表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
山縣有朋は愛されたい  作者: 親交の日
長州騒乱
3/87

安政の大獄




本日から三日間、5:00、13:00、21:00に連続投稿する予定です。ぜひご覧ください!










 ――――――




 近年、幕府では将軍の後継者問題をめぐって対立が起きていた。現在の将軍・徳川家定は病弱であり、継嗣は誕生しないだろうと見込まれている。そこで、次の将軍を誰にするかという話になったのだ。


 後継者と目されたのは二人。ひとりは一橋家の一橋慶喜。もうひとりは紀州藩主・徳川慶福である。前者は聡明といわれた評判、後者は今の将軍に近い血筋(慶福は従弟である一方、慶喜は徳川家康にまで遡らなければならない)を推されてのことだった。幕臣は二つの派閥に分かれて対立。前者の立場に立つ者を一橋派、後者を南紀派と呼んだ。


 当初、幕政は一橋派が優位に立って運営されていた。彼らは支持母体(多くは幕政参画を目論む外様大名である)の存在もあり、雄藩協調による幕政の円滑な運営を目論む。しかしそれは幕府権威の低下を憂う者たちを刺激し、主に譜代大名層を中心として南紀派へ結集させることとなった。


 一橋派と協調してきた阿部正弘(老中首座)の後任である堀田正睦も前任者の政治路線を継承する。ところが、程なくして一橋派は失脚してしまう。直接の理由は、修好通商条約の締結をアメリカに求められたものの、攘夷論者である孝明天皇の勅許を得ることができなかったことだ。無勅許による強行突破を図るが、状況を変えることはできなかった。


 代わって幕政の主導権を握ったのは南紀派の大老・井伊直弼である。彼は就任直後、将軍後継者を慶福にすることに決定。また、アメリカ総領事ハリスから要求されていた修好通商条約へ勅許を得ないまま調印する(直弼は反対の立場をとったが現場の人間が暴走して調印してしまい、幕閣のほとんども無勅許調印やむなしという態度をとった)。


 この強権的な行為に一橋派は黙っていない。元々、将軍の後継者については天皇から次期将軍には「英明・年長」の人材が相応しい、との勅書が出されていた。これは一橋派が京都で朝廷工作を行った結果である。さらに無勅許での条約調印もけしからん、と猛抗議を始めた。


 一橋派の旗頭的存在である徳川斉昭は水戸藩主の嫡男(慶篤)を彦根藩邸にいる直弼の許へ派遣して詰問させる。直弼が彼をあしらって登城すると、斉昭親子と尾張藩主・徳川慶勝は幕閣に物申すべく江戸城へ詰めかけた。


 だが、このような一橋派の行動は大きな矛盾を孕んでいた。というのも、条約の締結を主導したのは主に一橋派であったからだ。いざ結ばれればそのプロセスを問題視するのである。


 当然、直弼はそこを突いた。将軍は「不時登城(定められた日以外に江戸城へ登ること)を冒し、御政道を見出した罪は重い」とお考えである、という理由で斉昭らを処分してしまう。これにより、一橋派を幕政から駆逐することに成功した。


 ここからいくつかの偶然もあり、一橋派は一時衰微する。その第一は薩摩藩主・島津斉彬の急死である。斉彬は直弼の対応に怒り、兵を率いて上洛。天皇に無勅許での条約締結を糾弾してもらって一橋派を復権をさせようとしたが、計画を実行する前に急死してしまった。藩の実権は父の斉興が掌握。幕府に従う方針に転換して運動から脱落する。


 第二は朝廷勢力への打撃だ。藩主レベルは処分、脱落してしまったが、藩士レベルでは活動が続けられる。それが実って天皇から水戸、長州藩に対して勅諚が下された。内容としては、


 勅許を得ずに条約締結を行なったことへの抗議と説明の要求


 幕藩の協力と公武合体の推進、ならびに攘夷へ向けた幕政改革の要求


 である。これは水戸藩より諸藩に伝達せよという内容も盛り込まれていた。後に「戊午の密勅」と伝わる勅諚である(意思決定に際し関白を省いたために「密勅」といわれるが、形式的には通常の手続きがとられていた)。


