四侯会議
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高杉の葬儀を終えると上洛のため旅立つ。海のことが心配でたまらない私に対し、祖母から御役目を務めてきなさいと怒られてしまった。家を追い出されるも同然の格好である。
五月初旬に着いた私は京都の薩摩藩邸を訪ねた。そこでは西郷、大久保の顔見知りの他に家老の小松帯刀――そして国父・島津久光までもがいる。
「貴殿の話は二人からよくよく聞いておる」
挨拶をすると久光からそんな言葉をかけられる。二人というのは西郷と大久保のことだろうが、身の丈以上に語られているような気がしてならない。それを訂正する勇気は私にないのだが。
「此度は遅参いたしまして申し訳ございません。知人の最期と葬儀に参列するためでして、何卒ご理解を……」
「うむ。その件は聞いておる。火急の用件というわけでもないゆえ、問題ない」
高杉のことは事前に伝えていた。とはいえ、呼び出しに遅れたわけだから謝罪はしなければならない。
「情勢を説明いたしましょう」
挨拶が終わったところで大久保から現状についての説明が行われた。
薩摩藩は長州征討の失敗と将軍、天皇の代替わりを機に長州藩の赦免に向けた運動を行なっている。それを議論する場として四侯会議を招集することに成功した。将軍、摂政の諮詢機関である。
「目下の課題は長州と兵庫だ。我々としては長州の話を優先して解決したいと考えている」
解決案としては朝幕側は朝敵の赦免、官位の復活および減封の撤回。長州側は藩主の引退だ。戦争でこちらが圧倒したのだから妥当なところである。当主の引退も――目的はともかくとして――朝廷に弓引いたのは事実。致し方ない。
「それはありがたい。代替わりについてはこちらの真意はともあれ、宸襟を煩わせたわけですから当然かと」
薩摩藩が考える条件については事前に教えられていた。これについて出立前に藩主と打ち合わせをして同意を得ているので、このやり取りは形式的なもの。最終確認にすぎない。
「それを聞けて安心した。ではそのように取り計らおう」
「ありがとうございます」
その日は旅の疲れもあるだろう、という配慮から会見は終わった。
四侯会議の開幕は五月中旬とのこと。それまで薩摩側の要人たちと交流する傍らで、藩からの別命をこなす。といっても何ら難しいことではない。京阪地方の事情探索――要するに、そこら辺をほっつき歩いて噂話を拾ってこいというものだ。ちょっとしたスパイ活動である。
市井の噂というものは案外バカにできない。こと幕末維新期において京阪は政治の中心地であり、大阪は――地位が低下しつつあるとはいえ――経済の中心だ。そこに暮らす人々の見識も肥えている。また、長州藩は朝敵で幕府から討伐対象にされており、公的に動けないというのもあった。
集めた情報をまとめ国許へ送る。返信がきて何々についてもっと詳しく、とかいう指示を受けて再度の調査へ乗り出す。その間、普通なら暇になるわけだがそうはいかない。私が戻ったことを聞きつけた大久保や西郷が訪ねてくるからだ。
大久保とは会う度に囲碁を打とうと誘ってくる。断る理由もないので受けていた。対局は白熱するが、勝つのは大久保。こちらも知っている最新の定石で挑むものの、純粋な棋力で及ばない。それに感想戦でこちらの研究を吸収するので差は広がるばかりだ。もっとも囲碁をしながら色々なことを話すのが楽しいので負け続きでも構わない。
一方、西郷とはお堅い話をする。天下国家の話だ。実は西郷と私の思い描く国家像は異なっている。西郷が東アジア諸国が連帯して欧米列強と対峙すべきだと考えているのに対して、私は欧米列強と連帯すべきだと考えていた。現代日本人の感覚を持っているので東アジアを植民地にしよう――なんてことは考えていない。ただ、現実として欧米列強と対峙することは不可能である。
これは未来を知っているからだが、私は近代日本を虚像の帝国だと思っている。より平易な言葉を使えば背伸びをした国だ。戦争に勝利して世界の大国としての地位を築いた。それは事実だが、実態はかなり無理をしている。「軍部は精神論を振り翳した」などとよく批判されるが、物質がないから精神に頼っただけだ。そこまで日本人もバカではない。
「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に対抗できる」
