東北鎮定
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長岡での戦いで旧幕府軍を追い払った新政府軍は越後国内の掃討にかかる。諸藩を降伏させて制圧したのは七月のことだった。
それと前後するように奥州街道筋で新たな戦いが始まる。場所は東北の玄関口といえる白河。ここを巡る攻防戦だ。
江戸無血開城を受け、白河も新政府が掌握していた。東北の諸藩も当初は新政府に従う姿勢を見せており、白河も引き渡される。ところが新政府が会津藩に断固とした処罰をするという方針を掲げると、同情的な東北諸藩は離反。奥羽越列藩同盟を結成して会津藩への寛大な処分を求めるが通らず、新政府軍と同盟軍は戦闘に突入した。
白河はその緒戦で同盟軍に奪われるが、新政府軍が即座に奪還。東北への玄関口ゆえに同盟軍は白河を押さえることに躍起になり、都合七度の総攻撃を行うがいずれも撃退された。
同盟軍が白河攻略に取りかかっている間に新政府軍は戦力を集結させ北上を開始。棚倉を攻略すると平潟へ上陸して磐城の攻略にあたっていた友軍の到着を待って進撃する。
二方向から挟撃されることになった三春藩は動揺。元より勤王の思想が強かったこと、新政府の庇護を得て同盟諸藩に対抗できることから降伏した。おかげで七月には二本松城を攻略に成功する。このとき白河攻略にあたっていた同盟軍の主力は郡山にあり、これを半ば孤立させた。壊滅を恐れた同盟軍は撤退。これで会津への道が啓けた。
順調に進撃していたが、ここで方針を巡る対立が起きる。会津方面の指揮を執る板垣退助(土佐)は会津への進撃を主張したのに対して、江戸にいる大村益次郎(西郷の後任)は同盟軍の有力藩である米沢、仙台藩を攻略すべきと提言したのだ。両者とも譲らなかったため、百村という長州藩士が間に入って「主な朝敵は会津である」と説得。板垣の会津進撃論が採用された。
当然、同盟軍も会津周辺を固めていた。彼らは日光、白河、二本松方面より新政府軍が来襲すると考えそちらを重点的に防御していたのだが、それを見越した板垣は郡山方面からの侵入を企図する。その結果、進撃路には母成峠が選ばれた。
八月下旬に峠を攻撃。新政府軍の動きを察知した大鳥圭介率いる伝習隊(旧幕府軍)なども加勢。結果的に新政府軍が二千余り、同盟軍が八百となった。
要衝である母成峠をめぐって激戦となるが、兵力が劣勢であり会津藩は藩財政の逼迫により装備の更新が遅れており戦力は兵力の割に少なく見積もれる。また軍の士気も低く、先の二本松での戦いで最初に崩れたのも会津兵であった。
これらの戦訓から新政府軍は会津藩兵をターゲットにする。矢面に立つ旧幕府軍を攻め立てつつ、地元民の協力を得て間道から部隊を浸透させ会津兵の側面を突いた。これにより会津兵が瓦解。旧幕府軍は粘りを見せるが、兵数のみならず装備の量で上回る新政府軍には敵わず敗走した。
これにより母成峠を一日足らずの戦闘で確保した新政府軍。最大の焦点に八百足らずということはこの方面の防備が薄いと判断し、一気に会津若松城下まで進撃することとした。
この判断は正しく、途中で藩主の松平容保率いる本隊も撃破。快進撃により戦線は一気に敵の本拠地・会津城下まで押し上げられる。当然、本丸を守るために国境を固めていた兵は撤退。おかげで会津への進撃を命じられた私の北陸軍は敵と遭遇することなく楽に会津若松城下まで進軍することができた。
「板垣です」
「山縣です」
「黒田です」
「伊地知です」
総督はそれぞれ別にいるが、実務を担うのは我々のような参謀だ。事実上の司令官である。なにせ総督は公家。戦争のやり方なぞ知らない。まだ甲冑と弓矢、火縄銃の戦いくらいなら物語から想像もできるだろうが、欧米の銃砲を使った戦いなど対応できるはずもなかった。
とはいえ、私たちにとって公家の総督はありがたい神輿でもある。新政府軍といえば聞こえはいいが、実態は朝廷に味方する諸藩の連合軍にすぎない。意思統一は困難を極める。当初、北陸軍で薩長の兵士が険悪だったのがいい例だ。仲が悪いとどうなるか? 答えは単純で統制がとれない。それぞれが勝手に動きかねないのだ。にもかかわらずまとまっているのは朝廷のご威光というやつである。天皇に仕える公家を旗頭にまとまっており、裏であれこれ動き回る黒子的な役割を我々が担う。そうして新政府軍は上手くやっているのである。
さて、会見した参謀のうち私と板垣はまったく面識がない。逆に黒田と伊地知は同じ薩摩人ということで旧友に再会したような感じだ。同格の同郷人ということで黒田たちも興奮しているのか薩摩弁全開。何を言っているのかわからない。その横で私と板垣が話を淡々と詰めていく。
二人を放置していいのかと思うかもしれないが、軍の主導権を握っているのが私と板垣であるから問題ない。それに彼らも大人だ。訊いたことにはちゃんと答える。
