芽生えと別離
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小倉藩との和睦も成立して帰れると思いきや、藩から現地に残れという命令が来た。治安維持のため警察の真似事をしろという。結局、慶応二年の年の瀬と翌年の元旦は門司で迎えることになった。
年末にかけて中央では事態が動き続ける。家茂の死後、徳川宗家の家督は慶喜が継承したが、将軍職は固辞し続けていた。しかし、十二月になってようやく就任する。
継承に関しては田安亀之助を後継者とする家茂の遺言があったものの、複雑な政治情勢において幼少の亀之助ではいけないという判断があって慶喜が後継者となったという経緯があった。彼としてはそれを尊重したかったけど周りに言われて仕方なく……という体裁をとりたかったのだろうか。こればかりは本人に聞かないとわからない。
ともあれ最後の将軍・徳川慶喜が誕生した。新将軍が直面した難題は二つ。長州藩の処分と兵庫開港問題だ。
前者は我らが長州の処分問題である。武力討伐に失敗したがこのまま続けるか否か。ただ、社会情勢は三度の出師を許さないかもしれない。極度のインフレによって一揆が頻発し、その鎮圧に追われているからだ。それが落ち着かないことには出兵しようとしても余裕がないとして拒否されるだろう。
後者は第二次長州征討の際にも問題となっていたが、安政の五ヶ国条約により開港地と定められた兵庫(神戸)について。欧米列強とは慶応三年十二月に開港し、国内には半年前に通告すると約束している。しかし朝廷――特に孝明天皇は京都に近いということで断固反対の立場をとり、勅許を与えなかった。欧米列強の機嫌を損ねないよう開港は絶対。慶喜は期限も踏まえ、慶応三年(1867年)の五月までに開港の勅許を引き出さなければならなかった。
将軍になって早々、大変な政治課題を二つ抱えることとなった慶喜。その解決に乗り出そうとした矢先、慶喜が将軍になったのと同じ月の末に孝明天皇が崩御する。彼を信用して後ろ盾となっていた人物の死により、慶喜はひとりでこの難局にあたらなければならなくなった。
そして新将軍の就任と新帝の即位は幕府と朝廷との関係に変化があることを意味する。公武合体政策(婚姻による人的な結びつき)による両者の蜜月関係がリセットされたのだ。これを見て機敏に動いたのが薩摩藩であった。
薩摩藩は同盟相手である長州と朝幕との関係を取りなすとともに、自らが中央政治に深く介入すべく諸大名による合議政体(列侯会議)を目指していた。その考えに基づき、慶喜に対して雄藩の諸侯を上洛させた会議の設置を提案する。一方では諸侯に運動を行い島津久光(薩摩藩主の父)はもちろん山内容堂(前土佐藩主)、松平春獄(前福井藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)を抱き込むことに成功。彼らによる四侯会議として結実した。
このように情勢が動くなか、慶応三年の二月に藩から私に上洛せよとの命令が届く。現地の薩摩藩との連絡要員として滞京するように、とのことだ。あそこには薩摩藩の幹部が詰めており、彼らと親しい私に行けというのは妥当な命令である。戦中は木戸が代役を担っていたが、停戦した今ならば役目が私に戻ってくるのもおかしくはない。
とはいえ、幕府とはあくまでも停戦状態。臨戦態勢とまではいかずとも、ある程度の緊張感は保っておかなければならない。軍を解いて平時に戻るなんてあり得なかった。そこで私の職務(小倉方面の司令官)を代行する者を誰にするかが問題になる。木戸は高杉でいいだろうと考えていたが、彼は前年から病気療養していた。肺結核だそうだ。症状がゆっくり進行するため気づいた時にはもう手遅れ、という病気で高杉もかなり重篤化した状態で診断を受けた。
「これはダメだな」
高杉は本能的に最期を悟ったらしい。嫌なことに医者からももう長くはない、と言われたそうだ。そこで彼は私を長州に留め置きたい(最期を看取らせたい)と願い出て木戸に許可された。この求めによって私は長州への帰還が許される。後任は私の推薦で奇兵隊の副隊長的な立場(役職は参謀)である福田侠平になった。
後任も決まったことでいよいよ長州に戻ることとなる。戦地に赴くということで生きて渡ることはないかもしれない、と思い渡った関門海峡。船上で再びその景色を見て生を実感した。
