赤坂口の戦い(裏)
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私は島村通倫。通称は志津摩といい、府中小笠原家にて家老を仰せつかっている。先代の左京大夫様(小笠原忠幹)が前年に身罷られ、嫡男の豊千代丸様は幼少。ゆえに我ら家老を中心に政務をこなしている。
そして今、お家は危機に瀕していた。きっかけは公儀(江戸幕府)により発された長州征討の号令だ。公儀は反抗的な長州を征伐することとし、周辺の諸大名に動員をかけた。関門海峡を挟んで向かい合う当家も例外ではない。
小倉には出兵を拒否した佐賀を除く九州の諸大名が集結。さらに公儀の艦隊も来航した。これらを束ねるのが老中・小笠原長行様だ。
「小倉の小笠原家には先鋒を任せたい」
ご老中は最前線の我々ならば地理に明るいだろう、と先鋒に指名された。大変名誉なことだ。ありがたくお受けする。
私は侍大将として一番備を率いる立場であり、お家においても先鋒となった。なお、継嗣であらせられる豊千代丸様は幼少ゆえ、戦火を避けるために戚族である細川家(熊本藩)の許へ身を寄せている。
しかし、そこからが苦難の始まりであった。慶長二年六月、公儀は長州に対する武力行使に踏み切る。七日に周防大島にて戦端が開かれ、各地で戦闘が始まった。そして同月十七日、下関の長州勢が渡海してきたため門司にて戦闘が勃発した。我々は当然、迎撃に出たのだが、
「三番隊、破られました!」
「六番隊も支えきれません!」
圧倒的。そのひと言に尽きた。
長州の武装は我々よりもはるかに優れていた。鉄砲ひとつとっても射程が違う。洋式銃の威力だ。我々も持っているが、数が違いすぎる。数十挺揃えるのに難儀したのに対して長州は数千。その暴力に抗えず、門司城跡に陣取っていた私の一番備も壊滅した。
部隊を再編するため私は赤坂口まで後退させ、前線となる大里には渋田見舎人らの部隊を置く。しかし、こちらも撃破され手痛い損害を出して逃げてきた。
相次ぐ敗戦で小倉勢は総崩れといってもいい惨状。私は恥を忍んでご老中へ援軍を要請した。ところが、
「諸大名と談判するゆえに暫し待て」
と冷たい返事をされてしまう。ならばとその諸大名に直接あたってみても、色よい返事はもらえなかった。縁戚の細川家からも協力を得られない。明日以降どう戦えばいいのか……。
ただ、幸運にも長州勢は退却していった。小倉にいる諸大名の軍を警戒してのことだろう。まさか、彼らもこれだけの軍が集まっていながら戦に消極的になっているとは思うまい。その思い違いに助けられた格好だ。
長州勢は再来したのは半月後。我々は未だ軍を再建している最中であるだけでなく、前回から何の対策も打てていない。勝てる気はまったくしないが諸大名――何よりご老中がいる中で無視することもできない。それに府中小笠原家(小倉藩)の初代は神君(徳川家康)の孫娘(松平信康の娘)を母に持ち、その正室もまた神君の曾孫といったように将軍家との結びつきが強い西国随一のお家柄。戦わないという選択肢はなかった。
ご老中にお願いをし、どうにか艦隊による援護を引き出す。尻込みをする兵には、海からの援護があると激励して奮い立たせた。とにかく長州勢は強い。その認識の下、最前線の大里には備えを四つ置いた。数少ない洋式銃もそちらに配分している。私はというと、残る二つの備えを率いて赤坂口を固めた。大里と赤坂口、そして海上の三方から包囲する形だ。しかし、
「奴らは化け物か!」
思わず叫んでしまう。驚いたことに長州勢は背後から艦砲射撃を受けているにもかかわらず、大里へと攻めかかったのだ。味方の陣地に取りついているため艦隊も砲撃を止めるしかない。
大里の味方は粘りはしたものの、長州勢の猛攻に耐えられず敗走。赤坂口へと逃げ込んできた。それはいい。問題は逃げる味方の後ろに敵がくっついていたことだ。このままでは敵の侵入を許してしまう。しかし、敵を防ごうとすれば逃げる味方が銃砲に巻き込まれてしまうだろう。
どうすべきか決断を下せないうちに時間は過ぎていき、敵が味方とともに入ってきた。私たちは何の準備もできないまま戦闘に突入することとなる。
「踏ん張れ! ここを抜かれれば城下はすぐだぞ!」
