備えて各地の情報収集は欠かせない。
「しっかりしなければ」
今、長州藩では松下村塾の塾生を中心とした尊王攘夷派は肩身の狭い思いをしている。吉田松陰が処刑され、藩の方針も通商開国、幕藩協調に傾いているからだ。長州藩としては、譜代中心に運営されていた幕政に食い込みたいというのが根本的な願いだ。それが果たされる方法は何でもいいのである。
尊王攘夷派も盛り返そうとするが、中心となるべき人材を欠いた。松下村塾の塾生で優秀な生徒二人を指すと「双璧」、三人なら「三秀」、四人なら「四天王」などと言われる。このなかで活動できるのは「双璧」のひとりである久坂玄瑞のみ。「双璧」のひとりである高杉晋作は江戸におり、「三秀」となる吉田稔麿は隠遁、「四天王」の入江九一は獄中である。松陰に代わる中心的存在は現状、玄瑞のみとなっていた。
玄瑞は当面の間、表立った活動を自粛するするという方針を打ち出した。元より松陰の急進的な策謀に批判的な塾生が残ったため、これはすんなりと受け入れられている。申し合わせとしては、しばらくは各自の仕事や鍛錬に打ち込む。時折、塾生同士で親交を深めようという程度だ。
「では行って参ります」
「気をつけてな」
「お勤め、しっかり果たすのですよ」
「「いってらっしゃい」」
家族に見送られて旅立つ。行程は東回りを採用する。すなわち、萩を出ると馬関まで出て門司へ渡海。秋月街道から日田、日向街道(豊後、日向など)を経由して藩庁のある鹿児島へ至るルートだ。
九州で唯一の脇街道となっている長崎街道もしくは秋月街道を通り薩摩街道を南下する西回りのルートもあるが、東回りにしたのは薩摩藩が日向国にも領地を持っているからだ。往路ではそこを含む藩東部を、復路では西回りルートをとり西部を見ていくつもりである。
「¥$€%」
……何を言っているのかさっぱりわからない。第二次世界大戦のアメリカ人の気持ちがよくわかる(U-511の日本回航に際して、野村直邦中将の便乗は機密であった。しかし、暗号乱数表のやり取りが戦局の悪化により難しくなったことから、代替手段として早口の薩摩弁で潜水艦と在独大使館は交信することとした。しかも、国際電話で堂々と。アメリカは当然これを傍受したが何語なのかすらわからず、鹿児島県出身の日系二世によってようやく解読に成功したという逸話がある)。
領内に入って領民たちが話すナチュラルな薩摩方言を聞いたが、何を言っているのかほとんどわからない。さすがに宿屋の人間は心得ているようで、こちらがわかるように方言を緩めて話してくれた。とはいえ、こんな調子なので動作などから推定するしかなく、薩摩藩の情勢を調べるのは難しい。
加えて、領内に入ってからどうも誰かに見られているような気がする。これは薩摩藩に限ったことではなく、長州藩の領域から出た途端に視線を感じるようになった。各所に設置された関所で通行目的などを明らかにするが、そこで身分がバレている。ゆえに監視がついたのだろう。一応の警戒は必要だが、見られることには慣れた。
そんな調子で旅は進み、いよいよ藩庁が置かれている鹿児島に到着。アポをとって登城する。役人に会って来訪の目的を告げたのだが、
「¥$€%」
はい、何言ってるかわかりませーん。
知ってた。薩摩方言わからないのは。しかし、ここでも普通に飛び出してきた。他所の人間なのだから手加減してくれ、と思ってしまう。
「こんた申し訳なか(これは申し訳ない)」
そんな思いが伝わったのか、今度はゆっくり喋ってくれたので――多少わからない単語はあれど――申し訳なかった、的なことを言いたいことは伝わった。
「長旅お疲れやろう。ゆっくりしたもんせ(長旅お疲れでしょう。ゆっくりしてください)」
書状を渡し、内容も簡単に伝える。いくらか事務的なやり取りをすると、こう言われた。労わってくれているのはわかる。私は感謝を告げ、役人と別れた。返書が出来上がるまで、私は城下にある宿に泊まることになっている。
折角なので、鹿児島観光に洒落込むことにした。まずは桜島。現代では大隅半島と陸続きになっているが、それは大正大噴火によって起きたことだ。ゆえに、今はまだ純然たる島である。
また、少し行程を戻り霧島へ行き、霧島神宮を参拝した。この神社は神代から存在したとされ、延喜式(927年完成)にも記述が見られる。何度となく社殿が焼失しながらも再建され続けた。現在の社殿は島津吉貴(薩摩藩の四代目藩主)によって建てられたものである。鎌倉時代より薩摩を治める島津氏に重要視されており、例えば耳川の戦いに赴く島津義久は立ち寄ってくじ引きを行って神意を仰いだという。