途中、山口へ立ち寄って藩主や木戸に戦況と現地の状況を報告する。二人からは敵の居城を占拠するという大戦果を称えられた。それと高杉を見舞う間、ゆっくり休むように言われる。終わったらすぐに働かせる気だなと思ったが、まさしく今が正念場。望むところだ。
萩に着いて家に戻るとちょっとしたお祭り騒ぎとなっていた。帰るという先触れを出していたせいらしい。口々に戦勝おめでとうございます、と声をかけてくれる。それらに対応していると玄関に着くまで体感ながら十分ほど余計にかかったような気がした。
「おかえりなさい」
「ただいま」
まず海から声をかけてくれる。次に祖母。
「見事な働きぶりでした。鼻が高いですし、泉下の父母も喜んでいることでしょう」
「ありがとうございます」
そうだといいな。前世の記憶があるとはいえ、彼らが今世での父母であることに変わりはない。親孝行する前に二人は亡くなってしまったが、活躍することであの世で喜んでくれていればいいな。
家に帰って落ち着いたところで高杉を見舞う。最期といってもその時がいつ来るかはわからない。その時まで自分の家と高杉の家を往復することになる。
彼の家には同居人のおうの(愛妾)と野村望東尼(高杉の逃亡生活を助けた恩人)がおり、看病にあたっていた。高杉を含めた三人はなかなか面白い組み合わせだ。家を訪ねたとき、おうのが愚痴ったのである。
「旦那はこんなだけど、尼さんも寝込んだことがあって。二人が別々の部屋でお歌を詠むの。何度も、何度も。それを運ぶのがうちの役目なんだけど、足が疲れちゃって……」
「じ、実に風流ではありますが……」
大変だったね、とおうのを労う。病気で寝込むと暇になるのはわかるし、暇潰しをするのも不思議なことではない。しかし、看病している人間が疲れ果てるまで使い走りをさせるのは違うだろう。本人たちはチャットアプリみたいな感覚なのだろうが、使われる人間からすれば堪ったものではない。
「悪かった」「悪いことをしたねぇ」
とは言うものの二人ともあまり悪びれた様子はない。
このおうのの発言をきっかけに高杉との思い出を振り返ることになった。望東尼からは高杉の逃亡中の出来事が語られる。
「この人はたまたまわたくしのお家の近くに潜んでいらしてね。隠れてお世話をしていたんですよ」
「九州ではこの方に随分と世話になった」
望東尼は福岡へ逃れてきた志士の面倒を見ていたという。ただ、福岡藩が尊王攘夷派の弾圧を行うようになると彼女も処罰の対象となり姫島への流罪となる。これを聞いた高杉は恩人である彼女を放置してはおけない、と同志と組んで救出作戦を実行した。
「そんな無理ばかりしているからお体に障るんですよ」
まったくもう、と嘆息する彼女が高杉を見る目は息子や孫を労るようなものだった。破天荒な姿を見ているとそう思ってしまうのも仕方がないかもしれない。エネルギッシュといえば聞こえがいいが、実態はほぼ博打である。高杉の家族は落ち着いてほしいと願っていたようだが、なるほどその気持ちがわかるような気がした。
とまあ、こんな感じで終始和やかな雰囲気だったのだが、ピリつく瞬間もあった。それは高杉の妻子が見舞いに訪れたときのこと。診察した医師がもう長くないと家族に連絡し、母子は急ぎ駆けつけたそうだ。そしておうのと高杉の妻――雅子が出会った。出会ってしまった。
『あら、どちら様?』
『うの、と申します……』
『ああ、貴女が。お話は伺っていますよ』
萩城下一の美人、と称された雅子。礼儀作法も仕込まれており、物腰も柔らかだ。あらあらうふふ、と上品な様子ではあったが視線はまったく笑っていなかった――というのは、両者の間を取り持った望東尼の言。
彼女の仲介により雅子が高杉の側につき、おうのは退室するということで話がついた。別に一緒にいてはいけないという理由はないし、望東尼もそう思っての提案だった。ところがこの件でおうのはすっかり萎縮してしまったらしく、雅子には寄りつかないそうだ。
女の戦いというものを見た気がするが、こればっかりは高杉が悪い。おうのの存在は四国へ逃亡した際に雅子の知るところとなった。この時はカモフラージュだと説明していたのだが、第二次長州征討の前に言い訳がつかなくなる。
当時、下関に滞在していた高杉の世話をしようと息子と義母を伴って彼の許を訪ねた雅子。ところが、そこでおうのと鉢合わせる。このときも一触即発の空気だった(おうの談)そうだが、高杉は気まずくなったのか木戸に長崎行きを命じてもらったそうだ。そして、
『悪い。長崎へ行かねばならないんだ』
