レクリエーション
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上京した私は一度、江戸へ向かうよう命じられた。同地に滞在していた西郷と再開し、彼が体験した生の情報を聞く。オーラルヒストリーとして後世に残すためだ。こうして自身の知的好奇心を満たしつつ、東国の情勢を聞き取る。
「東国は不穏なようで」
「ええ。江戸にも陸奥(東北)にも困ったものです」
西郷は嘆息した。もっとも東北の一部は自業自得な気もする。
薩摩藩は旧幕府を挑発するため江戸で暴動を起こしていた。素浪人を雇って市中で強盗、殺人をやらせ取り締まりを受けたら薩摩藩邸に逃げ込むという形で守っていた。江戸の人々はこれを「薩摩御用盗」と呼び、難を避けるため夜の江戸市中から人が消えたという。
江戸市中での乱暴狼藉を幕府が見逃すはずもなく、すぐさま取り締まりが図られた。治安回復を託されたのは譜代のひとつである庄内藩。彼らは薩摩藩に下手人の引き渡しを要求するも拒否され、ならばと薩摩藩の江戸藩邸を焼き討ちするという強硬策に出る。
このような経緯があり、薩摩藩としては政敵である会桑(松平容保、定敬)に加えて庄内藩もターゲットにしていた。庄内藩は新政府の参戦要求を拒否、会津藩も武装解除を拒否するなど不服従の姿勢をとる。これはけしからん、と新政府は両藩の追討を決定。仙台藩に鎮撫総督府を置き新政府軍を派遣するとともに、東北の諸藩にも追討を命じた。
しかし、新政府軍は庄内藩に敗北。また北関東で宇都宮城が陥落したとの報が入り、新政府軍の実力に疑問符がつく。その疑念は会津、庄内藩への同情的な感情と結びつき、仙台藩をはじめとする東北諸藩の多くが両藩の赦免嘆願と受け入れられなかった場合、新政府に対して敵対することに決めた。無論、新政府が両藩を赦免するはずもない。要求が通らなかった東北諸藩は新政府への敵対行動を始めた。
このなかで新政府へ対抗するための同盟を結ぼうとする動きが生まれ、これが東日本で抵抗していた諸勢力も取り込んだ奥羽越列藩同盟に発展する(もっとも「新政府への対抗」という名目は武力なのか言論なのか解釈に違いがあり、それが原因で同盟は瓦解するのだが)。なお、ここに発端となった会津、庄内藩は入っていない。もちろんまったくの没交渉というわけではなく、対新政府という点で両者は協調していた。
東北諸藩は新政府の中核である薩摩、長州藩士を狙ったテロ――彼らを襲撃し殺害――を実行。また東北鎮撫総督の九条道孝ら公家を軟禁するに及んだ。
また、江戸でも旧幕府勢力である彰義隊が上野の寛永寺にあり、新政府軍の兵士をリンチして殺害する困った存在だった。ならば討伐しろという話だが、なかなかそうもいかない。江戸無血開城を実現した勝海舟が彼らを説得しようとしていたからだ。彰義隊を討伐すれば勝の面目は丸潰れ。ゆえに躊躇していた。……しかし、西郷の配慮は新政府から手ぬるいと批判され、大村が西郷に代わって討伐に乗り出し上野戦争となるのだがこれは別の話。
さて、しばらく江戸に滞在していたが今度は大坂に行けと言われる。命令なので従うが、飛行機も新幹線もないなかの移動は大変だ。宮仕えも大変だ、と心のなかで愚痴りながら上坂する。
「山縣さん。こちらで働きませんか?」
会って一番、勧誘された。木戸のところで働かないかという誘いだが、どう答えたものかと悩む。というのも、先に西郷から誘いを受けていたのだ。
「実は……」
かくかくしかじかと理由を説明。すると木戸もなるほど、と理解を示してくれた。
「たしかに、山縣さんは下関や小倉で活躍していますし、政より戦場の方がいいかもしれません」
軍事は任せた、みたいな言い方になっているがマジでやめてほしい。指揮をとったのは私だが、兵士たちや優秀な幹部たちが頑張っただけなのだ。私は未来知識を使って少し介在しただけにすぎない。過大評価である。
西郷、木戸から相次いで自分のところへ来いと望まれてしまったことで、私の考える以上に周りからの評価が高まってしまっていると感じた。こうなったら上手くやっていくしかない。
新政府に入った私は実績を考慮して軍に配属されることが決まった。任地は北陸。北陸道鎮撫総督で黒田清隆とともにその参謀(総督は公家の高倉永祜なので実質的な指揮官)となる。
北陸に派遣された長州軍は私が率いていた諸隊出身者で構成されていた。気心知れた仲間たちである。心強い。新政府軍の指揮官という立場に立って胃が痛くなりそうだが、それだけが慰めだった。
胃が痛いといえば、薩長の兵たちの仲の悪さもダメージを与えてくる。まあ、考えてみれば少し前まで「薩賊」とか言ってた相手と一緒に戦うのは変な感じではあるだろう。そして隔意を持っている相手を快く思えないのも理解できる。とはいえ、これから戦場で命を預けるわけだから少しは仲よくしてほしい。
「どうするべきだろう?」
「難しいですなぁ」
同僚の黒田と話し合う。だが、すぐに解決策は出てこない。はてさて、仲を深めるためにどうするべきか。前世の知識も踏まえて考える。そしてあることを思いついた。
進級や入学後に初めましてのクラスメイトと打ち解けるべく行われているもの――そう、レクリエーションだ。あれをやればいい。問題は何をするか。兵士たちにもわかる単純なルールとなると――
「試合開始!」
とコールすると同時に呼子(笛)を鳴らす。程なく兵士が鞠を蹴り始めた。彼らは何をしているのか。言わずもがな、サッカーである。手を使わず鞠を蹴りゴールに入れるというシンプルなルールだ。オフサイドのような複雑なルールはなしにしている。
