モグラ叩き
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小倉城が燃えている。
その報告を受けてから調査をしたところ、敵は城に火を放って撤退したらしい。行先は南東の平尾台。山地に籠もり徹底抗戦するつもりのようだ。
怠いなぁ。
ゲリラ戦の相手は面倒だ。潰しても潰しても出てくる。第二次世界大戦時のドイツのポーランド、フランス占領地、日本の中国戦線を見ていればゲリラが如何に厄介かは明らかだ。
将来のことを考えると頭が痛くなってきたので、とりあえず目の前のことに集中しよう。敵がいなくなった小倉城へ入城する。燃やされたため城下に入った時点で辺りに焦げ臭い匂いが漂っていた。
「とりあえず逃げ遅れた人がいないか捜索しろ。抵抗された場合でも早まらず、監視を続けろ。無論、乱暴狼藉は禁ずる」
入城前にそんな指示をしていた。部下からはなぜそんなことを、と不評であった。人命が軽いこの時代、抵抗されれば叩き切っても問題ないというような認識だ。ただ、敵がゲリラ戦を仕掛けてきているとなれば話は違ってくる。
「敵は城を放棄して遊撃戦に切り替えたと考えられる。これに対応するにはまず、この地の民衆を味方につけなければならない」
さもなくばこちらの動きを住民が小倉藩側に通報されてしまう。だからこそ、占領地において征服者は行儀よく振る舞わなければならない。こちらの物資から残された住民に食糧などを支援し、街の片づけにも協力する。そうすることで人々の感情を慰撫するのだ。
面倒だな、という顔をする部下たち。わかる。私も同じ気持ちだから。
「仰られることはわかりますが、他に手段はないのですか?」
ひとりが疑問をぶつけてくる。
「あるぞ。簡単だ。この地にいる人間をひとり残らず殺すかどこかへ追放してしまえばいい」
「それは……」
彼らの基準でもさすがにヤバいらしい。だが、味方にする努力をしないならば先んじて排除してしまうというのは自然だろう。
「だから民衆の慰撫に努めよと言っている」
殺すにせよ追放するにせよ非現実的である。ゆえに我々は民衆に援助を与えつつ、こうなったのは小倉藩が城に火を放ったからだと吹聴(事実だが)して支持を得るのだ。小倉藩からすれば長州が攻めてきたからだと言いたいだろうが、幕府の招集に応じて軍を集めたのはそちらである。勝った者勝ち。ゆえに自業自得だ。
部下たちには不評であったこの指示。しかし、訓練を通して命令には従うように教え込んでいるため指示は守られた。その結果、悲劇を防ぐことに成功する。
小倉城下の武家屋敷。身分制社会だから住居にも格差がある。城下でも一際立派な屋敷は小倉藩主・小笠原家の家老を務める渋田見家のものだ。住人のほとんどは城に火が放たれる前に避難している。しかし、そこでひとりの女傑が籠城していた。
「その女は家老・渋田見舎人の妻と名乗り、留守を預かる間は一歩も立ち入らせないと申しております」
報告に現れた兵士によると玉枝と名乗る女がひとり屋敷で籠城しているらしい。白い鉢巻を巻き襷をかけ、薙刀を持っているとのことだ。時代劇かよ――って、時代劇になってる時代に生きているんだった。時々そのことを忘れてしまう。
話を戻すと、長州藩兵たちは私の指示を守って屋敷を包囲するに留め制圧はしていないそうだ。いい判断である。とはいえ、どうにか説得して円満に解決しなくてはならない。
「ところで、その渋田見家は藩中でどのような役を務めていたのだ?」
家老ということだが、ここではそうではなく軍役的な意味である。
「女が言うには三番手侍大将と」
「……そういえば、捕虜になった敵に侍大将がいたな」
士分の人間は斬り殺すのだが、占領統治のことも考えて生かしている。もしかしたら関係者がいるかもしれない、と呼び出すことにした。
「玉枝が……」
ビンゴ。件の侍大将は女の主人である渋田見新(舎人)であった。話を聞くと何度も頷いていた。ちなみに妻というのは嘘で女中らしい。詐称していいのかと思うが、渋田見は厚い忠誠心だとか思ってそう。