この言葉は連合艦隊解散の辞における一節である。日露戦争に勝利した後に司令長官の東郷平八郎(起草者は秋山真之)が行った演説で美文として名高いものだが、この一節は悲壮という他ない。いかにも日本人的な発想だが、足りないものを何とかして補おうというものだ。
他所の国ならば砲を百門揃えようとなるところを、日本人は砲一門を百門に匹敵するものにしようとする。足らぬ足らぬは工夫が足らぬ、というわけだ。幸い、その工夫が上手くいって大国の地位を手に入れた。ゆえに私は近代日本を虚像の帝国というのである。
ある意味で戦前期の日本人は大なり小なり夢を見ていた。しかし、それが文字通りの夢想、幻想、虚像であったことは太平洋戦争が証明する。数多の命と引き換えに日本人は己が見ていたものが幻想だと気づいた。
万事が上手くいけばという前提だが、私が史実の山縣のような要職に就けたならばそんな半端なことはしない。虚像ではなく実像にしてみせる。……とはいえ、未来の知識というアドバンテージがあっても如何ともし難いこともあった。欧米にはどうやっても勝てっこない、という現実である。
世界大戦――総力戦が始まるこの時代にあって日本にはありとあらゆるものがない。多少は産出するものもあるが、近代の産業において基本的な原料である鉄も石炭も石油もなかった。となると外国から輸入するか、それを産出する地域を植民地にするかとなるが、どう考えても前者一択である。日本が求めるおいしい植民地は欧米が軒並み押さえているからだ。
そもそも原料と市場を求めて海外に飛び出したのが近代の帝国主義であり、美味しい場所は既に手を出されている。なかには格好いいから植民地が欲しい、という王様の欲望によって支配した傍迷惑なチョコレートの国もあったらしいが、ともあれ有望な土地はほぼ残っていない。そんな状況だから交易によって手に入れるしかないのだ。
仮に西郷が言うように東アジア諸国が連帯したとしよう。遠からず行き詰まる。そもそも工業化すら未達成であり、それをやったところで先の虚像の帝国が出来上がるだけだ。西郷もそんなことはわかっているからまずは欧米列強の知識を取り入れて……と言っているが、この差を覆すのは容易ではない。百年単位で金と人を費やす必要がある。結局、東アジアの地域大国で所謂「極東の憲兵」に収まるのが楽だろう。私が欧米列強との協調を唱えるのはそのような未来予想に由来していた。
会う度に私たちはあーだこーだ議論するが、とりあえず幕府を倒して近代的な国家を創るという点では一致している。それをどう運営していくのかを議論するのは――時に激しい言い合いになるとはいえ――楽しかった。
そんなことをして日々を過ごすうちに会議が始まる。薩摩側の配慮により、薩摩藩邸で開かれる際には別室で聞き耳を立てていた。他所で開かれたときも久光から結果を報告してもらっている。
会議は冒頭から暗礁に乗り上げた。優先議題を何にするかで薩摩と幕府の間で綱引きが行われたのだ。薩摩側は長州問題を先に解決すべきと主張したが、慶喜は兵庫開港問題が先だと言う。
「定めた期日が迫っている兵庫開港問題を議するべし」
「待たれよ。長州については形勢は明らか。もはや議論するまでもないことだ」
「これは面白いことを。我が方は未だ意気軒昂。緒戦で敗れはしたが、明日にでも余自ら出陣し討ち果たして見せよう」
慶喜の発言は完全な強がりであったが、必ずしもできないというわけではない。たしかに幕府が本腰入れて討伐にかかればいかに近代化された軍備を持っていても地力の差で負けてしまう。薩摩もそれは困るので強くは出れず、議論は慶喜のペースで進む。
諸侯も手を拱いていたわけではない。抵抗のために幕閣に対して直訴するだけでなく、薩摩藩が他の諸侯を説得して長州問題の議決を先にするよう建議するように工作もした。だが、この程度で覆るようなら問題はここまで抉れないのだ。慶喜は頑として譲らず、その頑なな態度に諸侯側のやる気が削がれた。
「儂はもう疲れた」
任せろ、と頼もしかった久光の姿はない。燃え尽きたという有様だ。そしてポロッと溢す。
「……其方らが言う通りにした方がよいのかもしれんな」
「「おおっ!」」
これを聞いた西郷と大久保が色めき立つ。二人は倒幕に傾き度々、久光に献策していた。しかし、公武合体と諸侯主導による政治という構想を持つ久光はこれを受け入れなかった。そんな彼が倒幕に前向きな発言をしたのである。反応しないわけがなかった。
嫌気がさした久光は会議に出るのをやめてしまった。こうなると慶喜の独壇場となり、議題は兵庫開港問題に絞られる。しかし、開港を求める慶喜に朝廷が反対した。昨年暮れに崩御した孝明天皇が開港絶対反対であったことを挙げ、その遺志に背くことはできないと言っている。
