兵部大輔就任
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私たちは横浜を六月下旬に出帆。それから一年以上の時間をかけてイギリス、フランス、ドイツ(プロイセン)、オランダ、ベルギー、オーストリア、ロシアを見聞した。信吾は先進文明に圧倒されている様子だったが、現代を知る私からするとこんなもんか、という程度。ただ知的好奇心は満たされた。
肝心の軍制調査については各国から程々に協力を受けて進んでいる。基地や学校、軍部省、参謀本部などを見学させてもらった。前世で基地祭などのイベントで軍事施設に入ったことはある。だが、あれは一般への展示を目的とした非日常であり、日常の様子を窺うことはできない。今回はある程度「見せる」意識はあるものの、極東にある未開の島国からきたアジア人ということでバカにされているらしく気の緩みから日常の様子を見ることができた。
「しかし、聞いてはいたが扱いは悪いな」
「あはは……」
私はムスッとした顔をしていることだろう。信吾は困ったように笑っていた。
ヨーロッパは今でこそ人類皆平等だとか何だと騒いでいるが、この時代は現代とニュアンスが異なる。そこで指す「人類」とはいわば白人のことであり、有色人種は人ではない。キリスト教的な価値観では人とそれ以外で区別しているが、人でありながら人でないとされているのが有色人種だ。
アジア人差別は往路でも感じていた。この時代に日本人による欧米への航路は開かれていない。だから欧米人のものを利用するのだが、船員の態度が悪いのだ。上陸して宿泊したホテルマンも同様。
ふざけんな。
聖人君子ではない私はそう思った。子どもっぽいと思うかもしれないが、考えてほしい。人柄など関係なくアジア人だからという理由で馬鹿にされるのだ。こればかりは我慢ならない。復讐してやるとまではいわないが、今に見ておけ。……明治日本を支えたのはそんな反骨精神だったのかもしれない。
日本を欧米に負けない一等国にする。それが私なりの復讐だ。だがそれは今すぐにできることではない。とはいえこのままやられっぱなしで帰ったのでは腹の虫が収まらなかった。ということでちょっとした仕返しをする。なに、犯罪じゃない。前世の日本なら小学生でもできるようなこの時代ならではの悪戯である。
「Hello」(英)
「Bonjour」(仏)
「Guten Tag」(独)
「Zdravstvujtye」(露)
と各国の言葉で挨拶していく。オランダ語は知らない。これに応対した人間は面食らう。下等なサルが我々が話す言語を喋るとは、といわんばかりの表情だった。まあ挨拶ぐらいしか知らないから何言ってるのかさっぱりなんだが(第二外国語だったドイツ語が辛うじて単語の一部がわかるくらい)。
ただし、英語となれば少し話は変わる。学生時代に英語の授業を真面目に受けていたわけではないし、成績も悪かった。それでもさすがに中高大学とやっていれば基礎的な力は身につく。簡単な英会話くらいはこなすことができた。
「こ、小助殿。外国語をどこで?」
「兵庫の知事をしている伊藤とは顔馴染みでね。彼は英国へ留学したことがあるので、事前に習ったんだよ」
驚く信吾にそう説明する。ちなみに嘘ではない。渡欧前、実際に伊藤を訪ねて英語を教えてもらっている。基本的なことから始まったので初心者を騙るのが大変だった。まあ、伊藤も忙しいなか時間を作ってくれているのだ。感謝しながらアリバイ作りに利用させてもらった。
そしてこれが意外にもイギリス人へのウケがよく、予定にない造船所や港湾の視察をさせてくれた。こういうのを体験するといつの時代、どこの国でも人と仲良くするのは大切だな、と感じる。
諸国を周遊して軍制を中心に知見を得た私たち。そろそろ帰国するかという話になり、そこで私はアメリカ回りを提案した。
「米国は我が国を開国させた国です。一度、その国を見ておきたい」
「たしかに」
信吾も納得してくれた。イギリスと同じ英語圏ということで言語バフに期待したというのもある。そしてそれは思っていたのとは違う形で早速発揮された。イギリス人のジョンによる仲介だ。彼は男爵家の三男坊で海軍士官をしている(階級は大尉)。軍制調査で訪れた港湾で知り合った。比較的差別はしない人なので付き合いやすい。英語を喋るわけだが、こちらに合わせて平易な単語をチョイスしてくれている。だから会話も増え為人も理解し友人となった。そんな彼と送別会がてらパブで飲んでいたときに帰国の話となる。
「……そうか。アリー(私の愛称)ともお別れか」
「ああ。帰国して近代化を成し遂げなければいけないからな。ジョニーにはよくしてもらったし、その経験は必ず活かすよ」
「それは嬉しいね。じゃあ旅の無事を祈って乾杯だ」
ジョニーがジョッキを掲げ、私もそれに合わせる。階下から漏れ聞こえる喧騒をBGMにビター(ペールエール)を呷った。ホップが少ないらしく、苦味はさほど強くなく飲みやすい。
それから思い出話に花を咲かせた。今いるパブはロンドンの中心部にあり、それなりに賑わっている。仕事終わりの労働者が集まって大いに語らい酒に酔う。ゆえに騒がしいのだが、そこはイギリスの階級社会。三男坊とはいえジョニーも貴族出身ゆえに、二階の所謂VIPルームを利用できていた。微かに聞こえはするものの、下と比べれば静かなものである。
「――そういえば、帰りはインド回りで帰るのか?」