「おい、そっち行ったぞ!」
「こっちだ!」
「門番! 来るぞ!」
元気なかけ声が響く。ちなみに門番というのはゴールキーパーのこと。英語でゴールと言っても伝わらないのでゴールを「門」、それを守るキーパーを「門番」と言っている。黒田などからは当然、どこでこんな遊びを知ったのかと聞かれたので横浜を通ったときに外国人がやってるのを見たと答えた。
駆け引きなどの要素はあるものの、素人がやる上でサッカーはシンプルだ。やる方は無論、見ている側もボールを蹴ってゴールに入れるというルールさえ知っていれば楽しむことができる。何よりワンサイドゲームでなければ攻守が目まぐるしく変わるのでとてもエキサイティングだ。その特性ゆえ、選手はもちろん観客となっていた兵士も盛り上がる。
試合はど素人同士のものなのでなかなかお目にかかれない乱打戦となった。スコアは低いもので5-3、あまりに差が開いたものだと33-4なんてものも。野球じゃないんだから。
それはさておき、サッカーによるレクリエーションの効果は如何ほどか。現代では試合後に選手やサポーター(観客)がエキサイトして険悪な雰囲気になることもあるが……
「なかなかやるじゃないか」
「そっちもな」
初心者ながら随所にいいプレーというものは出るし、単純だからこそわかりやすい。それを称えられないほど彼らの性根は曲がっていなかった。これで多少は蟠りも解けたらしい。前ほどいがみ合うということはなくなる。
後日、西郷が両者を調停すべくやって来た――あまりの仲の悪さに辟易してつい手紙に書いたのを心配して来てくれた――のだが、そのときには和解した後だった。逆によく仲よくなったな、と驚かれたのは別の話。
どうにか互いに反目しないようにすると、いよいよ北陸(越後)に割拠する旧幕府勢力との対決が始まる。最初は柏崎の松平定敬だ。桑名が本領であるが、柏崎に飛び地が存在したのである。桑名は既に新政府に降伏しており、ここへ流れ着いた。
最初は降伏しようとしていたが、新政府はそれを許さない。定敬はやむなく抗戦することとし、非戦派の家臣を粛清までして戦いに備えた。家柄や出自にこだわらず実力主義とされ、部隊長は投票によって選ばれる。長い平和の期間が過ぎ戦争をするにあたって考え出された方法だ。
越後――現代の新潟県――は東西に広い。ゆえに北陸のみならず関東方面からも兵を侵入させられる。そこで新政府では東山道からも部隊を侵攻させる共同作戦をとらせることにした。打ち合わせの結果、北陸軍本隊は海沿い、支隊が内陸を侵攻し東山道軍と合流しつつ進撃することに決まる。
「主攻はあくまでも内陸の支隊とし、我々は同地の敵を釘づけにするぞ」
というのが新政府軍の方針だ。会議では消極的だとの意見も出たが、これにはちゃんとした理由がある。それはこちらにいる敵将・立見鑑三郎の存在だ。後に立見尚文として名を馳せる彼はフランス人教官に「天性の軍人」、明治陸軍においても「東洋一の用兵家」と称され、旧幕府方ながら抜群の戦功により陸軍大将にまで上り詰める。そんな相手とまともにぶつかる必要はない。ゆえに我々は主力ながら足止めに徹する。
戦局はある意味、予想通りに進展した。こちらが立見らが守る鯨波を攻めあぐねる一方、脆弱と見られた内陸の三国峠は東山道軍が突破に成功。これにより柏崎の戦略的意義は低下し、旧幕府軍はここを放棄。会津方面へと撤退していった。
それは結構なのだが、奴らは面倒なことをやってくれた。撤退する旧幕府軍は追撃を鈍らせるため、道中の宿場を焼いていったのである。住民は戦火を避けるため山中に避難しており人的被害はない。だが、家財を焼かれた人々は途方に暮れるわけで、私は彼らの支援を訴えた。
「民心を慰撫することで陛下の徳を知らしめましょう」
戊辰戦争は日本が近代国家になる上で必要な改革を行えるか否かを決める戦いだ。幕藩体制を支持する勢力を悉く破壊し、新政府が政策を強力に推進する力を得る必要がある。そのなかで人々の支持を取りつけることも重要だ。生活を破壊していった旧幕府とそれを再生しようとする新政府。宿場焼き討ちに対する対応は格好の宣伝材料となる。
上官の高倉は頼りないので、木戸や西郷などに連絡して活動の趣旨を説明した。ただ、新政府は慢性的な財源不足。話はわかるが金がない、との回答だった。仕方がないので金のかからない方法で助ける。兵士を使って瓦礫を撤去したり、簡単な小屋を建てたりするのだ。自衛隊の災害出動みたいなものである。
しかし、参加したのは私の下で戦ってきた長州藩兵だけ。薩摩は無論、その他の藩兵も何でそんなことをするの? というような感じだった。この辺は武士階級ゆえだろう。長州藩兵も内心では同じことを思っているのかもしれないが、これまでの積み重ねもあって従ってくれている。もちろん私も暇を見つけては参加した。小屋を建てる他にも近くの寺院などに話をつけて被災者を収容してもらう。
「このくらいのことしかできず申し訳ない」
「そんな。よくしてもらってありがとうございます」
なかなか思ったような支援ができず歯がゆい思いをしていたが、住民たちはそうは思わず活動を評価してくれていた。進軍しなければならないため活動できたのはほんの数日だったが、住民たちは復興で忙しいなかわざわざ見送りに来てくれる。やってよかった、と温かい気持ちになるのだった。
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