「それでどうだろう。説得してもらえないか?」
円満に解決できるならしたい。そう要請すると、
「もちろんです」
快諾してくれた。その後すぐに屋敷へ向かって籠城する玉枝を説得。無事に屋敷は長州側に明け渡される。もっともそこで何かしようというわけではない。そこで私はいいことを思いつく。
「舎人殿。貴殿の屋敷に捕虜たちを住まわせたいのだが」
戦争中なので自由に行動させるわけにはいかないが、何百といる捕虜の管理も大変だ。そこで家老である渋田見に預け、彼に統率させる。それならある程度、管理がしやすくなるだろう。城下の住民にも彼を間に立たせることで長州の存在感を薄れさせるのだ。
もちろん小倉藩の政治を続けてもらう。軍事行動に邪魔にならない範囲内でという制限はつくが、そこは我慢してもらおう。
「よ、よろしいので?」
「ああ」
寛大な条件に渋田見も困惑していたが、現地の人間が協力してくれれば統治コストを下げられる。人手が足りない我々にとっては大歓迎だ。
このおかげか、小倉城下においては戦前と大差ない比較的平穏な日々が戻ってくる。予想されたゲリラ活動も下火で、私たちは兵力の多くを未だ抵抗を続ける平尾台の小倉藩残党に向けることができた。
しばらく戦力の再編と兵士の休養に努め、態勢を整えてから平尾台に後退した敵の追撃に取りかかる。小倉城近郊は安地といえるのに対して、そこから離れると途端に危険地帯。予想通り、敵がゲリラ戦に出てきたためだ。
「またやられた。物資をかなり奪われたらしい」
「今月で何度目だ?」
「五度目だな」
そんな報告が上がってくる。激闘を制して小倉を制圧したのが八月一日。平尾台へと進撃を始めたのが八月十五日のことだ。そこから二ヶ月と少しが経ち、今は十一月。敵のゲリラ活動は活発だった。
私も無策ではない。物資輸送にあたっては部隊の一部を割いて護衛につけている。そのおかげで撃退することも多いのだが、やはり敵の方が地理に明るく奇襲を受けることも多い。酷い場合は今回のように護衛が全滅して物資を丸々奪われるなんてこともあった。
もちろんこちらもやられてばかりではない。平尾台に対する攻撃を強めており、じわじわと進撃していた。門司近辺で戦ったときのような快進撃はできないが、ゆっくり確実に小倉藩を締め上げている。
前線に戦力を投入しているのだが、戦闘をすれば物資消費も増え、物資消費が増えれば補給のために荷駄が多く行き交う。結果として襲撃機会を増やし、その対処に追われるというループに陥っていた。つまるところ戦力が足りない。圧倒的人手不足であった。
あちこちにゲリラが湧き、その討伐も人繰りの都合上不徹底となる。戦力を再編されるばかりか、対応策を学習されて工夫を加えてくる……完全ないたちごっこ、モグラ叩き状態である。
一応、講和を呼びかけてはいる。六月の開戦以来、長州藩は各地で勝利を収めている。幕府にとっては間の悪いことに、七月二十日に将軍・家茂が滞在先の大阪城で死亡。そこからドタバタ劇が始まる。
京都の情勢に詳しい大久保や西郷によれば、この機に停戦を実現しようと薩摩藩が征討反対の建白が行われた。これは例によって薩摩派と慶喜派の公卿の対立となり、最終的に慶喜が出てきてこう言ったという。
『長州は京へと攻め上らんとしており、まずはこれに対処しなければならない。山口を陥落させるまではいかずとも、長州勢を自国へ押し込めてからである』
とまあ、惨敗している立場ながらなかなかに威勢がいいことを言う。そして彼を信頼する天皇も戦争継続を支持。建白が退けられたのが八月四日のことである。
征討を命じられた家茂はこの世にいないため、慶喜が名代として出陣するとして暇乞いをして節刀までもらったのが八日であったが、十四日になって突如として征討の中止を建言。十六日に天皇の勅許を得て、勅命が出されたのが八月二十日であった。
この顛末について、大久保と西郷からは異口同音に私のせいだと言われた。曰く、
