四境戦争
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慶長二年(1866年)六月七日。幕府軍は予告通り攻撃を開始した。
戦端は周防大島――大島口にて開かれる。幕府艦隊が周防大島の南側にある上ノ関に対して砲撃を開始したのだ。日本最大の新鋭艦・富士山を擁する強力な艦隊で、熾烈な砲撃が加えられた。翌日には伊予松山藩の軍勢が上陸。彼らは放火をすると帰っていった。
その後も幕府艦隊は周防大島周辺を遊弋し、砲撃を加えていく。島の北部にある久賀、南部にある安下庄に攻撃があり、前者には幕府陸軍、後者には伊予松山藩軍が上陸してきた。
戦力に余裕のない長州藩は事前の計画で大島は放棄することにしていたが、いかに合理的といえども守らないというのは外聞が悪い。そのため旧式兵器を供与した現地民による二線級部隊を編成して守備を任せていた。この軍と幕府軍とが激突したが、長州側が勝てるはずもない。幕府陸軍は西洋式軍隊であり、松山藩は大半が旧式軍とはいえ正規軍である。ろくに訓練もされていない農民兵には負けない。易々と撃破された周防大島守備隊は夜陰に紛れて周防大島を引き払う。
そこからが悲劇の始まりだった。戦闘の興奮か、幕府軍は乱暴狼藉に走る。松山藩は婦女子の強姦に虐殺など、特に酷かった。占領後の彼らの振る舞いは島民の憎悪を煽ることとなる。
「いよいよ仕掛けてきたか……」
私は幕府軍が攻撃してきたという知らせを下関で受けた。即座に配下の部隊に対して臨戦態勢をとらせる。関門海峡を挟んだ向かい側――門司を治める小倉藩にも九州諸藩の軍勢が集結しているという。その攻撃を水際で防御し、可能であれば反撃する。出来る限り領外にて戦闘を行うのが長州藩の基本方針だった。領内で戦闘すると荒れるから、為政者としては当然の考えだ。
私のいる下関には高杉率いる長州海軍もいる。対岸へ渡海しても補給路が断たれては戦えない。制海権確保のため、艦隊をここに置いている。なお、史実では高杉が作戦指揮をとったが、今世では陸は私が責任者だ。
負けられない。私は密かに燃えていた。下関は海の故郷であり、義父(赤右衛門)もいる。こちらの敵に長州の土は踏ませない、とひとり意気込んでいる次第だ。
高杉とはいつ仕掛けてくるか、という話をしながら敵の来攻を待っていた。ところが、藩から計画から外れた行動を指示される。周防大島を解放するため、高杉の艦隊に対して同方面へ進出せよとの命令が下ったのだ。
「また急な話ですね」
「敵は盗賊よろしく乱暴狼藉を働いているそうだ。看過できないのだろう」
確かに。乱暴狼藉を受けていることを知りながら何もしないというのはよくない。山口でもこれを見逃せば領民の信頼を失う、と判断したそうだ。瀬戸内海からの上陸に備えていた部隊を大島解放軍に組み込み、その指揮と支援を高杉(とその艦隊)に任せるという。事情は理解した。すると、
「そう不安がるな」
と高杉が声をかけてくる。
「お前のことだ。仮に敵が来たとしても耐えられる」
「努力はします」
戦力ダウンであり、高杉が指摘したように不安で一杯だ。いくら防御側とはいえ、敵の数はこちらより遥かに多い。それでも寡兵であることは元からわかっている。できることをやるだけだ。高杉に言われ覚悟が決まる。
「なーに、すぐ戻ってくる」
高杉はそう言って船上の人となった。それが十日のこと。それから十日経って高杉は帰ってきた。周防大島奪還の戦果を引っ提げて。経過としてはこうである。
周防大島付近へと進出した高杉はある人物を呼び出す。解放軍に所属する第二奇兵隊の軍監・世良修蔵である。史実では赤禰武人(逃亡後、幕府の意向を受けて長州藩を非戦方針に転換させようと工作しているところが発見されて前年に捕縛され、この年の一月に処刑された)と親しくしていたため謹慎処分を受けていたが、ここではそうした処分は行なっていなかった。おかげで世良による統制が利き、倉敷浅尾騒動は起きていない。
世良は明倫館、寺、三計塾(著名な塾生として陸奥宗光、品川弥二郎などがいる)で学んだ。特に三計塾では塾頭も務めたほどの学識の持ち主で、同時にイギリス式の軍学(特に海軍)を修めていた。そんな彼を高杉は(陸戦における)解放軍の指揮官に抜擢したのである。
解放軍が周防大島へと渡海すると、占領軍の乱暴狼藉に怨嗟の声を上げていた住民は両手をあげて歓迎した。彼らは進んで解放軍に協力する。荷物運びや炊事は無論のこと、幕府軍の動きを逐一解放軍に伝えた。このアドバンテージにより戦闘を優位に進めることができた解放軍。松山藩軍を十六日、幕府軍を十七日に海へと叩き出すことに成功する。