慶喜としても朝廷と対立するのは本意ではないため、言葉を尽くして説得を試みる。欧米との約束、そして手続きの関係から認めてもらいたい、と。しかし、議論は平行線となりタイムリミットにほど近い五月二十三日を迎えた。
その日の慶喜は尋常でない雰囲気だったという。意気込みだけでどうにかなるものではなく、前回までと議論の方向は変わらない。開港を推進する慶喜と反対する朝廷という格好だ。違っていたのは慶喜の対応である。
会議は休憩を挟みつつ夜中に突入した。出席者のひとりである二条斉敬(摂政)は解散を提案したが、慶喜は何としてもこの場で決めると譲らなかった。漏れ聞くところによると、休憩中に慶喜は出席者の松平春嶽に対して今回ばかりは決まるまで会議を終わらせない。さもなくば薩摩側の工作により不利になってしまう、と言ったとか。
ともあれ長引く会議に出席者も疲れ、封印していた意見を表明するようになる。口火を切ったのは弱冠十九歳の権大納言・鷹司輔政だった。
「この会議で勅許を決められないようでは朝廷もこれまでかもしれません」
「これっ」
同席していた父の輔熙に嗜められるが、輔政は意見を曲げない。すると流されて二条を攻撃するような意見が出始める。輔政の発言から会議の流れが変わった。
元々、二条摂政は公武合体派と目され、同じ思想を抱く孝明天皇の信任を得ていた。関白となったのも天皇のお気に入りであったことが要因のひとつである。
新帝が即位しても摂政としてその地位を保っていたが、安泰というわけではない。彼に対する妬み嫉妬も少なくないからだ。黒船来航後のごたごたから生じた派閥対立に、摂関の地位を狙う摂家(とその取り巻き)の存在。そういったものが絡み合って、会議をまとめられない二条の姿勢を糾弾する流れになった。
結局、開港という話でまとまり慶喜の主張が通ることとなった。また、長州の処分についても久光が唱えた当初案の通りとなる。長州の赦免は幕府の非を認めることになるが、兵庫開港を押し通した見返りとして仕方なく……という建前だ。
四侯会議は朝幕と有力諸侯の合議により政策を決める機関ということになっていたが、実態は長州問題と兵庫問題をどう解決するかを決める存在であった。その主導権を誰が握るのかという争いの結果、慶喜が勝者となる。政治の主導権はなんだかんだ幕府にあって、薩摩藩が望んだように諸侯主導で政治は動かせないということを証明することとなった。
これには現時点ではという注釈をつけるべきだろうが欧米列強の力を知り、改革の必要性を痛感して焦燥感に駆られる者たちにとっては「いつか」の逆転を悠長に待っていることはできなかった。ゆえにこの慶喜の勝利は薩摩藩にある決断を促す。
「山縣さん。長州に戻られよ」
六月中旬のこと。大久保は私にそう言った。急に何だと思っていたら、薩摩藩が大きな決断を下していたことを知らされる。
まず、薩摩藩は土佐藩の討幕派(乾退助、谷干城ら)と武力倒幕で合意。数日後の重臣会議でも武力倒幕ということで藩論が決したという。久光は諸外国による干渉を恐れていたというが、合議制への失望から黙認という態度をとったそうだ。
「いよいよですか」
「ええ。我々も色々とやらねばならぬので少し時はかかるでしょうが、山縣さんは長州でその時をお待ちください」
武力倒幕に決めたとはいえ、独自に行動すればただの反乱である。そうならないために、然るべきところ――すなわち朝廷から後援を受ける必要があった。そのための政治工作に時間がかかることは想像に難くない。
「わかりました。その時には準備万端、誰にも勝る働きをしてご覧に入れましょう」
明治になってからの立場を決定づける戦いが始まろうとしている。気合いも入ろうというものだ。
「日本一の長州兵に言われると心強い」
大久保にそう言われ何とも面映い。その期待に恥じぬよう全力を尽くそうと誓った。
滞京中お世話になったので薩摩側にお別れの挨拶をする。最上位にいる久光が応対してくれた。そのとき意外なお土産をもらう。ピストルと、
「薩長が合力し、天下に大義を示そうではないか」
という言伝である。必ずお伝えします、と応じてその場を辞した。その後、私は長州で倒幕の準備にかかり、薩摩も倒幕へ向けた政治工作に腐心するのだった。
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