『小倉の陥落を聞き大層驚いたようだ。かなりの慌てようだったそうだ』
とのこと。私が小倉を攻略したがために慶喜は驚き停戦に舵を切ったのだという。これに伴って石見、安芸、周防大島方面の戦闘は一応の終結を見た。『停戦』という名目だが、木戸の見立てでは事実上の和睦となるという。
実は、今回の戦役に伴って動員を受けた諸藩が兵糧米の備蓄に動いたため米価が高騰。庶民の反感を買って一揆が多発しているそうだ。なるほど、そんな状況で悠長に出兵している場合ではない。幕府軍は瓦解したといっていいだろう。
――そんな事情を知っていたので、私も小倉の戦線を畳むべく動いた。渋田見舎人を介して小倉藩に和睦を申し入れたのである。戦わなければならないのならともかく、理由がなくなれば早く帰りたい。海や祖母が家で待っているのだ。家族に会いたかった。
しかし、小倉藩はこれを蹴る。和睦の内容が到底受け入れられるものではない、と。さすがに小倉城はしばらく接収したままというのは受け入れられないらしい。幸い、長州藩からは条件について私にある程度の裁量が認められている。彼らのオーダーは「関門海峡の支配に支障がないこと」であり、木戸曰くこれは海峡の両岸を長州藩で支配したいというもの。ならばと赤坂口までと条件を引き下げたがこれも拒否られた。
「誇り高いのは結構だが、現実を見てほしいものだな」
プライド意識を持つことは否定しないが、無駄に高いだけだとただの愚か者である。部下たちも失笑していた。
ここで問題。相手が言うことを聞いてくれません。さて、どうするか?
……
…………
………………
そうです。話し合い(物理)ですね。聞き分けのない人たちはぶん殴ってわからせましょう――なんてテンションで藩に対して増援を要請。小倉方面以外の戦闘は終結しているため、諸隊の多くが回された。
我々は朝敵の身であるが、停戦の勅命に従わない小倉藩を成敗することを大義名分に一大攻勢に乗り出す。これまではゲリラ戦に苦しめられていたが、その理由は護衛に割ける戦力に限りがあったから。しかし、増援を受けて余裕ができた今では前線で攻勢して補給物資の護衛をさせつつゲリラの拠点を捜索、壊滅させるなんて芸当も可能となった。もちろん被害を完全に防ぐまでには至らないが、敵に少なくない損害を与えている。
そして前線では十分な戦力により攻撃することができている。装備は元よりこちらの方が有利だ。補給も安定し、十全な攻撃ができるようになった。小倉藩の防御拠点を次々と制圧し、彼らにプレッシャーを与える。そして年末、小倉藩から和睦を申し出てきた。
「先の条件で和睦をしたい」
「なるほど?」
随分と虫のいい話ですね、と圧をかけてみる。当事者としてはかなり気分が悪い。戦う前に講和を持ちかければ拒否し、戦うと不利なのでやっぱ講和します。そんなものにはいそうですか、と乗るのは許されない気がする。ゆえにちょっとした意趣返しだ。子どもっぽいと言うなかれ。
私の対応の是非はともかくとして、いささか自分たちに都合がよすぎるというのは何人も否定し難いだろう。こんなことをやってるから士族の商法なんてもので没落していくのだ。時代の変革を感じているならば現状維持バイアスに逆らって変わらねばならない。動かなければ落ちていく一方なのだから。
話を戻すと、攻勢は交渉のために中断しているものの順調そのもの。再開しても以前と同じくらいの進撃速度が出せる、というのは現場を見た私の感覚と現場の感覚が一致するところである。つまり、彼らの息の根を止めることはできるということ。ゆえに我々が妥協する必要は今のところないのだ。小倉藩にとっては残念なことに。
小倉藩も粘ってはいたが、もはや舌先三寸でどうこうできる次元ではない。結局、長州が提示した当初案の通りに小倉城下一帯を含む領地を長州藩の預かりとすることで決着がついた。
よし、これで帰れる。
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