洋行
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慶応四年(1868年)十月二十三日。未だ蝦夷地(北海道)で旧幕府勢力の抵抗は続くが、本州四国九州は新政府の支配下に入った。これにより日本は統一をされたとし、人心を一新するため天皇より改元が発せられた。
新たな元号は明治。「聖人南面して天下を聴き、明に嚮ひて治む」という『易経』の一節が典拠となっている。同時に一世一元も詔され、天皇ひとりにつき元号ひとつという現代まで続く制度が生まれた。
私はこのニュースを帰国する途上で耳にし、いよいよ明治の幕開けかと密かに感動する。己が何を為せるのか。やりたいことがあるならば前に出て堂々と述べる。高杉の教えは今も心に刻まれていた。
「留学?」
「はい。西洋を実際に見てみたいと思いまして」
私は木戸に海外留学を願い出る。この時代、手っ取り早く出世するには海外留学しておくといい。留学経験があるというだけで大きなアドバンテージとなる。本で読んだり、他人に教えてもらうのも悪くはないが、実際に西洋を見聞した方がいいに決まっていた。百聞は一見にしかず、というし。
「ふむ。山縣さんには軍務官になってもらおうと思っていたのですが……」
大村は軍務官の判事だったが、副知事に昇進したそうだ。後任の判事として私を考えていたらしい。ありがたい話だが、やはりこの機会に海外を見て勉強したいと思った。
「わかりました。こちらでも手配しておきましょう」
「ありがとうございます」
それから木戸にはお節介だと思いつつ、新政府の運営に対してアドバイスした。それが旧幕臣の登用である。
「前線にある身でしたが、宿駅の運用には随分と苦労させられました」
戊辰戦争では新政府も旧幕府も、補給を江戸幕府が整備した街道とそれに伴う物流システムに依存していた。宿場から次の宿場まで、そこの人馬を使い物資を運ぶのである。なので敵がどこを通っているかはある程度だが筒抜けだった。なにせ、何千何万という軍隊が通るのだ。宿場だけの人馬では足りず、周辺に助郷を求めなければならない。人馬の準備などもあるため、各軍は事前に通行を通知する。だから今度、どこそこの軍が通るらしい……と噂が立つのだ。字面だと笑い話だが、それが現実なのである。
そしてこの宿駅制度、江戸幕府が滅んで一応は全国政権となった新政府が引き継いだ。しかし官庁の改編が多く地に足がつかず、また現場の実情を知らずに机上の空論で制度改正を行うなど実務能力は乏しかった。
まあ、冷静に考えればこれも致し方ない。なにせ、新政府の構成員はその多くが下級武士。現代風にいえば市役所のヒラ公務員だ。それがいきなり国の部長や局長を任せられたようなもので、上手く政治が回るはずもない。
ではどうするのか。外に欧米列強の脅威がある以上、悠長にその成長を待つなんてことはできない。であるならば、職務経験のある人材を呼び込む。これしかない。そしてそんな人材を抱えているのは旧幕府しかなかった。
「なるほど。考えておきます」
木戸の返答はこうである。受け入れられたのかはわからない。もっとも、史実では渋沢栄一をはじめとして旧幕臣が登用されている。無駄になることはないだろう。
その他にも帰郷の途上、西郷ら友人知人と予定を合わせ話をした。西郷など戦争が終わったら故郷に帰ると言っている。だが、彼には中央で活躍してもらわないと困るのだ。そう言ったらしっかりしろと怒られたが。
そうこうしているうちに月日は過ぎ、十一月月末に帰郷を果たす。未だ箱館で戦争が行われているなか申し訳ないが、凱旋ということで海や祖母といった家族や知人が出迎えてくれた。大歓声であり、海に抱えられた水無子は驚いて泣いている。道中、愛娘をあやしながら家にたどり着く。
「無事のお戻り、嬉しく思います」
家に入ると海がそんな言葉をかけてくれた。人々の前では「戦勝」を祝ってくれたので、ここでは私的な思いを表に出したのだろう。私は旅装を解いて身なりを整えると彼女を抱きしめた。
「えっ?」
驚いた様子であったが、すぐに身を委ねてくれる。だが、しばらくすると頻りに鼻を動かす。くんくん……と匂いを嗅がれていた。
「……女の匂いはしないわね」
「どんな匂いだよ」
