いざ京都
――――――
薩摩藩が倒幕に傾いた。帰国した私は藩首脳に久光からの伝言を伝える。
「そうか。いよいよか……」
これまで幕府(というより慶喜ら一会桑)と影に日向に抗争してきた長州藩。朝敵とされ窮地に陥ったが、どうにか挽回している。反撃の時は今、とばかりに高揚した雰囲気が漂っていた。
そんななか、冷静な木戸は藩主(未だ朝敵撤回が正式に決まっていないため敬親のまま)に目配せをする。彼が頷くとこちらへ向き直った。
「大村さん、山縣さん。急ぎ準備に取り掛かってください」
準備というのはもちろん出兵の準備である。久光の話では打ち合わせのために西郷が来訪することになっていたが、事態がいつ動くかはわからない。早めに準備を整えておくのは当然である。
「わかりました」
と私はすぐさま応じたが、大村からの返事はない。場の視線が彼に集まる。
「……これまでの薩摩の行いを見るに彼らと共にするは危険と考えます」
もう少し時を待ち慎重に行動すべきだ、とここにきてまさかの反対論を唱えた。当然、場は騒めく。
「それも一理ある」
そして木戸がそれに乗った。たしかに藩内でも倒幕について意見は割れている。しかし、話をまとめてきた後にそこへ立ち返るのは違うのではないか。猛烈な不満を抱く。
「話をまとめてきたのに今更それはないでしょう」
「しかし薩摩は――」
私と大村は口論になる。次第に熱を帯びて取っ組み合いの喧嘩になる――というところで周りに制止された。結論は持ち越しとなったが、話をまとめてきた以上は信義の関係でやらなければならないという理由で準備はすることになった。
その日のうちに私は諸隊、大村は藩兵の掌握に取りかかった。京までの行軍となるのでその分の糧食、戦いのための武器弾薬を整える。前者については義父の赤右衛門ら下関商人なども頼った。彼も儲けの機会だと張り切っていた。そのとき、
「婿殿。早く次の子をよろしくお願いしますぞ」
と言われる。曖昧な返事で誤魔化したが、ちゃんとしなければなぁ、とは思っていた。何より海がやる気満々なのである。
海といえば、私が帰国する途中で出産を終えていた。連絡を出したそうだが行き違いになったようだ。産まれたのは女の子。六月に生まれたので水無月にちなみ水無子と名づけた。水子(幼くして亡くなる子ども)を連想させると反対の声もあったのだが、由来を説明して押し切った。
このときばかりは陸路で帰ったことを恨んだ。海路ならば間に合っていたのに。後悔しても後の祭りなのだが。
出産は文字通り命懸けで、産後に亡くなることも少なくない。「産後の肥立ちが悪い」というやつだ。私も心配していたが、本人は至って元気である。水無子も元気そのもの。ただ私はあまり関わっていない。というかできなかった。祖母ががっちりガードしているのである。
出兵の準備で忙しいが、首が回らないわけではない。それに前世を含めても初めての子どもであり、可愛くてしょうがないのだ。我ながらはしゃいでいるなという自覚もある。そんなわけで暇を見つけては水無子を可愛がろうとしているのだが、
「水無子はちゃんと見ておきますから、しっかりと御役目を果たすのですよ」
という具合にやんわりとあっち行けと言われる。男子は育児に関わるなということかと思ったが、
「爺だぞ〜」
我が家にやって来た赤右衛門は水無子を猫可愛がりしていた。
「凄い顔」
これを見た私は変な顔をしていたのだろう。顔を合わせた海にそんなことを言われた。
二人がなぜそんなことをするのか。言葉にされたわけではないが、理由はわかっている。育児は引き受けるから子どもを作れというのだ。
実は私たちの結婚にあたって両家で取り決めが交わされている。婚姻は海が嫁入りする形で行われた。このままいけば彼女の実家、財部家は赤右衛門の代で断絶してしまう。それはできるなら避けたいので、私との間に生まれた子どもを養子に入れると決められていた。
その際、男子という文言が入りそうになったがどうにか削除している。男の子が生まれるまで海が子どもを産み続けることになるからだ。家業を継ぎたいという彼女にとってそれは本意ではないだろう。本人は成り行きに任せる、といった感じだが。
