倉屋の拡大
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明治五年(1872年)となったが、相変わらず東京で軍隊のことについて色々とやっていた。鎮台を設置し徴兵された兵士により構成された近代軍を作るわけだが、軍隊は高度にシステム化された組織であり、それに貢献するのが階級である。史実では色々と試行錯誤がなされたが、私は現代の軍隊まで知っているので完成版をポンと出した。
上は大将から下は二等兵まで。陸海で呼称の違いはあるが、対照性は持たせた。元帥については悩んだ末、保留にしている。仮に創るとなれば適任者は西郷ひとりだが、皇族の従軍者はどうするのか判断がつかなかったからだ。天皇ならいいと言いそうだが、不必要な波風は立てない(よって西郷の階級は陸軍大将)。
階級だけでなく服制も制定した。軍服は正装、礼装、常装(勤務服)、軍装(戦闘服装)と分類されるが、それらは史実通りとなった。本当は昭和十三年制式のようなカーキ色で実用的なものにしたかったのだが、この時代にはそんな質素な服装をした軍隊はない。ヨーロッパの貴族制に根差した装飾文化の影響で色々と飾りをつける必要があった。そのため軍装は濃紺の肋骨服である。
うーん、ダサい。それが着て思った感想だ。後世でイメージするような軍服ではなく、学ランに無駄な装飾がついた感じである。何がオシャレなのかわからない……。
軍服では屈してしまったが、軍帽に関しては狙撃の標的にならないよう将校も下士官兵も意匠は同じものにしている。同じものを量産した方が安く上がるからな。お財布も考慮しなければならないのは実に世知辛い。この辺りは各国の軍人が共通する悩みだろう。
こういった内部の軍制改革に合わせて階級についても改めて各人に付与された。外部との折衝が済んで内部で色々とできるようになった結果だ。ちなみに私の階級は陸軍中将。同時に皇居を守る近衛(御親兵より改称)都督にも任じられた。
よちよち歩きにも程があるが一応、私は日本軍のトップ。天皇に拝謁する機会も少なくない。そうして接しているうちに人柄というものも見えてくるが、天皇はどうも保守的な考えの持ち主のようだ。私は政府内で改革派と目されてはいるものの、保守派にも理解があるいわば「話のわかる」人間。明治政府をそんな人間で固めたいらしくこの人事を行ったのではないだろうかと拝察する。
軍制改革に禁裏守護。いずれ劣らぬ重責に加えて薩長の派閥争いという政治的な駆け引き。ストレスは半端ない。じわじわと蓄積して押し潰されそうだが、今はそれを吹き飛ばしてくれる存在がいた。
「帰ったぞ」
帰りを知らせると奥から床を踏む音がして、
「とうさま!」
「とと、とと」
水無子と誠が現れる。私を呼んで胸に飛び込んできた愛し子たちを抱きしめた。
「二人ともいい子にしていたか?」
「「うん!」」
「いい返事だ」
よしよし、と頭を撫でると無邪気に喜ぶ子どもたち。その反応を見て私も頬が緩む。
「もうっ! 二人とも走らないで」
前垂れに襷掛けといった実に家庭的な姿をした海がパタパタとやってくる。仄かに香ばしい匂いがした。今夜は焼き魚かな? 焦げないよう火から離してきたのだろう。その隙に子どもたちが玄関に走ったようだ。
「ふう……お帰りなさい」
落ち着くためか一拍間を空けて出迎えの言葉をかけてくれる。私もただいま、と返した。