藩の命令だから仕方がないな〜(棒)と言ってそそくさと長崎へ旅立っていったという。それで有耶無耶になり今日に至る……と。
うん、クズだな。
伊藤もそうだが、こういう女性関係はとても尊敬できない。後日、私は笑い話としてこれを海に話したのだが、
「ええ本当に。いいですか? そんなことをしてはいけませんよ?」
「あ、はい」
ハイライトが消えた目で迫られては頷くしかなかった。単純な武力でいえば私の方が強いはずだが、迫力が凄いのだ。浮気なんかした日には殺されるかもしれない。女性関係は綺麗でいよう。心からそう思った。
私が心に誓っていると、海が突然もじもじし始める。トイレかな? と思ったが彼女に限ってそんなことで躊躇しないだろう。それにちらちらと視線を寄越している。これは話しかけてほしいんだな、と察した。
「どうかしたのか?」
と話をすると待ってましたとばかりに口を開く。
「実は旦那様の出征中、体調を崩していて……」
「なにっ!? 大丈夫なのか?」
高杉のことがありタイムリーな話だ。出会いはアレだったが、妻となった今は大切な存在。彼女の身に何かあったらと思うと気が気でない。
そんな私の姿に祖母が苦笑していた。
「心配しなくても大丈夫ですよ」
大事ないことは保証するという。だから落ち着いて話を聞け、と。そう祖母に言われた私は深呼吸して冷静さを取り戻す。すまない、と謝ってから続きを促した。
「それでお医者様に来ていただいたのですが、その……体調が優れなかったのは、お医者様によるとお腹に子がいると」
「…………それはつまり?」
「おめでた、です」
その言葉を呑み込むのにしばらく時間がかかった。ようやく理解して大歓喜。ひとしきり喜んだ後、ちょっと愚痴が出る。
「そうであれば知らせをくれればよかったのに」
家に帰るためにもっと早く戦を終わらせただろう。しかし、彼女たちは病ではないので戦の最中に余計な情報を入れたくなかったかららしい。その気遣いはありがたいが、やっぱり教えてほしかった。
「これからはお教えしますね」
「ああ」
それから身体を大事にとか、何かあればすぐ医者を呼ぶようにとか、前世の乏しい知識を総動員して注意していると祖母にこう言われた。
「出産には何度も立ち会いました。小助さんは何も気にせず構えていなさい」
「はい」
祖母は経験者でもあるし、何も知らない私が言っても仕方がない。大人しくそれに従った。
しかし、嬉しさが収まるはずもなく、私はその日から会う人会う人に子どもができたことを伝えて回った。当然、高杉にも。
「それはよかったな。子は宝だ。大事にな」
先輩パパからのお言葉をもらったのだが、看病している雅子さんは呆れたように言う。
「あちらこちらへと飛び回っている人が何を言っているでしょうかねぇ」
「それは悪かったと思っている」
「どうだか」
たしかに高杉は家を空けることが多く、子どもの面倒は雅子さんが見ていた。それだけならいざ知らず、愛人を作ってそちらと起居していたのだ。そう思うなら家に帰ってこい、というのが彼女の本音だろう。
この冷たい対応に高杉は苦笑していた。嫁と愛人が鉢合わせたときも逃げたからな。二人が結婚したのは万延元年(1860年)だから結婚生活は七年ほどになる。しかし、実際に生活を共にしたのは一年半余りだという。
雅子さんは高杉のことを憎からず思っているようだ。でなければ子どもをほぼひとりで世話しないだろう。さっさと三行半を突きつけているはずだ。なにせ武家ですら十組に一組は離婚している。それをしないのは何かしらの理由があるのだ。
高杉の看病に来たのも、危篤と聞いても助かるのではないか? という一縷の望みに賭けているのかもしれない。実際、こちらに来てからは献身的に尽くしている。肺結核の治療法はない。外科療法も薬剤療法も開発されるのはもっと後のことだ。今は本人の回復力次第であるが、返答するのがやっとの状態では望み薄だった。
「山縣。お前は自分が思う以上に立派になった。小五郎や大村と共に防長を支える人間になるだろう」
「それは高杉さんが……」
「そうかもしれない。だが、こうなってしまった今はそれも望めないよ」
どこか遠い目をしながら高杉は苦笑した。病に罹った己の肉体を恨んでのものかもしれない。
「ただ、代わりになろうとはするな。お前はお前のやりたいようにやるんだ」
と激励された。維新期の大英雄の言葉を胸に刻む。高杉が息を引き取ったのはその三日後だった。
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