子どもに構えない、という悲しみを背負いながら与えられた御役目を果たすべく奮闘する。ところが準備を始めて程なくして作業は凍結に追い込まれた。七月に入って薩摩側から西郷派遣を中止するという連絡があったからだ。
当然、藩内では薩摩が日和ったという騒ぎになる。無理からぬことだろう。私も話をまとめてきた当事者であるから木戸以下の上層部に呼び出されて詰められたが知ったことではない。そもそも私も困惑しているのだ。こっちが聞きたい。
あれこれ訊かれるのが鬱陶しくなって病みそうであったが、ここからが飛躍の正念場であるとぐっと堪える。そして、
「直ちに上京して真意を訊ねて参りたく存じます。ついては許可を」
上京して薩摩から説明を受けてくると言った。この提案が拒否されるはずもなく、私は急ぎ旅装を整え上京する。
「どういうことですか?」
京に到着すると小松邸にいる西郷らを訪ねた。
「この件は申し訳ない」
大久保は私が去った後、何が起きたかを話してくれた。薩摩藩は長州とは別に土佐藩ともコンタクトをとり、乾退助と後藤象二郎それぞれのルートで別々の盟約を結んでいた。所謂「薩土密約」と「薩土盟約」である。前者は長州と確認した武力倒幕、後者は大政奉還を行うことを約していた。
「……矛盾してませんか?」
「いや、そうでもない」
一見すると矛盾しているが、西郷によると自分たちの決心は変わっていない。これはあくまでも政治工作なのだ、と説明する。
「たとえ大政奉還が言上されたところで受け入れるはずもない。それを手切れの口実にするのだ」
あくまでも武力倒幕へ向けた伏線なのだという。これだけだと口先だけになると思ったのか、西郷はさらに言い募る。
「時機を得れば京は無論、江戸大阪でも立ち上がるつもりだ」
反対派公卿、幕府や会津藩の在京兵力を襲撃、追放するという。八月十八日政変を思い起こさせる手口だ。
「事情はわかりました。が、なるべく早くにお願いします」
「承知した」
これからはより一層、連絡を密にしていくことを確認した。成果としてはこれで十分だろう、と満足して帰国。この旨を報告した。
だが、未だ心の奥底で薩摩への不信感を持っている上層部は疑心に駆られているらしい。再三再四、決意に揺らぎはないかと確認の使者が向かった。私は兵事を預かる役目もあるため定期的な連絡役は務めなかったが、私信にて大久保や西郷から鬱陶しいと文句をつけられる。私がやってるわけじゃないんだがなぁ。
九月に入ると大久保が長州にやって来た。私に言っても解決しないから直接文句を言いに来たのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「国許では今頃、兵が出立しております。長州に船が寄る予定ですので、そちらもご用意願いたく」
薩摩藩は武力倒幕へ向けて兵士を上京させるつもりらしい。それに呼応するよう求めてきた。長州問題が緩い条件で決着することとなり、諸々の制約が解けようとしている。幕府との交渉が始まり、これまでできなくなっていた関西方面への派兵が解禁される見込みだ。既に代表者を派遣する用意も進んでいる。このことは薩摩側にも連絡されており、派兵もそれに合わせたのかもしれない。
また、大久保は続けて倒幕の必要性を熱弁する。これは私からのリクエストだ。大村が疑問を呈したことにより藩内では倒幕をするのかしないのかと問題になっている。ここで薩摩の代表者である大久保に説得してもらうのだ。私なんかよりも弁が立つので適任だ。
大久保の巧みな弁舌により上層部もすっかりその気になる。そして、
「こちらとしては否はない」
と長州側も応じることになった。大久保に任せたおかげかもしれない。こういうことは頭のいい人に任せるに限る。私は未来知識があるだけなので望む未来になるよう舞台を整えることに腐心しよう。
さて、肝心の派兵については私率いる諸隊ではなく、正式な士分から選抜される。これを率いていた大村は消極的姿勢が問題視され、派兵事務を取り扱う掛助役に降格となった。まあ、役職ゆえに関わりは続いているし、あの件で仲違いしたわけではない。