誠も大きくなったので家族は東京に移ってきた。幕府が滅亡したことで百万都市であった江戸は衰退。特に武士層を中心に流出し、空き家が多い。藩邸も幕府から与えられていたもの(拝領屋敷、上屋敷)は明治政府に没収された。職場である兵部省も三宅坂一帯――田原藩と彦根藩の江戸藩邸――に位置している。廃藩置県に伴って藩主たちは東京への移住を命じられた。彼らは多くの場合、私有財産である抱屋敷(下屋敷)に入っている。
しかし旗本八万騎と呼ばれた旧幕臣はその限りではない。明治政府に帰順した者、静岡に封じられた徳川宗家について行った者、武士の身分を捨てた者など様々な道を歩んだ。彼らに与えられていた旗本屋敷も明治政府に上屋敷同様に没収されている。無数にあるそれらを活用しないわけもなく、そのうちの一軒を東京の家として与えられた。そこへ海たちを迎えたのである。
引っ越してきたのは海と子どもたちだけ。祖母は長州に残った。山縣家が代々起居してきた家を守るのだ。海が携えていた祖母からの手紙にはそう書いてあった。まあ、年齢的に長旅は辛いというのもあるだろう。
「ととさま、だっこ」
「まーも! まーも!」
「はいはい」
よっこいしょ、と両腕に子どもたちを抱える。鍛えているので子ども二人を抱えるくらい余裕だ。
「まったくもう」
父親に甘える子どもたちに呆れた声を出しつつ、海は私が置いた荷物を拾う。
「父上がお部屋に戻られるまでですよ」
「「はーい」」
子どもたちは今日も元気だ。これを見ていると頑張らねば、と明日への活力が生まれる。着替えて家族揃っての夕食。献立はご飯に味噌汁、そして予想通り焼き魚だった。水無子のために身をほぐしてやる。魚はこうやって食べるんだぞ、という実演もしながら。上手くやれたら褒める。誠には海が対応していた。
食後も元気な子どもたちの相手をし、遊び疲れたところで寝かしつける。たまに熱は出すものの、大きな病気はせずすくすくと育ってきた。このまま無事に育ってほしい。親としての切なる願いだ。
すやすやと眠る子どもたちを見守りながら海と大人の話をする。彼女は父親の赤右衛門から東京近辺における倉屋の経営を任されていた。東京支店長のようなものである。そういう仕事の話だ。
「英国の技師が来たそうよ」
「ジョニーの伝手を頼った甲斐があったな」
倉屋とは兵部省との間で取引があった。陸海軍部に設置した経理局を介して資材の調達を担っている。廻船問屋であるから物資の調達はお手のもの。縁戚という理由がないわけではないが、たしかな仕事ぶりから任せている。
しかし、海は母となり落ち着いたとはいえ元はお転婆娘。実家の仕事を淡々とこなすだけで収まるはずもなかった。準備のために手紙をやりとりするなかで、彼女は何か事業を拡大する手段はないかと相談してきたのだ。
愛する妻の相談だから真剣に考えた。だが、あれこれ考えるまでもなくアイデアが出てくる。銀行に造船、銃砲の製造、鉄道といったところか。新規事業ゆえに金はかかるが、倉屋には資本がそれなりにある。もちろん江戸や大阪に店を構える大店には敵わないが、それでも単体でそれなり。上手く下関の商人たちも取り込めればより多くの資本で事業を展開できるだろう。
だが、先に挙げた事業はいずれも資本以外のハードルが存在した。まず銀行は制度が存在しない。国立銀行条例はこの年に発表されるが現時点では誰も知らない。鉄道も新橋〜横浜間が現在建設中。残るは造船と銃砲製造だが設備もノウハウもない。前者についてはあてがあるものの、すぐにどうにかなるものでもなかった。とりあえず将来的に造船業をやるとして、今は資本の蓄積に努めるべきとなる。
それでいいのか自分!?