話はとんとん拍子に進んだが、ある一点で私たちは対立した。すなわち速戦か持久戦か。前者を板垣が、後者を私が推す。
「強硬策にて速やかに城を落とし、一日でも早く日本を平定しなければなりません!」
「それはもっともだが、無理攻めは犠牲も多い。ここは砲撃などで締め上げ、開城に持っていくべきだ」
私が持久戦を主張するのには理由がある。東北では会津の他にも戦闘が展開されていた。仙台藩に追い出された九条総督ら奥羽鎮撫軍と奥羽越列藩同盟軍との戦いだ。それが会津にも影響してくる。
奥羽越列藩同盟の結成と対新政府の軍事同盟という性格の変化により九条総督は東北諸藩に協力を断られた。そのため流浪し、流れついたのが東北では珍しい新政府派である久保田(秋田)藩であった。平田篤胤、佐藤信淵といった国学者の出身地である同藩は九条総督らを保護。新政府側に立ってこの戊辰戦争に参戦した。
これを同盟軍が座視するはずもなく、周辺諸藩がその討伐に乗り出す。一連の戦いは秋田戦争と総称されるが、他方面とは違い新政府軍が防衛側に回る戦いとなった。新政府は西国諸藩が主力であり、その勢力を順次東へ拡大しているとはいえ東北は半ば孤立した存在ゆえに仕方がない。
それでも海路から西国諸藩が援軍に駆けつけており、時を経るごとにその勢力は増していた。一時は久保田城まで十キロほどの距離にまで近づかれるも、増援を得て同盟軍の猛攻を耐え切る。
奥羽鎮撫軍の戦力が強化されたことは東北におけるパワーバランスを大きく変化させた。奥羽越列藩同盟は南北に有力な新政府軍を抱え仙台、米沢、盛岡、庄内藩など同盟軍の中核藩が挟撃される格好になる。軍事的解決も図れないことはこれまでの戦訓からも判明しており、旧幕府側の軍事的プレゼンスによって新政府に会津、庄内藩の寛大な処分を求めるという同盟の趣旨が果たせなくなった。ゆえに同盟は瓦解し、八月末から東北諸藩は新政府に降伏する。
――そんな歴史を知るからこそ、強攻策で徒に犠牲者を出すことはないというのが私の考えだ。適当に砲撃してプレッシャーを与えればいいのである。
以上のような考えを史実の流れは予想と断った上で述べた。
「それに板垣殿の進撃が速く、敵も籠城の準備は整っていない様子。時は我らに利します」
籠城の準備が出来ていないというのは確かだろう。これは歴史を知るからではなく、実感として感じていた。我々が会津城下に入ったとき、そこで起きた様々な悲劇を知った。代表が家老・西郷頼母邸で母子らが足手纏いにならないよう自害していたことである。藩主が防衛のため出陣したが、母成峠の失陥を知ると慌てて引き返した。それからたった数日で包囲戦に移行している。当初、籠城するつもりはなかったわけで準備などできているはずがないのだ。
「――なるほど。確かに山縣殿の仰る通りであろう」
「であれば、」
「それでも我らはやる」
と譲らなかった。
「しかし、それでは無駄に犠牲が――」
「ならば結構。こちらでやりますから手出しは無用です」
板垣はそう言い放つ。……うーん、なんだろう。合わない。そのひと言に尽きる。間違ってはいないし、まっすぐなその姿勢はいいと思う。だが、単純にウマが合わない。もちろん大人の対応はするが、板垣とは仲よくできそうにはなかった。
「砲撃支援はしますよ」
さすがに何もしないわけにはいかないため、砲撃支援だけはやることにする。新政府軍はしばらく休息をとるとすぐさま攻撃を始めた。
会津城はかつて黒川城と呼ばれ蘆名氏の居城であった。秀吉の時代に蒲生氏郷が、江戸時代に加藤嘉明が領主となって改修が加えられる。両名とも築城の名手であり、その縄張りは今に残っていた。
構造としては本丸の東に二ノ丸と三ノ丸と続き、本丸の北と西には出丸を築いて防備を固めている。その多くが防衛能力に優れた枡形門であり、かなりの堅城であった。私が持久戦にしようと言ったのもそんな構造ゆえなのだが、そこへ真正面から突撃していった板垣は勇者だと思う。
ただ、攻撃が成功しているかといわれると否である。支援砲撃の下、土佐藩を主力とした新政府軍が突撃していく。勇者たちを出迎えたのは銃弾の嵐。藩財政が逼迫しているとはいえ、その辺の藩より会津藩は大身である。西洋の新式銃は調達しているし、本拠地での籠城戦でそれを出し惜しみするはずもない。これまで会津藩を破ってきた新政府軍にとって、この強力な抵抗は想定外であった。
私が所属する北陸軍は砲兵のみが攻撃に参加。他は遊ばせておくわけにはいかないので、会津城周辺地域の治安維持や残敵掃討をさせていた。意外だったのは住民が協力的であったことだ。普通は侵略者に抵抗しそうなものだが、経済的な衰退と京都所司代としての負担に耐えるために苛政を敷き不満を買っていたらしい。