話を戻す。大久保はその夜、芸州藩とも派兵の約束をとりつけた。かの藩は長州征討で幕府軍の根拠地となったが、それは地理的にやむを得ないものがあった。藩自体は長州藩に融和的で、征討の際も幕府が先鋒を命じたものの拒否している。軍備の近代化を進めていた芸州藩が敵に回った場合、同方面では苦戦を強いられていただろう。
芸州藩はお隣さんということもあって相互に影響を与えている。そんな事情もあり、藩内では我々の影響を受けて倒幕論が台頭していた。大久保は上手く丸め込んで彼らを仲間に引き入れたのである。その辺りの手腕はさすがといえた。
着々と準備が進むが、そう簡単に事は運ばない。薩摩藩では大久保、西郷といった倒幕派が権力を握っていたが、その勢力は京を中心に広がっていた。一方、本国では慎重な意見も根強く、倒幕へ向けて準備が進むなかで危機感が高まっている。反対論が燃え上がり、それが帰国中の島津久光の耳にも届いた。これに影響を受けた久光は藩主とともに倒幕を否定する通達を出す。大久保や西郷がいくら権力を握っているとはいえ、最後は藩主や久光の意向がものを言う。進行していた倒幕のプロセスは後退を余儀なくされた。
長州藩は出兵の延期を決め薩摩、芸州藩に通知する。二度の肩透かしを食らったわけだが、前回私が抗議したこともあってか薩摩側から出兵を約束した三藩合同で事に臨むことを確認してきた。この対応により長州側の不信感はある程度、払拭される。
また時を待つことになったが来る十月十三日に薩摩藩へ、翌日には長州藩へ天皇から倒幕の密勅が下された。太政官を経由する詔や綸旨とは形式が異なるはっきり言ってよくわからない代物ではあったが、ともかくそれは有効であると解釈され薩長の背中を押す。薩摩の政治工作が結実したのだ。
長州に伝わるとこれを盾にして派兵することを決意。計画通り部隊を薩摩藩兵と共に上京させる。朝廷の赦しが出次第、入京する予定だ。
だが、薩摩の工作は別のところで裏目に出る。土佐藩との間で武力倒幕と大政奉還、二つの相反する約束を交わしていた薩摩藩。後者については破棄されていたものの、土佐藩は大政奉還の建白をまとめた上で薩摩藩の協賛を求める。そのしつこさに薩摩側が折れて建白がなされるが、予想に反して慶喜はこれを容れて大政奉還を実行した。してしまった。倒幕の密勅が出された日と相前後しており、薩長は先手を打たれた形だ。
その後、倒幕派と佐幕派は表向きは大人しくしていたが、裏では激しい抗争を繰り広げていた。きっかけとなったのは坂本龍馬暗殺事件――近江屋事件だった。その下手人は不明だが、中岡慎太郎が今際の際に語った襲撃を受けたときの様子やわずかな証拠から新撰組であったり紀州藩であったり怪しいと目される勢力が挙げられる。なかでも龍馬らの暗殺に激昂した海援隊は犯人をいろは丸沈没事件で賠償させられた紀州藩と考え、同藩の藩士を襲撃。企てを察知し警護についていた新撰組と交戦している。
これ以前には西郷隆盛が旧幕府を挑発するため、江戸周辺でゲリラ戦を始めた。大胆にも江戸の薩摩藩邸にて「天璋院(十三代将軍・徳川家定の正室、薩摩出身)の警護」を名目に浪人を募集。それをいくつかの集団に分けて関東各地にばら撒いた。彼らは放火に強盗、殺人とまさしくやりたい放題。私も噂話でそれを聞き、さすがにやり過ぎではないかと西郷を諌めたが甘い、と聞く耳を持たなかった。
以上のような水面下での抗争もあり、旧幕府部内において薩摩藩へのヘイトが蓄積していた。それを薩摩は煽りに煽る。
薩摩が主導した朝議により長州藩を赦免し藩主らの復官を認める。同時に五卿や謹慎中の公卿についても処分が解除された。
さらには薩摩を主力とする軍勢(薩摩、土佐、芸州、尾張、福井藩)が御所の警固に入り二条摂政以下の佐幕派が朝廷に出入りできないようにしてしまう。その上で天皇親政、将軍や摂関の廃止を謳う王政復古の大号令が出された。