愛する妻がアイデアを求めているのにまた今度、などと返事をしていいのか。否。そんなことをすれば男が廃る。そんな謎のプライドを刺激された私が考えついたのが印刷業だった。
現代ではコピー機を使えばそれこそ一般家庭でも印刷物を作ることができる。だから印刷なんかしてどうなるんだ? と思うかもしれない。だが、たかが印刷と侮るなかれ。政府には様々な刊行物や用紙があり、近く敷かれる学制では教科書、メディアとしての新聞など大量の印刷物が必要となる。しかし、肝心の印刷方法は活版印刷――極端にいえばハンコを使って印刷する方法だが数千、万を超える文字を駆使する日本語ではハンコの保管だけでもかなりのスペースが必要だ。とても個人でどうこうできるものではない。だからこそ印刷業は成り立つ。
学制による教科書需要は伏せて一般書籍の需要増大と言い換えつつ、印刷業の可能性について海に話したところ食いついた。問題は活版印刷のノウハウがないことだったが、ジョニーに連絡をとりイギリス人技師を派遣してもらう。いや〜、持つべきものは友達だな。その技師が到着したそうだ。
「印刷に使う機械と活字も用意してあるから、すぐに事業を始められるわ」
技師が来る前に手紙でやり取りをして必要な機械や活字、人員は手配済みであった。あとは技師から指導されつつ仕事を受けてノウハウを学び、一年ほどかけて習得する予定だ。仕事は兵部省から振る。技師の給料はお雇い外国人の例に漏れず高給(月一五〇円)だったが、これでもジョニーの紹介ということで安くなっていた。
「技師に会った方がいいかしら?」
「そうだな」
期間限定とはいえ倉屋の一員として働いてくれるのだ。礼は尽くさなければならないだろう。私もついて行くことにした。明日というのは急なので、算段をつける時間を設けるため面会は二日後。その間に出勤を遅らせるという連絡をし、子どもたちの面倒を見てもらえるよう近所に住む従業員にお願いした。
海は倉屋の東京支店長とはいえ、店舗の運営は下関から連れてきた番頭が行なっている。赤右衛門や従業員からすれば経営するより子どもを作りその面倒を見ろということらしい。それでも経営への口出しを許してくれているのは彼女が愛され大事にされている証左だろう。
「クリス・アトリーです。よろしく」
「よく来てくれた」
私はクリスと握手する。そして海を紹介したが、経営者だと言うと驚いていた。挨拶を終えて雑談に興じる。まあ、英語を話せるのが私しかいない(通訳もいるがいちいち訳すのが手間である)のでほぼサシで話している。そこでふと気になったことを訊いてみた。
「クリスはジョニーとどこで知り合ったんだ?」
「大尉とは昔馴染みなんですよ」
社会的な階級が違うので直接的な接点はなさそうなものなのだが、ジョニーはある意味で変わり者だ。パブで飲み歩いているところで出会い意気投合。それからの付き合いだという。クリスは印刷所で働いていたそうだ。
「給料も悪くないのでね」
お雇い外国人の給料は専門職という要因を込みにしても高い。よく比較される話として明治初期の太政大臣が月八〇〇円。対してお雇い外国人は高いと千円を超え、低くても一五〇円ほど(平均は一八〇円)。とんでもない高給取りであるが、あくまでもこれは日本基準であり世界的には普通だという。ゆえに、
「それでもわざわざ極東まで遥々来てくれたのだ。感謝している」
なるべく不自由がないようにするから、気になったことは遠慮なく言ってくれと伝えた。
クリスの指導と私たちの事前準備の甲斐あって印刷事業は早々に始まった。同時期に本木昌造と平野富次による長崎新塾出張所が同業他社として設立され、倉屋と激しい競争となる。しかし、兵部省をはじめとした官庁のシェアを中心に獲得した倉屋は順調に業績を伸ばしていく。
この事業により資力、何より政府の信頼を獲得した。おかげで私が兵部省内で働きかけてきた石川島修船所の移管が認可される。ペリー来航により幕府が水戸藩に造らせた造船所で、例によって新政府に差し押さえられていた。しかし、あまり活用されておらず正直持て余しているのが現実である。ならば売却して金に換えてやろうというのだ。
「今度はジョニーに造船関係の人材を紹介してもらおうか」
彼が海軍士官でよかったと思う。もちろん紹介してもらえるとは限らないのだが。
「でも、あんまりお金がないわよ」
新たなお雇い外国人を雇おうとしたのだが、海から金がないと愚痴られる。印刷のための機械、土地、人件費など出費が嵩んでいた。そして造船所の買取りである。赤字になりかけていたが、
「それなら問題ない。海軍部を説き伏せて補助金を出させることにした」
商船は必要だと言って認めさせた。倉屋が目指しているのは外国船のような鉄製大型の商船だ。金や技術が必要であり、軍としても応援してやるべきだと。まあ、色々と理屈をつけて認めさせた。いささか強引だったとは思う。
そんなことをしたからだろうか。身内の兵部省から告発された。
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