また、高杉も油断していた幕府艦隊に対して奇襲攻撃を敢行。与えた物的損害はそれほど大きくなかったが、心理的影響は絶大だった。敵は追撃しようとしたが、ボイラーの火を落としていたためすぐには動けない。さらに高杉艦隊を出兵拒否した薩摩のものだと誤認。存在しないものに怯え、活動を低調にする。
実はこれが周防大島における勝利に大きな役割を果たしていた。幕府側は南北から解放軍を挟み撃ちにしようという作戦を立てており、松山藩軍はそれに従って進撃している。ところが、幕府陸軍が高杉艦隊の奇襲を警戒するあまり事前の作戦通り進撃せず、結果的に松山藩単独の攻撃となった。ゆえに解放軍は両者を各個撃破できた、というわけである。
余談だが、周防大島における幕府軍の乱暴狼藉――特に松山藩の行為は悪評となって広まった。周辺諸藩もそこまでやるかとドン引きしたらしい。体面を気にした松山藩は後日、大島に使者を派遣して謝罪したそうだ。
閑話休題。
「快事ですね」
圧倒的に優勢な敵に対して勝利したことを賞賛するが、高杉は謙遜する。
「運がよかっただけだ」
幕府艦隊の最高戦力である富士山は周辺にはおらず、敵艦もボイラーの火を落としており、追撃も緩慢だったという。だが、何はともあれ勝ちは勝ちだ。
「きっと各方面を勇気づけますよ」
幕府に勝てる。それが周防大島にて証明されたのだ。私も一層、やる気が出た。そしてそれは他の面々も同じらしい。周防大島での戦いと前後して各方面でも戦いが始まったが、勝利に触発されたのか長州軍は善戦していた。
六月十三日。芸州口にても長幕が激突する。長州側はなるべく領外において戦闘をする、との基本方針に則って幕府軍を攻撃した。井上の指揮の下で彦根、高田両藩の軍を撃破。旧態依然とした幕府軍と西洋の軍制、兵器を取り入れた長州軍との違いが如実に出た形だ。しかし、後続の幕府歩兵や紀州藩に対しては苦戦を強いられ膠着状態に陥る。
決して順調とはいえない芸州口に対して、これ以上ない快進撃を見せたのが石州口だった。交戦を開始したのは十六日であったが、中立の立場をとった津和野藩を通過して浜田藩の領内へ侵入。翌月の十八日には彼らの本拠地である浜田城を陥落させ、天領であった石見銀山をも確保した。同方面の快進撃を支えたのが村田蔵六改め大村益次郎の卓越した指揮である。巧みな用兵と戦術に加え、敵に出血を強いて弱ったところに反撃を加えるなど幕府側を翻弄した。
そのような戦果が伝わる前の十七日、私が担当する小倉口にても干戈が交えられる。各方面から交戦開始の知らせを受けたが、こちらの敵はまったく動きを見せない。そこで威力偵察がてら渡海攻撃を行った。
私は部隊を二ヶ所――大久保海岸と田ノ浦に上陸させる。いくつかの梯団に分けたが、私は第一梯団――先頭で海を渡った。当たり前だが門司周辺には敵兵が陣取っており、上陸に気づくと海へ追い落とさんと攻撃を仕掛けてくる。
「旗印は三階菱!」
「小倉藩か」
小倉には幕府軍に動員された九州諸藩が大集合しているが、会敵した相手は領主である小倉藩兵だった。旗指物に描かれた三階菱――小倉藩主小笠原家の家紋がその証である。
「相手が一藩だけなのは助かる。……敵が来る前に進撃するぞ!」
「「「応ッ!」」」
幕藩連合は大軍だが、それゆえに意思疎通に難が生じ連携がとりにくい。私はその弱点を突き、五月雨式にやってくる敵を各個撃破しようとした。
やってきた小倉藩兵は旗指物を掲げ、法螺貝を吹き鳴らしながら進撃してくる。さながら時代劇でも見ているようだ……と思ったが、末期とはいえ江戸時代。古くなってカビが生えているもののまだ許される範囲だった。まあ、こちらとしては好都合だ。
私は指揮官先頭という信条を掲げているわけではないが、勇ましさを演出するために陣頭で指揮をとる。
近代化された兵制、最新の武器を揃える我々に対して敵は旧態依然とした兵制と軍備。そのほとんどは刀剣装備で、わずかにある銃にしても火縄銃。射程が違う。ゆえに、
「撃て!」
その射程の差を活かした一方的な銃撃が可能だ。機関銃があればいいな、なんてことを思ってしまうがこの時代にはあってもせいぜいガトリング砲である。ないものねだりをしても仕方がない。