「いや、アメリカ回りだ。地球を一周する感じだな」
そう答えるとどういうわけかジョニーの表情が明るくなる。
「なら丁度よかった。実は兄に連絡をとっていてね――」
曰く、ジョニーの兄は外交官でありアメリカに勤務しているという。私から列強の軍制調査という目的を聞いていたが、その一角であるアメリカの話は聞いていなかった。だから、あちらの軍当局に兄を通じて話をつけてくれたそうだ。
「それはありがたい!」
アメリカでの最大の懸念はどうやって軍制調査を行うかだった。ヨーロッパでのものと違い事前に話をつけていない。突然の思いつきなのだから当然だ。信吾たちは私が言い出したことなので何か用意があるのだろうと思っているらしいが……そんなものはない。だからジョニーのお節介はありがたかった。
「ジョニーが友人でよかったよ」
「なら今日の支払いは持ってくれ」
「待った待った。前も私だっただろ?」
イギリスのパブ文化ではグループのなかのひとりが支払いをする。"buying a round"という慣習だ。これを繰り返すことで支払いが均等になるというわけである。これに従えばジョニーが支払うべきところなのに、私に払えと言う。仲介料か? と訝しんでいるとジョニーが照れくさそうに、
「次は俺が払うよ」
と。また会おう、という言外のメッセージを正しく受け取った。
「そうだな」
私は小粋なことするじゃん、と思いながら支払いを持つ。ジョニーとはイギリスを離れる前にもう一度会った。そこで万年筆と便箋を渡される。文通をしようということであった。
事前に筆記体で書かれてもわからないからな、と言っていたにもかかわらず最初の手紙は筆記体で書かれていた。読めねえよ。そんなことはジョニーも承知で二枚目はブロック体で書かれている。内容は近況とブロック体しか読めないことを揶揄うものだった。うるさい。文句は現代日本の文科省に言え。
そんな愉快なイギリス人の友人のおかげでアメリカにおける軍制調査も実現した。公式なルートではないものの、覇権国家であるイギリスの仲介ゆえか他国の案内よりも手厚かった。そのせいでついつい長居してしまい、横浜へ帰国したのは明治三年(1870年)九月となる。
「帰ってきたな」
「ええ」
日本の空気は美味い。滞在日数が最も長かったのはロンドン。霧の都と呼ばれるだけあってスモッグが半端なかった。空気が美味いのは翻って工業化が進んでいない証ではあったが、こういう原風景もいいものだ。
早く故郷に帰って家族と会いたいところだが、今回の洋行はレジャーではなく軍制調査というお仕事。報告のためしばらくは東京(慶応四年七月十七日に改称)に滞在することになる。
東京に着くと木戸に呼ばれた。久しぶりに会うなぁ、なんて呑気に出頭した先で驚愕の事実を知らされる。
「大村さんが殺された!?」
「ええ。神代という長州出身者たちが下手人です」
悔しそうに木戸は言う。新政府内は薩摩の大久保、長州の木戸を筆頭に対立が起きていた。近代化という目標は同じでも方法論は人それぞれ。同床異夢の状態であり、こうなるのはある意味で必然であった。
軍制という面でその対立を見ると、主なところでは藩兵論と農兵論の対立だ。つまり、軍を近代化するにあたって兵士を士族から採用するか(藩兵論)、士族以外からも採用するか(農兵論)という対立である。前者を大久保、後者を木戸と大村が推進していた。
どちらにするかという議論は決定的な対立につながる恐れから先延ばしにされたが、大村の意見は悉く不採用となり大久保は更迭をも模索し始める。大村も辞表を提出するが、木戸が慰留して軍務官から兵部省に改まった官庁の次官(兵部大輔)となった。上官である兵部卿は皇族であるので、彼が事実上のトップである。
大村は大久保からの介入(妨害)を避けるために大阪を活動の舞台とした。フランス陸軍を模範として同国の教官を招き、京都にあった兵学校を兵学寮と改め移転。また造兵廠(大阪砲兵工廠)も設置するなど軍事拠点として整備していた。だがこれには反発も多く、大村を襲撃するというような風聞を流れる。それでも彼は進捗状況を見聞するために京阪方面へ下向。案の定、襲撃されてその傷が元で死亡したそうだ。
「大村さんも随分と焦っていたようですね。出発前、慎重に事を進めるべきだと話していたのですが……」
史実通りとなってしまって残念だ。今の私の身分ではできることが限られてしまう。忠告をしたところで本人の性格は変えられない。こうなってしまうのは仕方がないといえば仕方がないが、やり切れなさは拭えなかった。
「大村さんが殺されたのは痛い。おかげで軍制はすっかり停滞してしまっている」
大村の後任として前原一誠を据えたが、彼は農兵論を忌避していた。また、兵部省が小官庁であるためか出勤することすら稀であるという。そこで木戸は私に白羽の矢を立てた。大村と並んで長州藩の軍制を回していた私ならば、後任として改革を実現してくれるだろう、と。
「それに大久保殿との関係も良好だからな」
上手くやれということだろう。
「わかりました」
前原とは功山寺や小倉、北陸で共に戦った仲ではあるものの、理想の邪魔をするというなら容赦はしない。史実では彼に配慮して一度は拒んだものの、今世では追い落とす形で兵部大輔へと就任。軍制改革を担うことになった。
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