化粧の匂いとかだろうか。いや、旅で汗なんかに紛れて消えているだろう。薄汚れていたので水とはいえ洗い流しているし。女性は男より匂いに敏感だとされるが、犬じゃあるまいに微かにあったとしても気づかないだろう。
断っておくが誓って女遊びなどしていない。だって海が怖いから。恐怖心からだけではなくて、彼女を愛しているから他の人とそういう関係にはなりようがない。……まあ男だからね、あの子可愛いなとか思うことはある。けどそれはある種の本能であるから見逃してほしい(自己正当化)。
「大丈夫そうね」
じっとこちらを見ていた海だったが、動じない態度を見て浮気をしていないと判断したようでそれ以上、追及されることはなかった。だが、彼女の愛情深いが嫉妬深いという性格を知っている。
「急いで帰ってきたんだ。私も寂しかったんだぞ」
こうして抱きしめて愛を伝えるのだ。毎回、好きとか愛してるだと事務的で薄っぺらいので色々と表現を変えて。言葉にしないと伝わらないし、行動だけだと不安になる。こういうのははっきりさせなければ。
話すために少し離れた互いの距離を、腕に力を込めてゼロに戻す。冬に差しかかり厚手の着物だったが、彼女の温もりと柔らかさが心地いい。抱き心地のよさを味わいつつもちゃんとサービス。耳許に口を寄せ、努めて優しい声でようやく会えた。寂しかったんだぞ、と囁く。本心なのだが、くっそ恥ずかしい。でも海が喜ぶからやる。
「旦那様ぁ」
なんか目にハートマーク浮かべてそう。海の瞳や表情、そして声が蕩けている。このまま事に及びそうな雰囲気だったが、まだまだ日は高い。いくら風紀の緩い時代とはいえ変な噂が立つと面倒だ。落ち着くまでハグで拘束する。
海がようやく落ち着いたところで留守の間どんなことがあったのか――特に水無子の様子はどうだったのかを中心に聞く。熱を出すことはあったそうだが、他は特に問題ないそうだ。
水無子は人見知りをする一方で好奇心旺盛らしく、あちこち目をやってはあれに触りたいと意思表示して激しくぐずるらしい。まったく誰に似たんだか、というのは海の言葉。江戸時代の暮らしは珍しく、あれこれ興味を示す。だから私は周りから好奇心旺盛だと思われていた。
「お互い様だろ」
だが、私に言わせれば海も大概である。彼女も割と新しいもの好きで、今は汽船に興味を示していた。物流に携わる家に生まれた彼女らしい着眼点だ。普通は蒸気で動く何それ? とわからないものに恐怖を抱くが、彼女は違う。原理を脇に置いてどう使えるのかを考えていた。その勇気は知らないものに触れてみよう、という娘にしっかり受け継がれていた。
そんな感じで水無子のことを中心に夫婦で語り合う。久しぶりの会話は互いに話したいことが多く盛り上がり、あっという間に夜を迎えた。すやすやと眠る水無子を夫婦で見守る。しばらく静かな時間が流れていたが、私はそれを破って海に伝えた。
「これからというときに悪いのだが、洋行しようと思う」
「……そう。いいんじゃない?」
拍子抜けするほどあっさりと許された。留学は私が言い出したことではあるのだが、彼女を前にして寂しさと罪悪感に苛まれていたのだ。離れたくない。子育てもあるのにひとり洋行していいのだろうか? だが、海はカラカラと笑って許してくれた。
「そんなこと気にしてたら武家の嫁なんて務まらないわよ」
武士がお役目として数ヶ月単位で家を空けるなんてことはザラである。海もそのつもりで嫁いできたという。たしかに海外というのは心配だが、しばらく顔を合わせないというのは変わらないという考えらしい。
「だから無事に帰ってきて」
「わかった」
仕事に理解のある嫁さんでよかったと思っていると、海が不意に顔を近づけてきた。互いの吐息がかかる距離で、彼女の整った顔立ちが視界いっぱいに広がる。
「そ、れ、と。浮気はしないでね」
「肝に銘じます」
浮気したら殺されてしまう。絶対に浮気はしない。常々思っていることだが、この機会に改めて。
帰郷する過程で木戸たちと面会し、有力者には私の洋行を認めてもらえるように陳情した。まあ認可されるだろう。現代を知る私はその先を知っているのだが、この時代で最も進んだ文明を肌で感じたい。単なる知的好奇心だ。
そして予想通り、新政府から洋行が許可された。名目は欧米列強の軍制調査。これから新政府は殖産興業、富国強兵をスローガンに邁進していくことになる。この時点でスローガンは出来上がっていないが、維新を主導した人々は何をしていくべきかという認識は共通していた。それをひと言で表すならば国力増強である。