そう激励したはいいものの、戦況は芳しくない。逃げてきた兵は無論のこと、赤坂口にいた兵も混乱している。一方、長州勢の攻撃は猛烈。装備の差に加えて混乱している味方では抗うこともできず、味方は次々と敗走に追い込まれていた。
兵たちに言ったように、ここは城下に続く最後の砦。抜かせるものかと八方手を尽くして防戦に努めた。その甲斐あって何とか防衛に成功する。首の皮一枚繋がっている危うい均衡。ゆえに、些細なきっかけで容易く崩れ去る。大里を攻めていた長州勢がこちらに到着したことで、我らは完全に崩された。
「……撤退だ」
私はこれ以上支えきれないと判断して撤退を命じる。少しでも兵を残し、小倉にいるご老中や諸藩の助力を得て失地を回復するのだ。さすがの彼らも事ここに至っては重い腰を上げざるを得ないはず。その数万の兵を用いれば、数千の長州勢を追い払うことも可能だ。そう思い直し、小倉へと撤退した。
その日の夜。私はご老中に助力を願い出る。
「ならぬ」
しかし、またしても色よい返事はもらえなかった。私は食い下がり、我ら単独では長州勢が小倉に至るのを防ぐことができない。公儀、諸藩の助力がなければ戦うこともままならない、と。
「それはそなたらが解決することではないか」
「……」
ご老中のあまりの言い分に言葉を失う。そもそもこの戦いは公儀の号令によって始まったことではないか。その言い方はまるで余所事である。必死に戦ってきたのは一体何だったのか。何も言う気がなくなり、私はご老中の前から下がった。
それから私は諸藩の軍を回って助力を乞う。しかし、「お気の毒に」とは言うけれども援軍を出すとは言ってくれない。戦に出て兵を損いたくないのだろう。ご老中の消極的な姿勢を見ていれば誰もがそう考えるのも無理はない。立場が違えば私も同じことを考えるだろうから責める気にはなれなかった。
諦めかけていたそのとき、
「協力しましょう」
そう言ってくれた方がいた。長岡監物。細川家の家老である。
「両家は戚族でありますし、我らが動けば他家も気が変わるかもしれません」
「ありがたい」
細川家の軍は長州勢と比べても遜色ないほどに洋式化されている。特に八門あるアームストロング砲は心強い。
我らは赤坂口を奪回すべく共同で出陣した。アームストロング砲の威力は期待以上で、長州勢が守る赤坂口へと取りつくことに成功する。そこからは血みどろの大乱戦だった。陣地を奪い奪われ。朝から晩まで銃砲と白刃の壮絶な応酬となる。
ご老中とは喧嘩別れのような感じであったが、この戦いは長州征討における天王山。禍根に構わず、細川家とともに援軍を要請し続けた。これに根負けしたのか、ご老中は援軍として艦隊を寄越す。彼らの艦砲射撃がご老中の援軍であった。お茶を濁した感じは否めなかったが、ご老中も一応はやる気らしい。富士山のみならず新鋭艦の回天までも投入してきた。
しかし、いくら艦砲射撃が強力とはいえ最後にものを言うのは陸兵である。およそ一ヶ月弱。毎日のように戦いが続き、小笠原家も細川家も兵を大きく損なっていた。ご老中には両家の連名で再三再四、援軍を求めているものの一顧だにされない。そして遂に、
「申し訳ないが、当家はこれにて」
軍が損耗し、味方が一向に参戦しないのを見て細川軍が撤退を始めた。何とか残ってもらえないかと懇願したが、どこも動かない以上ひとり貧乏くじを引くわけにはいかないと言われてしまった。
そして同日。何を思ったかご老中も富士山に乗り、艦隊を率いて長崎へ向かったという。老中という監視の目がなくなった途端、諸藩も軍を引き上げた。かくして残されたのは我々のみ。
「かくなる上は武士として恥ずかしくないよう華々しく散るのだ!」
一旦城に戻って善後策を協議したが、戦況は絶望的。悲観論に基づき城を枕に討死しようという意見が目立ったが、
「いや、我らは西国一のお家柄。元は山国である信濃の出だ。ここは平尾台(小倉南東の山地)へ退き、古の戦ぶりを長州に見せてやろうぞ」
との意見が出て、これが一気に支持される。そしてみすみす城を敵に渡してやる義理はない、と城下の人間を避難させた上で城に火をつけ平尾台へと退いたのだった。
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