 しかし、幕府に近い関白・九条尚忠から幕府へも通報があったため、伝達は幕命により差し止められてしまった。この対応により、勅諚の存在を知ったのは幕府の他、水戸藩より伝達された御三家と御三卿、公家から伝えられた一部の雄藩のみである。


 勅諚の拡散を防いだ幕府は京都で活動する尊王攘夷派の志士に対する処罰を始める。京都所司代・酒井忠義、老中・間部詮勝が京都にてこの任務にあたった。そして、その陰で動いていたのが井伊直弼の寵臣・長野主膳である。


 この男、上州長野氏(戦国時代に活躍した長野業正で有名)を先祖に持つとしているが、あくまでも自称であり詳しい出自はわからない。各地を転々としながら学問を修め、部屋住み時代の井伊直弼に教授した。


 経緯がわからないものの摂関家の家柄である九条家に仕え、朝廷との繋がりを持つ。井伊直弼が兄が死去したために藩主となると、彼に召し抱えられ藩政改革に協力する。また、九条家に仕えていた縁から彦根藩(あるいは彼らが属した南紀派)の朝廷工作をも担う立場となった。主膳は南紀派が推す徳川慶福の将軍擁立にも関与。工作により家定の死後、一橋慶喜を抑えて彼の将軍宣下を勝ち取った。


 そんなとき、戊午の密勅事件が起きる。主膳はこれを察知できず、対応が後手に回ってしまった。失態を挽回するため、彼は反対派閥の摘発を直弼に進言した。


「この機会に御政道を正さねばなりません」


 将軍の家臣に過ぎない水戸藩(御三家といわれているが紀州、尾張藩と比べると家格は落ちる。二藩の極官は権大納言だが、水戸藩のそれは権中納言である)に対して、頭越しに勅諚が降ったのは水戸藩の陰謀である。今後、このようなことがないように水戸藩のみならず反対派閥である一橋派の力を削いで幕府権威を強化すべきだと主張。主膳を信任する直弼はこの進言を聞き入れ、先述のように酒井、間部に取り締まりを命じたのである。


 出し抜かれた主膳の怨念は相当なものだったようで、処罰させるだけに満足せず、現場で監督にあたった二人に対して様々な運動を行なった。


 一連の行動の首魁として尊王攘夷運動を行なっている梅田雲浜を挙げ、その捕縛を酒井忠義に進言する。酒井は雲浜がかつて自分の家臣であったことから消極的だったが、さもなくば佐幕派公家が朝廷内で失脚してしまうと脅し、捕縛に踏み切らせた。


 間部詮勝に対しても、水戸藩の京都留守居役を摘発するように進言。この結果、橋本左内、頼三樹三郎ら京都で活動していた尊王攘夷運動家を筆頭に幕臣、大名や公家の家臣に至るまで徹底的な処罰が行われるのだった。




 ――――――




 京都に滞在している最中、安政の大獄に遭遇した。講師をしていた梅田雲浜も捕えられている。梁川星巌は直前にコレラにかかり、語源のごとくコロリと逝ってしまった。これは幸運なのだろうか。


 そういう時勢柄、動き回ることも憚られた。どこか息苦しい生活を強いられていたが、九月の末に帰国の命令が下る。帰藩したのは十月のことであった。身の回りのあれこれを整理して松下村塾に通い始めたのだが、肝心の吉田松陰が早々に幽閉されてしまった。


「松陰先生が幽閉された!?」


 安政の大獄が起きたからにはこうなるだろうと思っていた。だから、幽閉されたと聞かされたとき、私は予想以上に平静だった。怪しまれないために驚いたようなリアクションをとったが。


「ああ。実は……」


 知らせに来てくれた松助が事情を話してくれる。


 松陰は無勅許での条約締結を聞いて激怒するに留まらず、テロ行為を計画した。それが間部要撃策である。安政の大獄を現場指揮すべく江戸からやってくる老中・間部詮勝を襲撃して攘夷の実行を迫り、拒否されれば殺すというものだ。しかも、藩に武器の供与まで願い出ていた。看過できなくなった藩は松陰を捕縛。野山獄に投獄したそうだ。