国力とは何なのか。それを測る物差しは様々あるが、帝国主義全盛の時代において最重要なのは軍事力。そして軍事力を裏打ちする工業力と経済力だ。しかし、新政府においてその姿は何ら決まっていない。だから実地で見学してこいというわけである。
色々と準備をして出立の日。
「身体には気をつけて」
「ああ」
海は子育てもあるのでもちろん居残り。新婚旅行代わりに連れて行ってやりたいが、こればかりは仕方がない。彼女の胸に抱かれた水無子にも行ってくるぞ〜、と声をかける。何を言っているかわからないからきょとんとしていたが。
「お婆様、舅殿(赤右衛門)も行って参ります」
「はい。異国をしっかり見聞してくるのですよ」
祖母は遣唐使に行くみたいな認識でいるらしい。まあ、やってることは大差ないから訂正はしないでおいた。
そして義父である赤右衛門。彼と海にはひとつだけ頼み事をしていた。それは諸隊の隊士たちが困窮するようなことがあれば助けてあげてほしい、というものだ。
長州藩は長州征討とそれに続く戊辰戦争に備えて身代ギリギリまで軍備を増強していた。藩の実情は軍務を担ってきた私がよく承知している。今後は当然これを縮小していくことになるだろう。これまでの藩の姿勢から、最初に犠牲となるのは庶民出身者で構成される諸隊だ。何のセーフティーネットも用意されずクビ宣告されるだろう。共に戦った戦友であるからどうにかして助けてやりたい。そこで商人である赤右衛門と海に彼らを世話してもらう。荷運びでも何でも使ってほしい。隊士たちにも何かあれば私の妻を頼れと言伝してあった。
「例の件はお任せください」
「よろしく頼みます」
赤右衛門も私の部下ということで、多少性格に難があっても統率できるだろうと踏んだらしい。話を聞いて快諾してくれた。
「――それでは行ってくる」
かくて私は遠くヨーロッパへ向けて旅立った。当然、飛行機なんてものはないので移動手段は船のみ。横浜へ移動しそこから船で渡欧する。孤独で気ままなひとり旅というわけではない。通訳の他にも同行者がひとり。
「兄上からお噂はかねがね聞いています」
と挨拶してきたのは西郷従道。西郷隆盛の実弟である。通称の信吾と呼ぶよう言われた。彼も私と同様に軍制調査の任務を帯びて渡欧する。
マジかぁ……。この時代のヨーロッパ――まだエッフェル塔も建っていない――が見られると思いワクワクしていたのだが、信吾の存在はテンションを下げてしまう。別に彼のことが嫌いなわけではない。私の引け目だ。
「先の戦では申し訳ないことをした」
何の謝罪かといえば、彼の兄のことだ。西郷吉二郎は私も携わった越後の戦いで戦死していた。兄の西郷隆盛に会ったときも謝罪しており、これで二度目となる。
「そのことは兄から聞きましたが、気に病まないでください」
戦で人が死ぬのは当たり前。それがたまたま親族だっただけのこと、と信吾は言う。西郷にも言われたことだった。指揮したわけでもないから私には何の落ち度もない。謝罪などしないで、素直に弔意を示してくれればそれでいい、と。
さらに、
「そう何度も謝られると、兄上も浮かばれません」
と言われてしまった。吉二郎の戦死は本人が頑張った結果。それを自分が指揮していれば救えたなんていうのは傲慢であり、兄への冒涜である。そんな意識はまったくなかったが考えてみればそうだ。西郷の親族がいると知れば何かと理由をつけて前線には出さなかっただろう。本人は生存できたかもしれないが、特別扱いで生き残ったというのは戦士として恥だ。
「思い違いをしていた。お恥ずかしい……。悪かった、西郷殿」
「いえいえ。それから『西郷殿』だと兄と紛らわしいので、私のことは信吾でいいですよ。歳も下ですから」
これから一緒に欧米を旅するのだから堅苦しいのは止めよう、と提案してくれた。
「わかった。これからよろしく頼む、信吾殿。私のことも小助でいい」
「はい。こちらこそよろしくお願いします、小助殿」
信吾とはかなり打ち解けることができた。馬が合うのかもしれない。洋行も楽しくなりそうだ。
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