そんな歴史ある神社に参拝し、その日は霧島に泊まる。ここには温泉もあり、のんびりと温泉を楽しみここまでの旅の疲れを癒した。しばらくは霧島に滞在し、温泉の他に霧島連山の自然を堪能する。「霧島」という地名は、山々が霧の中にあって島のように浮かぶ様からつけられたという。未だ開発が進んでおらず日本中、自然は豊かなのだが霧島のような景勝地には神秘性が感じられ格の違いというものを感じる。
霧島でゆっくりした後は鹿児島に戻って返書の完成を待つ。時間をとったので終わったかなと思っていたが、さすがはお役所。まだ終わっていないようで連絡はない。さてどうするか。
考えていたところで、ふと気づく。ここは薩摩藩。長州藩と並び明治維新の原動力となった藩である。当然ながら、後の世に知られる偉人たちも大勢いる。その第一世代といえるのが西郷隆盛と大久保利通だ。彼らと何とか会えないか。暇だったので奔走した結果、勘定方小頭格をしていた大久保利通の居場所を突き止める。会う理由が思いつかなかったので、偶然を装ったアポ無し突撃を敢行した。
「珍しかお客じゃなあ(珍しい客ですね)」
「ど、どうも」
私は冷や汗をダラダラとかきながら三文芝居を演じる。なぜか? 威圧感が物凄いからだ。さすがは「人斬り半次郎」とあだ名された中村半次郎(桐野利秋)を一瞥しただけで黙らせただけのことはある。見られただけで身体が強張った。
「あたは(あなたは)?」
「長州藩士、山縣小助と申します」
流れ的に誰何されたと思い、所属と名前を答える。すると、大久保は何かを考えるように腕を組む。
「ないごてこけ(なぜここに)?」
ここまで話の流れや断片的に聞き取れた単語を手掛かりに推測して答えてきた。しかし、これはさっぱりわからない。お手上げだ。それを感じたのだろうか、
「なぜここに?」
と普通の言葉で言い直してくれた。
「いやー、道に迷ってしまいまして」
藩の公用で来ているだけで、道には不案内であると言い訳をする。
「なるほど」
深くは聞きません、と少し笑いながら大久保は立ち上がった。
「折角です。中で休まれては?」
「ありがとうございます」
都合よく家の中に誘われる。客人ということでお茶を出された。ありがたくいただく。大久保の好みなのか、かなり濃いめだ。
「うむ、美味い」
大久保は満足したように頷く。
部屋を見回すと、碁盤が目に入った。碁石が置かれており、研究中であったらしい。
「気になりますか?」
「囲碁が好きなんですね」
「ええ。山縣殿は?」
「少し嗜む程度です」
学生時代の部活は囲碁将棋部。私は将棋目的に入ったのだが、囲碁好きの部員から基本的な知識は教えてもらっていた。だから打てないわけではない。
「ならば一局どうでしょう?」
「喜んで」
家で休ませてくれたお礼として、下手だけれど相手をすることにした。棋力差は歴然であり、結果は負け。しかし、大久保は対局が終わってからずっと唸っている。
「山縣殿。少しいいだろうか?」
「はい?」
何か拙いことをしただろうか。内心ビクビクしていたのだが、
「この一手なのだが……」
訊かれたのは勝負の分かれ目となった手だった。
「ここはこのようにするのが筋では?」
「ああ、これは……こうして、こうしようと思って打ちました」
「なるほど。たしかに面白い」
手筋というのは時代とともに変化していく。ある戦法が確立されると、それに対応するための手が模索される。その繰り返しにより囲碁や将棋は洗練されていった。時代は21世紀を迎え、AIが登場するとその速度は加速する。私の手筋も当然その影響を受けており、この時代からすると特異なものとなっているようだった。
「山縣殿、もう一局いかがか?」
「お付き合いします」
どうせ返書ができるまでやることはない。大久保と囲碁を通して親睦を深めることにした。よほどの囲碁好きらしい大久保は頻繁に誘ってくる。おかげで返書ができたと連絡を受けるまで暇をせずに済んだ。帰藩する日の前夜、囲碁を打ちながらそのことを告げる。
「それは寂しくなりますな」
大久保はそう言って白石を置く。
「……参りました」
十戦十敗。薩摩藩滞在中の戦績である。私は一度も大久保に勝てなかった。
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