新たに創設された三職(総裁、議定、参与)による小御所会議が開かれ、慶喜の処遇問題が話し合われる。倒幕派の岩倉や大久保が辞官納地を求める一方、佐幕派の立場をとる山内容堂や松平春嶽は欠席裁判であると批判。慶喜を出席させた上で改めて議論すべきだと述べる。
形勢は佐幕派有利であったが、倒幕派は脅迫までして辞官納地を押し通した。この決定がなされた日、赦免されたことを受けて長州藩兵は堂々と入京している。これらの武力を背景に大久保らは強気になるが、逆に岩倉は佐幕派の剣幕に弱腰になっていった。最終的には新政府のために徳川宗家が領地から費用を献上し、具体的な額は諸侯会議によって決めることとされる(大久保らの影響を排除するため)。
佐幕派の奮闘により辞官納地は骨抜きにされたが、慶喜が勤王家であることを知る幕臣たちの怒りは相当なものであった。彼らを落ち着かせるために大阪へ入るが沈静化するには至らず、遂に慶喜は「旧幕府と薩摩藩の私闘」という建前で薩摩藩と戦うことにする。かくして慶応四年(1868年)一月三日、鳥羽・伏見の戦いが起きた。
薩摩討つべしという声の高まりを抑えきれなくなった慶喜は風邪をひいていたこともあり、勝手にしろと統制を放棄する。すると幕臣たちは色めき立ち、薩摩を非難する「討薩表」を作成。大義は我にあり、と一万五千の兵を京へ向かわせた。
この旧幕府軍の動きに朝廷も対応。薩長連合軍のほか在京中の諸藩軍と近隣の彦根藩に対して出兵を命じた(この時点で応じたのは大村藩のみ)。
両軍は郊外の鳥羽、伏見にて激突。朝廷側五千、旧幕府側は先述のように一万五千と三倍の兵数を相手に予断を許さない状況が続くが、朝廷が征討大将軍に仁和寺宮を任命し正式な官軍と認めると、日和見を決めていた諸藩が朝廷側として参戦。形勢は朝廷側に傾いた。
慶喜は戦端が開かれるのみならず、錦旗が掲げられたこと(旧幕府側が狙っていた幕府と薩摩の私闘という体裁がとれなかったこと)を知り、本意ではないと悲嘆に暮れる。彼に朝廷に反抗する意志はなかったが、幕臣たちはあくまでも薩摩を討って君側の奸を除き慶喜への誤解を解くのだと息巻いていた。慶喜は彼らは翻意させるのは難しいと感じ、側近の勧めに従い恭順の意思を貫くべく江戸へ向かったそうだ。
理由はともかくとして、慶喜の行動は総大将の逃亡に他ならない。大阪にいた旧幕府軍はこれを知るとさすがに戦意喪失し、各々が帰国したり江戸に入ったりした。
次いで一月四日、慶喜に対して追討令が出されて彼が恐れていた朝敵に認定されてしまう。同月二十一日に朝廷は天領だった大和に大和鎮台を設置。二月一日にはこれを大和鎮撫総督府と改めて有栖川宮を総督とする東征軍が発足した。
以上の経過を聞いて遂に戊辰戦争が始まったか……と思っていると、二月半ばになって長州藩から私が率いる諸隊にも出陣が命じられた。藩主の後継者・毛利広封を伴っての上洛である。
これには大村も同行し、京に入ると彼は軍防事務局判事として朝廷(新政府)に召し抱えられた。長州で処分を受けて少し居心地が悪かったのだろう。丁度よかったのかもしれない。
また、大村以前にも木戸が総裁局顧問として引き抜きを受けている。新政府の中心人物のひとりである岩倉具視からその見識を買われたこと、また坂本龍馬に「日本一」と称された長州藩の軍事力を背景にして民政を一手に担う立場になっていた。
私たちが上京した時点で東海道軍は江戸に到達しつつあった。慶喜は天皇に逆らう気はなく、抗戦派の幕臣を遠ざけて勝海舟などの恭順派を重用。自身は寛永寺にて謹慎した。
当初、新政府は大久保や西郷ら薩摩藩を中心に強硬論が主張されていたが、勝海舟や山岡鉄舟といった旧幕府側との交渉を経て態度は軟化。慶喜の水戸謹慎などを条件とし、四月十一日に江戸無血開城が実現した。
旧幕府が恭順して戊辰戦争は終結……とはいかない。徳川慶喜とともに幕政を主導した一会桑の残り――会津藩の松平容保と桑名藩の松平定敬がいる。東北の諸藩も態度が曖昧で、新政府の目はそちらへ向けられるのだった。
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