「塾に集まれる者は集まっている。小助くんも行こう」


「わかった」


 松助に促されて塾へ向かう。そこには塾生が大集合していた。ちょっとした騒ぎも起きている。


「松陰先生を解放してもらうんだ!」


 ある塾生が声を上げた。その名は入江九一。先の間部要撃策に賛成した人物だ。


「そうだ! 兄上の言う通り!」


 九一の呼びかけに応じたのは弟の和作だけだ。他はというと、


「今回の先生の策はさすがにやりすぎだ。捕らわれても仕方がない」


 今回の松陰は過激すぎたと批判的な態度をとっている。


「君たちはそれでいいのか!?」


 それに対して九一が詰め寄るが、言われた方も黙っていない。


「このままでいいというわけではない! 気の毒だが、少し頭を冷やしてもらおうと言っているだけだ」


 と、即座に言い返した。そのまま言い争いが始まり、周りも巻き込んでの大喧嘩となる。


「こんな調子です」


 松助が呆れを隠さない様子で言う。ちなみに彼も松蔭の計画に参加していた。反対であるが、松蔭の決めたことだからと盲目に従っている。信念がないわけでなく、松陰こそ激動の時代を生き抜くカリスマだと信じているのだ。


「……新参の私に出る幕はなさそうですね」


 松陰という核がなくなり烏合の衆と化した塾生を冷めた目で見てしまう。色々なことを知っているため、彼らのように松陰に傾倒することができない。どこか他人事なのもそのせいだ。


 彼らも馬鹿ではないので一時的な混乱であるが、何とも醜い。私は京都遊学で親しくなった塾生と交流し、頃合いを見て退散した。


 塾生の多くは松陰が獄中で頭を冷やすことを期待していたが、現実はそうならなかった。今回は身内から批判されたためか、頭に血が上ったらしい。藩に危険視されていたにもかかわらず、さらに別の計画を獄中で立案した。


 それが伏見要駕策である。参勤交代の途上にいる藩主・毛利慶親を擁して京都に籠らんとするものである。また、最大の障害は幕府だと言うに及び、倒幕を仄めかし始めた。


 これを知った久坂玄瑞、高杉晋作らは猛反対。未遂に終わったが、入江兄弟は賛成して実行への具体的な計画を練っていた。これは藩の察知するところとなり、岩倉獄へと兄弟揃って投獄されてしまう。


 松陰は計画が立て続けに頓挫し、門弟たちの賛同も得られなかった。彼らには失望したと草莽崛起論を唱え始める。そんな彼を塾生の多くは憂いていたが、現実は少し厳しかった。


 過激な計画は人々に伝わり、そんな人物に教えを受けていた塾生はヤバい奴らなのではないか? という疑念が生まれたのだ。塾の四天王のひとり、吉田稔麿は親族を守るため隠棲したほどである。


 私は入塾して日が浅かったため特に何も言われなかった。ならばと私は職場の上司を介して藩の上層部にアポをとり面会。


「彼らの多くは企てを知っても反対いたしました。どうかご容赦を」


 と陳情した。在籍期間の短い私はまだ染まってないと思われたのか、山縣が言うならば……と計画に加担していない塾生については処罰しないという方針になった。


 これで安心と思っていたのだが、残念ながらそうはいかない。翌年、松陰の身柄が江戸へ移されることになった。理由は、伏見要駕策の立案に際して梅田雲浜門下生の入れ知恵を受けていたことが発覚。雲浜との関係を取り調べる必要が生まれたためだ。


 松陰は江戸へ送られることがわかると、己の全ての計画が幕府側の感知するところとなったと思い込んでしまう。その誤解により、幕府側が把握していなかった間部要撃策まで自白する。これによって松陰には死刑が宣告され、十月に執行された。


 その後、長州藩においては直目付・長井時庸(雅楽)の公武合体、開国論が藩主に容れられる。安政の大獄を主導した井伊直弼は桜田門外の変によって死亡しており、代わって幕政を担った安藤信正、久世広周らと協調して藩政が運営された。藩論となった長井の主張は、開国して通商を行って国力を高めつつ攘夷の機会を窺うというもので、尊王攘夷派とは相容れない。主導権を失ったため、しばらく大人しくしている他ないのであった。










「面白かった」


「続きが気になる」


と思ったら、ブックマークをお願いします。


また、下の☆☆☆☆☆から、作品への評価もお願いいたします。面白ければ☆5つ、面白くなければ☆1つ。正直な感想で構いません。


何卒よろしくお願いいたします。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