さて、肝心の戦況は圧倒的だ。敵は銃の性能差により一方的に撃たれている。反撃するためには銃弾の嵐を突き進まなければならない。しかし、彼らにそんな勇気はなかった。
「て、撤退!」
撃ち合い、斬り合いになる前に敵は撤退する。開けた場所で我々と戦うことになった彼らには同情を禁じ得ない。
比較的幸福だったのは、門司城跡に陣取っていた敵だろう。城跡とはいえ、往年の起伏は残っている。射線が通らず、それなりに戦うことはできた。しかし、こちらも撃破されて敗走している。
こうして戦っているうちに我々の第二梯団が門司に到着した。彼らの上陸先は門司の町である。ここでもワンサイドゲームとなり、門司を固めていた小倉藩兵は一掃された。橋頭堡となる門司を確保した我々は残りの全戦力を呼び寄せる。
「敵が弱い」
戦ってみた私の嘘偽りない感想だ。彼我の戦力差を考慮するにしても弱すぎる。威力偵察も兼ねたいわばジャブのつもりが、意図せずいいところへ入ってダウンをとってしまったような気持ちだ。
「いいことではないですか」
「そうです。敵が弱いのは好都合」
「このまま小倉を陥れましょう」
全軍が集結した後の軍議で、諸隊の幹部はそのような楽観論を述べる。小倉を落とすなんて威勢のいい声を聞かれた。だが、私はこの状況が気持ち悪い。装備の差、実戦経験の差があるにしても弱すぎる。罠なのではないかと疑ってしまう。何より関門海峡には幕府海軍がいる。彼らが出てきて補給、退路を断たれれば袋の鼠だ。
その懸念を伝えたのだが、軍内にはいけいけどんどんという空気が蔓延している。いくら指揮官とはいえ、彼らの意向を完全に無視するのは難しい。私としては渋々、さらに内陸へと進撃した。
分進合撃の考えの下、私は部隊を二手に分けた。内陸部を進撃する部隊と海岸部を進撃する部隊とに。合撃地点は大里である。ここに小倉藩兵が集結していることが確認された。砲台の存在も確認されている他、ここを潰せば小倉への玄関口である赤坂が見えてくる重要地点だ。
要地だけあってなかなかの抵抗に遭った。また、これまでは本当に戦うのか半信半疑だったが、逃げ帰ってきた仲間から長州はやる気だということを聞いて覚悟を決めたのだろう。ゆえに初戦のように楽勝、とはいかない。むしろ、舐めてかかってこちらが痛い目を見た。
「阿川隊長が戦死!」
「御所神社に伏兵! 堀押伍(副長)負傷!」
被害が集中したのが奇兵隊第四銃隊だった。隊長が戦死、副長が負傷している。指揮官が壊滅して部隊が機能不全に陥っていた。多大な犠牲を払いながらも我々はどうにか大里の奪取に成功する。
「撤退だ」
私は再び撤退を提案した。予想通り反対されるが、今回ばかりは拙いと思い引き下がらずに諭す。
「今回、特に奇兵隊の第四銃隊は大きな被害を出した。他の部隊も多かれ少なかれ人を欠いたことだろう。その要因はひとつ、砲がないことだ」
厳密にいえば軽砲は持っているが、大型砲を使えない。船で運んで揚陸して運ぶというのは大変なのである。江戸時代の道路事情も相まって難易度は跳ね上がっていた。それに、そんな重量物を悠長に運んでいる余裕は寡兵の我々にはない。
「それに、補充できる兵員にも限りがある。仮に進撃したところで数万の敵が控えているのだ。多大な犠牲を払って進んだところでその数に呑み込まれてしまうだろう」
「「「……」」」
これに幹部たちは黙ってしまう。
戦いは我々に優位に進んでいる。その原動力となっているのは西洋式の軍制と装備、戦続きで鍛えられた兵士の力と高い士気だ。だが、いかんせん兵力に余力はない。戦えば武器弾薬は消費するし、兵士も損耗する。死人が多く出れば明日は我が身かと士気も下がってしまう。ときには強攻も必要だが、無闇に濫発するのではなくここぞという場面にとっておくべきもの。そしてそれを続ければ、我々を有利にしている要素を自ら無くしにいくことになる。
彼らもバカではない。私の言い分はよく理解しているだろう。
「帰ろうか。なに、帰ればまた来ることができる」
キスカ島撤退作戦のときの木村少将の言葉を使った。よくよく考えると当たり前のことなのだが、人間そんな簡単なことにも気づかないことがある。この先へ進むことはそれほど急ぐことではない――ということに彼らも気づいたようだ。
撤退は整然と行われた。負傷者を一番に送り出し、それが済み次第元気な者も撤退する。懸念された敵の追撃はなく、いささか拍子抜けしながらも私たちは下関へ帰還した。
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