自軍の任務は順調そのもの。だが面倒なことがあった。総督――私の上司である西園寺公望である。
「私も前へ出るぞ!」
鉄砲を持って刀を差しやる気満々。
「いけませんよ! 上にいる者は後ろで堂々とですね――」
その暴走を止めるのは私の仕事だ。参謀の片割れである黒田はいない。庄内藩の討伐に向かう新たな部隊に引き抜かれたためである。西郷率いるこの部隊は北陸軍が会津に転用されたため編成された。この人事があり、北陸軍に残っている参謀は私ひとり。ゆえに負担が重くのしかかっていた。
さすがに負担が大きいと訴えたのだが、上司の大村には十分だと言われてしまった。なるほど人材不足ではあるがあんまりといえばあんまり。……この戦争が終わったら少し休もう。そんな決意を固めつつ板垣の攻城戦を見守る。
初日の攻撃は言い訳の余地なく大失敗。土佐藩を中心に少なくない損害を受けた。しかし、板垣は損害に臆することなく攻撃を続ける。砲撃は毎日のように、歩兵突撃も数日おきに行う。その度に兵士は無論、隊長以下の幹部クラスにまで死傷者が続出。野戦病院は重軽傷者で溢れた。
「敵の疲弊を狙うのは結構ですが、もう少し軍を休ませては?」
攻撃の頻度を下げようと提案するのだが、板垣は受け入れない。
「いえ、まだまだいけます」
余裕はある、と変わらず攻撃を命じる。意図は理解できるが、突撃させられる兵士にとっては堪ったものではない。数奇な運命を辿らなければ、私も突撃させられる側だ。そう考えると背筋が寒くなる。
ただ、まったく効果がないわけではない。連日の砲撃で美しかった城は一部、崩れてしまっている。城は地域のシンボル。心理的なダメージは少なくないはずだ。そして何より、攻撃を受ければ応戦しなければならない。城内に備蓄された物資は減っている。知られているように、会津側も撃ち込まれた砲弾などを加工して銃弾を補充こそしていたが、圧倒的に消費する量が多い。物資が目減りする状況に変わりはなかった。
そしてより直接的なのが心理的ダメージだ。攻撃されて損害が出ないわけもなく、城内には死傷者が溢れる。家族や友人、知人が痛みに呻いていたり、ましてや物言わぬ骸と化している様を見続けるのは辛い。見知らぬ他人がそうなる様を見る私でも辛いのだ。城内におけるダメージはそれ以上だろう。
会津藩の戦意を削ぐ要素はそれだけではない。籠城というのは攻囲する軍の補給が保たずに撤兵すること、または外部からの助けがあることを期待して行われる。だが、今は幕末。江戸幕府が宿駅制度(いわば物流システム)を整備してくれたおかげで補給は滞ることなく行われ、西国を中心とした諸藩の軍は東北に続々と出兵。同地における軍事的プレゼンスを拡大している。それゆえ米沢藩を皮切りに仙台藩など有力な諸藩は降伏し始めていた。
その様子を見た板垣は会津藩に対して降伏を勧告。私は降伏してくるよう、先に降伏した東北諸藩から状況を説明させる使者を呼んで交渉の場に同席させた。外部の状況を知った会津藩は孤立したことを悟り継戦を断念。藩主・容保の無事を保障する代わりに家老が詰腹を切り減転封することとなった。
新政府では厳罰を望む声もあったが、私と板垣が説得した。調べたら会津藩(と庄内藩)が預かる蝦夷地を引き換えにプロイセンから援助を受けるという約束が交わされていたそうだが、こんなことが明るみになればとても庇えない。しかし、藩主の命をとれば理由があっても家臣たちが黙っていないだろう。知識階級である武士をエリートだと根絶やしにするわけにもいかないし、そもそも松平家は親藩であるから家臣の多くは徳川恩顧。他藩の同族が反発する。ならば寛大な処置で新政府の度量を示した方が得策だ。そう考えた私はプロイセンとの密約の証拠を隠した。処分するのは惜しいので百年後くらいに見つかるようにしよう。
ともあれ、予想されていたような厳罰が下らなかったことで会津の人々からの受けはよかった。武士からは敗者として当然の処分だからと、領民からは転封されるということで苛政を敷く為政者ともおさらばだと大歓迎。私の狙いは成功したのだ。
そして数日後には庄内藩も降伏。これにて東北地方も平定された。庄内藩の降伏にあたっては桑名藩より加わった将兵も行動を共にしている。越後で戦った立見鑑三郎もここに含まれていた。
これにて一会桑の打倒は成功したが、桑名藩主・松平定敬だけは箱館へ逃走している。江戸を脱出した榎本武揚らと合流し北海道で抵抗、独立の動きを見せた。当然、看過するわけにはいかず新政府は討伐軍を送り込んでいる。だが、私はここには加わらなかった。一旦、故郷で落ち着きたかったのだ。
幸い、新政府から私の申し出は許可される。ならばありがたく休ませてもらおう。ひと仕事終えた満足感を抱きつつ、私は帰郷するのであった。
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